津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

最近の「日本歴史」

2009-11-05 12:51:04 | 書籍・読書
 吉川弘文館発行の「日本歴史」の直近の三号に熊本に関する記事が見える。

11月号【論 文】
     近世中後期熊本藩領における「殿様祭」と地域社会 …今村 直樹  

10月号【史料散歩】
     肥後熊本藩主細川家と「細川家文書」 …岡田 謙一

 9月号【文化財レポート】
     史跡池辺寺跡の調査とその保存・活用 …網田 龍生
                                  (敬称略)
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喜連川金王丸

2009-11-05 11:27:29 | 歴史
 嘉永六年の佐田右平の日記を読むと、その冒頭部分に藩主一家の一覧が出てくる。その中に「金王丸様 十二(歳) 喜連川」の記載がある。
細川斉護の末子良之助のことである。天保十三年(1842)熊本花畑邸で生まれ、嘉永三年(1850)喜連川家の養子(8歳)となった。喜連川家は足利家の末裔、家禄5,000石の家だが家格10万石で遇された。金王丸は16歳になって喜連川家を出奔している。両家で話し合いがもたれ正式に離縁した。安政五年(1858)のことである。細川家に復縁し、護美となのり細川家の開明派の一人として藩主を支えた。京都では「肥後の牛若丸」と称えられた。
        ja.wikipedia.org/wiki/長岡護美
        ja.wikipedia.org/wiki/喜連川氏

 先のブログでジオパークのことを書いたが、護美公は日本地学協会の設立に尽力されていたことを知った。

 喜連川家の跡は、宇土細川家の七代藩主(立礼-宗家を継いで斉茲)の弟孝応の孫・孝常が養子となり十一代宜氏となった。

 我が曽祖父も一時期良之助に仕え、京都へ上がったりしている。維新後護美公からお声が掛かったらしいが、岳父・上田休兵衛の許を離れず休兵衛の死後も熊本を離れることはなかった。
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翻訳本

2009-11-04 14:13:27 | 書籍・読書

明治人の姿 (小学館101新書)


新渡戸稲造著「武士道」、岡倉天心著「茶の本」、杉本鉞子著「武士の娘」、これらは外国で高い評価を得て日本に逆輸入の形で和訳された本である。
「武士道」「茶の本」については、相当数の和訳本が出ている。

「武士道」については、国立国会図書館の「近代デジタルライブラリー」で、明治41年3月刊行の、桜井彦一郎訳のものを公開している。
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40004040&VOL_NUM=00000&KOMA=1&ITYPE=0
藤原正彦氏の『国家の品格』でとりあげられて、再度の日の目を見た感じだが、若い人たちに是非読んでもらいたいと思う。私は手ごろに三笠書房の文庫本で、奈良本辰也訳本を読んでいる。

「茶の本」については、幾つかの和訳本を読み比べられた秀逸のサイト 茶の本-和訳と評論について があり、大変興味深い。
     http://tubakiwabisuke.cool.ne.jp/tensin.tyanohon.html
又、青空文庫では村岡博訳によるものを見ることができる。
     www.aozora.gr.jp/cards/000238/card1276.html
私も二冊異なった和訳本を持っている(S41版・浅野晃訳、S47版・ソートン・F・直子訳)が、最近原文「Book of Tea」が収録された、桶谷秀昭の「茶の本―英文収録」が 講談社学術文庫から出ているようだ。英語はからきし駄目な私だが、恐いもの見たさで購入しようかと思っている。

「武士の娘」は、大岩美代の訳本を二・三年前読んだ。越後長岡藩の家老であった家に、明治六年に生まれた女性の自分史だが、「厳しい躾と教養」に裏打ちされた武士の娘の生き様が外国で評価されて、これも逆輸入されて紹介された。

 最近この本を取り上げて、櫻井よし子氏が「明治人の姿」という著作を出している。「真の自由は、行動や言語や思想の自由を遥かにこえて発展しようとする精神的な力」であり、われわれ現代人が忘れてしまった明治人の気概を「武士の娘」から見出そうとしている。自由を履き違えた現代人には、耳の痛い内容だが、一方では100%納得させられる。共に一読をお薦めする。

 永六輔の「明治からの伝言」という本を捨てられずにいる。
私の心の中に大きな位置を占める、母方の祖母の思い出と共にある。
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「肥後藩國事史料」雑感

