津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

諸家累代宛行状・先祖附など

2009-09-24 20:28:08 | 熊本
 9/30~10/6に地元・鶴屋百貨店で開催される「古書籍即売展」の目録を頂戴した。
今年で四十回となる長い歴史を持っている。
興味深く拝見していると、累代宛行状や先祖附が目に止まった。

      ■高田家宛   16通 (高田小左衛門の名が見える)
      ■松浦家宛   12通 (松浦儀左衛門  同上  )
      ■林家 先祖附 (林勘左衛門家カ)

 関係者のお手元にあるのが一番良いのだが・・・
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側室の再婚

2009-09-24 20:07:45 | 歴史
 松井寄之(忠興六男)の生母が、忠興の下を去ったのはいつの事であろうか。生母である一色義有家臣真下梶之助女・才は、のちに長岡勘解由延元に嫁いだ。巖千代(寄之)が松井興長の養嗣子として松井家に入ったあとの事であろう。当然のことながら母子としての交流はあったのだろうが、史料として窺うことは出来ないでいる。

 藩主の側室で在った人が、我が子を亡くして藩主の下を去り再婚している。綱利の娘・幸はわずか四歳で亡くなり、生母・幾羅(平賀氏)は坂崎忠右衛門(家老・4,500石)に再嫁した。同じく綱利の娘・國は有吉大膳立貞と婚約が調ったが八歳で亡くなった。生母流(黒川氏)は青木権平(500石)に再嫁している。

 再婚のお相手も一流である事を考えると、側室であったということから、藩庁の介入があったろう事は想像に難くない。しかしながら我が子が息災であったならば、また違った人生があったのであろう。
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嘉永七年太守様御一家

2009-09-24 09:57:53 | 歴史
 佐田家文書「嘉永七年甲寅日記」に太守様(齊護)の御一家のことが書かれている。
(嘉永七年は11月27日改元されており、通常安政元年と呼ばれている。)

      嘉永七寅正月改正御年齢 并 御次第之事
        太守様去春 御参府當■ 御帰国之処去十一月相州御用
        被■仰候付當寅杜氏 御参勤来卯年御暇之御刻■ニ
        御改正ニ■仰候事

一、太守様             子  御年五十一        竜口
一、若殿様 右京大夫慶順公    未   同 二十         御花畑
        去年五月十六日初入国當正月十六日御花畑御發駕二月廿三日白金御着 廿八日御婚礼
        (嫡子・韶邦)

一、蓮性院様                同 七十         白金・菊御屋形
    (先代藩主齊樹室・一橋大納言治済女・紀)
一、御前様                  同(記載なし)      竜口
    (齊護室・益 浅野安藝守松平齊賢女)
一、鳳臺院様            寅   同 二十五       大崎
    (齊護長男・慶前室 茂  細川能登守利用女)
一、勇姫様 越前様        午   同 二十一       常盤橋
    (齊護三女 嘉永三年越前藩・松平慶永(春嶽)に嫁す)    
一、喜久姫様            辰   同 十一  上杉家  竜口
    (齊護末娘 嘉永二年上杉龍千代と縁組 文久二年没・十九歳)
一、澄之助様            亥   同 十六         ニ丸
    (齊護三男 のち兄・韶邦の養嗣子となる 護久)
一、寛五郎様            子   同 十五         ニ丸
    (齊護四男 津軽越中守順承の養嗣子となる 津軽藩主・承昭)
一、金王丸様                 同 十三         喜連川
    (齊護五男 喜連川煕氏の養嗣子となるも後離縁 細川護美) 
一、峯君様                  同 十八         白金
    去ル十二月より移ル二月廿八日婚礼若御前様と可唱候事
    (齊護嫡子韶邦室 安政元年(寛永七年)二月婚姻 一條左大臣忠香養女・峯子)

