津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

最近多忙につき

2009-11-13 09:49:57 | 徒然
 最近は多忙を極めています。以下の如くです。(自分で勝手にやっていることですが)

   ■「北関始末實記」の読み下しとタイピング
       上妻文庫所収の原文コピーが一枚欠落していたことが判ってがっくり
       たった一枚の為に図書館に出向かなければならない。
       2回ご紹介したが通算20回程になりそう・・・・  
   ■「庄林氏由来」の筆写
      ・加藤清正の子を宿した妾を妻とした一心他、婚姻の枝葉が興味深い。
       原文のプリントが出来ない為苦労しています・・・・ 
      ・「荘林隼人覚書」というものがある。(肥後文献解題)所在不明調査中
      ・菊香町の荼毘塚も見たいし、肥後国誌の該当項を読み直さなければならない。
   ■佐田右平日記の読解
      ・雑撰録巻51「年頭御礼の次第」 要コピー(図書館)
      ・同じく年頭御礼の際の太刀目録差上げについて 要調査
      ・戦功ある家への「鏡餅拝領」について 要調査
   ■渡辺京二氏著「逝きし世の面影」594頁の読書
       熊本にお住まいの渡辺京二氏の、1999年和辻哲郎文化賞受賞の名著。
       日が変わりかける頃からベッドの中での読書だから、遅々として進まない。

    唯今こんなことを同時並行中です。
    お問い合わせを戴いているものにつき、ご返事が遅れていますがご容赦ください。
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庄林氏のこと

2009-11-12 17:09:55 | 歴史
 「謎の人・庄林隼人」を書いたら、ぴえーるさんがご自分のブログから貴重な情報をもたらしていただいた。
         http://d.hatena.ne.jp/muxia/

 菊香町の荼毘塚(自休とある)の隼人、寛永十年忠利に召出された隼人、忠興死後の正保三年扶持を放された隼人、夫々の人たちの実像が次第にはっきりしてきた。(一応「一心」を初代とする)

■初代・一心
   伊右衛門 隼人佐
   寛永八年五月十四日没 享年七十余      
   前妻・飯尾重宗女 後妻・加藤清正妾(子供を宿してのこととされる)

   ウイキペディアで紹介されている庄林一心、又禅定寺にある立派なお墓の主である。
   菊香町にある荼毘塚の自休なる人は同一人物か

■二代・一方
   養子 実・加藤与三右衛門男
   加藤清正臣中川壽林養育し中川太郎平と名乗る 
   加藤清正命にて庄林伊右衛門の壻養子となる(室・伊右衛門後妻女)
   庄林豊後守(加藤忠広が豊後守を名乗ったため改名・伯耆守)
   伯耆守(志水元五=日下部与助が伯耆を名乗った為改名) 隼人正
   淡路守 寛永十二年正月廿四日没 享年四十六
   妻・初代隼人女(実質、加藤清正の女ということになる)

   細川忠利肥後入国後の寛永十年召しだしを受けたのがこの人である。

   寛永十年三月十九日付 榊原飛騨守書状(忠利様・人々御中)
       庄林隼人・出田宮内両人御かゝへ被成候由、可然人之様ニ承及候
                             (綿考輯録・巻三十五)
           
   細川忠利公宛行状(寛永十年)六千三百石

■三代・一吉                 
   益之助 隼人正           
   寛文二年四月十三日没 享年四十一             
   妻 志水伯耆守女          

   細川光貞公宛行状(寛永十八年) 六千三百石
   正保二年知行差上げ・・肥後(八代)離国--住筑後

■四代・一信
   太郎平 主水 隼人
   延宝六年十月十六日没 享年ニ十九


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

■参考:肥後古記集覧巻二十「中原雑記」より こちらも食い違いが見られるが、1・2・3代であろうと思われる。

      庄林隼人佐入道自休------------庄林伯老--------猿之助
        山鹿郡上内田光台寺屋敷ニて御死去     後二改淡路        後隼人/細川忠利公ニ被召出
          墓有/此隼人佐清正公ニ御勤也                        御知行七年(ママ)三百石也 
  
