津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家家臣・熊谷氏 (早之允家)

2010-02-05 15:46:51 | 歴史
「細川家家臣略歴」によると、熊谷姓が三家ある。家紋(中陰地紙紋)あたりからしてルーツが同じであるようには見受けられない。今回は「熊谷早之允」家を取り上げる。
「細川家家臣略歴」では気がつかないのだが、「肥陽諸士鑑」をみるとこの家の遠祖を、熊谷内蔵允直盛としている。

 慶長五年豊後石垣原の戦いにおいて、安岐(アキ)城は城代熊谷外記が守っていたが、黒田如水の攻撃を受けて落城、外記も戦死した。この安岐の城主が熊谷直盛ある。細川家家臣・熊谷氏はこの熊谷直盛の孫・三郎右衛門直久を家祖としている。

 ウィキペディアによると、次のようにある。          
【熊谷直盛:豊臣秀吉家臣。文禄・慶長の役で軍監に任ぜられて活躍する。妻は石田三成の妹。
 後に豊後国安岐城主15,000石。関ヶ原の役で西軍敗戦後、大垣城内で相良長毎らに殺害された。】

 石田三成は妹婿の領地を、徳川家康が勝手に細川家に与えたことを大変いかったとされる。
そんな熊谷氏が細川家家臣となったという事も、歴史の不思議さを覚える。

      豊後安岐城  www.ne.jp/asahi/kokura/mcqueen/new_page_211.htm
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブラタモリから

2010-02-05 09:04:00 | 徒然
 「私の好きなTV番組」に付け加えてもいいなーと思っているのが、NHKのブラタモリ
森田氏の視点がなかなか面白い。近代的たたずまいの中に、江戸の面影を探そうという試みは、私の趣味にあって好感度が高い。
         www.nhk.or.jp/buratamori

 今回は大久保・百人町、百人鉄炮隊や、大久保のつつじの由来を聞いてなるほどと合点した。
         www.edo-hinawa.com

 熊本に於いても細川藩葦北地筒の名残、芦北町の「葦北鉄炮隊」が結成され活発な活動をしている。昨年9月12日から13日にかけて、熊本県芦北町で「葦北鉄砲隊創隊5周年記念事業・全国火縄銃サミット」が開催され、新宿百人町の「江戸幕府鉄炮組百人隊保存会」など25団体が参加するイベントが催された。逆に新宿のビルの谷間での演武に、葦北鉄砲隊が参加したりしている。
         www.yoroi.co.jp/topics/2009/ashikita.html

 2009-10-15 のブログで「菊陽町・鉄砲小路」を書いたが、ここは現在鉄砲隊そのものは残されていないが、地筒鉄砲衆が住まいした集落がそのまま「鉄砲小路」の名のもとに残されている。
素晴らしい景観の中に大久保のつつじと同様、美しいつつじの生垣等も伺える。
         fureainosato.net/teppookoji.html

 江戸と熊本の共通項を感じながら、たのしく「ブラタモリ」を拝聴した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

どうしても判らないこと

2010-02-04 18:28:56 | 徒然
ある文書を読んでいる。M家当主の若い弟が某家の郎党に不届きなる振舞を受け、相手方の主家に談判の末身柄を貰い受けてこれを討ち果す。さてその始末である。
        「死骸ハ帯刀の者の事故七傳筵をかぶせ置(云々)」とある。

 さあ困った「七傳筵」がよく判らない。「七」という文字がどうも「死」を連想させる。それというのは、我が家の先祖附にも不思議な単語が登場しているのだ。四代目殿が亡くなった時、「病気ニ而寸七枚仕候事」とある。

 「七傳」については、いろいろぐぐっていたら「難経」というサイトに出会った。引用させていただくと
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
     第五十三難

   ◆五十三難曰.
   經言.
   七傳者死.間藏者生.何謂也.
   然.
   七傳者.傳其所勝也.間藏者.傳其子也.
   何以言之.
   假令心病傳肺.肺傳肝.肝傳脾.脾傳腎.腎傳心.一藏不再傷.故言七傳者死也.
   間藏者.傳其所生也.
   假令心病傳脾.脾傳肺.肺傳腎.腎傳肝.肝傳心.是母子相傳.竟而復始.如環之無端.故言生也.
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
どうやら漢方に関する医学書のようだが、「七傳者死(七傳は死)」とある。なんとなく理解できるが詳細が判らない。「七傳」と「筵」は別物だろう。お判りに成る方が居られれば、ご教示いただきたい。