この資料は非常に沢山の情報を含んでいて興味深い。
 ・齊護の継嗣・韶邦は嘉永六年十九歳で熊本に初めて入国している。その年の暮れには婚約者の
  一條峯子が白金邸に入っている事が判る。正月十六日に熊本を発ち、二月廿三日江戸着、そして
  廿八日には婚礼という慌しさである。
 ・蓮性院とは細川齊樹室・紀姫のことである。齊樹は文政二年に亡くなっているから、すでに35年経
  過している。実家に帰ることなく、白金邸の菊の屋形に住んでおられる事がわかる。文久元年卒、
  七十七歳。
 ・御前様とは齊護室の益姫、浅野安藝守松平齊賢女である。佐田氏の記録には年齢が記されてい
  ないが没年が明治八年で七十歳であるから、四十九歳であろうか。齊護歿後顯光院と号した。
 ・鳳台院とは齊護の長男・護前の室である。護前は父斎護が宇土藩主であった頃の子供である。
  宇土に於いて生まれたが本家に入った。嘉永元年二十三歳で歿した。茂姫は明治七年卒、四十
  五歳。江戸に於いては大崎(目黒)の屋敷で暮らしていた事が判る。文久二年であろうか、義母顯
  光院と共に熊本入りしている。
 ・勇姫とは越前松平藩主・松平慶永(春嶽)室である。嘉永二年十五歳で結婚したが、翌年には離婚
  話が起こっている。慶永の伯母に当る蓮性院などの尽力も有って半年ほど竜口邸に在った勇姫は
  帰輿している。常盤橋とあるのは越前藩邸のことを指している。その後の二人の睦ましさは世に知
  られているとおりである。
 ・喜久姫は嘉永二年米沢藩上杉龍千代(十四代藩主・茂憲)に嫁いだ。文久二年十九歳で死去。
  上杉家資料によると盈姫と記されている。この時期竜口邸に在るのは解せないが、病気ででもあっ
  たのだろうか。
 ・澄之助は斎護の三男、若殿様とある慶順(韶邦)の次弟で、のち韶邦の養嗣子となり宗家を継承す
  る事になる護久である。弟・寛五郎とともに二丸屋敷で過している。
 ・寛五郎(のぶごろう)は斎護の四男、遠く津軽藩に養嗣子として入った、のちの津軽承昭(つぐあきら)
  である。房州沖で多くの死傷者を出したハーマン号の座礁破艦事故は、まさしく津軽藩救援のために
  兄・護久がおくったものだが、悲しい結果を招いた。
 ・金王丸は斎護の五男、足利将軍家の血を引く喜連川家の養嗣子となっている。後にここを逃げ出した
  話は有名である。安政五年正式に離縁し帰国。幕末期京都で活躍し「肥後の牛若丸」と呼ばれた、
  細川護美である。
 ・峯君とあるのは慶順と結婚する一條峯子のことである。未だ慶順は熊本に在る嘉永六年十二月、白
  金邸に入っていることが判る。
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沢村大学甲冑図

2009-09-23 18:03:17 | 書籍・読書


鎧をまとう人びと―合戦・甲冑・絵画の手びき

著者:藤本正行
発行所:吉川弘文館
定価:3,300円+税


 沢村大学吉重の画像が熊本市の成道寺にあるが、私はまだ実物を見たことが無い。鎧を身にまとい、竹把に腰を掛けている。冑はつけておらず、右前の兜立てにおかれているが、完全武装の正装である。その後に指物があり、「さわむら大かく」と書かれている。左脇に薙刀と二本の槍が立てられている。顔の表情からするとかなりの老齢と思われるから、嶋原一揆の頃を描いたのであろうか。座っているのが竹把である事も、それを窺わせている。

 実は図書館で藤本正行著の上記の本を見つけ、中々面白そうで借りてきたのだがこの中に大学殿がおられた。(p255~256)
鎧姿について詳細な説明が成されており、この絵が「近世甲冑像」としては優れたものである事が記されている。沢山書き残された甲冑図の中には、随分間違いの多いものがあるらしい。
 戦場で主力となった足軽たちの姿を描いたものに「雑兵物語」がある。通常足軽の武装は桶側胴にすげ笠のみである。下半身を防御する物はない。若狭武田家重臣逸見氏の家臣であった沢村大学も、逸見氏没落後は細川家の西川与助の足軽から再スタートしたとされるから、このような姿の時も有ったのだろうか。その後の活躍はご存知のとおりである。

