津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

肥後モッコスの元祖

2008-12-22 17:00:27 | 歴史
 元和九年八・九月頃の三齋の書状である。

 以上
文拝見いたし候、内きかたよりけんもつ事ニつきふミしん上申、
くハしくミ申候、むり二かゝへ候へとハ申さす候、よそへつか
ハし候ハんとも、かゝへ候ハんともまゝにて候よし申つかハし
候、何と成とも心したいと仰遣され候へと、かしく
 御ち                三より
  御中
   御返事

 慶長十二年出奔した米田監物の帰参に関する書状だが、宛先が乳人であるのが面白い。多分「大局(おおつぼね)」と呼ばれていた、中村新助の妻に宛てたものだと思われる。
忠利から召出しに関し当然相談があったのであろうが、「無理に召抱えろとは言っていない、他所へやろうと召抱えようとどうぞご自由に」といった意であろうか。
何故乳人を通じてのことなのかがよく理解できない。

 監物の出奔は、「忠興君御意に不叶儀有之」とされているが、真実のところは監物の姉婿・飯河肥後とその父・豊前の誅伐に関してとされる。若干22歳のころの話だが、帰参まで16年が経過している。そして三齋公に監物が御目見えしたのは、寛永二十年正月八代に於いてである。「肥後モッコス」の元祖は、三齋公ではないかと密かに考えている。
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寛永四年十二月廿二日

2008-12-21 12:30:13 | 歴史
 この日豊前に於いて、細川幽齋女千が亡くなっている。初め中納言中院通勝の四男・長岡與九郎孝以に嫁いだ。丸山左京(後・与左衛門)、嵯峨宗巴の母である。後、小笠原宮内長良に再嫁。法名恵雲院涼室理清、享年四十九歳。
綿考輯録は「民部少輔長之を生む」とするが明らかな間違いである。
長之は長良の長兄備前長光の子である。長良の次兄は切支丹として殉教した、小笠原玄也長定である


 孝以の父中院通勝は、正親町天皇の勅勘をこうむり、天正八年(1580)から慶長四年(1599)まで、19年の長きにわたり丹後国舞鶴に配流され、細川幽齋の合力を得ている。そこで生まれたのであろう。そして孝以に長岡の姓を名乗らせるとともに、女・千を嫁がせたが、若くしてなくなったものと思われる。


 幽齋-----+--忠興---忠利
        |
        +--興元
        |
        +--伊也
        |
        +--幸隆
        |
 中院通勝-----長岡孝以    
        |    ∥----丸山左京・嵯峨宗巴
        +--千(恵雲院)
        |    ∥----●田中又助室---継嗣なく断絶
        | 三男 ∥
 小笠原少斎----小笠原長良
        |          
        +--孝之
        |
        +--蓮丸
        |
        +--加賀
        |
        +--栗
        |
        +--那仁伊
      
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群青色のマグカップ

2008-12-21 09:20:11 | 徒然
 数日前東京在住のK氏から、一個のマグカップを頂戴した。綺麗な「群青色」である。ホットミルクを入れてみると、ミルクの白と群青色のベストマッチに合点する。

 私の一寸した自慢のお宝に、「大日本インキ化学工業(株)」が発行した、「日本の伝統色」という265色の色見本帳がある。奥ゆかしい和名の色名は、日本人の色に関する感性の豊かさを表している。濃縹(こきなはだ)とか、濃藍(こいあい)、紺青(こんじょう)、瑠璃色(るりいろ)など色相がよく似ているが、まさに群青なのである。深い海の青である。そして鎮魂の色だと思っている。

 カップには、私の名前とともに、玄祖父が残した歌がサンドブラストという手法で文字が刻まれている。明治10年刎首の刑を受けた、玄祖父の辞世の歌である。

    秋風ノタヨリニキケバ古サトノ萩カ花妻今サカリナリ

玄祖父の無念の思いを開放する、似合いの色だと思っている。群青の肌に刻まれた文字を毎日なぞっている。

 お作りいただいた、めんこいガラス工房のサイトです www.menkoig.com
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諸悪莫作 衆善奉行