「寸七枚」に至っては100%判らない。ご先祖様はとんだ置き土産を残した。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

赤穂義士切腹

2010-02-04 09:24:42 | 歴史
 旧暦ではあるが今日は、赤穂義士がそれぞれの預け先で切腹して果てた日である。
新暦にすると三月廿日だというから、春風爽やかな日であったのだろう。
残されている絵図からはそんな雰囲気がうかがえる。もっとも昨年熊本県立美術館での、永青文庫の展示会の折りこの絵を拝見、間取図と絵図の不整合をお聞きした。(建築を生業にしている小生にとっては、大変気になって仕方がない事だった)わざわざその場で、東京の永青文庫に電話で問い合わせていただいたのだが、この絵は相当時代が下ってからの、「雰囲気を捉えた想像図」であるとのご返事だった。明快なご返事にいたく恐縮したことを思い出す。
改めて間取図を睨みつけていると、切腹の場へ歩みを進める人たちの様子が目に浮かんでくる。
肥後文献叢書にある「御預人記録」などを読むと、残された家族の其の後の辛い仕置きなどが伺われて胸が痛くなる。内蔵助の辞世の句には、主君の下へ旅立つ喜びさえ見て取れるが、残された家族への思いは如何許りであったろうか。
 
     あら楽し 思ひは晴るる身は捨つる 浮世の月にかかる雲なし

 今日の泉岳寺は、終日お線香の煙がたゆたい多くの人で賑うのだろう。  合掌
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幽齋公の肘松

2010-02-04 08:29:16 | 歴史
 中仙道洗場宿に幽齋に係わる「肘松」なる木があったという。現在の松は何代目の孫なのか、
紹介されているサイトを見ると次のようにあった。

【洗馬の肘松日出塩の青木 お江戸屏風の絵にござる」と歌われた赤松の名木。
 幽斎が「肘懸けて しばし憩える松影に たもと涼しく通う河風」と下を流れる奈良井川を合わせて
 詠んだと伝えられる。また将軍秀忠が肘を懸けて休んだとの説もある。
 今は何代目の松だろう、只の小さな1本の松】
                                「平成中山道六十七次膝比べ」から引用
  
又、長崎大学の「幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に貴重な写真があった。
       http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/jp/target.php?id=1585

さてこの歌が何時の頃歌われたのか、突き止めるのは至難の業である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

細川家家臣・一村氏

2010-02-03 20:38:33 | 歴史
 一村家の登場は、家祖・一村弥三兵衛が浪人ながら嶋原一揆に参加した事による。
弟・益田太兵衛は鉄炮にあたり戦死した。(益田家参照)

 綿考輯録(巻五十)は、一村家召し出しの経緯を次のように記している。

    有馬にて手首尾能働候、熊本ニて浪人御振廻之節弥三兵衛ハ洩候処、即晩為御内意
    今日ハ思召有之候而之事也 御国を出候体ニ仕御国内ニ居候へと御懇之御意有之、諸
    浪人不残罷立候跡にて有馬之功を以弐百石拝領 

 この一村家は後に650石となり、御鉄炮五十挺頭を勤めた。
もともとの家禄200石に開結(ひらきむすび)420石が加算されたためである。
「開結」とは、「御赦免開で開発した開地を藩に差上げて知行高に繰り込むこと」をいう。
宝永六年のこととされるが、420石は元禄九年の寺本兵右衛門の552石につぐものである。

 単純に1石を収穫する為の農地面積を1反とするなら、420反(126,000坪)を開墾したという事になる。
自らの金を使い、沢山の農民を使ってのことであるから、大変な分限者であったのだろう。
藩への貢献も特筆されるものである。本知とも650石の家禄をもって明治にいたった。


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

建築基準法改正へ

2010-02-03 18:51:17 | 建築
 2007-12-28付ブログで「改悪・建築基準法の行方」を書いた。姉葉事件などの不祥事があってのことだったが、確認申請業務にからむ改悪改正は建築物の着工の停滞を生み、日本国中に経済的打撃を与えた。「改悪」と私は書いたが、当時の福田総理の言葉からも政府筋の思いも同様であったようだ。遠くない時期に、再びの改正があるに違いないと考えていた。