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ぴえーるさんから教えていただいた、出典「庄林氏由来」全文をいつかご紹介したいと考えている。
先ずは筆写することから始めなければならない。 
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北関始末實記・・その2

2009-11-12 10:34:26 | 歴史
依之早速ニ前川か若黨一ノ宮弥助を使として藤田の京町之屋敷ニ差遣候/
藤田か留守居之家来ニ相尋候得共湯治ニ参候儀屋敷二ハ未申来候由
申/不分明之様子ニ付其昼過に又々尋に遣候得共不分明ニ候/然処勘右衛門代々
召仕候若黨ニ瀬戸源七と申者家司西郷入道祐道に申候ハ/此御使度々
一ノ宮ニ被仰付拙者ニ者一度も不被仰付候今度ハ大切之御使柄拙者儀ケ様之
御用ニも立間敷者と御見立之上ニ而御指除毎度一ノ宮ニ被仰付けかと存候
今度之儀ハ御家一大事之儀ニ御座候此節拙者儀御用ニ不立之御見分ニ
逢空敷罷在候得ハ拙者儀ハ有て甲斐なき奉公人にて候間、御暇奉願度

候間御執成頼存候と申/祐道申けるハ/神以其儀ニ而は無之候一ノ宮ハ万端落付
候而事を急に努さる性の者其方ハ勇気にすゝみ過此か平生荒気成ル
生乃仁也/今度御使藤田屋敷ニ而此ニ気ニ不合事も候ハゝ荒気ニ而不忍之事
もあらんか此節者やまり過てハ跡の儀仕悪に候短兵急之場所二ハ未至り不申候
夫故其方をハ先二扣置候旦那も此思召寄ニ而候と申/源七承り届/被仰候趣
拙者を男らし過たりと御見分被下候儀ハ身に餘り忝奉存候被仰候通
短兵急之場とハいまた見へ不申遠慮工夫分別知略之場ニ而御座候今度
ハ拙者ニ被仰付候ハゝ手立を以藤田ハ在宅ハ在宅ニ居被申候哉湯治に参り候哉之
様子角立ぬ様ニ承繕罷帰り可申/と乞祐道申候ハ/御自分御心得ニ而候へハ
気遣無之候先藤田か京町之屋敷にて物静に承繕帰らるへし不及申候
得共此方之様子向方へ気付て用心syへきも無心元若も少の言葉之
端にてもさとら連覚悟仕候ハゝ旦那之御為に不成事ニ候間此所能々
心を砕き思案工夫して唯藤田か在る所を聞出し帰らるゝ事

此節之忠義也/と申けれ者源七/委細得其意候とて藤田か京町之
屋敷に行家司役に對面して/助之進様ハ御入湯ニ御越被成候由者や
御立被成候や/と尋る藤田か家頼答て申けるハ/昨日迄ハ山鹿郡之内之
在宅ニ居被申候此間少シ構所も有之山鹿湯之町ニ入湯被仕候得とも
相應不仕候に付急に存立南郷へ被参候よし今少し以前に飛脚ニ而
申来り候/と云ふ源七又申候ハ/湯ノ本ハ栃ノ木二而候哉たる玉ニ而候哉/と云/
栃ノ木二被参候/由をいふ源七又申候ハ「御道筋はいつ連の筋を御通り被成候哉/
と云/大津より勢田を渡被参候筈之由先程棄却之者申候御自分ハ
何方之御衆にて候へハ助之進入湯之儀迄被入御意御尋候哉/といふ源七
心得ていふ/拙者ハ浪人者にて隙に罷在候故御一類中より御やとひにて
御湯治見舞の使ニ参り候筈に候間御尋申候/と云藤田か家頼聞て/夫ハ
遠方御苦労/之由を挨拶す源七又申候ハ/今度ハ拙者使ニ何そ
御用等も候ハゝ承り可申/と云藤田か家頼の曰く/入御意候儀ニ而何そ