 ちなみに表紙の武将は、逍遥軒筆による「武田信玄画像」である。
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「細川家関係文書を読む」ネットワークの構築

2009-09-23 12:59:18 | 徒然
 当方のメインサイト「肥後細川藩拾遺」には、元々「他力本願的」という文言が頭について居た。皆様のお力をお借りして、色々な情報を発信していきたいとの思いからであった。意識的にはずした訳ではないが、気持ちはいまだ変わらないで居るし、多くの皆様のお力によること多大である。

 午前中図書館に出向きある文書をデジカメに収めた。ある会での勉強の資料にするためである。メモリーがいっぱいになり22コマに止まったが、さてこれを読むのは大変な作業である。いつも講師をお願いしているS氏が、ほとんどボランティアで読下しをされている。これは誠に申し訳ない。

 帰りの車の中でふとアイディアが浮かんだ。「他力本願」だ・・・・。
■ご協力いただける方を募り、メールで資料をお届けする。
     (同じ文章をより多くの方に読んでいただく)
■訓下しの作業をご協力いただき、訓下文をメールで返信していただく。
     (70%でも90%でも構わない、できる範囲内で・・)
■当方でこれをまとめて再度送付、ご意見をお聞きしながら完成文を作る。
■資料提供者に完成した訓下文をお届けする。
                 といった感じである。
 
 県立図書館が収蔵する未だ解読がなされていない数多くの文書がある。
これらを対象にしたいと思うのだが、懸念材料もある。貴重な資料の流出にならないかという問題である。これを如何にクリアするかに尽きる。クリアできれば死蔵状態の多くの資料が日の目を見ることができる。又ご協力いただく方々には古文書解読の楽しみと、能力の向上、また同好の士との交流等メリットもあるのではないかと考えているのだが・・如何。皆様の忌憚のないお考えをお聞かせいただきたい。
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細川家家臣・小笠原(多宮)氏

2009-09-23 09:02:11 | 歴史
細川忠利室・千代姫の弟で旗本の小笠原忠知は、大名となり杵築藩(40,000石)に入封したが、のち三河吉田藩に転封、子孫は岩槻藩・遠州掛川藩・陸奥棚倉藩・肥前唐津藩と度々の転封を余儀なくされている。忠知の三男が長定、その長定の四男長賢が細川家に召し出されたのは元禄十四年である。主馬・丹宮と名乗り、以降「多宮」と代々が名乗り、ガラシャ夫人に殉死した小笠原少斎の「備前家」と区別する為に「多宮家」と呼ばれている。(家紋は両家とも、その出自が清和源氏・義光流である為「三階菱」である)代々比着座の家柄で要職に在って明治に至った。

             +--●
             |
             +--忠脩---長次(中津藩初代)
             |
   小笠原秀政--- +--忠真(小倉藩初代)
       ∥     |
     登久姫    +--千代姫(保寿院)
             |    ∥
             |  細川忠利---光尚---綱利
             |  1          2
             +--忠知--+---長矩・・・杵築藩・三河吉田藩・岩槻藩・遠州掛川藩・ 
             |      |                陸奥棚倉藩・肥前唐津藩      
             |      |        四男・初代
             |      +---長定---長賢・・・・・・・→細川家家臣・小笠原家
             |
             +--松平忠重---英親(杵築松平藩初代)
             |
             +--忠慶
             |
             +--長俊
             |
             +--溝口政房・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→細川家家臣・溝口家   
             |
             +--昌行
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細川家家臣・益田家

2009-09-22 13:42:57 | 歴史
                            右一つ丁子紋

 益田家の名を高らしめているのは、なんと言っても初代弥一右衛門の島原の乱における
一番乗りであろう。才助(弥一右衛門・正景)は「有馬之役武功・陳中専一の勲功」と称えられた。
   有馬城本丸一番乗--城中ニて敵を鑓付高名仕候、并甥岡本伝十郎ニ火を懸せ
   申候 本知百五拾石・千石加増御鉄炮廿挺頭・右本丸一番乗火之手を揚る功
   寛永十五年五月五日於本丸被仰渡 (綿考輯録・巻四十九)

