津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■雲林院弥四郎のお墓

2023-12-30 07:13:27 | ご挨拶

今年の十一月半ば、横手の禅定寺をお尋ねし、ご方丈様から熊本大地震で大きな被害を受けた歴史墓などについて詳しくお話を承った。
さらには、都市計画道路の工事が進捗している中、藤村紫朗男爵のお墓や、雲林院(うじい)弥四郎などの立派なお墓が道路にかかり取
り壊されていて少々ショックであった。
私が雲林院弥四郎の名前を初めて知ったのは、約20年前で、現在加藤清正やその夫人や子女の研究、又宮本武蔵研究で頑張っておられる
歴史家・福田正秀氏との出会いであった。
人見知りするこの私が、なんと福田氏邸をお尋ねしたのだから、この時の感激はもって知るべしである。
さてその雲林院弥四郎は宮本武
蔵と立ち会ったとされるが、細川三斎は小倉時代から宮本武蔵についての発言が全く見られないように思うのだが如何だろうか。
一方この弥四郎については、忠利から推薦されて大変満足している様子がうかがえる。
大変親しい柳生家の柳生流の使い手でもあることも原因なのかもしれない。
禅定寺様では、歴史墓の皆様の「歴史的データ」をまとめようとされている。
そのお手伝いをする中、以下のような忠利と三斎の書簡のやり取りにもそれがはっきり見て取れる。
三齋が彌四郎の兵法を絶賛していることが判る。

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  ■寛永十三年八月四日の忠利から三齋に宛てた書状案(十二--837)
      戸田流之なかれか、柳生流をつかひ候ものか、御慰ニ子共ニ、御つかわせて候て、
      可被成御覚候間、進上可申由、此町ニ遣有候彌四郎と申者、牢人にて柳生流を少
      つかひ申候、戸田流ハ無御座候、(以下略)
           八月四日                                   
                                                                         佐方與左衛門尉殿
       尚々、兵法つかひ候もの早々進上可申を穿鑿仕、遅進上申候、以上 

  ■同八月五日三齋の返書(六--1437)
      書状披見候、先日兵法つかひ之儀申候処ニ、柳生流つかひ候者給候、一段満足申候、
      則今日召出、兵法見申候へ共、今日は黒日・帰忌日に当り候、兵法之儀ニ候間、明
      日寅之日ニ候条、召出見可申と存候、云庵御知候者之由候、親より兵法つかひ候由、
      加々山主馬所より由緒懇ニ申来候、無調法なるハ卒度もかまひ不申候、今ハ鷹野も
      無之内ニ迄居申ニ付、小姓共腹病迄ニ成申候、稽古させ可中と存候、我々気合同前
      ニ候、気ハさのミわるく無之候へ共、曽而食事成不申候、去年江戸にて発候時分に
      て候故と存候、明日兵法見申候而、慰可申と存候、恐々謹言
      八月五日                三齋宗立
              越中殿
                 御返事

  ■同三齋の書(六--1440)(抜粋)
      彌四郎兵法存之外見事ニ候而、柳生弟子ニ是程之は終ニ見不申候、これをつかはせ
      小姓共成かね候所、我々立て遣候て見申候か、一段薬と覚申候 

  ■同八月九日の忠利書状
      彌四郎兵法能御座候由、久敷つかいてニ而御座候、就夫、弟子共成兼候所、折々被
      成御立之由、御気も晴、御積ニ所残御座有間敷候、此等之趣可有披露候、恐々謹言
           八月九日 

  ■同八月廿九日の三齋書状(六--1443 抜粋)
      彌四郎儀此中毎日ほねをおらせ申候、気魂成者ニ而、先日も如申候、存之外柳生流
      巧者にて候、我々小姓、兵法今度初而にて候ゆへ、一切合点不参候間、又春ハやと
      ひ可申候、此由留守居共に被申付置可給候、打大刀も初心ニ候へ共、りきミのなき
      つかひにて候、猶期後音候 恐々謹言
           八月廿九日            三齋宗立
                   越中殿
                     進之候 



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