用事も無之候彼地へ御越候ハゝ當地屋敷并御府中替る儀も無御座由
御噂可被成/と云/夫より源七急き帰りて此段を申候得者何連も悦ひ先ハ藤
田か在所相知れ悦重也源七如何申候而尋候哉と各尋被申候へは源七右之手
立を語り申候尤成尋様也と云各賞賛す
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北関始末實記・・その1

2009-11-11 12:50:27 | 歴史
    北野(ママ)関始末實記

一、延宝元年癸丑ノ七月廿三日於筑後北之関肥後之士前川勘右衛門と
藤田助之進同縫殿之進意趣有て及闘浄(ママ)前川勘右衛門従兄山名
十左衛門助力して藤田父子を討取/遺恨之起りを尋奴るに去年寛文
十一年肥後之太守君乃御城使藤田助之進前川勘右衛門江戸
在勤之節藤田の娘を前川勘右衛門ニ縁組いたすのよし江戸相詰の辛
川源四郎藪熊之允藤田申談右両人取持を頼両人請合之前川ニ申
談前川返答申候/縁組之儀致承知候兎も角も御両所御了見ニ任せ可申候 併
拙者儀者各御存知之通一族廣ク候得ハ拙者在江戸之留守中ニ内談承り
繕置候もはかりかたく候其分存寄等も可有之哉無程御互ニ下国之上一族
共江申談追而御返答ニ可及之由挨拶して其年の五月藤田も前川も藪
辛川も一同ニ下国し前川ハ下着之砌右於江戸之趣を一族山名十右衛門重澄
前川与三兵衛重民其外縁家長岡佐渡直之・津川次郎左衛門長房・藤崎作

右衛門直治并細川修理直(尚)房・長岡左門興知此各江申談候處右之各之内存寄有
之此縁組之儀ハ無用也と達而差止る方有之けれ者勘右衛門より辛川孫四郎・
藪熊之允江相達遠約を辞退しけるに藤田安からさるニ気色有遣連とも
辛川・藪両士色々申なた免藤田納得し先ハ無事に成り藤田方より前川江
返書を以返答ニおよぶ/其紙面
     於江戸申談候縁組之儀御一類方思召寄有之候二付而御断ニ被及
     候段藪熊之允・殻川孫四郎を以被仰候之趣致承知候
前川よりハ再答ニ不及右之通ニ而双方事奈く一通り相済ける/され共藤田此事
を深ク憤り其年の九月の比藤田は下津縫殿宅并興津才右衛門宅ニ而前川が事を
散々尓悪口し雑言誹謗したりけるを如何して洩たりけん/前川一家の衆聞付て
不及是非次第也/書通にて一通り取遣におよひ押出して討果スか夫レかいやなら
は御國を出奔するかいつ連二ツの内ニ相究メらるへきよしいちぞくの中よりせり
たつる/これによりて前川より以書状及取遣其返事次第に早速可

討果に究り書状仕出しける/即下に寛文拾弐年九月廿二日之早朝に一族
前川与三兵衛ハ勘右衛門宅ニ来りて勘右衛門か家士西郷理右衛門入道祐道ニ申けるハ/
勘右衛門今度藤田江出状遣候儀藤田か在宅山鹿郡へ遣シ被申候哉昨晩
我等承り候ハ藤田ハ唯今ニ南郷ノ栃木へ湯治ニ参り候筈之由ニ候/併此入湯ニ参
候事必定慥之説ハ無之候/具ニ承り繕イ状を差立可然由を申/

原典は「上妻文庫」所収の上妻博之氏の写本である。上妻氏は宮村典太の雑撰録を筆写されたらしい。それは昭和十六年
五月十一日から十七日までの、わずか六日間で毛筆の素晴らしい達筆で筆写されている。そしてそれは本物かと見まごうば
かりの見事な御家流の文字である。72頁に及ぶ膨大な量だが、今回ご紹介する分はわずが3頁分である。20数回に及ぶと思
われるが、途中で息切れしそうな感じがしている。
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シンポジュウム・二件