 国土交通省が1月22日付け「建築確認手続き等の運用改善の方針について」なる報道発表史料を公開、三月末を目途に公布し、六月には施行する予定だという。
          www.mlit.go.jp/report/press/house05_hh_000142.html

 改善案の概要を見ても、先の現基準法の改正が、まったくお粗末なものであったことを露呈している。
確認申請業務に当たる人たちとて、迷惑千番の話だ。これも政権交代のお陰だろうか。なにはともあれ結構な事だが、ここ数年間の不愉快な思いは払拭できない。国交省のお役人も、確認申請業務の窓口で実習することをお薦めする。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

侍帳へ

2010-02-03 12:54:00 | 歴史
 当方サイトの「侍帳」を御覧戴いて、自分達が知りえなかった情報が得られたと、ご連絡いただ
いたりすると製作者としてはこれに過ぎる嬉しさはない。出典の確かな個人の情報は大変ありが
たく、史料を読んだらすぐさま「侍帳」へ転記する作業をして入る。
「恕斎日録」にある次の情報などは真にありがたい。

嘉永二年六月朔日、時習館の句読生が講堂へ転昇したが、そのうち中村庄右衛門が担当する
人たちの名前が列挙されている。

 今日句読生講堂転昇之内、小子受持今夕宅相招諭方之事
    去年留学当年転昇    夫右衛門嫡子 宇土小路
                      緒方大太郎  十七才
    右同(当年転昇)     武一郎実子 
                      宇野猛熊    十六才
                    又右衛門嫡子 柳川丁
                      後藤司賀彦  十八才
                   五郎右衛門嫡子 内坪井
                      兼坂順次郎  十八才
                            
                      同 熊四郎  十六才
                   角次三男
                      江口角助   十七才
                   弥三右衛門弟 古京町
                      友岡熊四郎  十七才
                   俊助嫡子
                      岩佐敬太郎  十六才
                   仁右衛門二男 赤尾口
                      山内次男   十六才
                   久右衛門弟
                      松岡四郎彦  十六才
                   諸役人段・永廣一兵衛二男 観音丁
                      永廣宇次郎  十九才
      以上拾壱人
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 この情報を「侍帳」に転記するのだが、関係者にとっては初めての情報が見受けられるものと
 大いに期待している。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

句法・語彙

2010-02-02 17:49:30 | 徒然

 以下に掲げる語彙は、古文書解読をする上では絶対修得しておくべきものであろう。
これはなんと「センター試験」受験対象者に対して、「修得することが望ましい語彙には次のようなものがある」として公開されている、あるサイトから引用したものである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
■読み・意味とも多岐にわたる重要語30
見・為・之・与・夫・如・若・将・且・宜・而・爾・斯・者・焉・悪・以・惟・自・即・故・謂・已・事・少・卒・直・徒・毎・尤
 
■重要語135 名詞・和漢異義語
鬼・故人・大丈夫・百姓

■名詞・人称(一)
己・寡人・孤・朕・不肖・予(余)

■名詞・人称(二)
子・小子・足下・女・二三子・陛下

■名詞・呼称
字・諱・諡・号

■名詞・人物                  荘子
夷狄・燕雀・客・兄弟・鴻鵠・胡虜・孺子・聖人・壮子・弟子・朋・夫子

■名詞・君臣役職
君・君子・卿・左右・士・上・丞相・小人・臣・大夫・天子・天帝

■名詞
朝・苛政・逆旅・乾坤・孝・光陰・恒産・恒心・社稷・城・人間・為人・邑

■動詞
遊・中・過・更・諌・詣・曰・云・居・膾炙・叩頭・対・弑・前・賜・足・誅・封・征・説

■形容詞形容動詞
殆・衆・難・罔・鮮(寡)・易・工・碧

■副詞
勝・敢(肯)・新・或・聊・壱・転・各・徐・曾(嘗)(常)・還・莞爾・畢(尽)・屡(数)・頃(姑)(暫)・須臾・頗・既・渾・径・乍(忽)・会・具・倶・遽・果・甚・窃・方・固(素)・差(稍)(良)・漸・纔(才)

■助字
相・所謂・今・於・如此(如是)(如斯)(若此)(若是)(若斯)・蓋・維・諸・其・抑・所・用・已矣(已矣乎)(已矣夫)(已矣哉)・所以・従・因
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 さてこのサイトとは  http://www.nara-wu.ac.jp/fuchuko/curriculum/study/Japanese/kanbun.html
 【漢文のワード】 等を読むと大変勉強になる。時折こんなサイトに紛れ込んでみるのも良いものである。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