2008-12-20 20:24:50 | 徒然
 永青文庫が所蔵する墨蹟の中に、一休宗純の書「諸悪莫作 衆善奉行」がある。雄渾達筆なこの書は「諸悪莫作 衆奉行」と「善」の文字が抜けていて、後で小さな文字で脇に書き加えている。展覧会「大名細川家-文と武の軌跡」の記念誌によると、「釈迦十大弟子の一人で多聞第一とされた阿難尊者が、ある人の仏の究極の教えとは何かという問いに答えた偈「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」からとった二句」と解説して有る。
「悪いことをするな、善いことをせよ」という意味だそうだが心しなければ成らない。

 沢庵和尚が忠利に贈った書について、綿考輯録に次のような記事が有る。

          沢庵より忠利君江書被進候語章
            無心益有好 無事是貴人
            諸悪莫作 衆善奉行
            忠利公       沢庵
       右之黒(墨)蹟、寛永十八年三月廿八日中庵掛物ニして江戸江持参有之

 どうやら此の二句は、僧籍の方の揮毫の言葉として、もてはやされていたのかも知れない。二つ並べて展観できないものかと思ったりする。
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島原の陣--決戦の日・・2

2008-12-20 18:20:21 | 歴史
光利(光尚)君ハ仕寄場御巡見の為先手へ御越被成候内、鍋嶋手より乗候様子ニ付、此方も三の丸ニ乗込せ候へと諸手へ御下知被成、早速御馬を被出候、興長も鍋嶋家の様子聞と其儘打出、持筒頭橋本角右衛門・中山藤兵衛に上箭を打せ円居をすゝむ、

頼母佐も早速組衆に下知し、側に有もの十四人を連て駆出、隊下手の者我先と争ひ米田与七郎一番に打出る

立允主ハ折節栖楼にあかり敵城の様子御覧候所、二の丸出丸に煙立、無程早鐘を突、鍋嶋城乗との注進有之候ニ付、早速望楼より下りて打出、馬をはやめられ候家光公より三齋君御拝領小黒と申馬也、志方半兵衛元政・熊谷権大夫・同新太郎・神足少五郎・芦田十左衛門元辰・佐方源助後源右衛門・井戸文三郎重行後次郎左衛門と改、追々加増して七百石、隠居名宗中と云、一ニ文三郎を十三郎と有ハ誤なるへし

御昇奉行興津右兵衛後弥五右衛門・原伝右衛門御昇弐本・馬験壱本しほりてかつかせ、小頭能勢藤右衛門差添、持筒頭上羽又右衛門・同組之者七人・坂本角之允浪人分等一同ニ打出る、三の丸大井楼の辺ニ而御下り立、御見計被成、頼母佐持口より三の丸江御乗込候ニ、最早敵も見へ不申、熊本・柳川の兵あらそひすゝミ、二の丸の大手口に仕掛候、立允主此様子跡より御覧候而、先手の参る方ハ鍋嶋乗申跡ニ而候、其上越中様御持口ハ所々堀切有て足場悪敷、幅弐間深さ五六尺程の堀切之道上ニほやを作りかけ、柱なしに破風より出入いたし候様子也、道筋不自由之上味方之人数二三合、彼是御供の面々立允主を見損シおくれ候ニ付、纔の御人数ニ而御押候也、御昇ハ三の丸塀下ニ而張立、塀を御越候へ共、敵居不申候ニ付しほりて持候也、三淵内匠も早速内出るに、竹束稠くして城戸不開内に、後より大勢押来候間、昭正竹束の牛を越て立上り、家人兵藤六之允・横田杢十郎に申付、竹束押開かせ飛出る、手まハりの者十弐人相したかふ、無程家人彼是きたり馬をも打せ候間、鞭を加へてかけ通り候、初め竹束を越候時、大鳥毛輪貫差物竹にかゝり抜たるを、家人金光角左衛門取て持来候へとも、是をさすにいとまなかりしと也
長岡右馬助ハ浜手巡見して有しか、火急成事故組衆を立、仕合次第二乗入らるへしと下知し、有合士卒七八人を卒し、浜手の口より乗入、清田石見・志水新之允等隊下に指揮し我劣らしと打出ル、小笠原備前一備ハ廿六日夜仕寄場の当番にて今日ハ小屋々々に休ミ居候に、城乗を聞と等しく少もおくれす走出る、殊に藤本勘助七十三才・河村伊右衛門ハ有攻の老士なれハとて、備前か旗を預け置ける故、藤本早く使を遣し御旗を出され候へと云送るニ、旗ははや出しける由なれハ速に三の丸に入、備前か大旗を見付、押立て先にすゝミ候、其外諸頭・御馬廻・倍士・浪人我先と打出候へハ、多クハ列を抜け、組頭に離れて思ひ/\ニ三の丸ニ乗込候
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血の気は多いのですが・・・

