「往生院」の名前で慣れ親しんでいるが、正式には「往生院無量壽山泰安寺」という。
熊本市西区池田1丁目2-50にある、浄土宗・善導寺末寺である。度々移転を余儀なくされたが現在地に移転したのは享保9年(1724)のことである。
■正清院(蒲生秀行室・徳川家康八女振姫)供養塔
正清院は夫・蒲生秀行没後の元和2年(1616)浅野長晟に再嫁し世子・光晟を出生後死去したため、加藤忠廣夫人である娘の崇法院が
供養のために建立したものとされる。蒲生秀行供養塔は横手の安国寺にある。
■井口家 (南東2-1)井口忠三郎家
初代井口荘左衛門は寛永10年の召し出し、200石。5代荘左衛門は奉行職を勤め800石。宝暦12年自害したが、これは家老松井営之と論争になり、営之が「庄左衛門身柄を下され候様」と藩主・重賢に申し出た。重賢はこれには応ぜずその晩荘左衛門に盃を与えた。これにより荘左衛門は自害したが「乱心」として取り扱われている。
■生駒家 (南東2-11)生駒新太郎家
祖の次左衛門は尾張国人にして蒲生飛騨守に仕えた後浪人し、京都に於いて細川忠利に召し出された。
天草島原の乱で手疵を負った。その子・新九郎が300石拝領し奉行や鉄炮頭などを勤め、以降明治に至った。
■岩崎家 (南東1-6)岩崎直衛家
■上村家 (南東30-11)丹後以来 上村甚之助家
丹後に於いて忠興に召し出された上村孫三を祖とする家が4家あるが、その中の嫡家である。
2代目・甚五左衛門は御暇となったが、天草島原の乱に参加し帰参が許された。
■江嶋家 (南東42-5)江嶋 傳家
大友家浪人にて親族・財津氏を頼った。初代から3代までは坂梨口御番を勤めた。8代傳右衛門は川尻町奉行を勤めた。500石
■柏木家 (南東16-19)柏木荘九郎家
平成肥後国誌には往生院に墓所があると記されているが、実は京町の西方寺にある。
■竹原家 (南東22-12)竹原東彌家
竹原家は阿蘇家の分流で、上総助宗守は嶋津氏に仕えた。その子市蔵惟成は細川幽齋が薩摩を訪れた際、その才を認められ幽齋がもらい受けて臣となした。玄可と称す。
綿考輯録は次のように記す。
藤孝君、文禄四年六月太閤の命に依て薩州御下向、薩摩・大隈・日向を検考なされ候、(中略)
御逗留の中、(島津)龍伯・義弘饗応美を尽され、茶湯和歌連歌の御会等度々有、一日連歌御興
行の時、幼少成ものを執筆に被出候と、幽斎君御望なされ候間、龍伯其意に応し竹原市蔵とて九
歳に成候童を被出候、此者才智有之、第一能書なるゆへ、御心に叶ひ頻に御所望にて被召連、御
帰洛被成候
6代・勘十郎(玄路)は細川重賢に用人として近侍し、宝暦の改革に多大な業績を上げた堀平太左衛門を大奉行となすべく推薦した。
■早川家 (南東6-4)早川助作家
祖は毛利家小早川一族、初代は小早川主膳で黒田家に仕えた後、寛永3年に150石で細川忠興に召し出された。
2代目から姓を早川と改めた。8代十郎兵衛は近習役を勤め650石を拝領した。号鶴隣。
■松岡家 (南東36-22)松岡八郎家
加藤家家臣であったが加藤家没落後は浪人し、初代藤右衛門が細川家に召し出されたのは遅く、元禄11年綱利によってである。
3代目八郎平(八嶽)は養子で、一宮九郎兵衛四男、時習館句読師を勤めた。
■真野家(南東37-2)真野冨弥家
旧中村一氏家臣、同家重臣で細川家に仕えた藪内匠(12,000石)を頼り元和年間に300石で仕官した。
8代源之助は大奉行職となり、禄高15,000石を拝領した。
■横井太平之墓
横井小楠の兄・時明の二男で、兄左平太とともにアメリカに留学した。帰国後洋学校設立に及び洋学教師ジェーンズの招聘に尽力した。22歳の若さで死去した。