津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川興秋の子孫について (二)

2010-08-26 08:08:21 | 歴史
 細川與五郎源興秋入道宗專--------+
                              |
 +-------------------+
 |  大庄屋初代
 +-■興季 中村五郎右衛門
        幼名與吉。母者天草伊佐津村金濱ノ城主、関主水之女也。法名、月山妙雲大姉。
        寛永十二乙亥年七月十日卒。
       家傳に云、右の関主水は、立家彦之進と申し候ものなり、若年の時分數度の軍功
       有之しものゝよし。寺澤志摩守の手に属し、名を得たる武士なり。元和年中大坂へ
       出陣いたし、終に不歸候に付、其女之なにがし、中村半太夫養育いたしてゐたりし
       を宗專様被召寄、妾と被成候て一男子を生ませ給ふ。則ち與吉と名を御附被成候。
       成長之後興季と名乗り申候。
        謹而按ずるに、與吉と名を御附け被成候は、則ち與一郎忠興公の御子が與一郎
        忠澄(ママ)公、二男與五郎興秋公なり。依之與吉、興季と御名乗を相成候ことゝ相
        見え候。
    一、又云、寛永十八年巳の春、興季を江戸より天草の大庄屋役に被仰付候。依之興季よ
       り、其儀此度如此役儀を被仰付候へども、苗字無之候而は難相成御座候。某本姓は
       何と申候やと、宗專様へ御尋申上候へば、我等が家其系圖等無之ものにて候間、何
       なりと苗字は名乗り申候様にと被仰聞候ゆゑ、不得巳事、母の育叔父中村半太夫の
       苗字を取り候て、中村五郎左衛門興季と名乗申候よし。
    一、右之通寛永十八年に、江戸より大庄屋役被仰付候により、五郎左衛門を始め家僕近
       隣のもの集り大悦び致し候を、宗專様被聞召候て、大庄屋役被仰付候とて、さほど難
       有がり悦び申候事の笑止千萬よと、大いに御笑被成候事。
    一、宗專様御臨終の時分に、右之通り忠興公之御二男のよし御咄に付、中村の名を改め、
       長岡の長の字を取り候而、長野と改め申候。されども孫の宗左衛門興茂より、長野と
       名乗申候事。□□松□英枝居士。寛文十庚戌年□月十七日卒。

      二代
  +-■興茂 長野宗左衛門
  |     父興季の家督を續ぎ大庄屋となる。幼名五郎太と云ふ。母は長崎町年寄高木勘
  |     兵衛の叔母、法名、潤相妙徳大妹(ママ)、□□□□年十一月七日卒。
  |    或年天草郡中馬多く死し、農業成り難く申すにより江戸より金千両拝借いたし、薩摩
  |    國へ馬かひに参りし時、薩摩より五百石にて可被召出候旨、被仰聞候へども、五百
  |    石より、天草の大庄屋相勤候方勝手宜敷旨申候而、被断申候由申傳奏老也。
  |    法名、瑞龍庵一翁□□居士。享保六辛丑年九月十五日、行年八十歳にて卒す。
  |    禅宗芳證寺に葬る。
  |
  +-■中村藤右衛門
  |    佐伊津村庄屋となる。今の中村宗兵衛先祖也。系圖在別紙。
  |
  +-女子 半次郎祖母なり。
  |
  +-女子 利右衛門祖母なり。
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細川興秋の子孫について (一)

2010-08-25 08:57:58 | 歴史
 細川忠興の二男・興秋は細川家記によると、忠興の命により自裁したとされている。
ところが実は命ながらえて天草の地にのがれ、其の子孫が脈々と続いてきたことが、高橋町奉行・齋藤權之助によって書き残されている。細川護貞さまも天草の地をたずねられ、その真偽を調査されている。(否定も肯定もされていない)地元天草では周知の事実として捉えられている。
同家系図については、ぴえーるさんのサイト「白鷺×城下町」に詳しく紹介されているので、ご参照いただきたい。(ぴえーるさんに感謝)