絶景かな・・

2010-02-02 13:00:28 | 熊本
 NHKのお昼のニュースで映し出された、今日の熊本城の姿に思わず歓声を上げてしまった。
今朝の熊本は深い霧に覆われた。その霧が熊本城の石垣から下を全て覆い隠し、天守や櫓が乳白色の霧のうえに見事に浮かんでいる。今迄にお目にかかったことのない素晴らしい景色であった。
多分明日の新聞紙面で紹介もされるだろうが、新聞社にお願いして写真を取り寄せたいと思っている。50年に一度、いや100年に一度の景色だろう。出来うれば我サイトのスクリーンセーバーとして使いたいほどだ。皆様にも是非ともご紹介したいと思うのだが・・
絶景かな、絶景かなであった。                          感激・・
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

親心

2010-02-02 11:19:15 | 歴史
 齊護公の遺事である「陽春集」に、多くの歌が記されている。
その中に公の我が子を思う二篇の歌を見つけた。

      七夜
 生ひそむる二葉の小松いく千代の
              さかえをかけて契るゆくすゑ


      元服
 こむらさき千代のゆかりの行末を
              はつもとゆひに結びおかまし

                  初元結

 陽春集に於いては、掲載順は逆になっている。当然のことながら、歌が何方に対してのものかは
明らかではない。六男五女をなされたが一男三女が夭折し、嫡男・慶前公も23歳で亡くなられた。
齊護公の跡13代当主となったのが二男・韶邦(護順・慶順)、14代が三男護久、四男承烈(承昭)は
津軽家の養子となり、五男が一時喜連川家の養子となって出奔した護美(良之助)である。
勇姫様は越前松平慶永(春嶽)公夫人、末子喜久姫は米沢上杉家十四代茂憲(龍千代)に嫁いだ
が十九歳で亡くなっている。
 ふたつの歌が何方に対してものであるのかの穿鑿は必要ない。
父親の心情は、あまねく全ての御子に対してのものであろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

齊護卿遺事 ・・ 5 (了)

2010-02-02 08:06:54 | 歴史
一、前にもいへる如く、特愛殊遇好悪の御気色いさゝかもおはしまさゞるにつけて、最め
   でたき御詠あり

     秋の野の千草は色をあらそへど月はわきてもやどらざりけり

   と、實に御本姓おのずからあらはれ侍るにこそ、晩年には御詠歌いよ/\すゝませ給
   ひて、高調あまたありけらし、既に江戸人某の撰みたる大江戸集といへるにも、御歌數
   首を載せたり、其歌どもは、

             関立春
     あふ坂の関のすぎむら打ちかすみひと夜にこへて春はきにける

             庭花
     雲とだに打ちまもらるゝ庭ざくら花のさかりはあからめもせず

             田蛙
     せきいれし水のうたかたあはれにもくるゝ門田に鳴かはづかな

             月
     雲はらふ風なかりせばいかでかくさやけき月のかげを見てまし

             秋雨
     とにかくに袖やすからぬおとすなり桐の葉さそふ秋のむらさめ

             冬月
     木がらしにさはる日一葉のくまもなしかげさえまさる冬の夜の月

   又御逝去ありし年の前年の暮に

     行年をいかにをしとていかにせんとてもかくても留らざりけり

   と遊され、その明る春より、心地例ならずおはしまして、四月にかくれ給ひしは、御先識
   とも申すべき歟、いともかなしくかしこかりし御事なり
一、故久我殿従一位内大臣通明の北の方は、治年君大訽院の姫君就姫君にて、君のために、大みおばに
   あたらせ給ふ、此御方の歌を能くし給ひしは、世にいちじるし、御集あり、櫻木集と名づ
   けらる、其序文は、君にあつらへ給へり、今梓にのぼし給へれば、こゝに贅せず、此御方は
   やく孤とならせ給ひ、華洛ながらも、雲ゐのはるけきに嫁し給ひ、御子さへ世を早うし
   給ひしなど、よろづに御心ぼそかめるを、君ふかくおぼしやらせ給ひて、江戸への御ゆ
   きかひに、とふらひまいらせ給ふはさらなり、かにかくに御心用ひ給ふ事、ねもごろな
   る御事なり
一、詩作もあらせられけり、辛島才蔵が江戸を發ちてかへれる時に、賜ひたる詩あり