処が実は幻の一番乗りがあった。田中左兵衛氏久(養子 初・佐久間忠助 隠居後宗白)である
   元和七年、中小姓・光尚付 寛永八年新知百五十石、島原陣後加増五百石
   同十八年加増五百石、小姓頭 正保元年加増千石 都合二千百五十石
   肥後藩初の城代職 後加増二千石、都合四千五百石 延宝四年正月致仕
    
  *原城にて武功の面々御褒美被下候 寛永十五年五月七日於御花畑--御陣刀
  *原城にて武功の面々御褒美被下候(肥後様衆)寛永十五年九月朔日 
                             黄金壱枚小袖二、羽織一
                               (綿考輯録・巻四十九)
  *原城にて武功被賞  二千石
    内本知百五十石なり、前ニ御褒美之所にも出、有馬之働為御褒美、二千石
    二成 後又二千石御加増、二十七日之所二委出   (綿考輯録・巻五十)
        (1)歩小姓 百石 (於豊前小倉御侍帳) 
        (2)御六様衆 百五十石
        (3)二千五百石 (真源院様御代御侍免撫帳)  
        (4)御留守居衆・与頭 四千百五十石 (寛文四年六月・御侍帳)
               慶安元年十二月~延宝四年一月(隠居)城代

これは幕府上使が田中左兵衛の一番乗りを確認していなかったミスによるものである。
細川家としても報告が成されたらしいが、幕府上使の意見が通っての益田弥一右衛門の名誉が確定した。細川家は田中左兵衛の気持ちを慮って、上記のように光尚亡き後の綱利代に至るまで手厚い処遇でこれに対している。

さて益田家六代・同名弥一右衛門は藩主重賢に仕え、時の大奉行・堀平太左衛門と雄を争ったが安永年上書をあげた。堀平太左衛門の治政に対する意見書であるが「私より申上候儀一切誰にも御意不被成候様奉上候、洩候ては御為に相成不申儀と奉存候」と、いささか穏やかでない。この上書は当事者である堀平太左衛門に下附せられ、堀の回答を詳記して益田の元に返し、再度の弁明を求められた。しかしながら弥一右衛門は答えることをせず職を辞したとされる。「両雄並び立たず」である。

しかしながら、代々要職に在って明治に至るまで名誉の家名を存続した。

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佐田家文書  2

2009-09-22 08:27:10 | 歴史
51 小代家系図 佐田氏 写 【佐田文書-101】 1852年  
52 寿仙院様島原陣御證書栞 佐田義景 写 【佐田文書-108】 1808年  
53 隨筆 (佐田義景) 文化六年正月十日起筆 【佐田文書-59】 1809年  
54 先祖附并御奉公附写 森寿吉 【佐田文書-87】 1823年  
55 高瀬清源寺.願行寺文書 長瀬助十郎等 写 【佐田文書-98】        
56 竹崎季長塔福寺寄進状 写長瀬真幸写 【佐田文書-65】  1833年  
57 忠利様肥後国御入国御供面々宿割付 佐田右門写 【佐田文書-104】 1810年  
58 玉名郡受村古墳墓誌考「内田手永薬師堂書付」 写  【佐田文書-3】 1836年  
59 丹羽亀亟言上 写  【佐田文書-86】       
60 鳥目覚 庚辰九月  【佐田文書-11】 印道八右衛門/著  1820年  
61 [月番御役心得] 永田写 【佐田文書-8】 1839年  
62 鉄炮注文三通 覚  【佐田文書-95】  1801年  
63 天保十三年壬寅目録 玖瑰園  【佐田文書-43】 1842年  
64 東行日記 寛政十一年 【佐田文書-5】 1799年  
65 東都白銀邸日記 文久二年正月 【佐田文書-20】 佐田 淑景/著  1862年  
66 途旅中日記 文化丁丑秋七月  【佐田文書-16】 1817年  
67 内大臣山并矢部馬見原川ノ口之紀行 佐田 【佐田文書-67】 1800年  
68 日載 天保五年 【佐田文書-22】  1834年  
69 日々禄 天保七年正月元日 【佐田文書-27】 佐田 愛景(勝彦)/著      
70 日表 天保三年壬辰正月  【佐田文書-51】  1832年  
71 日簿 文政十三年庚寅正月 【佐田文書-41】  1830年  
72 日記 慶応二年丙寅 【佐田文書-18】  1866年  
73 日記 天保十年己亥 【佐田文書-25】  1839年  
74 日記 天保六年 【佐田文書-30】       
75 日記 弘化三年丙午 【佐田文書-31】       
76 日記 嘉永7年甲寅 【佐田文書-4】  1854年  
77 日記 弘化五年戊申 【佐田文書-42】  1848年  
78 日記 嘉永四年辛亥 玖瑰園 【佐田文書-44】  1851年  
79 日記 嘉永二年己酉 壽永閣 【佐田文書-45】  1849年  
80 日記 嘉永六年癸丑 玖瑰園 【佐田文書-46】  1853年
81 日記 嘉永三年庚戌 玖瑰園 【佐田文書-47】  1850年  
82 日記 天保七年丙申 【佐田文書-48】     1836年  
83 [日記] 天保五年甲辰 【佐田文書-49】     1834年  
84 日記 弘化四年丁未 玖瑰園 【佐田文書-50】     1847年  
85 日記 天保九年戊戌 【佐田文書-52】    1838年  
86 二天一流 写 【佐田文書-100】        
87 二天記 写 【佐田文書-99】        
88 熱海笈の引出 天明四年甲辰五月 (雑記帳メモ) 【佐田文書-56】 1784年  
89 年頭御禮申上覚 【佐田文書-32】        
90 廃刀之儀ニ付加屋霽堅当県令江上書之写 【佐田文書-79】  1876年  
91 はきのつゆ 写 催馬楽のうち 【佐田文書-110】        
92 藩翰譜之内 細川譜考異 佐田英景写 【佐田文書-60】  1800年  
93 鄙日記 文化甲戌年夏卯月 【佐田文書-39】 1814年  
94 秘府記略 五上 写 【佐田文書-96】        
95 秘府記略 五下 写 【佐田文書-97】        
96 豊前紀行 【佐田文書-53】  1817年  
97 豊前国小倉在陣中日記 元治元年十月一日 【佐田文書-29】 1864年  
98 文化十年暮江戸御人賦津田平助手元ニ而相調監物殿相達候写 【佐田文書-54】  1813年  
99 [細川氏系譜] 写 【佐田文書-24】        
100 [細川輝経公] 写 松井家旧記ノ内書抜 【佐田文書-66】     
101 堀太夫行状 写  【佐田文書-93】   1841年  
102 漫録 【佐田文書-●●】  1807年  
103 漫録 写 【佐田文書-80】        
104 水野家記 日下部景衡 写 【佐田文書-88】  1862年  
105 宮城野土産 【佐田文書-70】       
106 宮城野土産追加 佐田亥之助(淑景)写 【佐田文書-●●】  1869年  
107 夢中の妄想 写 【佐田文書-106】  1862年  
108 蒙宰司徒寮 坂田玄景写 【佐田文書-62】 斉藤 高寿/編   1820年  
109 由来書高砂一巻并書通之写 天野屋 写 【佐田文書-75】   1847年  
110 萬之控 【佐田文書-58】        
111 □禄日記 文政六年 【佐田文書-21】  1823年  
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待ち時間・・4時間 それでも

