津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■肥後墳墓録ー(4-2)禅定寺・細川家臣

2023-12-12 07:19:10 | 掃苔

 ■槙嶋家
 足利将軍家家臣・槙嶋昭光を祖とする熊本槙嶋家、真木嶋城主で最後の将軍・義昭を迎え入れ信長と戦うも力及ばず、義昭をもって
足利将軍家は絶えた。
細川忠興の豊前入国後召し寄せられ、終生忠興の側近として仕えた。号・云庵。1,000石。
旧段山に槙嶋邸があったあたりに「槙嶋坂」があったが、現在では藤崎台童園敷地となり現在は通れない。
禅定寺住職・最勝林家のご先祖である。

 ■木下家
 豊臣秀吉の正室・高台院の実兄・木下(杉原)家定の三男・日出藩主木下右衛門大夫延俊の末子・木下三郎左衛門を祖とする肥後木下
家歴代の墓所である。
家定嫡男は木下勝俊(長嘯子)二男利俊(足守藩主)四男小早川秀秋)因みに、延俊室は細川忠興妹加賀。
かって屋敷があった場所は木下町と呼ばれていたが、新町3丁目9番にある胃腸外科あたりであった。

 ■田中家
 柳川藩主・田中久兵衛吉政(豊臣秀吉に仕え従五位下)の弟・与左衛門氏次を祖とする肥後田中家の墓所である。
豊前小倉に於いて細川忠興に召し出された。鉄炮頭・番頭などを勤めた。2,000石。

 ■志方家
 播州志方之城主志方左馬介の子孫。初代六兵衛(のち半兵衛)十五歳にて丹後召し出し。
初代半兵衛は、天草島原の乱に際して在京していた細川三斎に、その戦況を報告した「志方半兵衛言上之覚」を著した。

   ■下津家
 熊本城内・棒庵坂に名前を残す下津棒庵は、久我右大将晴通の息で、幼少時には金閣寺の僧となったが、加藤清正に還俗を勧められ
て下津宗可と名乗り、清正家臣となった。2,027石。一方加藤家の「牛方・馬方騒動」の告発人としても知られる。

棒庵の嫡男、初代・将監が細川家に仕えた。1,083石。9代久馬は、実学党の雄として肥後の維新に尽力した。

 ■平野家
 鎌倉幕府最後の得宗、北条時行の後胤。「平野右京■入道万休と申者之養子二而実者船橋二位業賢次男ニ而御座候 右業賢妹者三渕伊賀守様之御内室ニ而御座候 此御由緒御座候故か平野大炊助子孫 御家ニ被 召出候者共多ク御座候」と先祖附にしるす。

                                                        +--仙右衛門
                                |
                                +--弥五右衛門
                                |              細川家家臣・御擬作
                +---長時---源太左衛門---+--茂兵衛・・・・・・・・・・・・・・・・・・→五郎家
                |
                | 甚左衛門 九郎右衛門   九郎右衛門              細川家家臣・2,000石
                +---長景-----長之--------+--長是・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→九郎太郎家
                |             | 庄大夫              細川家家臣・200石
                |             +--長直・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→七角家
       万久入道  大炊頭(介)   | 賤ヶ岳七本槍
           賢長===長治---+---長泰------長勝・・・・・・・・・・・・・・・・・→交代寄合衆・明治に入り田原本藩
                |
                +---長重・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→旗本
                |
                | 弥次右衛門  茂左衛門   知行召上               細川家家臣・20人扶持
                +---長知---+--長秀---三郎兵衛・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→弥平家
                      |
                      +--弥平太 島原の乱討死
                      | 元右衛門                      細川家家臣・300石
                      +--元弥・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→甚兵衛家                                       
清原宣賢---+--業賢---+--枝賢
     |    |
     |    +--長治 平野家養子
     |
     +----女
         ‖-------細川藤孝-------忠興-------忠利
     三渕晴員

 
 ■藪家
 旧姓中村、駿府145,000石の城主・中村一氏の一族で中村家の没落後、藪内匠が細川忠興の客分12,000石で召し寄せられた。
 図書家・市正家からそれぞれニ家、計四家が明治に至った。

        +--大隈   +--右衛門==丹右衛門---兵右衛門---丹右衛門---源太---隼之允----吉三----徳次----九十郎(九十郎家
        |      |
藪伊賀守---内匠--+--図書-------+--図書------三左衛門----右膳----弥次右衛門----内蔵允----庄次郎----三左衛門---- 一(一家)
        |      |                                                                 政純(墓地・四方池)
        +--三左衛門 +--熊之允(御暇)
        | (紀州藪家)
        |      +--丹右衛門(兄・右衛門養子)
        |
        |                     +--源太左衛門(男子なく断絶)
        |                     |                                                                      養子・同姓茂次郎二男     
        +--市正------惣左衛門----+-- 弥次左衛門----久左衛門----+--市太郎----英次===輝吉===藤右衛門---市太郎(市太郎家)
                                                           |         (槙庵)  | (槐堂)                                     養子・実渡邊善右衛門二男
                              |              |
                              |              +--茂次郎---+---泰記----助作----小吉郎(小吉郎家)
                              |                (孤山)   |                              初名・作右衛門                                                                              +--権左衛門(男子なく断絶)        +---輝吉(英次養子)         

 ■上田久兵衛の墓・顕彰碑
 幕末期京都留守居役を勤め幕閣・諸藩重役・公卿間を奔走し公武合体に尽力したが、藩是の変更に伴い離任帰国、後玉名奉行・川尻奉行などを歴任した。西南の役勃発に当たり、川尻町民の乞いに応じて鎮撫隊を形勢して町の安寧に勤めた。
後、西郷隆盛に加担したとして罪を得て斬首刑となった。後名誉回復された。
川尻の町民は久兵衛の徳を偲び、禅定寺境内に顕彰碑を建立した。

 ■雲林院(うじい)弥四郎の墓

 ■久野(くの)家      (南東33-4)久野孤松家
    初代・次郎左衛門は、元佐久間右衛門(信盛)家臣で三斎公代豊前にて召出・三百石(先祖附)町奉行
などを勤めている。
佐久間信盛の嫡男・信栄は剃髪して不干斎と名乗る高名な茶人だが、そののちも次郎左衛門との交流を示す書簡が久野家に残る。

 ■藤村紫朗男爵の墓
 熊本藩士・黒瀬家の二男。菅野家の養子となり、尊王攘夷運動に加わる。明治6年山梨県権令(のち初代知事)となり、葡萄酒の醸造
や開拓事業などを推し進め、特に教育環境などの整備に当たっては疑洋風建築(藤村式建築)を建設したことで知られる。
のち愛知県知事、貴族院議員を勤め男爵を叙爵された。

 ■藤本家
 藤本勘助なる人物を祖とする藤本家が3家存在するが、こちらは藤本吉太郎家(南東39-12)、9代目の直次は奉行職を勤めた。
   名は正心、津志馬と称す。世禄三百石、使番、目附役、奉行副役、奉行、作事頭、中小姓頭等を勤む。明治三年五月廿七日没す、
   年五十七。墓は高麗門禅定寺。
その息・10代目吉太郎の写真が存在している。平成14年6月8日付・熊本日々新聞に掲載された記事が存在する。
「明治4年4月14日、東京浅草通於瓦町寫眞之 藤本吉太郎 熊本藩」と記されている。
大正13年82歳で死去。

   

          (只今書き込み中)

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