           送鹽井叟歸郷三首
   百花含咲艶陽時、東武今朝惜別離、五十三亭歸去後、鎮西風月與翁期
   獨送歸人酌別邑、和風如煽柳如絲、雖知他日相逢近、無奈暫時戀戀情

   三千里路欲珍重、只願老年四體全、再會應論治安策、欲矯我癖倚良賢

  右之詩は、才蔵が江月へ参りつかへし時の御作なれば、御年わかくおはしましゝころ
  なり、給句中、老儒を重ぜられ、答を乞はせ給ふ御心浅からざるを伺ひ来るべきなり、か
  ゝる御事なほあまたあるべし、又いつの御作なりしにか近侍のもの賜ひたる中に

           春日郊行
   東郊十里野禽啼、歩歩風光花満渓、日暖千村農事起、一年豊■在春犂

  これら一時の御口吟に、農事のうへにも及ばせたまへるぞ、有がたかりける

                      (了)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

慶前公の死

2010-02-01 19:36:27 | 歴史
 齊護公の長男慶前は、齊護が宗家に入る前年に生まれたが、宇土に於いて幼少期を過している。
13歳で宗家に入り、15歳で宗家の嫡子として認められた。21歳で新田藩主・利用の息女茂姫と結婚、
嘉永元年四月十四日江戸に於いて23歳で死去した。
「肥後恕齋日録」(第ニ巻)に、慶前死去に係わる記述がある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(四月)二十六日 今朝山口先生相見、夜前支給之雇飛脚着いたし候処、隣家平川も直ニ今朝迄
ハ御殿相詰メ居申候、些不穏事にて、於江戸異変之儀有之候哉ニ相聞候段噂有之事
  牧市之允より今夕案内有之候間右之御模様ニ付相断不可申との噂有之候事
  今夜半比御触左之通
  若殿様当月初比より御不例被為在候処、同十三日之夜より御胸御強御差込被遊候御気味被為在、
  不軽御容體之団申来、乍恐奉気遣候、此段為被奉承知申達条、組々可被相知候、以上
      四月廿六日                   有吉市郎兵衛
        柏原要人殿
13日の江戸の情報が26日には熊本に伝えられている。

 右風聞書左之通
当月三日石小田御野屋敷(濱町屋敷)太守様(齊護)・御前様・若殿様・勇姫様(後・松平春嶽室)御
入被遊、終日御興ニ被為入候御帰殿被遊、其後 若殿様(慶前)些御塩梅ニ而、翌四日よりハ御動悸
強く被為在、其後御脚気之御気味被為在候、公義御医者多記様よりハ御脚気とハ不被奉診察候、其
後九日ニ者 太守様御前様江も白金被為入、御発前御餞別之御酒宴被為有候模様之処、其夜より
尚御食事等不被為進、御動悸強御胸下■(弟ニ欠)満御気急浮腫も被為在、深水玄門抔奉伺、不軽御
容體申上候、御衝心之所不気遣候処、尚又 公義御医者辻本様御出て、決御脚気之御気遣ハ
不被為在候段被申候多記様ハ御衝心ハ御気負ニ付御気遣ハ被申上候由間、格別奉驚候様ニも無之候処、十ニ日
之夜俄御衝心にて御大切之御容體被為在候由風聞いたし候事

五月三日訃報がもたらされる。
去月十六日於江戸御帰国之 上使被為入候段、今日御触有之候事
今夕御触之事
若殿様御所労御療養不被為叶、先月廿三日被遊 御逝去候段御到来有之奉恐入候、依之諸事穏便可
被相心得候、此段組々江茂可被相触候、尤此触状可有判形候、以上
    五月三日                         奉行所

今度御凶事ニ付、御家中之面々月額剃不申、長髪ニ而可有候、御家中家来々々ハ夫ニ不及、此段頭々
無規度可及通達旨、御用番被申聞候条左様心得、御同役江茂可被成御通達候、以上
    五月三日                         奉行所
      柏原要人殿

家臣については先ず月額を剃る事が留められた。太守に対する御機嫌伺が検討され、責馬・繕作事・新規作事遠慮の触が出された。
歌舞・音曲の停止、碁や将棋なども当然停止されたであろう。予定されていた藩主の帰国も延期された。月額剃行も十日には軽輩以下
が許され、士席以上は十一日解禁された。