2009-09-21 19:45:46 | 徒然
 九州国立博物館で開催されている、「国宝阿修羅展」の人気が物凄く入場者でごった返しているようだ。長男は初日に出かけて拝観し大変な感激ぶりだった。私は膝をいためたのですっかり諦めていたのだが、「史談会」の例会での話しによると、現在待ち時間4時間で列が途切れないでいるという。いやはや大変な事になっているが、それでも見たいという気持ちはよく理解できる。
Pさんのブログをみていたら、松本からわざわざ上越市立総合博物館へ「御所参内・聚楽第行幸図屏風」を見に出かけられたそうだが、うらやましい限りである。こちらもさぞかし賑った事だろう。これこそ九州国立博物館へお出ましいただけないものか・・切に願うものである。しかしなんとか膝を直さないと、それどころではない。
      www.asahi.com/ashura
      www.asahi.com/culture/update/0911/TKY200909110178.html
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佐田家文書 1

2009-09-21 16:28:32 | 歴史
     9月14日ブログ「細川家家臣-佐田氏」でご紹介した佐田家には、沢山の貴重な史料が残されている。
     熊本県立図書館に収蔵されているが、日の目を見ずにある。何方か訓下にチャレンジしていただける方
     は居られないだろうか。新事実に遭遇するのではないかと期待できる史料群である。


1  浅草川小堀長順游之覚 写 原著宝暦10年 【佐田文書-92】 1856年  
2  阿蘇宮参拜記 天保八年四月  【佐田文書-28】 1837年  
3  阿曽大宮司所蔵古文書 写   【佐田文書-91】        
4  生田又助覚書 附細枝実記   【佐田文書-74】 1831年  
5  池邊寺文書 写          【佐田文書-63】 1843年  
6  石川開御買入一件抜書      【佐田文書-69】        
7  衣服御制度御書附之写      【佐田文書-7】        
8  宇佐紀行 文化十四年      【佐田文書-37】 1817年  
9  宇土御記録     【佐田文書-105】        
10 梅木田覚書 志水加兵衛 写   【佐田文書-77】 1849年  
11 頴才詩録 第1号  【佐田文書-109】        
12 横監対語 文政五年より     【佐田文書-12】 1822年  
13 大阪御供記 佐田義景 写   【佐田文書-94】 1803年  
14 御客帳 弘化四年三月      【佐田文書-6】 1847年  
15 小国満願寺傳来之書付 写   【佐田文書-64】        
16 御葬式しらべ帳 文政三年辰九月   【佐田文書-9】 印道八右衛門/著   1820年  
17 御手当名附 嘉永三年 写  【佐田文書-68】 1850年  
18 御納戸日記 堀田正俊.柳沢吉保 写 【佐田文書-85】 1796年  
19 覚 佐田          【佐田文書-14】 1828年  
20 覚 八代上納候分    【佐田文書-89】    
21 御妹様御病死…御吊儀御使者名簿   【佐田文書-34】        
22 御国律 宇佐永孚写   【佐田文書-73】 1829年  
23 御国律 佐田淑景 写  【佐田文書-76】 1864年  
24 御系譜 写 (細川斎茲まで) 【佐田文書-81】 1791年  
25 御小姓組四組御小姓頭支配名附 【佐田文書-72】        
26 家中式法覚 享和元年正月改正 写  【佐田文書-83】 1848年  
27 亀霍問答  【佐田文書-1】 1838年  
28 紀州百姓騒動一件  【佐田文書-19】 1823年  
29 九州史談会報 第3号(明治32年)   九州史談会 1899年  
30 熊本県史料 中世篇 第2 熊本市,飽託郡   熊本県
31 黒石山より所々迄出方帳 安政四年十一月  【佐田文書-13】 1857年  
32 犬咬急救録 千代村宗元  【佐田文書-61】 1777年  
33 見聞払記  【佐田文書-26】        
34 口上之覚 写  【佐田文書-78】       
35 上妻文庫 189 上妻 博之/写・編   1954年  
36 小倉大里滯陣中記 佐田彦之助 写  【佐田文書-102】 1964年  
37 [古文書写]  【佐田文書-90】        
38 御参勤陪駕途旅中日記 文化十二乙亥二月  【佐田文書-17】 1815年  
39 御使者番勤録 佐田写      【佐田文書-2】        
40 御奉行奉書控 寛永.正保等  【佐田文書-84】    
41 西国御郡代三河口太忠様御嫡深屋御止宿之節月番 文化十一年 【佐田文書-55】  
42 裁縫伝授書  【佐田文書-107】 1835年  
43 [雑記帳] 天明四年甲辰三月御先立被仰付 他 【佐田文書-35】        
44 雑記帳 羽衣.山姥 他  【佐田文書-36】        
45 雑記帳 文化九年ノ記 画師高雪峯の事等 【佐田文書-38】 1812年  
46 雑税 文化八年  【佐田文書-57】 1811年  
47 志方半兵衛有馬御陣中より洛外吉田ニ被成御座候三斉様江言上之書翰写寛永九 【佐田文書-71】        
48 [下作代入組等書付] 文化十三年改  【佐田文書-33】  1816年  
49 衆成講通帳 慶応元年十月  【佐田文書-10】 佐田新兵衛/著   1865年  
50 尚歯会之記 安永六年 安田貞方 写  【佐田文書-82】 1850年  
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藤崎八旛宮秋の例大祭