2009-11-04 09:56:43 | 徒然
 痛い膝を引きずって、昨日は久しぶりに図書館浴・・・
「肥後藩國事史料」を閲覧の為である。(購入したいが年金生活者には高くて手が出ない)
ご存知の如く、幕末の定義は「嘉永六年のペリー来航から明治維新まで」であるが、この「肥後國事史料」はまさに、嘉永六年六月から始まっている。
佐田右平(吉左衛門)が残した膨大な日記を勉強しようと、先にデジカメで撮影に入った。ちょうど嘉永六年から勉強しようとの事で、記事の内容を確認する為にも、是非とも読んでおきたいと思ってのことである。
これだけ膨大で詳細な史料が、幕末史、近代史の研究には結構な史料だが、それ以前に遡れないのが残念である。

 「綿考輯録」にしろ「肥後藩國事史料」にしろ、第一級の史料として名高いところだが、その故を以って批判されることもある。
例えば坂本龍馬の襲撃犯についての一文「坂本を害候も薩人なるべく候事」などは、「薩摩藩陰謀説」を否定される方々からは目の敵にされている。「典拠」が明らかでないと声高である。これはそのような風聞があったという報告であろうが、この一文を引用した人の書きよう一つで、勝手に歩き出している感がある。
「國事史料」を非難されるのは、筋違いというものだ。

 さて先にもご紹介したが、ウェブサイト上で「肥後藩國事史料-人名索引」が公開されている。
      http://www.tamakina.ne.jp/kokuji/index.htm
これが大変ありがたく、大変重宝しているし皆様にも是非とも活用して頂きたいと、再度ご紹介する。活用することが、作者のご努力に対する感謝であると思うからである。

 これらに触れていると、そのすばらしさは小説などの比ではない。
わずかな時間であったが、楽しいよい「文化の日」となった。
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赤松一族

2009-11-03 09:30:55 | 歴史
 細川家家臣には赤松氏を遠祖だとする家や有力家臣が数件ある。
      ja.wikipedia.org/wiki/赤松氏
      www2.harimaya.com/sengoku/html/akamatu.html

■永良氏 ここは赤松則村の孫・則春が永良氏を名乗った事に始まるという。
       初代清兵衛は八代の孫である。
      www2.harimaya.com/sengoku/html/ak_hiroo.html

■片山氏 こちらも則村の数代孫であると先祖附その他の資料にある。

■上月氏 赤松氏一族だとされる。福嶋正則の廣嶋時代の家老職をつとめた。
      www2.harimaya.com/sengoku/html/kouzuki.html

■浦上氏 血族ではないが、赤松氏の有力家臣であったようだ。 
      ja.wikipedia.org/wiki/浦上氏
      www2.harimaya.com/sengoku/html/uragami.html
      http://homepage2.nifty.com/OTIBO_PAGE/rekishi/urakami/ura_index.htm

    他にもあると思われるが、現況探しきれないでいる。
    赤松氏と細川家の関係は細川京兆家時代まで遡っているようだ。
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コンクリート打ち放し

2009-11-02 11:16:28 | 徒然
 これは建築用語だが、いまではすっかり一般化している。建築家・安藤忠雄氏のすばらしい作品の影響が大きい。工業化された製品を組み立てることが多くなった昨今の建築では、建築素材の面白みが見られる作品が少なくなった。そういう意味では「コンクリート打ち放し」という仕上げの手法は、今日では稀有な仕上げ材ともいえる。

 2007年10月号の芸術新潮「細川家・美と戦いの700年」に、京都紫野大徳寺高桐院のお茶室が掲載されている。(p136~137) 床の間の写真が写されてあり、床の間の壁が「コンクリート打ち放し」のような風情ですごく美しい。サイトを通じてご厚誼をいただいているT氏は、大徳寺高桐院の檀家であられる。ついでの折にこのお茶室についてお調べいただくようお願いした。

 高桐院様からのお答えは次のようであった。
「狩野永真安信(狩野永徳の弟)が江戸初移築後に襖画したものを、平成の修復のさいにはがし、土壁下地の上の障子の桟状のものの上に張ってある。」とのこと、残念ながらこの場所は拝観できないらしい。

