延宝8年の今日は細川光尚の弟・尚房が亡くなられた日である。享年44。法号・智照院月江義心。
お墓は妙解時塔頭・智照院の裏手にあったが、新幹線開通に当たり移転を余儀なくされた。
その折、一族のお墓ともども調査が行われ詳細が報告書となっている。
兄・光尚が病が地であったため、一時期死を覚悟した光尚は、弟尚房に遺領の相続を口にしている。
まだ、御六(綱利)誕生前の話であろう。光尚の死後の遺領相続については、その案の一つに「三分割案」があり、尚房の名前も挙がっていた。
一方、当時9歳の尚房(松助)に、立孝の息女(5歳)をめあわせ八代領に置いたらという話もあったらしい。
(正保三年)三月十六日、藤崎作左衛門宛書状(抜粋) 丹羽亀之允言上之覚から
此表(八代)侍衆■二而取沙汰候ハ公儀御年寄衆様へ可被遊御談合与被成御意候ハ
三齋様御領分ハ松助様と中無殿御息女と御縁辺被仰合松助様へ三万五千石可被進と
可分置御談合候 宮松殿ニ者三万石被進候二相究可申由ニ御座候
いずれの話も頓挫し、無役の内に亡くなられた。嫡子・尚方も20歳で亡くなり尚房一族は絶家した。
かっての妙解寺と智照院、裏手(上部)にお墓が並んでいた。