尚、死去の日付については、上記記述と細川家記に食い違いが見える。なんらかの操作が行われたのか、
原因は判らない。
  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高橋稲荷神社周辺

2010-02-01 16:44:41 | 熊本
 私の本籍地である熊本市城山下代町周辺には、「城山」を冠する町があと四つある。大塘、上代、薬師、半田などである。今日は初午だが、城山上代町には日本三大稲荷とも、五大稲荷ともいわれる高橋稲荷神宮がある。地元メディアはあいにくの雨の中に「商売繁盛」を願って訪れる人々の姿を写し出している。
          ajkj.jp/.../kumamoto/kumamoto/kanko/tahakashiinari/takahashiinari.html

 この神社がある後背地は稲荷山と呼ばれ、かっては熊本古城を築いた鹿子木氏の城があった。
この城山を取り囲むように五つの町がある。

 私の本籍がここにあるのは、廃藩後曽祖父たちがここに寓居を構えた事による。曽祖父の岳父・上田久兵衛は「半田」と号しているが、彼は城山半田に住んでいた。地図で確認すると僅か500メートルほどしか離れていない。現在では「熊本新港」に通ずる大きな道路で分断されているが、かっては一面の畑地で、高橋町から入っていた。高橋町は肥後藩五ヶ町の一つで重要な拠点であった。河、海を使った水運で賑わい、ここからいろんなものが河を遡り城下にもたらされた。

 国指定の有名な装飾古墳「千金甲古墳」が金峰山の麓にあるが1キロほどの距離である。
          kyuhaku.jmc.or.jp/index.php/-/43/83/-/-/-/-/d_frame.php

 新旧入り混じって発展する我父祖の地である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

齊護卿遺事 ・・ 4

2010-02-01 10:14:58 | 歴史
一、近侍の若輩らには、事にふれ心得べき事ども、御さとしあり、例えば、諸器物調度取りあ
   つかふには、必ず人のしりへになおきそ、それ知らずして打こぼしそこなひなどした
   らむには、其者の過失にはあらず、置所に心せざりし者の罪ぞかしとのたまひけり、或
   時、御前に柿を奉りしを、皆ども、それたうべよとの仰せにより、手々に小刀もてるに、一
   人柿を掌にすゑて、中をゑりぬがんとしけるを見給ひて、そは危し、怪我もぞしてん、さ
   る事をして疵つきなんを、怪我とはいはれまじきぞ、我手して疵づけるなり、必ず心を
   用ひよとぞ仰せられける
一、御庭内にまれ、又御漁猟の折にてもあれ、御履の者居合せざるときには、御小姓より履
   つかふまつるに、必ず御手をあげさせられて、いたゞかせ給ふ御気色おはしましぬ、こ
   は侍たらんものに、はき物とらせ給ふが、御心外のゆゑなるべし
一、倹約を守らせ給ふ、事前にもあげし如くにて、すべて御先代の御おきてを守らせ給へ
   れば、器物調度のお物好おはしまさず、煙草の具の如きも、煙管は鐡にして、金銀かざれ
   るは用ひ給はず、御茶も上喜撰といふが上をば越させ給はず、又時々の初物とて、さゝ
   げ申しても、齊茲老君、蓮性院大夫人の御前に未だめされざる間は、きこし入れ給はざ
   りけり、御衣も御肌着には、木綿のみめし給ひぬ、又土木の御物好ましまさず、常のお座
   所も、先君の御時のまゝにして、そこねたるのみつくろはせ給へり、御末年に御隠居所
  
   の思召にて、濱町の第をいとなませ給へりしに、御居間の障子の唐紙に、いさゝか金色
   すりたるを御覧じて、かたはよろしけれど、同じくは、金のまじらざるもてせよと命じ
   給ひぬ、かゝる事にも儉を守らせ給ふ御心ふかくぞおはしける、常の御褥の表の方や
   れそこなはれたるを、その儘にさしおかせらるゝより、裏をかへし奉りをりけるに、其
   うらさへやれつゞれにければ、今はとて製りかへてぞ奉りける、幾年ばかり用ひ給ひ
   けん、御几上覆のきぬも、所々やれたるをば、糊してはりつくろはせ給ひてぞ用ひ給ひ
   ける、夏のあつき頃めし給ふかたびらの御衣に、色あせやすかるは、夕さり涼しくなり
   て奉れ、ひるのほど汗かき給はんに、一度あらひすゝがせば、不要ともなしはてんが、あ
   たらしきぞとのたまひぬ
一、東海道府中の宿過させ給ふ時には、所の名産とて、諸器物を多く御前に持出しぬ、され
   ど御物好にてとらせ給ふ物とてはなく、音信の志るしなどに、買ひとらせ給ふ品は稀
   にありけり、或時最めでたくたくみに作りし重箱を持出しを御覧じて、いと綺麗なる
   物かなとほめ給ひて、さてかたへの者どもにのたまふには、かゝる物は世の不用とや
   いはん、常に用ひんにはよろしきに過ぎたり、用ひずして庫内にひめ置かば、いたづら
   なり、きはめて用なきものならずやとのたまひけり
一、江戸と熊本との脚力ゆきかひせるは、月毎に両度なり、志かるを、事もなきをりには、月

