先日■都甲太兵衛「山桃」を食わずを書いたが、この中に宮本武蔵の弟子・道家角左衛門とあったが、この人が初代で、
8代目清蔵もまた角左衛門を名乗っている。
道家之山 名は一徳、通称角左衛門、隠居後之山と称し、修静と号す。食禄百石。
奉行兼用人となり、維新後権大参事に任ぜらる。後官を辞して金峰の北麓に
隠棲し、吟誦自適終身山を出でず。東野六友の一人なり。
明治十七年五月没す、年六十六。墓は飽託郡芳野村川床。
もう十年以上前、師匠高田Drと史談会の中村祐樹君と三人、金峰山近傍の加藤清正臣・中川壽林のお墓を訪ねたが見つけ出
すことができず、帰り道に熊本市西区河内町岳(旧・飽託郡嶽村川床)に道家之山(角左衛門)の墓地を訪ねたことがある。
(写真や地図などは道家之山の墓(熊本市・市指定史跡)に詳しく掲載されています)
人様のお宅の裏庭という感じであったように記憶するが、「肥後先哲偉蹟(後編)」の同人項をみると、ここが之山の居宅
であったようだ。
之山の従弟・石川熊次郎という人物が語った話を加賀山興純が書き残している。
故二位様護久公飽託郡嶽村字川床の、道家之山先生の閑居に入らせられたる時の御模様を、予が親友なりし
石川熊次郎より聞及居たる事を思出、世の移り行四五十年の間に、人心の軽薄不遜、驚の外なく、今の世の
物知り、古知らずの人々に知らせまほし。
道家角左衛門、後之山と改む、元嶽村に在宅、後熊本に出、時習館句読師となり、熊本山崎天神丁に在す、
予もその門弟なりしなり、後郡宰となり、御次御取次たり、此頃何事か、正四位韶邦公に言上せしに、大に
御機嫌を損し、御聲高く、御扇子にて御打擲さる、恐入奉りて御前を下り、宿に居て謹居たる處、翌日午前
より御使参り、何事か申達、直に出候處、御前に召させられ、何事か仰渡され、其後日々出勤仕、如何なる
事なりしか、之山先生一生、口外致されさりきと、是は先生の直話を、石川の語る處なり、其後御奉行相勤、
後嶽村に閑居せり、二位様・護美様、閑居に御入遊ばされたるに、御入前、荒壁の中には、恐入候に付、中
塗りを懸ると申されたりと、其時分、予も石川處へ参合たるに、先生臺所迄立ちながらにて、早々に歸られ、
右中塗等に取込まれたりとの事なり、其後、御入の模様、石川より承りたるに、御供の人より、之山御出迎
に彼方へ出居申由、言上したれば、直に御下馬遊ばされたり、又御歸には、御送申上られたる處、之山の影
見え候間は、御乗馬遊ばされざりきと、又其後御入の折には、彼方へ之山出居るならんと御下馬され、御歸
にも以前の如く、遠くまで御乗馬遊ばされざりきとなり、誠に恐入り奉りたる御事なりと、之山先生より、
石川への直話なりと、之山先生は御次御取次相勤め、御儒者にて御學問も申上、又政事に於ても、大に先生
を重んせられたる事斯の如し (以下略)
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あまり広いとも思えない屋敷だったとの印象が残っているが、ここに護久・護美のご兄弟が馬で訪れ之山の見送りの姿が
見える間は乗馬をされなかったという話には心を打たれる。
この時期、どこを通って芳野路に入られたのだろうか。鎌研坂のあの旧坂を通られたのだろうか。
そんな有様を頭に描くのも面白い。