2009-09-21 11:56:07 | 熊本
 藤崎八旛宮の秋の例大祭は去る14日に奉納献茶祭、15日に献幣祭などが行われ、今日21日に最大の呼び物・神幸行列が催されています。神幸行列は藤崎八旛宮から新町のお旅所へ向う朝随兵と、お旅所から帰る夕随兵があり、みこしを先頭に、今年は69団体が飾り馬を奉納して馬を追い賑わいを見せます。参加者は16,000人を超えるそうです。
 かっては「ぼした祭り」と呼んでいましたが、これは加藤清正の文禄・慶長の役で「敵を亡ぼした」からそう呼ばれてきたというのが通説ですが、関係者はこれを認めないまま今日にいたっています。
その証拠は意外な事に熊本にも住んだ小泉八雲の次の手紙にありました。
  明治二十六年九月二十三日、小泉八雲は「『没したり、朝鮮没したり』を口々に叫びながら、興味深い馬飾りをつけた馬たちを町通りに駆けるのです」と、友人に書き送っています。核の密約問題がとやかく言われていますが、この「ぼした問題」も認めるものは認めて素直に謝ればよいと思うのですが、皆様は如何思われますか。

 この時期の朝夕の涼しさを熊本では「随兵寒合(ずいびょうがんや)」とよんでいますが、急激に秋の気配を深めていきます。
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浅野長政家臣・沼田氏

2009-09-21 09:52:53 | 歴史
 細川幽齋室・麝香の実兄・清延の四男・延元の家系が細川家家臣沼田氏である。清延は丹後中山城に在ったが文禄二年に亡くなっている。嫡子・貞弘(藤次、藤左衛門)は秀吉に仕えたが、後忠興に仕え福知山の戦いで亡くなった。二男延高(茂之助)は浅野長政に仕えている。(三男は仏門に入った。相国寺・林光院住持、沼首座)
    
 浅野長政は浅野長勝の養嗣子(長勝の姉の子)、秀吉正室ねねが長勝の養女であるから義理の兄妹であり、秀吉の信任も熱く五奉行の筆頭を務めた。
      www2.harimaya.com/sengoku/html/asano_k.html
      ja.wikipedia.org/wiki/浅野長政

 沼田延高は長政の元、高麗陣中で病死したとされる。末の弟・弥助なる人が述高の跡を継いだようだが、その足跡を知らずにいる。浅野一族は枝葉を広げている。どなたかご承知の方はご教示賜れば幸いである。
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細川家家臣・溝口氏