2009-11-10 13:47:06 | 熊本
        横井小楠生誕200年記念国際シンポジュウム

   日時 2009年11月21日(土)午後1時~
   場所 崇城大学市民ホール(熊本市民会館ホール)
 ◆ オープニング 横井和子さんの挨拶
 ◆ 朗読劇  横井小楠の思想をやさしく解説
 ◆ 基調講演 猪飼隆明(大阪大学名誉教授)
    「小楠は世界をどのように見たか」
 ◆ シンポジュウム
   コーディネータ 石津達也(「大義を四海に」の著者)
   パネリスト  パオロ・ブッディーヌ(イタリア 小楠の「国是三論」の伊語訳出版)
           管 寧 (中国 小楠の「国是三論」の中国語翻訳出版)
          米満弘之(熊本機能病院理事長)
          吉丸良治(熊本ルネッサンス県民運動本部会長)
          星子邦子(消費生活コンサルタント)
   参加料  一般:1000円 学生:無料

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

       ジェーンズ没後百年記念シンポジュウム
       ジェーンズの業績とその弟子たち

 熊本洋学校教師L.Lジェーンズは1909年に死去しました。没後百年祭の二回目の
シンポジュウムです。今回はジェーンズが残した農業・工業分野への貢 献と其れを担
った教え子達に焦点を当てます。

   日時 2009年12月12日(土)午後1時~5時
   場所 熊本市総合体育館 青年会館ホール
 ◆ 「近代日本農業の開拓者」・ ・ ・ 横井時敬(東京農大初代学長)
                 友田清彦 東京農大 教授
 ◆ 発言-1「近代日本高等技術教育の先駆者 中原淳蔵について」
                 岩井善太 熊本県立技術短期大校長
 ◆ 発言-2「建築家 船越欽哉について」
                 磯田桂史 崇城大学 准教授
 ◆ 発言-3「ジェーンズが残した人材たち」
                 中村青史 熊本八雲会会長
 ◆ 「パネルディスカッション」
   コーディネーター 猪飼隆明 大阪大学名誉教授
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謎の人・庄林隼人

2009-11-10 13:07:18 | 歴史
 加藤清正三傑の一人として有名な庄林隼人を調べると、なんとも不可解な史料に出会って驚かされる。
ウィキペディアでは「庄林一心」として紹介されており、没年は禅定寺に有るお墓に刻まれた寛永八年としている。
         ja.wikipedia.org/wiki/庄林隼人
お墓についても「戦国浪漫」というサイトに見事な写真が公開されている。
         www.m-network.com/sengoku/haka/shobayashi450h.html
又、山鹿市菊香町には荼毘塚があるという。

 寛永八年死去が間違いないとすると、寛永十年に召出され、忠興の死去後八代の地から筑後へ出国したとされる隼人とは誰なのか。だとすると、上記隼人とは別人と考えるのが妥当だと思うのだが、なんともはっきりしない。庄林家は火災に合い大切な文書類を無くしたという。三代ほど浪人しており、先祖附の記述など確かなものなのか・・・謎は深い。

 ■寛永十年三月十九日付 榊原飛騨守書状(忠利様・人々御中)
       庄林隼人・出田宮内両人御かゝへ被成候由、可然人之様ニ承及候
                            (綿考輯録・巻三十五)

