細川家の熊本移封に伴い、忠利一行が豊前から熊本に入ったのが寛永九年十二月九日のことである。
翌十日には忠利は早々に江戸に在る嫡男・六丸(光尚)に書状を発している。
「事のほかに広い囲みで、江戸城のほかこんなに広い囲みは見たことがない」とその喜びの心情を率直かつ簡明に記している。
この年光尚は14歳であり、熊本に入国するのは寛永十四年年末、天草島原の乱の勃発によるもので、熊本城に入場することなく戦場に赴いた。
以上
我事十二月
九日ニ
熊本へ入城申し候
可心安候 事外
ひろキ圍にて候
城も江戸之外ニハ
これほとひろキ
見不申候 又十一月
十五日之状相とゝき
跡より又可申入候
其方も登城之
よし丹州 丹州・・稲葉丹後守正勝(小田原城主、春日局嫡男)
御さしつの
よし
尤ニ候恐々謹言
十二月十日 利(花押)
六返事