2009-09-20 16:07:34 | 歴史
 細川忠利の室千代姫の弟・政房は、千代姫の実家小笠原家の重臣・溝口氏(美作貞康)の養子となっている。小倉小笠原藩にあったものと思われるが、承應元年に肥後に罷り越したとされる。この時代忠利、千代姫、光尚はすでに亡く、幼き藩主六丸はまだ綱利の名乗りもしていない。とすると溝口家の肥後入りは誰の肝煎りによるものだろうか。考えられるのは、綱利の後見役であった豊前小倉藩主の小笠原忠真(実兄)ではなかったろうかと推察される。高名な家臣としては、召しだしの時期が一番新しいのではないか。二千石を領して番頭などの要職を務めた。
                           +--●
                           |
                           +--忠脩---長次(中津藩初代)
                           |
                 小笠原秀政--- +--忠真(小倉藩初代)
                     ∥     |
徳川家康---岡崎三郎信康---登久姫    +--千代姫(保寿院)
                           |    ∥
                           |  細川忠利---光尚---綱利
                           |
                           +--忠知(杵築藩初代・三河吉田藩転封)
                           |  岩槻藩・遠州掛川藩・陸奥棚倉藩・肥前唐津藩に転封
                           |
                           +--松平忠重---英親(杵築松平藩初代)
                           |
                           +--忠慶
                           |
                           +--長俊
                           |
                           +--溝口政房
                           |
                           +--昌行

 小笠原家の家紋は三階菱とか松笠菱がしられる。小笠原家家臣溝口家の家紋は松笠菱に井筒である。そして細川家家臣溝口家は丸に井筒紋である。一門としてのつながりをうかがわせている。
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高濱虚子の句碑

2009-09-19 21:57:11 | 熊本
 熊本県立図書館がある場所は、かっての細川内膳家の屋敷跡である。その裏手、江津湖畔の芭蕉林の中に虚子の句碑がある。
        縦横に水のながれや芭蕉林

熊本市島崎五丁目の「釣耕園」は、細川家家臣續弾右衛門が藩主綱利から頂戴した御茶屋である。
        時雨傘やみたれば主受取りぬ

そして八代市古麓町の、家老松井家の菩提寺・春光寺境内には
        天地の間にほろとしぐれかな
                                 とある。
調べてみるとまだまだあるような予感がする。
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細川家家臣・蒲池氏

2009-09-19 14:56:13 | 歴史
 蒲池氏といえば、よく引き合いに出されるのが歌手の「松田聖子」がある。
九州筑紫地方の名族だとされる。
    蒲池物語 www.geocities.co.jp/SilkRoad/1235
    武家家伝-蒲池氏 www2.harimaya.com/sengoku/html/kamati_k.html
    ウイキペディア  ja.wikipedia.org/wiki/蒲池氏

 細川家家臣・蒲池氏の先祖は、「蒲池志摩守嫡子勘解由長官、筑後國山下城在城、秀吉九州下向の節筑前の内にて二百町を賜はり、朝鮮出征中病死・・弟兵庫頭が相続」したとされる。(細川霊感公より)
蒲池家の名を高らしめたのは、五代目・喜左衛門である。

    ■喜左衛門・正定
蒲池崑山 名は正定、通称喜左衛門、崑山と号す。人と為り厳正、人に異る志操あり、
而して性遅鈍、少しも利発なる事なく、言語も即時に出兼る程の人なりしが、器識あり
て大事を処するの才あり、奉行職となり、後には大奉行を兼ね政務の難局に當り、即
座に決し難き事は一夜思案して翌日出仕して陳述するに、必ず奇計妙策にして同僚
同意心服せざる事なしと云ふ。時に三間梯子の称あり、尢名誉ある人なり。
食禄九百石、宝暦改正に力を致して功績大なり。
寛政五年十二月十八日易簀、年六十六。墓は内坪井流長院。
   
  (1)御番頭中着座御免之着座三百石、外ニ三百御足 外御留守居御休メ
  (2)御奉行選挙方中着座 百石、外ニ八百石 宝暦七丑二月十八日当役 村上源氏
       * 父死去時十三歳 扶持方・四人扶持 御中小姓
       * 元文二年正月   百石
       * 元文五年    御小姓役・足高五十石
       * 延享五年八月~宝暦四年八月 御次物頭列
       * 宝暦四年十一月  奉行命 足高四百石
       * 宝暦八年    中老 九百石
       * 安永六年    致仕
       * 寛政五年十一月   死去、七十一才

    *妹和瀬、御茶道萱野家四代宗斎(萱野正勝)室
   
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