津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■シハス

2023-12-02 13:15:00 | 徒然

 十二月に入ると「喪中」のはがきが届いたりして無情な時の移ろいをを感じさせるが、「師走」という言葉を聞くと何となく心せわしさが生じてくるから不思議なものだ。
 シハスの「シ」は「年」、「ハス」は「ハテ=果」、つまりシハスとは「年が果てる」の意だと聞いた。
「師走」とは語呂合わせの当て字なのだろうが、これは伊勢神宮の「御師」が年末になると暦を配るのに各地に忙しく馳せ走られることから「御師が走る=師走」となったという説があるそうだが、説得力がある。
我が家には当の昔、奥方がカレンダーを購入してきて、現在は裏返しにしてあと一枚になった月めくりのカレンダーの後ろに隠れている。あとひと月の我慢を願っている。
お節料理も十一月のはやい時期に注文済だし、奥方も昔のように出たり入ったりすることもなく、インターネットでいろいろ注文するなど気楽に構えているようだ。

 私といえば、熊本史談会の11月例会を担当したが、これがおしゃべりのし過ぎで時間内に終わらず、12月にも時間を頂戴してお話をすることになった。とんだ年収めである。
そのほかといえば今年くらいまでは頑張ってみようと思う年賀状の準備と、我が家の事では5ヶ所のサッシュのガラス磨きくらいである。

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■細川三斎の死

2023-12-02 07:11:43 | 花押

                                                               

 正保二年(1645)十二月二日、父・幽歳と共に戦国時代を勇敢に生抜き、豊前小倉藩399,000石から、大国肥後(一部豊後領)国540,000石の太守となった細川三斎(忠興)が波乱の人生の終焉を八代の地で迎えた。享年83
その果敢な行動力は、豊前における隠居領・中津時代から、息・忠利の肥後入国に当たっての隠居領・八代に於いても、藩中に藩があるがごときであり、三斎のふるまいには、息忠利時代、また忠利亡き後の光尚時代も本藩を大いに悩ませるものであった。
 八代に於いては、溺愛した五男・立允(立孝)に隠居領を相続させ八代藩の分立を企てたが、忠利の死去に際しても分藩は幕府の認めるところとはならず、また立允が三斎に先んじて死去したためとん挫した。
三斎の死去後、その意思を受けて八代藩の創立を目指して村上河内などの遺臣らが画策したが、これらもかなうことはなかった。
時の藩主・光尚により、藩政の改革に手が付けられ、八代城主に筆頭家老・松井興長を配し、立允(立孝)の子・行孝は宇土の地に移し、30,000石をもって創家して宇土支藩となした。

 藤孝ー忠興ー忠利ー光尚ー綱利と続いた細川嫡流は、綱利の男子がそれぞれ死去し、弟(新田藩主)利重の二男(宜紀)を養子に迎え、宜紀ー宗孝ー重賢ー治年と新田藩系が続いた。
治年の男子も亡くなると治年の正室・埴の弟・宇土支藩藩主立禮を宗家藩主として迎えた。
立禮は名を変え齊茲ー齊樹ー齊護ー韶邦ー護久と宇土支藩系に受け継がれて今日に至っている。
忠興が溺愛した立孝の子孫の血が当代細川家の源であることを思うと不思議な感じがする。

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