 さて「松江城秘録」によると、三齋の死の直前隼人佐は同じく加藤清正臣であった新美八左衛門と共に扶持を放されている。

    庄林隼人・新美八左衛門御暇被遣候通皆共かたへ被仰下候 
    閏五月廿三日之御書六月三日ニ此地参着致頂戴翌日四日ニ
    則申渡候 庄林儀ハ志水新丞所へ召寄西郡要人・奥田権左
    衛門私共より之使二仕被仰下候通右両人を以申渡候
    八左衛門儀ハ(澤村)大学所へ召寄是も要人・権左衛門私
    共使二仕申渡候 屋敷をあけ申候儀ハ翌日あけ申庄林ハ新
    丞所迄のき申候 八左衛門儀ハ本妙寺之寺内ニ旦那寺御座
    候ニ付而是迄のき申候 四五日■迄仕両人共二爰元罷出川
    尻より舟ニ而のき申候 庄林儀ハ筑後立花領内へ参申由ニ
    御座候 矢島石見せかれ主水庄林淡路時より懇二申通ニ付
    頼参居申候由申候 新美儀ハ女子ハ長崎へ遣シ其身ハ江戸
    へ罷越子共なと御存之方へ預ケ置大坂京二可罷在と申由ニ
    御座候 此両人儀被仰下候御書之御請何も一所二可申上候
    へ共帯刀かたより之書状差上候ニ付而俄ニ私かたより御飛
    脚差上候間先私一人にて右ノ様躰申上候
         (対象外の文言略)
      (正保二年)六月十九日     松井佐渡
              林 外記殿


        
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北関事件--相関図

2009-11-10 11:51:51 | 歴史
   北関事件で藤田助之進の相手方となった、前川勘右衛門の一族と言われる人たち。
   太文字の人たちが結婚に反対した人だとされる。これでは余儀なく決闘の場に引き出された
   助之進に勝ち目はない。


 +--幽齋--忠興--+--忠利---+--光尚---綱利
 |           |       |
 |           |       +--尚房
 |           +--古保       ∥---尚方(無嗣断絶)
 |           |       +---万
 |           |       |
 |           +--興孝-------興知・・・・・・・・・・・・・・・・→刑部家
 |           |       |   ∥
 |   古保     +--寄之   +--津也
 |    ∥         ↓   |
 |   松井興長--+==寄之   |
 |           |   ∥----+--直之・・・・・・・・・・・・・・・・→松井家
 |           +==古宇   |
 |                   +---國
 |                       ∥
 +---三渕重政---+--之直--山名十左衛門・・・・・・・・・・・・・→三渕家
             |
             +--重則--前川勘右衛門重之 (流浪先で自刃・22歳)
             |
             +--重方--与三兵衛 (知行召上)
             |
             +--古宇(松井興長養女)

   他に津川辰房・藤崎直治の名前も見える。
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北関事件

2009-11-09 13:16:42 | 歴史
  「寛文元年以来御追放御暇知行被召上候面々之覚」というものの中に次の三名の名前が見える。

● 前川勘右衛門  三百石 延宝元年七月二十日 御暇

○ 藤田助之進 有吉頼母允組 五百石 (寛文四年六月・御侍帳)
             五百石 延宝元年七月十九日 御暇被遣候 

○ 沢 与次兵衛   三百石 延宝元年八月二十一日 御暇

 「延宝元年癸丑七月廿三日、於筑後北の関、肥後の士前川勘右衛門と藤田助之進同嫡子縫殿之進意趣有て及闘争、前川勘右衛門従兄十左衛門助力して藤田父子を討取」ったという、北の関事件に関する処分である。
同事件については、北関始末記、北関物語、北関聞書、北関秘録など詳しい報告書が残されていて、その詳細を知ることができる。

 藤田助之進の娘と三渕家一族の前川勘右衛門の結婚話が、三渕家一族の反対で頓挫したことに対し、藤田側がいろいろ申し立てた事に三渕家側が気色をなし、事件が起っていく。
先ずは前川勘右衛門が御暇を願い出、相手方藤田家も御暇となる。私闘の形をとりたいとする山名(三渕)十左衛門の策略だとされる。ところが上の「覚」を見ると、藤田家が十九日、前川家が二十日となっており、藩庁の作為が伺える。沢与次兵衛は藤田の娘婿だが、当日家来を派遣したということで処分を受けるのだが、上記「覚」では事件前の処分となっている。

 他国領で鉄炮を打ち放しての大騒動にしては、なんとなく穏便に事が終息しているのは、山名十右衛門を取り巻く長岡佐渡、津川次郎左衛門、藤崎作右衛門、細川修理、長岡興知など早々たる縁戚の顔ぶれをみると、納得させられる。

 島田真祐氏(島田美術館館長)が上梓された作品「身は修羅の野に」に、この事件が引用されている。平成九年熊日文学賞を受賞された。
私はといえば「北関始末實記」全文をご紹介しようと、現在タイピングの真っ最中である。


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青龍寺以来

2009-11-09 09:59:00 | 歴史
 細川家の根本家臣に「青龍寺以来」という家々がある。サイトでご紹介しているが、お問い合わせを戴いたので、若干の解説を入れて、ここに再掲する。(丹後以来については別途ご紹介する)

  ■沼田勘解由  嫡流  五千石  
           細川幽齋室・麝香の実家である。
      十之進   四代延将弟延春流  五百石
      治部之允    同上  延晃流  五百石

  ■志水才七郎    三拾人扶持
         天正元年八月、藤孝桂川西地一職仰せ付けにより
         志水雅楽之助に領地安堵の証書を出す。
          
      次郎右衛門  千三百石
      平大夫       三百石
      源太        三百石
      式右衛門    拾人扶持
  ■牧 佐学      千石
      新五左衛門   三百石
      猪之介      三百石
      市左衛門     四百石
  ■山本丹左衛門  千五百石
  ■石寺加兵衛     五百石
  ■一宮源四郎     二百石
      吉右衛門    百五十石
      膳大夫      二百石
      彦左衛門    五人扶持
  ■米田左兵衛 与左衛門子左兵衛流  五百石
         元亀二年、米田求政の後妻(北畠教正女)は勝龍寺
         城で男子出生。初名藤十郎、後与左衛門貞正。
         忠利代家老、後知行召上。
      傳兵衛 与左衛門子甚左衛門流  二百石
           家老米田家二代是政弟是門(藤十郎・与左衛門貞正)流
  ■河喜多専右衛門  百五十石
      五郎大夫    六百石
      作左衛門    二百石
      権兵衛      二百石
      角左衛門    二百石
           ガラシャ夫人に殉死した河喜多少斎の子孫五家
  ■的場又左衛門    二百石
      勘七    二百石
  ■魚住左一右衛門   三百石
  ■中村三右衛門   二百石
      兵助    二百石
           細川忠興の乳母(中村新助妻)の家筋
  ■生源寺市兵衛  二百石
  ■神足勘右衛門 神足角左衛門流  百五十石
           天正元年信長の坂本攻めに当たり、神足掃部が地下
           人と共に勝龍寺城に入城
      又兵衛 神足又兵衛流  二百石
      浅右衛門 神足八郎右衛門流  八人扶持
  ■磯田吉左衛門  二百石
  ■友岡軍治  二百石
  ■八木田政之助  二百石
      三蔵  二百石
      団七  二百石
  ■杉 十郎右衛門  五人扶持
      形右衛門  百石
  ■沢村三右衛門  二百五十石
      甚兵衛  二百石
      平治  百五十石
  ■樹下団之丞  三百石
  ■神戸弥太蔵  二百石
  ■可児文右衛門  二百石
      才右衛門  百五十石
  ■内藤宗的  百石 (御医師)
  ■岡本権之允  八人扶持
      源介  八人扶持二十石
  ■宮部市左衛門  百五十石
      角兵衛  二百石
      久右衛門  百五十石
  ■西川郷右衛門  五人扶持二十石
  ■坂根少九郎  七拾石
  ■粟津嘉治郎  百石
      権兵衛  五人扶持二十石

     以上五十九人
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豊後街道を行く

2009-11-08 15:27:10 | 書籍・読書

豊後街道を行く


著者:松尾 卓次
定価:1700円+税
発行:弦書房


【内容】 (弦書房サイトから引用)
熊本城から大分・鶴崎まで、阿蘇・九重の雄大な風景を望みながら九州を横断する全長31里(=124キロ)の往還。加藤清正によって開かれ肥後藩主の参勤交代路としても栄え、幕末には吉田松陰、勝海舟、坂本竜馬らも長崎へ向かう道として駆け抜けた。「街道の達人」の著者が全ルートを踏破、杉並木、里程木、石畳や石橋、山頭火ゆかりの温泉など味わいのある歴史の道をわかりやすく案内。写真100点と地図付き。
現在熊本県立図書館では、貴重史料展「古文書に見る旅~江戸から明治にかけて~」が催されている。そこには、豊前街道・豊後街道・薩摩街道・日向街道のルートが、大きな地図に朱書きで示されている。(昭和54年・60年/熊本県文化財調査報告による)これらを眺めていると、歩いてというわけにはいかないが、このような本を携えてゆっくり訪ねてみたいと、そんな気にさせられる。
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れきじい

2009-11-08 09:33:13 | 徒然
 最近は歴史に興味を持つ「れきじょ=歴女」なる人種が居られるらしい。大変結構なことだがなんだかブームで終わりそうな感じもする。
過日悪友と話をしていたら、会話の中に「れきじい・れきじい」ときこえる。何のことだと思っていたら、「れきじい=歴爺」のことらしい。すっかり判っている顔をして話に乗った。いろいろやっているけど、行きつく所「歴史好きの爺さまだもんな」というのが話の結論になった。今後はおおっぴらに「歴爺」で行こうと思っている。

 人様の先祖附を読んで歓んだり、初めて読む文書に感激したり、偏見に満ちた先生の論文に少し血圧をあげたり、郷土史家とか歴史研究家とかのたまう方の文章に間違いを発見して手紙を書こうかと思い悩んだり・・・歴爺とは他愛ないものだ。
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鏡餅

2009-11-07 12:44:11 | 歴史
 今日はいささか眠い。昨晩は綿考輯録の「藤孝公」と「忠興公-1」を、10時ころから数時間掛けて拾い読みをした。はっきりした記憶がないのだが、出陣の折家臣の奥方が餅を届けたことを喜んで、今後の出陣の際の嘉例にしようと言ったと云う話があった。このことを見つけようとしてのことだが、とうとう見つからずに終わってしまった。(こうなると私の記憶違いかと不安になってくる)

 あと一ト月もすれば、お正月のお餅の心配をしなければ成らない。どのくらい必要か、鏡餅はどうするかといったことである。祖母が健在の時は、鏡餅の飾りつけは祖母の仕事で、差渡しが1尺もあるような鏡餅が床の間を飾った。祖母が亡くなると私の仕事になったが、次第に小さくなってしまった。子供達も独立してしまうと、鏡開きのお汁粉を戴くことも無くなってしまった。

 細川家では文政のころから、武功のあった家に鏡餅を与える「鏡餅拝領」という儀式が行われた。家記には齊樹公の項に「(文政二年)癸未正月十一日先祖武功ノ者ノ者ノ子孫ヲ広間ニ呼出シ、具足鏡餅ヲ領チ与ウ、コレヨリ年々定例トナリ、一部ヲ是日、一部ヲ十三日ニ別ツ」とある。芦屋にお住まいのT家は田邊城籠城衆のお宅だが、こちらに残る史料では齊茲公の名前があるという。発案者は齊茲公、実施に移されたのが齊樹公か・・?。

 武士の家において鏡開きは「具足開き」といっていたらしく、具足飾りに添えられた鏡餅を開くというものらしい。そういう意味で、武功の家にとっては名誉ある儀式として「鏡餅拝領」が行われたのであろう。嘉永六年の佐田右平日記では一月十一日の項に「武功之子孫御鏡餅頂戴例之通各出仕候事」とある。同じく十三日にも行われている。

 出陣に際して御前に餅を届けた女性がどなただったか、気になって仕方がないでいる。
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「今日の発見」のその後

2009-11-07 09:09:21 | 歴史
11/5のブログ「今日の発見」で書いた、小畠氏・山田氏・曽我氏についての報告。
夫々の先祖附により以下のように判明した。

■小畠氏
   家祖には小畠越前守とあり、その息は船井少将とある。小畠越前守とは丹波の
   宍人城 (ししうど城 船井郡園部町宍人 )を築城したとされる人であると思われる。


  小畠越前守成忠は丹波國船井郡の城主、嫡子は船井少将は「足利義昭公之御供仕
  備後国江罷越彼地病死」、四代孫了達は松平阿波守に仕え隠居、舞を通じて真源院
  (光尚)の知遇を得、初代傳九郎が召出された。

■山田氏(少九郎家)
   山田家家祖は浦野四郎重遠とあり、次代に太郎重直とある。
   姓氏類別大観【清和源氏満政流】によると、太郎重直以降山田氏を名乗ったことが判る。


  「鎮守府将軍源満政六世孫浦野四郎重遠始而尾張國浦野ニ居住氏子孫を尾張源氏と
  申候 重遠子山田太郎重直山田氏元祖ニ而御座候」 初代嘉左衛門が三齋より豊前に
  召寄せられ、知行三百五十石・鉄炮五十挺の添頭を勤めた。
 
■曽我氏                      
   忠興・忠利代細川家と大変仲がよかった、曽我古祐(大阪奉行)の一族だと思われる。
   家紋も「丸に竪二つ引両紋」で一緒である。 
 

  初代の曽祖父は越前・大野宰相(織田信長二男信雄の長男・秀雄)に仕えた。
  秀雄亡き後は常信(織田信雄)の許に在ったが、信雄逝去後剃髪して宗茂と名乗り、
  曽我丹波守(古祐)から「少扶持を申請」、京都で病死した。
        ja.wikipedia.org/wiki/織田信雄
        ja.wikipedia.org/wiki/織田秀雄  
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細川家家臣・中津海氏

2009-11-06 11:58:08 | 歴史
 細川家家臣に中津海(ナカツミ)氏がある。出自は氏を出身地からと考えるならば、若狭の「中津海」ではなかろうか。(社)若狭湾観光連盟のサイト「中津海」によると、 「中津海の名は中津綿津見神 (なかつわたつみかみ) に由来するとも考えられる。」とある。海神(海人)の末であろう。  
       http://www.wakasaji.org/chimei/01_nakatsumi.html

 家祖三右衛門は「若州逸見駿河守に仕へ、逸見家断絶後、忠興君丹後にて被召出候」とあるから、私の推測もあながち間違っていないのではないか。

■嫡男藤三郎(後ニ三右衛門)は「岐阜にて働有・・・若年より玄蕃殿へ奉公、忠興君より親三右
  衛門へ呼戻候様ニ被仰付候故、玄蕃殿手前立退罷越候処、直ニ御知行三百五十石被下候、
  後三右衛門と改」とある。
■二男五郎右衛門も「勇力人に勝れ、誉れ有るもの也、今度(田辺籠城)も多くの敵中を凌ぎ、御
  密書持参候に付ても、他にこゆる事有之由、五郎右衛門子孫無之、其後不詳」とあり、こちらは
  絶家したのだろうか。                     
                              (綿考輯録・巻五)(同 巻十四)

 興味深いのは忠興が弟・興元の下にあった嫡男・藤三郎を、呼び戻すように父・三右衛門に働きかけていることである。その時期ははっきりしないが、改めて召し出している。忠興と興元は仲が善くなかったとされているが、いささか強引な話しではある。
藤三郎の子孫が代々三百五十石を拝領し、明治に至っている。
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今日の発見

2009-11-05 16:43:46 | 歴史
 侍帳を詳細にチェックしている。今日の成果は小畠氏・山田氏・曽我氏の三家である。

■小畠氏 
   家祖には小畠越前守とあり、その息は船井少将とある。小畠越前守とは丹波の
   宍人城 (ししうど城 船井郡園部町宍人 )を築城したとされる人であると思われる。

■山田氏 
   山田家家祖は浦野四郎重遠とあり、次代に太郎重直とある。
   姓氏類別大観【清和源氏満政流】によると、太郎重直以降山田氏を名乗ったことが判る。
 
■曽我氏                       
   忠興・忠利代細川家と大変仲がよかった、曽我古祐(大阪奉行)の一族だと思われる。
   家紋も「丸に竪二つ引両紋」で一緒である。 


  先祖附を取り寄せて詳細に検討し、後日ご報告する。
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