「續肥後先哲偉蹟」に「佐分利越人」がありその墓地は坪井流長院にある時されている。
先に■肥後墳墓録ー(6)流長院広徳寺を書いたとき、これき気づかず書き加えねばならないのだがいささか躊躇している。
上記「先哲偉蹟」には「名は氏恒、七兵衛と穪し、俳名を越人という、(中略)芭蕉の門人に入り、俳諧を善くせり、元禄十五年三月十四日に歿す、享年未詳」とある。
発刊から2年後の2010年1月、吉田美和子氏著の「うらやまし猫の恋 越人と芭蕉」という本が出ていると知り、佐分利越人の事だと気づいて即購入 した。
その中には驚愕すべきことが書かれていた。それは私が承知していた熊本藩士・佐分利越人は完全に否定されていたからである。
その本の書き出しには次のようにある。
尾張十蔵、越人と号す。越路の人なればなり。粟飯・柴薪のたよりに市中に隠れ、二日つとめて二日
遊び、三日つとめて三日あそぶ。性酒をこのみ、酔話する時は平家をうたふ。これ我が友なり。
二人見し雪は今年もふりけるか 芭蕉 (庭竈集)
そして越人の没年については、彼の作品が作られた年代から享保21年ころだとされている。大いなる誤差がある。
この小説の主人公・越人は、本の題に切り取られた彼の「羨まし思ひ切る時猫の恋」という句をめぐる、若い女に入り浸りとなった様子を「猫の恋」と自らとらえ、女を取るか俳諧を取るか、師・芭蕉から離れざるを得ない苦悩を切り口とされている。
その中で著者は淡々と、「蕉門諸生全伝」にある「好色人ニテ吉原遊女を請出シ、屋敷二置きがたく改易せらる、羨まし思切時の句あり」を紹介し、さらにこの著にあるという越人の紹介「肥後熊本の出身・細川越中守の近習で佐分利流槍術家佐分利勘左衛門」とする誤伝だと切り捨てられている。
ふと山崎貞二氏著「熊本文学散歩」を思い出し頁をめくると、まさに先生も頭を抱えながら、数頁にわたり解説をされている。どこでどう間違ったのか、没年が明らかに違うから別人だろうと思われるが、完全否定するにも有力証拠となるものがない。
先生曰く「佐分利越人」と「越智越人」は明らかに別人であろうと・・・