 改めて写真を眺めてみると、なるほどと合点する。狩野永真の御作も是非お目に掛かりたいものだが、「コンクリート打ち放し」のような現在の壁も素晴らしいの一語につきる。T氏からお贈りいただいた高桐院の写真集をひも解くと、さぞやと思わせる秋の紅葉や落ち葉の風情が素晴らしい。
 膝をさすりながら、なんとかこの空間に身を委ねたいものだと思っている。
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今日の熊本日々新聞から

2009-11-02 09:56:44 | 熊本
■熊本県立図書館で「貴重資料展-古文書に見る旅」が(10/31~11/25)が始まった。
 往来手形や、参勤交代のさいのお茶屋の宿帳、大型絵図など、古文書18点・絵図6点
 が展示されている。

■加等清正の菩提寺・本妙寺が所蔵する「日本一の大太刀」(長さ4.17m)が、「計量
 の日」の11/1、重量測定が行われた。初めて判った重量は38.77Kgだそうな。
 天保五年奉納のこの刀は肥後・延寿派の作だという。

■熊本城内で「肥後六花」の一つ「肥後菊」の展示が行われている。

 県庁のプロムナードでは夜間、黄色く色づいた銀杏の木にライトアップが始まった。
例年行われているが、なかなか好評。肥後五十四万石にちなんで、ここには54本が植えられているが、それぞれ巨木に成り中々のものである。銀杏の実も落ち始めると、三々五々ポリ袋を下げた人たちが実を拾いに訪れるのも又秋の風景である。熊本の街路樹も随分色づいてきた。
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同時代を生きる

2009-11-01 21:52:21 | 歴史
           享保3           延享4
 +--細川宗孝  ・----------------・32歳
 |    ∥    享保5                      安永9
 |   静證院   ・------------------------------・61歳
 |          享保5                        天明2
 +-----重賢   ・---------------------------------・66歳
 |    ∥         享保15                     寛政6
 |   有隣院        ・-----------------------------・65歳
 |             享保10                      寛政6
 +----清源院      ・-------------------------------・70歳
      ∥      享保7        延享2
 +--細川興里    ・------------・22歳
 |           享保8                        天明5
 +-----興文     ・--------------------------------・63歳

 静證院は不慮の事件で夫を亡くし、清源院は結婚数ヶ月で夫を亡くした。
藤孝・興文は共に、義姉であり養母である、静證院・清源院を大変大事にしている。
重賢と清源院は同母兄妹であり、大変仲がよく、また静證院と清源院は夫を早く亡くしたという境遇もあってこちらも大変仲がよかったようだ。重賢は二人を招き能を催したりしている。残念なのは重賢室・有隣院が若くして失明し、余り消息が窺えないことである。
 
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論争の儀性・井口庄左衛門

2009-11-01 08:44:51 | 歴史
 先に家老有吉大膳の藩主呪詛事件を書いた。永蟄居の処分を受けるという、宝暦の改革時における象徴的な事件だが、犠牲者は他にもいる。こちらは家老・長岡帯刀(松井家七代豊之)の子息・松井主水(松井家八代・営之)と、奉行・井口庄左衛門の論争が発端だとされる。

「霊感院様(重賢)御代江戸に於て長岡主水営之殿、御奉行井口庄左衛門殿と争論ありしが、主水殿御前に出られて、庄左衛門を私へ拝領させられ下さる様、申上げられければ、有無の御いらへもなく、御座を御立遊ばさるるによりて、主水殿御袖をひかへて、何とぞ先祖に對して下され候様にと、最三申上げられしかども、御振切あそばされけり」と「雲从堂秘録」にある。その日重賢は庄左衛門を御居間に招き、盃を与え返盃を受けたという。庄左衛門は退出し、「御暇乞の御心なるべし」とその夜切腹した。
庄左衛門の身を、主水に渡す訳にもいかず、さりとて主水の顔をつぶすわけにはいかぬという苦渋の裁定だという。重賢公年表によると、それは宝暦十二年五月廿日とある。

 当時松井主水は、将軍家重の御霊屋普請の総奉行を勤めており、それは四月末に完成している。重賢は熊本へ帰国の為に、五月廿二日に江戸を発している。「細川重賢御側日記」には、これらのことは書かれていない。主水と庄左衛門の争論の結末は、重賢発駕の前々日に悲しい結末を迎えた。重賢の帰国の駕籠の中での思いは如何であったろうか。
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