三斎の死去後、三斎に仕えた人々は自らの運命に身を任せて、新たな人生を進むことになる。
細川本家に戻ったり、新たに創家された宇土支藩に仕えたり、自らの判断で離国したり又は御暇を頂戴するという人々もあった。加藤清正に仕えたのち細川家に召し出された庄林隼人や新美八左衛門などにとっては「御暇被遣」という処分となった。
私は三斎の死去に当たり御暇になった人物が初代ではなく、二代目隼人佐(一方)であることを、今般再確認するなどしたところである。
一、庄林隼人・新美八左衛門御暇被遣候通皆共かたへ被仰下候
閏五月廿三日之御書六月三日ニ此地参着致頂戴翌日四日ニ
則申渡候 庄林儀ハ志水新丞所へ召寄西郡要人・奥田権左
衛門私共より之使二仕被仰下候通右両人を以申渡候
八左衛門儀ハ(澤村)大学所へ召寄是も要人・権左衛門私
共使二仕申渡候 屋敷をあけ申候儀ハ翌日あけ申庄林ハ新
丞所迄のき申候 八左衛門儀ハ本妙寺之寺内ニ旦那寺御座
候ニ付而是迄のき申候 四五日■迄仕両人共二爰元罷出川
尻より舟ニ而のき申候 庄林儀ハ筑後立花領内へ参申由ニ
御座候 矢島石見せかれ主水庄林淡路時より懇二申通ニ付
頼参居申候由申候 新美儀ハ女子ハ長崎へ遣シ其身ハ江戸
へ罷越子共なと御存之方へ預ケ置大坂京二可罷在と申由ニ
御座候 此両人儀被仰下候御書之御請何も一所二可申上候
へ共帯刀かたより之書状差上候ニ付而俄ニ私かたより御飛
脚差上候間先私一人にて右ノ様躰申上候
(以下略)
六月十九日 松井佐渡守
林 外記殿
今回はその庄林隼人に触れてみたい。
庄林隼人佐・一心のご子孫・庄林曽太郎家の先祖附をみると、隼人佐の先祖は粟田関白道兼の三男の従五位下丹波守藤原兼信にさかのぼるという。その一族小山権太郎兼凞という人物が足利尊氏の許で軍功を上げ庄林の姓を賜った。庄林隼人はその権太郎の後胤で加藤清正に召し出された。
一方、東京大学には、隼人佐について詳しく紹介する「庄林氏由来」という文書が存在する。
これによると、隼人佐は摂津国多田の人で高槻城主・高山右近に16年間奉公し、その後仙谷秀久につかえた。佐々成政が肥後国の治世に失敗して、小西行長・加藤清正がそれぞれ肥後半国を拝領した時、隼人佐は加藤家に仕えたとされる。天草攻めや文禄・慶長の朝鮮の役などで功名を上げた。
「 庄林曽太郎家」先祖附と「庄林氏由来」で内容を異にしているのは、生母を異にしていることによると思われる。
「庄林氏由来」によると、隼人佐は妻を亡くした(曽太郎家?)後、加藤清正の妊娠している妾を召し下され、男子であれば跡を継がせよとあったものの女子が生まれたので、これに後加藤与三右衛門の嫡子太郎平を養子となし二代目隼人(一方)とした。
この太郎平は先にお墓をご紹介した中川壽林に育てられているが、父与三左衛門は亡き人であったのかもしれない。
又、太郎平の姉(妹?)おこうは、加藤清正の養子であった「百助=水俣城代」の室となり「若上様」と呼ばれた。
隼人佐は加藤家の没落を悲しむように、寛永八年死去した。横手の禅定寺にある庄林隼人のお墓はまさに初代隼人佐一心のものである。
11月16日撮影
2代目・隼人佐一方は、寛永九年細川忠利の肥後入国に当たり城内の案内役を勤め、直後に家臣として召し出された。
隼人佐室は清正女と「庄林氏由来」は記すが、詳らかなことは判らない。
正保二年、細川三斎の死後、旧加藤家家臣の出である隼人佐や新美八左衛門などはお暇を遣わされ、隼人佐は妻子を熊本に残し離国している。