   末のを延して、次の月初にあはせるぬる事もあなるを聞召して、そはふびんなり、數百里
   を隔てゝ、父母妻子に遠ざかり居ては、かたみにふみのたよりのみをぞ心やりとはせ
   ん、それに脚力一度省きなば、若干の日を隔てなん、こゝみもかしこにも、いかにおぼつ
   かなからむに、一度の費をいとはずして、必ず二度の數をなかきそと仰られける、又江
   戸につかふる者の、夏のいとあつきをりには、御門出の定の數の外に日を増さしめ給
   ひ、上下の苦をなぐさましめ給ひぬ
一、御参勤として、花畑の御館を發せ給ふの日、常の御居間にて、御酒めされ、御前に侍らふ
   ものにも、御盃賜はりぬるに、そゞろに御涙ぐませ給ふを、いかなる御故にかと見奉り
   しに、やゝ有て宣ひけるは、不覺の涙こぼしつ、上下おほくの物を數百里の外にぐしゆ
   かんには、みな/\父母兄弟夫妻の別をしむらん心の中、おしはかりければなりと、御
   聲くもらせ給ひにけり
一、常には寛裕第一におはしませば、かりそめにも、憤怒の色あらはし給はざりき、志か
   るに、天保の末頃、上野の火の御番にあたらせ給へりしに、時は十一月の末、寒気味殊に酷
   しく、雪みぞれふり、氷つらゝゐたるをりしも、山内失火有りて、大佛堂もやけぬ、されば
   君には御出馬あらせられんとの事なりしを、途ぬめり氷ゐて、馬の足も立かね侍らん
   とて、おとな達はじめ、志ひて出させ給はずともと、とゞめ奉りしかば、さらば物見せよ

   とて、近侍を遣はさる、その者歸りて、途の有かた申上しに、さらば道のほど馬しづかに
   だに歩ませんには、危事もあらじとて、既に打出給はんとし給ふ、その間におとなの中よ
   り、月番の老中の許に、君いたはりおはしませば、老臣して御名代にさし出さるとの届
   をなん仕りしと申上しに、君いたくいきどほらせ給ひて、よしなき事しつるものども
   かな、火の御番をば何の為に仕奉ぞや、かばりの事に公務怠らんは、いとかしこし
   とて、つや/\御寝食も安くし給はぬ御有様なれば、皆々恐入たるばかりなり、翌日は
   十二月朔日にて、かならず御登城あるべきなれど、前夜御病ありとことわらせ給へば、御登
   城もなし給はず、またあくる日は松向寺三齋君の御征當齋日にて、かならず寺参詣欫さ
   せ給はぬを、これも御代参を命じ給ひぬ、これ偏に上野に御出馬なきによりてなる
   べし、公務を重じ給ひし事、かくの如し
一、御代々の御征當齋日には、寒暑風雨の御厭ひなく、御墓詣怠らせ給ふことおはしまさず、
   其逮夜には必ず表居間におはしまして、如在の御慎ふかくぞおはしましける
一、櫨方は寶暦の度起されにしに、中葉より又水前寺に蝋志め所興り、御側御用と唱ふ、下吏
   の習ひ、各功を争ひ、櫨實をあつむるにつきて、水前寺の方を本櫨方に属せしめ給ひしかば、數
   年の弊害頓に止み、數量を定て、年々御側に納めしめらる、實に両金の法とは成りぬ、御

   在世中、郡吏等精力を盡して、墾田開きしも數多なりき、これら、上に賢徳の君ましまし
   ければなり
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする