津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

殿様の居館「御花畑」

2008-12-13 12:04:10 | 歴史
 肥後入国後の忠利は城内本丸で生活をしていたらしいが、「御繕無之候而ハ御住居難被成候」状態なので、入国翌年の寛永十年二月十九日には「御花畑」館に移っている。現在の花畑公園がその屋敷跡の一部だが、数本の巨大な楠木が往時を偲ばせている。その年の九月参勤、十一年八月十三日久しぶりに下國している。即お城での生活が始まったが、なにかと不便ということで一両年後「御花畑」に移ったとされる。

 まだこの時期は藩主・家臣のあいだもざっくばらんな所もあったらしい。
「御家老并人持・御物頭以下までも、心次第朝昼晩共に御広間に罷出居申たる由、忠利君ハ毎朝御楊枝なと御くわへ、其まゝニ而御広間へ御出被成候而、罷出居候面々之内、何某何某今朝御相伴仕候へなと被仰付候由・・・」

 この居館については、熊本大学名誉教授北野隆先生の研究に詳しいが、綿孝輯録に於いても数度の建て増しが行われたことが記されている。当初は玄関に式台がなく、箱段が置かれていたというような記述をみると、肥後細川藩草創期の慌しさが見て取れて微笑ましくなる。
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肥後入国・・家臣の採用

2008-12-12 13:31:18 | 歴史
 寛永十年三月十九日付榊原飛騨守の長文の書状がある。忠利の肥後入国後の仕置きに関するものである。その中に次のような一条がある。(綿考輯録・巻三十五)
   庄林隼人・出田宮内両人かゝへ被成候由、可然人之様ニ承及候
 
 共に加藤清正に仕えた重臣である。加藤時代の「熊本城之図」をみると、大手門前に庄林隼人の屋敷が見える。忠利は肥後入国に当たり城内の案内役をこの隼人に命じ、その後もこの屋敷に住まわせたと伝えられる。
        ja.wikipedia.org/wiki/庄林隼人
        www.m-network.com/sengoku/haka/shobayashi450h.html (お墓)
 出田宮内(少輔・武房)はかっての隈本城城主出田筑後守三郎秀信の五代の孫である。加藤忠広改易後は柳川に住したが、上記の如く寛永十年三月召し出されて鉄炮五十挺頭でニ千石を賜わったが、翌年正月病死している。

 先の榊原飛騨守の書状には、新参者を抱えるよう助言している。
   新参者もよきほと御かゝへ被成候へく候、御人数すくなく御もち被
   成と思召候ハゝ、御人数もかたく御座可有と存候


 かって加藤家にあった志水与助(日下部与助)が、旧加藤家家臣の召しだしに尽力したと伝えられる。急激な領地の拡大に家臣不足という問題が生じている。
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光尚の兄妹たち

2008-12-12 12:39:47 | 歴史
 光尚の幼名は六丸・小六などとされる。六番目の子供だからとされるが、兄姉五人の名前は家譜には登場しない。綿考輯録編者小野武次郎は「光利(光尚)君御姉兄五人にて追々御早世と見江申候、然ニ其比は万事留書様之事ニ心を用たる人稀なる時代にて、五人の御子様御誕生の事もしるし伝へたるもの無之・・・」と書き残しているが、まったく其のとおりなのであろう。それでも武次郎は諸資料から五人の御子を調べている。

       +---光千代 慶長十五六年比千代姫様御腹に御一男誕生
       |
       +--- 男子 元和二年誕生 辰の字可被用思召
       |
       +---   元和三年生まれか 寛永六年正月の御書「かめふく不便なる仕合・・・」
       |
       +---   生年不詳              同上
       |
       +---御姫御懐妊の記事(三齋の手紙による) 元和五年
       |
 忠利----+---光尚 元和五年九月十九日・豊前中津生
       |
       +--- 女子 藤 寛永十一年生 松平下野守忠広室
       |
       +--- 宗玄(玄喝食)寛永十二年生 住大徳寺
       |
       +--- 女子 竹 寛永十四年生 有吉頼母佐英長室
       |
       +--- 尚房 寛永十四年生 新知二万石
       |
       +--- 元知 寛永十八年生 南条大膳元信養子 養母細川與五郎興秋女鍋
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肥後入国「熊本御城の要害其外委細申上候と也」

2008-12-11 18:04:44 | 歴史
 「賤ケ岳七本槍」の一人・平野長泰の甥・平野源太左衛門は加藤清正の配下に在った。加藤清正、福嶋正則らが大名に列せられる中、長泰は不遇をかこっている。長泰の父は平野長治、清原宣賢の孫だとされる。そのような関係であろうか、元和七年長泰は加藤清正家中に在る甥・平野源太左衛門を、細川家に召し出して欲しいと言ってきている。加藤家を慮っての忠利の当惑振りが次の文書である。

   平遠江(平野長泰)より、肥後に居申候おい(平野源太左衛門)、我等ニ抱候様にと被申
   候間、肥後殿構無之候ハヽ、抱可申由約束仕候、此儀にて言上仕候キ、肥後殿構ふか
   く御座候而、同心不参候故、おいの儀は成間敷と被存、其子両人御座候を、我等ニ抱さ
   せ申度由被申越候へ共、宗立(三齋)様へ御かためを、申上候間、成不申由申候へハ、
   又 宗立様へ被申上之由承候、肥後殿事之外構ふかく被申候間、其子抱候ハヽ、肥州満
   足ニハ御座有間敷かと存候間、何とそ御分別を以、遠州へ被仰遣候様ニと、可被申上候事 
         元和七年八月廿八日書状案 (大日本近世史料・細川家史料 8-51)

 召し出しの時期がはっきりしないが、その後源太左衛門は肥後に詳しい者として召し出されている。
   
   加藤清正に仕へたりし平野源太左衛門長九と云者を、肥後案内として豊前ニ被召寄、御知
   行千石被下御鉄炮三拾挺御預ヶ被成、嫡子平野弥五右衛門ニ三百石被下、親之添頭被
   仰付候、熊本御城の要害其外委細源太左衛門申上候と也
                      (綿考輯録巻三十三 忠利公・上p286)

 細川幽齋清原宣賢の孫、平野長泰は父が清原宣賢の孫だという。
 そんな関係であろうか、細川家には平野氏一族が多く召し出されている。

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御行列之次第

2008-12-11 15:04:36 | 歴史
 忠利一行は六日小倉を発っている。肥後にお供をしたいと願うものが多くあったというが、これは堅く止められた。多くの民がお見送りに出、「遠ク出て御駕を送り御別れを惜奉り、啼喚ふ者も多かりしと也」という状態であった。さてその「御行列之次第」は以下の如くである。  (実際は少し変動があっているようだ。末尾に注記する)

      一、大御馬験   二人          貫角右衛門
      一、御昇竿二本 三人          上野角左衛門
      一、になひ廿六荷内 二十二荷外様    三拾弐人
                    四荷   御側       宗像・沖津組
      一、御矢箱壱弐荷  十荷   外様     拾三人
                    二荷  御側        宗像・沖津組
      一、御鉄炮五十挺            井門亀右衛門
      一、御鉄炮五十挺            寺尾左助
      一、御鉄炮五十挺            国友半右衛門
      一、御弓  弐十張            松岡久右衛門
      一、御弓  弐十張            松野七左衛門
      一、御弓  弐十張            黒部吉兵衛
      一、御弓  四十張            神西与三右衛門
      一、金ノ御長柄五十本          吉田平兵衛
      一、御鑰鑓五十本            岡六左衛門
      一、御先ノ御挟箱九ツ拾三人御小人 御奉行 近藤八兵衛・成瀬作兵衛
      一、御薬箱三荷六人御小人           右同断
      一、御しなひ箱 二人御小人           右同断
      一、御蓑箱   二人御小人           右同断 
      一、御小屏風箱二人御小人           右同断
      一、御具足箱二ツ四人御小人     御奉行 益永太兵衛・赤尾茂兵衛
      一、御立物箱  二人御小人           右同断 
      一、御甲物   二人御小人           右同断 
      一、御側筒拾五挺            湯浅角兵衛
      一、御側筒拾五挺            横田権之佐
      一、御側弓拾張              不破角之丞(ィ角兵衛)
      一、御側弓拾張              高見権右衛門 
      一、御半弓百張百人 廿人ハ御昇衆 拾五人ハ矢嶋組 廿人ハ上林組 四拾五人ハ佐藤組
                     御奉行 藤田十左衛門・円田左兵衛・塩津勘兵衛・中嶋五大夫
      一、金ノ十文字廿本廿四人 中山佐次右衛門より出ル人
                     御奉行 山本嘉兵衛・岡文之丞
      一、御持筒拾挺              加々山権左衛門
      一、御さし竿弐本二人路地次之者御飼指不残
      一、唐犬四疋四人   黒鍬之者
      一、はなあか二疋二人 黒鍬之者 此外引替二人合八人
      一、御鷹犬六疋六人肥後より之御長柄之者
      一、生鳥籠 一人 御小人
      一、御鷹
      一、御乗懸馬二疋六人  御中間御奉行 室(ィ真玉)半右衛門
      一、御召馬 五疋拾五人 御中間
      
      一、御召替御乗物 六人        吉谷平大夫・田辺七郎兵衛(ィ七兵衛)
      一、御茶弁当三荷 五人 御小人
      一、御菓子箱    二人 御小人
      一、御からかさ   一人 御かさ持
      一、隼上ケ竿持   一人 肥後より参御長柄之者
      一、御しょうき    一人 御草履取
      一、御ぬり笠    一人  右同
      一、御持筒二挺
      一、歩之御小姓衆
      一、御中小姓衆
      一、御半弓一挺
      一、御かぎ鑓一本 一人御道具衆(ィ御小道具衆)
      一、歩之御小姓衆

     一、御召乗物    拾六人

      一、御長刀二振  二人御小道具衆
      一、ほろ具     一人 右同
      一、御持弓二張  二人 加々山権左衛門組
      一、御掛硯一荷  二人御小人
      一、御挟箱三ツ  五人御小人
      一、御吹矢筒    一人御路次之者
      一、御薬印籠    一人御草履取
      一、御矢立     一人御小人
      一、御長刀三拾振 三十人 御長柄衆外ニ三人方替り
                   田中加兵衛・三輪権内・井上次右衛門(ィ形右衛門) 
        二行右
                  長岡式部少輔・津川四郎右衛門
                  南条左衛門尉・清田石見守
                  道家左近右衛門・明石源左衛門
                  岡部道宇・湯浅五郎兵衛
        二行左 
                  長岡右馬助・長岡監物
                  長岡左膳・氏家志摩守
                  松井宇右衛門・平野九郎右衛門
                  永良長兵衛・阮(沅)西堂

               御児小姓衆
               御詰衆
               御家中又若党小者
               御家中乗替
               御家中鑓
               御家中挟箱
               御家中弓
               御家中鉄炮

      一、御挑灯 七人ハ中山佐次右衛門より渡ス
      一、鳥かけ竿 右御先行列ニ成ル

        押之衆
                  三渕内匠
                  薮  図書

 (井門亀右衛門鉄炮ハ荒木助左衛門召連御先ニ可参旨ニ而、五日ニ小倉罷立、
    南条左衛門尉・三渕内匠・薮図書も同前)
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肥後入国のお供

2008-12-10 14:41:09 | 歴史
     肥後入国ニ御供之衆
        有吉頼母佐与
          氏家志摩守
          南条左衛門尉
          谷内蔵丞
          槙嶋長吉
        長岡監物与
          細川七左衛門
          嶋又右衛門
          松田五左衛門
          渡辺藤五郎
          一宮善大夫
          沢(津歟)田七郎左衛門
          矢野半十郎
        長岡右馬助与
          三淵内匠頭
          長岡藤十郎
          魚住加助
          黒田次左衛門
          岩崎内蔵丞
          友田源右衛門
          香山与助
          中村左大夫
          小野善兵衛
          河句(匂カ)藤右衛門
          福田吉助
        小笠原備前守与
          志賀左門
          津田三十郎
          木野左兵衛
          久野次郎左衛門
          郡 勘八
          松下掃部
          高橋九左衛門
          菅村和泉守
        長岡勘解由与
          薮図書助
          筑紫左近
          国友儀左衛門
          矢野甚兵衛
          安藤弥次右衛門
          山田久丞
          八木田丹右衛門
        志水伯耆守与
          谷主膳正
          中津海三右衛門
          魚住藤三郎
          弓削太右衛門
          藤左太郎
          桜井五兵衛
          山路太左衛門
          可児次太右衛門
          財津善内兵衛
          財津市兵衛
        清田石見守与
          松野右京
          薮 市正
          松野長蔵
          牧善太郎
          沢村九兵衛
          服部左太右衛門
          的場平三郎
          松田角左衛門
    已上
   右は今度肥後御入国ニ付、此書付之衆御供ニ可召連之間、被得其意可有御用意通、
   面々御与之衆御かき取候而可被仰渡候、為後日御名之下ニ御判形候而可給候以上
    寛永九年
      十月廿八日             長岡監物 判
                          有吉頼母佐 判
                          長岡佐渡守 判
    追而申候、不及申候へ共、騎馬ニ而之御供之筈ニ候、可被得其意候、已上
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再び神風連

2008-12-10 12:16:24 | 徒然
 又新に神風連のご子孫が判明した。北海道在住のU氏からご先祖様に関する問い合わせを、メールで戴いたのがきっかけである。ちょっと変った名字だから、ひらめくものがあった。神風連の一党の中にその名前があり、U家と繋がった。そして従兄弟二人も神風連の挙に参画していた。そしてそれぞれの死の様子は、涙を禁じえないものである。

 私は現在神風連のご子孫を数名、当サイトを通じて知り合いご厚誼を戴いている。今回を含め三家のお宅がまったくそのことをご存じなかった。当然のことながら当事者は自らの命を絶たれたわけで、近親の方が家を継がれている。弟であることが多いが、この事件は語られることなく、現在に至ったのだろう。当時の遺族の立場が思いやられる。そしてこれらの事が判明した今日、それぞれのお宅が先祖への想いを深くされているのである。

 四代ほど遡ると、我が家の歴史を御存知ないお宅が沢山有ることを、私は当サイトへのお問い合わせで承知している。手前味噌で恐縮だが、「新・肥後細川藩侍帳」で先祖の名前を見つけ、お問い合わせいただくことが多々ある。喜ばれるご様子をこの身に感じて、「だから止められない」と思うのである。関係資料をお送りすべく準備中である。
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 忠利の感想

2008-12-10 08:59:31 | 歴史
 肥後入国の翌日12/10、忠利は江戸の六(光尚)に対して、肥後入国の感想を書き送っている。

   我々事十二月九日ニ熊本江入城申候、可心安候、事外ひろき国にて候、
   城も江戸之外にはこれほとひろき見不申候(以下略)


 簡便にして明快な文章だが、忠利の喜びが伺える。


 さて今日の熊本日々新聞の「言葉のゆりかご」には、昨日当ブログでご紹介したものとまったく同様の記事が紹介されている。合わせてお読みいただきたい。
又、忠利の行動についての司馬遼太郎氏の、「この忠利の所作も、おそらく三齋忠興の助言によるものだろう」という見解には私は同意しえない。
忠利の深い想いがとらせた行動に他ならないと私は思っている。
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細川氏肥後入国

2008-12-09 17:57:35 | 歴史
 忠利は九日夜深く山鹿(山鹿市)を出立、巳の刻には熊本城天守に上ったとされる。寛永九年(1632)の今日十二月九日のことである。

先達而追々差越候御家中之面々、所々警固御番等之外は各御途中ニ罷出、供奉して御城ニ至られ候、追手の御門外ニ御城番之御衆御出迎有之、忠利君御下乗、此処二而請取渡之御挨拶済候と、御先足軽頭下知して火縄之火を消させ候、其時御門之蹴放しを御頂門々を過、御玄関の上ニ而石川主殿頭殿より、御城内武具・財宝の書記等御受取被成、天守之上段ニ御登被成候、時ニ巳ノ刻比なり

忠利君御装束ニ而、大手門前ニ新敷莚を敷、御門之蹴放シを御頂戴之御心ニ而御辞遊候

爰二而中尾山本妙寺の方を御尋被成、清正の廟所を遥拝なされ、多年御入魂なりしか不思議二当城を賜り候と、御挨拶ニ被及候と也

作家・司馬遼太郎はかって、細川護貞氏の案内で熊本城を訪ねている。氏の著「春灯雑記」に次のように書いている。
       護貞氏がふと、「忠利は、あの天守台の台上にのぼって、はるかに清正の
       廟所にむかって平伏したそうです」といわれた。
       この忠利の所作も、おそらく三齋忠興の助言によるものだったろう。
       さらに忠利は声をあげて、

         いまからあなたのお城をあずからせていただきます。

       といったというのである。はじめてきく話だった。
       このことばが、おそらく肥後の人心を、春の海のように凪がせたはずである。

こうして肥後入国のながい一日が暮れていくのである。それから366年が経過した。
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重箱の隅をつつく・・1 せん姫様

2008-12-09 13:15:23 | 歴史
 細川忠利室は千代姫と名乗られているが、どうやらこれは後年公儀に「御系譜」を差し出す際に、千代姫の実家小笠原家と辻妻合わせをして登場した名前らしい。本当のところは「御せん様」のようだ。
 綿考輯録の編者・小野武次郎も苦労をしている。

「私云、右御姫様御名御家譜等ニ而見当不申、色々吟味仕候処、岩間権之進小笠原殿より御附人岩間六兵衛子孫家記之内ニ御せん様と有之、又長岡筑後直之(松井家五代当主)所持之御系図と有之本ニも同様ニ御座候、然処御書所ニ而は千代姫様と有之様ニ聞候間、此方之証拠を以学校より問合候処、彼方ニても吟味詮議も有之たる由ニ而、御千様と有之方く、御記録も直り候との儀、安永庚子七月御祐筆頭松本幸之進より申来候、然処公儀より仰を被蒙、寛政五年癸丑御系譜被差出候事ハ御大名衆御一同之由ニ而、小倉小笠原殿御当代右近将監忠苗より御問合之ケ条数々御答ニ相成、且御名之事彼方之御達二万一相違なと有之候而ハいかゝとの事ニ而、此方様よりも御問合ニ成候処、千代姫様と御書出に成候段申来、元彼御家より被為御入候御方故、唯今是よりとやかく可有様無之との事ニ而、此方様よりも千代姫様と御書出ニ成候ニ付、御家譜も此節千代姫様と改申候」

 これにて一件落着・・・しかしいい加減?
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利休・最後の半年

2008-12-08 19:59:24 | 歴史
アメリカ政治学者にして茶人という著者の渾身の力作・・津々堂推薦


利休―最後の半年


内容(「BOOK」データベースより)
 千利休斬首の真相!プライド、洞察力、気配り、佗茶の本質…生きざまに見る「覚悟」「守るべきもの」とは何か。茶人の著者による新たな利休の“復活”。

出版社 発行所=彩流社
著 者 土田隆宏 (土田仙煕 本名:宏)
         現職  城西国際大学人文学部国際文化学科教授
             上智大学外国語学部英語学科非常勤講師
    ja.wikipedia.org/wiki/土田宏
税込価格 1,995円(本体1,900円+税)
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喝食なる人

2008-12-08 14:36:32 | 歴史
 資料に時折「喝食」なる人物が登場するのを承知していたが、それが誰なのかわからないでいた。「部分御舊記」に正保弐年の「御扶持方御切米御帳」なるものがあり、寺社方・御合力方・後家衆・御上衆・松之助殿方・御竹様方・真如院殿方・御六様方・御藤様方・松助殿衆に続いて「御喝食江御付衆」とあるのを見つけ出した。更にこれは、京大坂詰衆・御役者衆・御物書御算用衆・御留守居諸奉行・所々御番衆・御職人衆・河尻御船頭衆・鶴崎御船頭衆等、約三千人ほどの名前が記されている。

 松之助殿とは忠利弟の細川尚房であろうし、御竹様とは忠利妹・竹(有吉頼母佐室)であろう。御六様とは細川綱利(六丸)だろうし、御藤様は忠利妹で後松平忠弘室である。どうも「喝食」なる人物はこの周辺に居ると当たりをつけて調べてみると、後に大徳寺住持となる忠利弟・宗玄(天岩和尚)が玄喝食を名乗っていた事が判明した。寛永十二年の生まれだそうだから、此の当時は10歳と言ったところか。御乳人・舟津玄知・松木傳右衛門と草履取一人・下女一人の計五人が記されている。

 さてこの「御扶持方御切米御帳」、いつの日かご紹介したいなと心を動かされている。
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ぼけの始まり・・・・

2008-12-07 12:37:47 | 徒然
 カレンダーの今日の日に、赤のサインペンで二重丸をしている。着替えをしていると妻が「出かけるの」と声を掛けてくる。「2008年度の熊本史学会研究発表会」に出席することを伝える。時間を確認しようと図書館に電話を入れると、「昨日終わりました」との返事、愕然としてしまった。某氏から開催のご連絡をメールで戴き、わざわざカレンダーに印をいれたのだが、これが間違っていた。改めてそのメールをみてみると、明らかな当方の間違いである。
ああ・・・・
 昨日であれば時間は有り余っていたのに・・・・早急にコピーしたい資料もあったのだが、わざわざ一日ずらしたというのに・・・・残念無念の一語に尽きる。妻の「ばかー」の声に反論の言葉も出ない。「ぼけの始まりじゃないの」との声がぐさりと突き刺さる。すばらしい晴天のサイクリング日和だが、出かける気色がすっかり失せてしまった。コピーも後回しだ。
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冗談じゃーありません

2008-12-06 12:23:08 | 徒然
 以前連絡をいただいたことがある某出版社から電話を貰った。「新・肥後細川藩侍帳」を自費出版しませんかという話である。「冗談じゃー有りません」と、即座にお断り申上げた。この侍帳は現在も編集中であり、日々進化と修正の繰り返しである。それはまさにPC機能ゆえに出来得ることであり、印刷物にしてしまえば進化し得ないと思うからである。それにインターネットで公開しているからこそのいろんな出会いがあり、それが唯一無ニの楽しみだからである。
全頁をプリントアウトしてくれている悪友は、強烈な指摘をしながら「これは本にはならん」と助言してくれている。いろいろ編集上の一貫性がかけているのだが、余りにも膨大なボリュームになってしまい、これらの様式統一にはこれまた膨大なエネルギーを必要とするのだ。66爺の力では如何ともし難い。ただただ同様の手法で書き加える作業を毎日の仕事(?)として行きたいと思っている。

 我が家の歴史や先祖にまったく興味を持たない子供達に、何か書き残したいという想いはあったが・・・止めた。私がこんな馬鹿馬鹿しいことをやっているのを、彼らは密かに知っている。私がいつの日かくたばった時、このサイトを開いてくれたらそれでいいと思っている。そういう意味でも、ただひたすらに書き加えていきたいと思っている。
 そんな話を出版社の方に話した。もう電話はないだろう・・・(と思う)
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正保年中諸「覚」-- 2/5

2008-12-05 17:49:40 | memo
正保弐年 
 森寺九郎衛門・中山左兵衛此両人ニ五人扶持宛来年帰國迄留守中可遣也
      正保弐年二月十五日 御印
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 下村半兵衛ニ五人扶持方為加増遣之候間都合拾人扶持方永可相渡也
      正保弐年二月廿七日 御印
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 松村久兵衛ニ切米為加増七石遣候都合弐拾石永可相渡也
      正保弐年二月拾九日 御印
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 杉原次郎右衛門ニ拾六人扶持方永可相渡也
      正保弐年三月廿四日 御印
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 横山次兵衛ニ切米拾五石為加増遣之候ま都合三拾石當暮より永可相渡也
      正保弐年三月廿九日 御印
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 志水岩之助ニ五人扶持方永可相渡也
      正保弐年四月朔日 御印
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 銀子弐拾枚片山自庵ニ遣之候間可相渡也
      正保弐年四月十二日 御印
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 大河原小太夫・梅原兵三郎ニ五人扶持宛遣之候間永可相渡也
      正保弐年四月廿日 御印
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 杉浦傳十郎ニ三人扶持方ニ切米拾石遣之候間永可相渡也
      正保弐年四月廿日 御印
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 田中甚五左衛門せかれ八十郎ニ三人扶持遣候間永可相渡也
      正保弐年四月廿日 御印
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 明石源左衛門小者走候を松山小右衛門者捕候付而為御褒美銀子弐枚被遣
 之候間 御印之儀可被仰上候以上
      正保弐年四月廿七日 御印
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 銀子弐拾枚御こぼへ可相渡也
      正保弐年五月朔日 御印
                          古保は忠興二女・松井興長室
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 羽田新七ニ小性弐人小者四人抱可遣者也
      正保弐年五月十一日
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 堀平左衛門せかれ亀之介ニ五人扶持方永可相渡也
      正保弐年六月朔日 御印
               平左衛門は細川光尚に殉死。後の家老職にして大奉行堀平太左衛門の曽祖父。
                    亀之介とは分家初代の次郎右衛門時久(平太左衛門・実祖父)

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 今度於大坂召出候野村孫兵衛ニ合力百俵遣之候間可相渡也
      正保弐年五月朔日 御印
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 遠山八左衛門儀知行参百石来年より遣筈ニ候間拾弐人之扶持方八左衛門
 其許へ著(ママ)之日より遣シ其上ニ為合力米米百俵可遣候也
      正保弐年七月六日 御印
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 野々口又之丞儀未禮を不申候間領地不申付候条来年帰國之上書出可遣候
 就其為合力米八木百石遣候也
      正保弐年七月六日 御印
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 紫野ニ居候喧斎を以澤庵和尚之木像於京都申付候右之為禮金大判壱枚喧
 斎ニ遣之候間古橋小左衛門ニ可相渡也
      正保弐年七月六日 御印
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 兼坂幸庵ニ弐拾人扶持方遣候間永可相渡也
      正保弐年七月九日 御印
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 高橋三右衛門ニ五十人之扶持方當年正月分より永可相渡也
      正保弐年七月十一日 御印
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 山路喜内小者走り申候居所を請人ニ奥田藤左衛門をしえ申候為御褒美銀
 子壱枚被遣候間 御印之儀被仰上可被下候以上
      正保弐年九月五日 御印
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 尾崎伊織ニ銀子拾枚遣之候間可相渡也
      正保弐年十一月五日 御印
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 西村友之助ニ無足之小々性なみニ衣類當暮より毎年定り可遣也
      正保弐年十一月六日 御印
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 山本三左衛門為加増遣之候百石分正保弐年之物成於江戸以銀子可相渡也
      正保弐年十一月十二日 御印
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正保三年
 かいつニ八木三拾石遣候間従當年永於江戸可相渡也
      正保三年正月十四日 御印
                かいつ(海津)は夫・岩間六兵衛(武田信玄孫)と共に忠利室保壽院付き(老女)
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 一 河井甚九郎ニ五人扶持二切米弐拾石
 一 藤井兵吉ニ五人扶持二切米拾石
  右之分遣候間大坂ニ而永可相渡者也
      正保三年三月七日 御印
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 前淵権丞ニ正保三年正月廿三日より六人扶持方可相渡候然者権之丞儀知行
 百五十石可遣様ニ最前より相定候際諸事知行取之鷹匠並ニ相心得可申候也
      正保三年三月拾九日 御印
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 前田理介儀明石玄碩弟子ニ申付ルニ付而三人扶持方理介ニ遣之候間玄碩方
 へ永可相渡也
      正保三年四月廿三日 御印
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 高安長十郎・春日五平次・高安又左衛門此三人ニ為合力金子拾両宛遣之候
 間當年より毎年可相渡也
      正保三年四月廿六日 御印
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正保四年
 松本九市郎ニ小性壱人小者参人従今日拘可遣也
      正保四年五月九日 御印

 松本九市郎ニ當重陽より無足なミの衣類可相渡也
      正保四年五月九日 御印
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 吉貝安右衛門ニ壱人扶持方増遣候間都合参人扶持方永可相渡者也
      正保四年七月三日 御印
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 明石源兵衛与羽田甚左衛門せかれ百介ニ五人扶持遣之候間永可相渡也
      正保四年十一月四日 御印
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 於上方八木五拾石之事様子候間阮西堂へ當暮より毎年永々可相渡也
      正保四年十一月十六日 御印
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 曽我太郎右衛門殿子息大助方江為合力米百石分金子ニ而當暮より毎年
 於江戸霜月十五日切ニ永可相渡者也
      正保四年十一月十四日 御印
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 岩間小十郎ニ知行百五十石遣候當年之物成蔵米にて可相渡也
      正保四年十二月五日 御印

 岩間源兵衛ニ知行三百石遣候間正保四年之分之物成蔵米二而相渡也
      正保五年閏正月五日 御印

              父・岩間六兵衛は正保四年正月江戸没。源兵衛は嫡男正広、小十郎は三男正武。
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 佐川庄十郎・六車長四郎ニ合力八木弐拾石宛扶持方三人扶持従當年よ永可
 遣候諸事中小性なミに可申付也
      正保五年正月九日 御印
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 小松昌庵ニ毎年暮ニ金子五枚宛并弐拾人扶持方永ク可相渡也
      正保五年正月十三日 御印
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 目医者玉眼院ニ正保五年正月六日より於江戸拾人扶持方遣候間永可相渡也
      正保五年正月廿九日 御印
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 高木吉左衛門ニ小姓三人小者四人拘遣也
      正保五年二月十二日 御印
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