2008-12-19 15:11:23 | 徒然
 日赤病院に友人を見舞う。病状もすっかり安定していて、口に若干の痲痺があるようだが、これは快復も時間の問題だろう。24日には自宅近所の病院に転院するらしい。まずは一安心。
 二日ばかり前に日赤の血液センターは、新聞に「献血協力」のチラシを入れていたことを思い出し覗いてみた。以前は随分献血もしたものだ。65歳以上の献血は60~64歳の間に献血経験が必要だという。調べてもらうと記録に残っていない。私の献血は10年以上前のことだったようだ。血の気が多くて、不愉快なことがあると喧嘩を仕掛けたくなる昨今、少し献血でもして、おとなしくなりたいと思ったのだが・・・残念な仕儀ではある。
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阮西堂という人

2008-12-19 11:26:42 | 歴史
 細川家関係の文書に盛んに登場する、阮西堂(ゲンセイドウ ?)という人とは一体何者なのか・・?
  
  +---松井勝之
  |
  |  細川陸奥守輝勝
  |       ∥
  +------●清光院
  |
  |  角田因幡守藤秀
  |       ∥---------+---松井二平次
  +------●松林院     |
  |                +---松井三平次---+--松井外記元勝
  |                             |
  |                             +--湘雪阮西堂(沅西堂)
  |                             |
  |                             +--角田団兵衛勝貞
  |                             |
  |                    沢村大学吉重=========宇右衛門友好
  |                             |      ↑
  |                             +--松井庄次郎(沢村大学吉重養嗣子)
  |                             |
  |                    志水悪兵衛-------志水加兵衛
  |                             |      ∥
  |                             +-------●
  |
  |
  +---松井佐渡守康之---------松井佐渡守興長===松井式部寄之
  |
  |  吉田盛方院浄勝
  |     ∥
  +------●

 阮西堂は松井二平次の二男、京都東福寺不二庵に住、島原の陣においては光利(光尚)に近侍軍議にも参加している。沢村大学養嗣子沢村宇右衛門の兄で当時は沢村阮与斎と名乗っていた。「武勇を好ミ、仕物なと有時ハ罷出せわいたし候由、此時も朱さやの大脇差ニ而諸方ニ御使なとも勤候也」
                  (綿考輯録・巻四十四--忠利公(中)p414)
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島原の陣--決戦の日・・1

2008-12-18 12:58:38 | 歴史
 寛永十五年二月廿七日、佐賀勢の抜け駆けにより戦いは始まった。三の丸の担当である細川勢と柳川の立花勢は、これを知って一気に攻め入る。その先頭にたったのが長岡寄之(松井興長養嗣子・細川忠利末弟)である。

長岡寄之今日の当番にて仕寄場に居候か、鍋嶋家抜かけの由聞とひとしく、一歩も人におくれしと速に打出る、松井新太郎正元組の卒をひきひ、請取の挙城戸迄早く来りしに、辻庄左衛門当番ニ而、大将の下知なきにハ壱人も私に出さすと云ふ内に、寄之ハ中西孫之允宗昌をはしめ・井出惣右衛門・本田勘之允・江口七太夫・奥野伝右衛門・磯田作左衛門五人歩卒・辻源太郎・祐藤勘三郎二人児性以上八人をしたかえ来る。伝右衛門下知をうけ脇差にて木戸を截ひらき、寄之直に三の丸屏に乗上り、柄弦の差物を抽て打ふり、細川家長岡式部寄之三丸一番乗と声高に名謁て、出丸の内に飛入る。新太郎・庄左衛門を初式部手の者ハ勿論、組之士卒・諸牢人迄我先と追々乗込候、三の丸をハ大塚四郎兵衛・会津左兵衛・堂崎対馬を首として、大江源左衛門・布津吉蔵等三千五百人ニ而守之、西の出丸ハ有江掃部五百人ニ而固めけるか、俄之事ニ驚候哉、しはらくさゝへ候得とも、わつかの勢に切立てられ、出丸を捨て三の丸に集る所を、寄之すかさす付入候

三の丸に入とひとしく中西孫之允真先にすゝミ、敵を突ふせ首を取、三の丸の一番首也、二番に敵鉄炮をかまへ火ふたをきるを、和田伊一ニ利兵衛飛ひかゝて突伏る、小寺杢左衛門鉄炮疵を被りなから鑓を合せ賊を討、谷主膳手に附居たる浪人益田太兵衛一村弥三兵衛弟、今の益田尉右衛門祖すゝミ出、鑓を合けるか、鉄炮に中り死す、是一番の討死也、賊徒頻りニ鉄炮を発し候へ共、寄之少も擬義せすすゝむに、路三方に分れたる所にて、中西先にたち何れを参候ハんと云、寄之見てたゞ真中の直路よりすゝむへしとて、三の郭の中を南ニ向ひ田を渉るを、田向の土居より炮玉来て寄が指物に中る、江口七大夫矢表に立塞て忠死を遂候間、寄之深く歎惜いたし候

佐渡か鉄炮頭下津半助組の足軽をしたかえ、田尻口の方へ打向候を寄之招て、直に此口より二丸ニ攻入へしとて、稠く鉄炮をうたせ、敵も爰を詮度と打合いけるか、賊壱人田をわたり一文字ニ打てかゝるを、田中三郎左衛門名謁かけてしはらくあらそひ、打ふせて首をかく、本嶋角大夫・上原兵助始末寄之か側を不離、其職を守、九郎右衛門嫡子也も来て力戦いたし、中山助九郎昌良敵を討て鼻をかく、松井掃部秀通か嫡子三左衛門吉任鑓を合敵を討取、二男志水加兵衛も敵を討ツ、新太郎か乗口の小屋より敵老若弐人刀を振てかゝるを、正元鑓ニ而若者を突伏る、老人ハ若党井羽一ニ伊橋茂大夫是を討ツ、大村掃部平井杢之允親也、此時ハ弥次右衛門養介ニ而居申候、三の丸一番乗、本丸水手ニ而弐ヶ所手負、無証拠其儘打過と家記に在・今福五左衛門も一所に働く、有吉頼母隊下にてハ松野縫殿助親政織部嫡子・其弟吉弘四郎大夫と共に、鍋嶋家の仕寄付るを見物せんとて忍て外張に出居候に、無思懸城乗に及候間、其場より直に生膚にて乗入、此外陳々我先と浮立、甲冑を帯する暇なく、生膚打てに出しも多かりしと也、興長か手各すゝむ中、谷主膳組永良弥角・入江八郎兵衛・小林助大夫・佐田長三郎後市郎左衛門四人ミつから三丸一番乗と称し四人の差出ニ一番乗と有り、段々にすゝミ、二の丸にても働有、或云此四人帰陳の上御暇被下と有ハ誤なるへし、浪人木造左馬允も興長手に加り、一番乗と申候、有吉隊下にて薮図書助組共に佐分利加左衛門組足軽を卒し、清田石見組後藤一十郎・志賀左門組菅村藤兵衛等も三丸一番乗相争と也、沼田勘解由組の物頭国友式右衛門ハ松井組ニ加り、足軽を下知し、西の須戸口より一番ニ乗入候二丸ニ而も塀下に着、御鉄炮うたせ乗入、本丸ニもうたせ働候

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天草島原の乱--決戦前日

2008-12-17 16:27:59 | 歴史
 (寛永十五年二月)廿六日(松平)伊豆守殿諸将を集め被仰候は、今日の火攻ハ雨天なれハ無是非相止候、殊ニ大雨なる故今明日の中晴候とも、速にハ火攻の功も有ましきか、徒党共最早数十日の籠城にくるしミ、粮物ニつまり、玉薬とほしく、自然と守りも怠る体なれハ、一向二明後廿八日晴雨にかゝわらす惣攻可有との事也、其時黒田氏追手搦手の寄手、越矢の遠慮可有かとの論あり、忠利君被聞召、越矢に是を遠慮とハ、さしかゝる敵をも討ましき事可有也、其上見上ての城乗なる故、うしろに越スハ矢勢尽て人を傷るニ至るましきかと被仰、其外思召寄とも委ク被仰述候間、上使を初諸将各其儀ニ同せられ候

 廿六日、為上使三浦志摩守殿・村越七郎左衛門殿 一ニ七郎右衛門 有馬ニ御着

      松平信綱  ja.wikipedia.org/wiki/松平信綱

 寛永十五年二月廿七日、天草島原の乱は幕府軍の一斉攻撃により一気に終結に向う。
その長い一日を「綿考輯録」の記事から、ご紹介しようと思っている。全文では約100頁に及ぶもので、「百間石垣からええもさいさい」の心境でお届けしようと思う。著作権の問題がありどの程度までご紹介できるか・・・?

 
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お出でまっせ

2008-12-16 18:23:42 | 熊本
 四年ほど前まで、熊本から一宮(阿蘇市)まで走っていたSL機関車「SLあそBOY」が、来年4月25日から熊本--人吉間に復活する、名づけて「SL人吉」。毎週土日、一日一往復だそうだが、九州新幹線の開業も近いことだし、PRにも宜しかろう。なんでも修復費に4億円の費用がかかったというが、JR九州の粋な計らいである。ボイラーの火入れ式が今日行われた。

 今年は人吉に於いて、「青井阿蘇神社」が熊本で唯一の国宝に指定されて、観光客を呼んでいる。相良家の名城も御覧いただきたいし、車窓から見える日本三代急流の球磨川の美しい景色を堪能していただきたい。球磨川の「舟下り」もそのスリルを味わっていただきたいものだ。球磨焼酎の里でもあり、醸造元を歩かれるのも又楽しみである。SLフアンには、待ってましたの朗報であろう。
          どうぞお出でまっせ

    青井阿蘇神社   www.aoisan.jp
    人吉城(繊月城) csx.jp/~hakubutsukan/higo/hitoyoshi.html
    球磨川下り    www.kumagawa.co.jp
    ラフティング    www.raftingstones.ecweb.jp
    球磨焼酎     www.kumashochu.or.jp 

    JR九州/さよならSLあそBOY  www.jrkyushu.co.jp/asoboy/index.jsp 
 

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荒木村重系細田氏消息--Ⅱ

2008-12-16 11:57:37 | memo
 荒木村重系細田氏に関し、綿考輯録に新たな一文を見つけたので記録すると共に、其の他資料を再掲して経緯を再確認する。

   (寛永十五年)十二月廿(ママ)光利(光尚)君江之御書之内
 荒木左馬殿之事、内々烏大納言(烏丸光広)殿御肝煎候へとも、御死去(同年七月十五日)ニ付
 肥後(光尚)ニも内々御頼候へとも、大納言殿御座候間可被仰候とてひかえ候へとも、大納言殿
 御はて候へは可被仕様無之候ニ付申候


    寛永二年八月、光尚は烏丸光賢(光広息)女・弥々と「御縁組済せられ候、十二歳なり」。
     大納言光広は岳父の父であり、義母は叔母(忠利妹)である。


再掲
■細田清印へ為合力金小判三拾両當年より永可相渡者也
    寛永拾九年五月十一日 御印
         奉行中
   (熊本縣史料近世編第二所収「部分御舊記二--賞賜并選挙部五」p469)

■荒木左馬介殿へ為合力金小判三拾両當年より毎年被遣
 之旨津川四郎右衛門殿を以被 仰出之条 御印之儀被
 仰上被下候 以上
    寛永拾九年五月十三日 御印 奉行中
         御取次衆中
   (熊本縣史料近世編第二所収「部分御舊記二--賞賜并選挙部五」p469)

■荒木左馬助(介) (綿考輯録巻六十一)

    (正保元年)五月十日御老中より奉書
 一筆申入候、荒木左馬助事、母不届有之付、其方へ被成御預候間、
 其国可被指置候、扶持方等之儀委細留守居之者迄可相達候 恐々謹言
                         阿部対馬守
                         阿部豊後守
     五月十日              松平伊豆守
        細川肥後守殿

 荒木左馬助ハ攝津守村重の孫ニて、父ハ新五郎と申候、左馬助幼少にて親ニ離れ、浅野但馬守殿江罷在候へ共、御直参を願二而京都に居住、烏丸光広卿前簾(廉)村重と御入魂の訳を以江戸に被召連、光尚君へ被仰談候、則忠利君より被仰立、公儀江被召出候、其比御城女中あらきと申人子無ゆへ左馬助を養子可仕旨上意有之、親類ニ而も無之候へとも上意ゆへ親子のむすひいたし候、然処右之女中故有て今度流罪被仰付候間、左馬助も其儘被差置かたく御預二成、後熊本二て果候

 追記
考ニ、承應二年五月廿三日六丸君(綱利)より公儀江之御達書ニハ、寛永二十年十一月八日光尚御預之儀仰渡候と有之、寛文五年の御達ニハ、寛永ニ十一年とあり、二十一年の方可然也、且又承應二年ニハ左馬助五十五歳と有之候、是ニ付て按るに、荒木攝津守ハ同新五郎父子信長ニ叛き、天正七巳卯年伊丹・尼崎両城落去より承應二辛巳迄ハ七十五年也、然れハ新五郎天正七より廿年余跡をくらまし潜り居候而、後ニ左馬助を出生いたしたるなるへし、左なけれハ承應二年五十五歳といふ事不都合ニ而候、尚考へし


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細川家家臣・山本氏

2008-12-15 15:08:55 | 歴史
 千利休の死にあたりその介錯役を勤めたのは、研究書や小説などでは殆どが蒔田淡路守だとしている。村井康彦氏の名著「千利休」もそうだし、野上弥生子氏の小説「秀吉と利休」も同様である。WEBサイトで検索してもほとんどがそうなっている。過日ご紹介した「利休最後の半年」の著者、土田隆宏氏は大変勉強をなさっていて、介錯役は細川忠興家臣・山本正倶だとされている。その出典は綿考輯録であることは間違いない。

 綿考輯録・巻十に、千利休に対して「秀吉公猶も憤り深く、終に切腹可被仰付ニ定り候、依之忠興君より山本三四郎正倶を介錯人に被仰付(以下略)」とある。私は蒔田淡路守は秀吉がつかわした検使役であり、介錯役は山本正倶であったと信じて疑がわない。

 山本正倶は名を三四郎(三左衛門)という。その正倶については、  
「三四郎親掛ニ而、三斎様御側に被召仕、御知行弐百石被下置、(父親)三郎右衛門隠居仕候節、家督四百石拝領、有馬御陳にも御供仕、綱利君御代まて相勤、追々御加増千石被下候」とある。

 父親山本三郎右衛門については、「元亀四年岩成主税を御攻被成候時、御家に来り御合力十八人扶持被下候、直に忠興君に仕て御懇也、九曜の御紋御付被成候後、夫迄の御紋六ッ鉄線を政倶に被下、定紋二仕候と申伝候、丹後御入国之節、弐百石拝領、度々の戦功あり、関原御陳後、御召之御鎧・鞍置馬を被下、御知行四百石に被成下(一ニ豊前ニ而五百石)その後加々山隼人被誅候時三郎右衛門に被仰付、友次の御刀拝領仕候、三斎様御剃髪の時、山本も剃髪、宗の字を被下宗覚と改申候、三斎様御逝去両年前ニ病死」と綿孝輯録・巻五は紹介する。中務とも称し、観世小次郎元頼の弟子であったという。
細川幽齋の田邊城籠城に際しては、村野庄助 ・坂井半助 ・篠山五右衛門(飯河豊前守)・久代右近右衛門 ・平田因幡・平田彦三・寺井道運・神戸喜右衛門等とともに北海手の守備にあたった。

 子孫は1500石を領し、番頭や用人などを勤めた。





            
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喝食なる人・・弐

2008-12-15 08:43:50 | 歴史
 綿考輯録に玄喝食について詳しく紹介されていた。(まだ読みようが足りません)

 寛永十二年七月九日、於熊本(忠利)御三男御出生、御幼名鶴千代、庶母金子氏
寛永十八年七歳にして大淵和尚の御弟子ト成、正保元年落髪、玄覚喝食一ニ玄喝食と申候
 考ニ大塚家記ニ、弐歳之御時大塚当帰斎に御預被成、八歳迄当帰斎屋敷ニ而御生立被成候と云々、再考可仕候
正保三年大淵和尚より啓室和尚ニ被進、妙解寺ニ御移候て宗玄と御改被成候、其後光尚
君より御還俗御すゝめ被成候へとも、無御同心、其比御受書之写残候、左之通
                    御請申上覚
一、私儀泰勝院ニ被為召置出家仕、今又当時ニ罷在候処にに、為御使朝山斎助殿・林外
  記殿以両人被仰出候様、私還俗仕候ハゝ可被召遣旨被仰出、忝奉存候、乍去近年泰
  勝院にて四五年暮シ申候時之心中も、又今当寺ニ罷在候にも、還俗之儀不存知寄候
  条、右之通斎助殿・外記殿へ被仰入可被下候、学文之儀は向後随分精を出シ可申候
  間、可然様ニ奉頼候、以上
      七月廿四日                 宗玄

 増々学文等御すゝミ被成、後ニ天岸と被号妙解寺二代目之住職也、貞享元年正月十七日
 於洛転位大和尚、同二月朔日於大徳寺中常楽庵遷化、五十歳、大徳寺中玉林院ニ葬る
 (以下略)
                 (綿考輯録巻三十六・忠利公(上)p449~)
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友人の病気

2008-12-14 16:44:32 | 徒然
 親しい友人が脳梗塞で倒れたとの一報が入り、いささか慌てている。私より随分若い彼はリウマチの持病がある。それでも元気に過していたし、11日の日にも合ったのだが、そんな気配はまったくなかった。それでも歩行が常人のようには行かず、勢い運動不足で太り気味を気にしていた。現在は少しろれつが廻らない事と、左の手にまひが残ったらしいが命には別条無く、それぞれの症状も快方に向う事だろう。

 私も時折左手に痺れを感じることがあり、また狭心症の発作が出るのではないかと戦々恐々としている。友人の医者からは「瘠せろ」とのご託宣である。最高78キロあった体重も、自転車で走り回るお陰で5キロほどの減量に成功した。「70キロを割れ」との改めての命令であるが、これは中々至難の業である。最近は晩酌の日よりも肝休日の方が多く、至って模範的生活をしている積もりだが、なんと言っても運動不足が致命的である。

 友人を思いながら、一日一万歩にチャレンジしようと、密かに決意したのだが・・・
まったく不謹慎な付け焼刃的発想ではある。明日は歩いてお見舞いに出かけようかと思っている。


 
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肥後入国への道中

2008-12-13 14:25:14 | 歴史
 忠利は小倉から四十里の道のりを四日で熊本に入っている。豊前猪膝で最初の宿を取り冷水(ひやみず)峠越えをして府中泊、南関、山鹿をへて12月9日の吉日故の入国の旅程である。九州自動車道植木インターの西側に「味取」という地域がある。大変な人数の行列で時間的余裕も無かったと思われるのだが、「味取」の地で新たな町を作るように指示をしている。新に興されたこの町は大変栄えたというが、数度火事に見舞われ町も衰退したらしい。その味取を過ぎ足を進めると、一行の遠く眼前に熊本城が目に入っただろう。その感慨は如何なものであったろうか・・・新しい希望に満ちた旅は、疲れも感じさせぬ晴れがましいもので在った事だろう。

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