 齋藤權之助の記録が「天草史談 七号・八号」(天草史談会 1937年)に、「細川同族天草長岡家系譜」として掲載されているのでご紹介する。

 尚、齋藤權之助についてご紹介すると
     齋藤左太郎(権之助・権助) 六番与 二百石 (養子・実米良勘兵衛五男)
               寛政六年十二月~享和三年十月 高橋町奉行・後作事頭二転

       斎藤芝山(肥後人名辞典より)
              名は高壽、権之助と称し、芝山と号す。世禄二百石、境野凌雲と共に
              犬追物を興し、その師範となりて子弟を誘導す。一藩為に風靡せり。
              又川尻作事頭、高瀬町奉行等を勤めて恵政あり。
              文化五年十月二十一日没す。年六十一。墓は手取本町蓮政寺にあり。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

              「細川同族天草長岡家系譜」 

         享和二年壬戌六月五日、天草郡御領の大庄屋長岡
         五郎左衛門興道が求めに應じて、其家傳等を聞きし
         まゝに、書寫しおくものなり。
             肥後高橋司市   齋藤權之助 書判印
             細川興秋朝臣七世孫長岡五郎左衛門
                             源興道謹撰之

 ■細川與五郎源興秋入道宗專
    足利義晴将軍二十四歳之落胤、長岡兵部大輔源藤孝入道、二位法印幽齋玄旨之孫也。
    豊前宰相羽柴越中守源忠興入道、三齋宗立之第二子也。細川與一郎源忠隆之弟、肥後
    少将細川越中守源忠利朝臣之兄也。母者、明智日向守光秀之女也。慶長五年秋七月十
    七日、於大坂邸中自害焉。號秀林院殿。初興秋公之在小倉也、為其叔父、細川玄蕃頭
    (興元)所養、為嗣矣。慶長六年冬、興元有故遁豊、小倉矣。忠興公、因使興秋居豊、中
    津城也。(仝)十年、公将使興秋質江戸矣。興秋不肯焉。公強行之矣。興秋不得己而至
    于京師不行也。飯河肥後強之、興秋剃髪以遁矣。于後、應内府秀頼公之命、入于坂城。
    元和元年坂城陥矣。興秋又遁而、在京師稲荷山東林寺、公俾松井右近自害焉。

         △  △  △  △  △  △  △  △  △  △  △  △

   家傳に云、宗專様御事、天正十一年癸未年御誕生。行年六十歳にて、寛永十九年壬午六月
   十五日、御病死被成候。御法名、長興寺殿慈徳宗專大居士、葬禅宗長興寺。本尊薬師如来、寺
   領高貳石、並境内御證文有り尤も芳證寺支配なり。


   又云、宗專様御病気にて、御大切に相見え候時分に被仰候は、我等は細川三齋二男にて候
   へども、様子有之親より勘気を請け候而、如此世を偲び罷在候ゆゑ、當時迄苗字をも名乗不
   申、其方どもへも何とも不申聞候。右之通故此以後とても、長岡細川の苗字など、決而名乗
   不申候様相心得可申候。又我等平日着用いたし候九曜の紋、又は丸に二つ引両の紋附け候
   事も、尚遠慮すべしと堅く被仰聞置候而、御薨去被成候旨申傳奏老事。
   忠興公御年譜に云、慶長六年十二月中旬、幽齋公初而豊前中津へ御下向被成候御祝に、細
   川玄蕃殿 忠興公の御舎弟與十郎興元也 の御名代與九郎様、小倉より中津へ御出被成。玄蕃殿は
   御風気故、私を被遣候との口上にて候へども、忠興公御不審を被立、其方は玄蕃に逢申候か
   と被仰候へば、いや逢不申と御請被成候。明る日小倉より飛脚至来、玄蕃殿當所を御立退に
   候と、小倉に相残る侍共より書置相添へ注進申上候へば、忠興公御意に、丹後にては與十郎、
   松井 佐渡守也 よりも小身なるを相身代にして貮万五千石遣候に、無理なる不足と被仰しなり。
   或記に云、玄蕃殿小倉の城へ被差置候而、松井佐渡守と両家老なり。忠興公二男與五郎興
   秋を養子とせられ、是も小倉に御居住なり。玄蕃殿は陪臣となるを憤り、黒田甲斐守長政に内
   通し、小倉の大橋に黒田より船を被越す候に、玄蕃殿其船に乗りて立退被申候。與五郎殿は、
   中津へ御名代に御越候節、直に中津へ御居住なり。
一、又云、慶長九年甲斐(辰)の夏、忠興公小倉に被成御座、御積り痛み火事(ママ)に煩ひ被成候が、
   内記忠利公 與五郎興秋弟 を御家督に被成度との御事にて候處、両御所様より御願之通被仰遣
   候て被仰出候は、忠興存命の内に内記對面いたし候様にと、岡田太郎左衛門を御使に被仰付、
   忠利公御同道にて、江戸より豊前へ御下向被成候。御證人已後、江戸より始め而上方へ御上
   り被成候。八月十二日に江戸發足なり。
一、又云、慶長十年三月、内記様の御代りに、御二男與五郎様 始め忠以、後に忠秋、又後興秋 證人と
   して江戸へ御下向之處道より御逐電被成候。依之長岡兵左衛門重政を、證人代りに御下し被
   成候。 右内記様は、慶長五年正月江戸へ御下り被成、慶長九年の秋御上り被成候。
一、米田監物家記に、慶長十年與五郎興秋公、江戸へ御出被成候様に被仰候處、興秋公曾て無
   御承引候間忠興公御立腹被成候而、御父子御間柄悪敷く被為成候。されども右之通之首尾に
   て、江戸へ御下り被成候而は不罷成事ゆゑ、御用意等相調へ候うへ、長岡肥後 飯河豊前之子
    忠直也。知行六千石、豊前小馬(ママ)嶽岩城主也 
へ被仰候は、偏に頼みに被思召候間、與五郎様へ御
   異見申上候而、江戸へ御供仕り届可申旨被仰候。肥後承り、唯今私一命は差上可申候へども、
   此度におゐては御免被仰付候様と再三御断申上候處、甚だ御立腹被成候も被仰候は、命より
   三世の忠恩に存候、罷越し候而與五郎と江戸へ下り候様にと之御意によつて、肥後難奉辞此
   うへは不及力候間、奉得御意候。されども三度迄は御諫言可申上、其うへにも無御承引候はゞ、
   興秋様之任御心と申捨て、則ち興秋様へ申上候に、何之支へもなく豊前御發足被成候而、京
   都建仁寺之塔中十加院へ御着被成。御逗留日を経て、江戸御下り御延引被成候間、肥後度々
   御催促申上候へども、與五郎様無御發駕、被為成御座候ゆゑ、肥後強而御諫言申上候へば、
   興秋様被仰候は、明日は是非御發駕可被成候之由相極る。翌日御用意調へ候うへ、肥後罷出
   候へば、興秋様早や剃髪被成、十徳にて御對面被成被仰候は、肥後最早申分も有るまじく候、
   歸國仕り此通可申上と。御供衆も不残被召出被仰出候は、何れも是迄御届申満足に存候、み
   な/\歸國いたし相勤候へと被仰聞候而、其まゝ奥へ御入被成候。肥後も不及力、豊前へ罷
   下り、此段具に忠興公へ申上候處、以の外御機嫌悪敷被仰候は、肥後へ申附候時分、請け方
   あしく存候に付、其場を返し申間敷存候へども、其通にさし置候とて、又飯河豊前宗祐も同罪也
   と、親子一同に閉門仰付、同七月廿七日みなともに、仕納に被仰付候。
一、又云、右與五郎様江戸へ御下り不被成候儀は、右慶長九年内記様を御家督に御願被成、翌十
   年四月に従四位侍従に御叙任被成候。興秋公は御舎兄ながら無位無官にて、江戸へ御下り可
   被成様無之とて、右之通御逐電被成候よし。其節に尤成る事との風説、専ら御家中に流布せし
   とか。
   又云、忠興公之御二男興秋主、初は長岡玄蕃殿之御養子に被為成候而、玄蕃殿と御一所に御
   座候ひしが、玄蕃頭殿慶長六年十二月、豊前被御立退候以後は、中津の城に被召置候。同十
   年三月江戸へ證人に御越被成候道より御逐電ゆゑ、御浪人にて候まゝ、秀頼公に御味方有之、
   慶長十九年に大坂に御籠城被成候に付、両御所様不届に被思召候へども、忠興公無二之御忠
   義によつて、與五郎様を御赦免可被成候との上意にて候へども、忠興公御承引不被成して、元
   和元年乙卯六月六日、松井右近に被仰付、山城國稲荷の東林院におゐて御切腹被仰付候。御
   最後之躰神妙にて、人々感涙を催せりとなり。
一、家傳曰、右宗專様御事、大坂より御浪人被成候而、尾州春日部郡小田井村に暫く御忍び被成、
  夫より直に肥後國天草郡御領村に御居住被成候て、宗專様と奉申候よし。
    右謹而按ずるに、元和元年六月六日忠興公より松井右近に被仰付、山城國稲荷の東林寺に
    て興秋公を御切腹に被仰付候時之忠興公御意には、多田の満仲の御子に美女丸と申者有
    之候。其美女丸悪行をなし申候により、父仲光(ママ)より美女丸の首を打候様に其乳父仲光に
    被仰付候處、仲光其子を以て美女丸の身代りとなし申たる事を御咄被成候て、勝れて見事な
    る金拵への太刀を右近に被下、此太刀にて與五郎が首を討候へとて、御渡し被遊候とか。
    これによつて右近心得候而、與五郎様を御切腹の躰になし、右近通遁し奉りしなるべし。
一、右之通宗專様死を御遁れ被成候事は、秀頼公大坂にて御死去被成候旨には候へども、當時薩
   摩の國谷山の木下名に御墓あり。御子孫あり、眞田左衛門佐の子孫も、さつま又は肥後にも有
   之、秀次の御墓、これ又薩摩にあり、與五郎と一同に米田大監物大坂に籠城すれども、後細川
   家に仕へし類なり、怪しむべからず。
一、御法名を宗專様と奉穪し事は、忠興公後には三齋宗立と申奉り候ひければ、その宗の字を御
   取被成候而、宗專様と奉申候なり。

                 (興秋項・了)
  
   二日がかりのタイピングと成り、少々疲れました。あとは一回で済むのか、二回になるのか、津々堂の気分次第です。
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有吉家文書「年中行事抜粋」(三)御着座後初而召出之式

2010-08-24 13:11:24 | 有吉家文書

■御着座後初而召出之式

       一、於竹間同席中壱人完被
          召出、畢而同御間ニおいて御役人中一列
          ニて左之通
           但竹御間と申ハ陽春御間次之
           御間之事ニ而候得共、矢張於陽春御間
           被召出候已前より右之唱ニ相成来
           候事
           此竹之御間之事ハ但書之通ニ候得とも
           陽春御間御障子之腰ニ竹之絵有之
           候付、元来ハ陽春御間を竹之御間と
           唱居候と相見候處、陽春之御額
           懸候後竹之御間は御次之間之様ニ
           相成たると考候事
          御奉行       一限
          助教        一限 
          学校御目附    一限
          御郡御目附    一限 
          御穿鑿頭     一限
          御勘定頭     一限
          御算用頭     一限
          御目附一人完御供之御目附ハ一列之末ニ被召出候
          右之通何時揃ニて被召出旨被
          仰出之段前日御用人より御用番江
          書付相達候、右ニ付而御請等之手数
          無之候事
           但右之召出ハ多御着坐之翌々
           日ニて候事
          付札
           御奉行以下被召出候儀ハ御用人より
           達ニ相成此方よりは欠席之人江
           知せ候事

          文化九年初而御帰国之上被召出
          六月三日御着座被遊同五日初被
          召出此節御一門衆同席中薄上下
          上ニ茂御薄上下御備頭以下御役人中
          ニ召出候是ハ皆麻上下着達者従
          御小姓頭 文化五年六月十三日同断之節
                吟味之處同奉行之方ニハ控有之
          候付機密間江も此節
          控致し被下候様置候様夷則より申聞有之候事

           右御当日之式左之通
       一、平服ニ而 初召出ニ而候得共平服 刻限半時前仕出
          之事
       一、例之通奉窺御機嫌之事
       一、召出之節ハ哥仙之御間まてハ例之通
          候事
       一、右哥仙之御間江控居候得者御用人より
          案内有之、一人完罷出 此時は不老門よりハ不罷出 
          鹿之御間と哥仙之御間之境御襖南
          之端一枚明キ居候、此所より左手之様ニ
          参鹿之御間北御入側と陽春御間之次
          之御間との突合之八畳敷ニ御取次
          以下相詰居、此處ニて御取次以下江致
          会釈右之壁付ニ脱剣御居間江
          罷出候事
           但脇差ハ三家ハ八畳之敷居
           内其外ハ敷居外ニ脱置候、且又
           御前江罷出候得ハ御用人并御取次
           以下ハ鹿之御間北之方段落之御間へ
           下り居候、右之通二付退去之節
           不及会尺候事
       一、陽春御間御敷居外ニて御辞儀是○
          被遊御意候上御敷居内ニ摺入尚
          御辞儀左候而御用相済御敷居外江
          出猶御辞儀退去初之所二て帯剣
          且々詰間江参候事
           但陽春御間御座所ハ御建具
           無之御襖一枚北之方江建附ニ相
           成居此御襖之脇より 召出候之節ハ此御襖際丁口ニて
           御縁側之方末坐ニ成此トキハ一人ニ付此丁口之席ニ出て候 
御目通りニ
          罷出候事
       一、夫より御奉行以下被召出候御奉行御目附
          は九曜中柱御間之縁側ニ北向に
          繰付例之御役人者佐野之御間御縁
          側ニ繰付相成居候得共無構通候事
       一、三家之嫡子者不案内ニ有之候得者
          同席之内より召連御前江罷出候儀も
          有之候、且又見習ニ出方無人ハ此時は不
          被 召出候御一門衆は勿論之事
             〔御用人より御杉戸明ル 此所二て御時宜〕
          已前ハ初被召出不老門よりト相見朱書之通之書付
             持伝候墨書之図ハ本文ニ依而認置

           
                  (この項・了)

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友成さーん

2010-08-24 11:27:33 | 歴史
 友成氏の充行状がオークションに出品されていた。

    肥後國於飽田郡之内半田村
    益城郡之内下田村百石目録別紙
    天保八年三月十一日充行之訖
    全可領地之状如件

      弘化四年二月朔日 齊護・花押

              友成市左衛門とのへ


  よくよく眺めていたら下記の二通も同時に出品されている。
    ■友成津内宛 充行状(享保九年十一月朔日 宗孝)
    ■友成貞之助宛 充行状(万延二年三月朔日 慶順)

  友成さん、ご覧に成っていませんか~
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「週刊現代」やら「文藝春秋」やら

2010-08-23 17:47:07 | 歴史
週刊現代では-グラビア 細川護煕の世界『不東庵』2010年夏-

文藝春秋では-新連載 細川護煕が語る細川家の美- などなど、我お殿様は益々お元気なご様子、何よりです。
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本日処暑にて候得共・・・・

2010-08-23 16:53:09 | 徒然
 本日は処暑、「暦便覧」は「陽気とどまりて、初めて退きやまんとすれば也」とするが、まだまだ陽気ならぬ熱気は止まるところを知らない。熊本は18日からの連続猛暑日、体温並の気温で脳みそが煮え立っているようで、気分が悪くて動きたくも有りません。それでも一昨日は「史談会例会」、昨日は図書館行きと外出しましたが、熱中症で頓死しないよう(?)外出は最小限に止めています。

 駄句などひねろうかと思いますが、あまり暑くて秋の季語が浮かんできません。

           猛暑なる名ばかりの秋の処暑かな
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有吉家文書「年中行事抜粋」(二)御着座之式

2010-08-23 09:18:09 | 有吉家文書

「2010-07-10」のブログに続き、「御着座之式」をご紹介する。


             ○御着座之式
      一、大津 御発駕之御注進ニ而麻上下 
         着出仕之事
      一、御注進左之通
         御立
          大津    四里木
          三里木  二里木
          壱里木  龍田口構
          観音坂  慶宅坂
      一、御迎二参候人昨日於大津
         御意之趣御着座前於詰間御一門衆
         同席中三家嫡子江申達例之面々江者
         口之間ニおいて申達御意之趣稜付者
         御用番江差出、右御意之御礼ハ当番之
         御用人を口之間江呼申達候事
         家伝書付
          御意之趣御一門衆其前例之面々へ申伝候而、皆々御
          礼と申上候儀ハ、御花畑へ被遊御着坐候、御中
          中柱之御間ニ罷出御用人江謁、右之面々お礼を
          引取申上候事
      一、詰間之玄関江草履取を坊主共より出置
         観音坂之御注進ニて御一門衆同席中
         一同ニ御玄関前栗石江罷出坊主も附
         参り候、尤先御門外桝形之所江参
         御先御行列御門より入候時分、銘々之立場へ
         相揃候事
          但雨天之節ハ手傘用意之事
      一、御玄関前ニてハ東之御塀際ニ御一門衆
         初南頭ニ立並御駕拝見二得ハ下坐 雨天之節ハ
           此時傘を畳
御駕近付候節進出一同ニ御辞儀
         御駕之戸明キ御一ト通御意被為在候
         夫より直ニ元之塀際ニ退居候而御玄関
         之方を向被遊御上り候跡ニて立上り
         直ニ中柱御間江罷出御一門衆始一同ニ
         御用人江御歓謁候、尤風鳥御杉戸
         後二〆東向北頭ニ罷出候、又右之引取懸於口間
         御一門衆東側同席中西側双方南頭ニ
         向合恐悦申述候事
          但右中柱御間ニて之謁者
          太守様上々様江之御歓二て
          御隠居様
          若殿様江者便状差上候事
      一、御当日被差立候
         御帰国之御使者を詰間へ呼御一門衆
         同席中一同ニ奉伺御機嫌、夫より御一門衆ハ
         直ニ御退去付、其跡ニ而御用番より添状
         并伺御機嫌之稜付相渡候事
          初旅之人江者慎之書付相渡候
          但右者
          御隠居様若殿様
          上々様江御一門衆同席中奉伺御機
          嫌候隠居其外例之面々伺者無之候
          且又急之御使者故京都
          御姫様方へ之伺ハ無之候事
      一、召出之節ハ御用人より案内有之、御一門
         衆同席中一同ニ多門落間鷹之御間
         佐野御間御入側之通り佐野中柱御入側
         境杉戸より、九曜之御間御入側東之
         突当之御襖明キ居、右此所より歌仙御間江
         一同ニ坐着、尤同御間南御襖際より西
         御中連子際之様ニ打廻り東頭ニ座
         着之事
      御旅服
      一、夫より御用人猶案内有之、不老人門御杉戸
         外之六枚屏風之外ニ
         南御敷居際ニ脱剣、尤御一門衆一所
         三家同、其外同右之通段々ニ抜置
         御杉戸御敷居外ニ而御辞儀
         陽春御居間之御敷居内ニ御左頭ニ
         南西之様打廻候、擦入平伏仕居相揃一同ニ
         御辞儀御一ト通り被為在
         御意御手熨斗御古のし被下候間、頂戴之仕
         左へ開 半已上ハ南御入側板敷伝退去
                  半以下ハ直ニ次之御間之様ニ退去
 元之御杉戸
         口之様ニ引取竹之御間ニハ御近習一手
         坐着いたし居候得共、出入二致会尺ニ不及
         直ニ帯剣且且詰間江参候事
          但御居間御敷居外ニて平伏仕居候時、 
          是江と御意も被為在候得共、大勢一同ニ
          罷出候間御意を伺居候而者、被遊
          御待候間帳口ニて之人江随、且々御同間
          へ摺入候、且又御杉戸ハ始ニ御用人より明、皆
          罷出候跡御用人よりセキ置候得ハ
          午前より退却之節御一門衆より明被申
          尤引取候節末席より跡せき致すに
          不及候事
       一、御備頭御留守居大頭其外例之御役人
          詰間江罷出、今日ハ佐野之御間ニてハなし 御用番江謁候
          事 御備頭大頭ハ嘉永五年之節より佐野之御間ニて謁を受候ニ究
           但御備頭之内二人ハ壱里山江罷出候へとも
           御殿江者三人一同ニ罷出謁有之候事
       一、御供之御小姓頭御奉行御用人御目附
          詰間江出方有之候事
           但右御用人江者
           御隠居様
           若殿様江戸京都
           上々様御意傳有之候得共、例
           之通御一門衆初於詰間奉窺
           直ニ其人江御禮申上候、右者前以様子
           不相替候間廻文等無之其身より申出候て
           相成候事
       一、闕席之面々并隠居より之使者差出ニ
          相成候間、例之通御用番江於口間謁を
          受候事
       一、右使者差出候稜付例之通上文箱ニ入、坊主江
          持せ御用人江遣候事
       一、夕八時暮候上御一門衆同席中猶又
          中柱御間江罷出御用人江奉伺御機嫌
          左候而御用を聞退出候事
       一、御着坐之即日江戸江之雇飛脚
          小倉路ニ十四時中國路七日東海道
          六日限ニて被差立候、尤御用済置候へハ
          翌日ニ相成候事
           但右之通可被仰付哉之書付御奉
           行より御用番江相伺候間其通
           及指図候事
       一、当年御手当請持之書付御用
          番より御用人を以差上候事
           但毎御着坐之即日差上候事
       一、杭場御目見之儀者
          御発駕之通りニ候、尤御物頭列以上
          麻上下着御花畑江出仕御郡代已下
          組ニ不入御中小姓迄ハ
          御目見ニ罷出候着服之侭ニて御家老
          御中老廻り有之候事
           但御家督初而之節ハ麻上下ニて
           候之事
       一、御中老以上直隠居之面々江者
          御着座即日御尋として御用人より
          奉札仕出有之候、左候得ハ御請返書
          相済候上当番之御用人宅へ御礼
          として使者麻上下着差出候事
                      
                (了)

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図書館浴

2010-08-22 21:22:51 | 徒然
 今日は久しぶりの図書館行き、コピーを60枚、デジカメ撮影30枚が主な用事。コピーは、忠利に殉死したS氏、綱利の側室N氏の実家両家の先祖附その他、デジカメ撮影は「錦嚢移文」の目次。後者については図書館長の許可をいただいて、後日UPしようと思っている。
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史談会・八月例会

2010-08-22 11:06:40 | 徒然
 「史談会」八月例会は20名ほどの会員が出席して前月に引き続き、家老有吉家の史料「年中行事抜粋」を有吉家御当主もご出席の中での勉強である。今回は「御着座後初而召出之式」以降である。読み込んでいくと、藩主(齊護)に始めて謁見するに当っての、事細かな作法が在ることに驚かされる。花畑御殿の間取り圖とにらめっこをしながら、確認していく。どの部室を通り、どの襖を開け、刀を何所に置き・・・・いや~大変だ~と思わず声が洩れる。
続いて、「同御登城之式」、これは熊本城内における同様の御規式であるが、これも熊本城の間取り圖を見ながら、一つ一つ確認しながら文書の解説を受ける。
「年中行事抜粋」は先に当ブログでご紹介((2010-06-06ブログ 有吉家文書-- 2)したが、32項目+14項目に及んでいる。漸く4項目が終わった所だが、代々家老職の有吉家のご苦労が思い知らされる。残り40項目余、あと一年で終わるのか・・・それでも初公開の此の貴重な史料は、「目から鱗」の情報が満載である。
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細川小倉藩・御用覚書之帳--元和九年六月(了)

2010-08-21 06:50:35 | 歴史
    ■六月廿八日 晴天

一、当町へ明俵納候所、同奉行之儀、さしかミ遣事

一、呼野へ遣、唐なまり廿斤ノ切手之事

一、大坂へ御普請ニ被参候御侍衆、九人今朝下着候事

一、同鉄炮衆も下着候事、弐百六十人下り申候

一、谷忠兵衛・明石源左衛門下着候事
    江戸ヲ、去十八日ニ出船之由也

一、江戸へ之御掃除坊主之儀、御郡奉行衆へ被相尋候へと、申渡候事


        廿九日
    ■六月晦日 曇 巳ノ時ニ村雨仕ル

一、御なへ様御矢倉、つき上ケのすだれやふれ候由候間、可申付事
  (細川興秋女)

一、御花畠ノ桃取候て、慶休持参候を、御上様・御なへ様・御かね様へ上ケ申事
                       (忠利室千代姫)    (細川幸隆女・兼)

一、御さゑん(菜園)畠ノ瓜廿、平二郎持参候を、御上様へ上ケ申候事


    ■六月晦日
              (米田與右衛門・是門  息・貞之)
一、慶甫町屋売候へと、米與右殿より、左兵衛殿を以、御返事候間、則、家をうり候て、のき候
  へと、慶甫へ申渡候事
     (時ノ太鼓打)

一、出作ノ■■触状したゝめ、かた書取置也、御郡奉行へ、御城ニて申渡候ての上、如此也

一、永荒・新地開之儀ニ付、ふれ状ノ儀、右同時ニ、御城ニて申渡、判形取置候也
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二つの「清正展」

2010-08-20 21:42:39 | 熊本
 現在熊本市立熊本博物館では
     「よみがえる清正-戦国武将・加藤清正への祈り展」が開催されている。


 又、「清正公400年遠忌記念 加藤清正と本妙寺の至宝展」が、下記要領で開催される。

         時:9月15日~21日迄
         場所:熊本市・鶴屋百貨店東館7階ホール
         主催:同展実行委員会



 
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細川小倉藩・御用覚書之帳--元和九年六月(8)

2010-08-20 07:27:07 | 歴史
    ■六月廿四日 晴天

   廿九日ニ、いつれも同船ニて、差上候
一、御六様御供ニ居申御荒仕子ノかわり、壱人差上せ候事

一、今度下候御長柄衆ノ内廿人・御鉄炮衆十弐人・御小人十三人、合四十五人、咋廿三日二山より
   戻ル


    ■六月廿五日 晴天

一、御薪船、三艘今朝出船、重田吉左衛門・三木清太夫・石松新左衛門、此舟ニ御小人七人差上せ
   候
一、上田忠蔵、申ノ刻ニ被罷戻ル


    ■六月廿六日 晴天

   金山へ
一、庭莚十五枚、金山へ遣候

一、金山へ、たゝミの古おもて八枚遣事

   金山へ
一、御金箱壱つ、しょう(錠)、かぎ(鍵)ともニ遣候

   金山へ
一、中ノ長持壱つ、しよう・かきともニ遣事

   金山へ
一、なめし皮ノ事

   金山へ
一、張紙・中折三束・小紙弐束遣事

一、長崎よりの状、猪膝太郎左衛門所より、今朝辰刻ニ、持せ遣飛脚着仕候■■■■中津へ之御
   飛脚ニ言伝り候て参り、いのひさ太郎左衛門ニ相渡申由也


     ■六月廿七日 晴天

一、明家見廻候事

一、惣構塀・矢倉御繕ノ御用ニ、すさわら、御家中へ知行高百石ニ、明俵弐俵つゝかり可申と触
   状人四人ノ大組頭へ廻シ申候事
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くまもん

2010-08-19 20:10:05 | 熊本
                 いまはやりの「ゆるキャラ」、熊本の「くまもん」です。
                 知名度がいまいちなので、ご紹介・・・
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「魚雁集」落札しました

2010-08-19 10:56:29 | 書籍・読書
 ついさっきオークションで落札しました。実は一冊持っているのですが、二冊在ってもいいかな~と思いましたし、そう度々出てくるものでも有りませんし・・・

[BOOKデータベースより]
旧熊本藩主細川家第17代細川護貞が描く、信長、秀吉、家康、沢庵、千宗旦、春日局、細川幽斎、細川三斎、高山右近ら戦国・近世人の素顔。

魚雁集(信長の書状;光秀の書状;羽柴秀吉の起請文;細川幽斎・千宗易連名の書状;霜女覚え書―秀林院様御果てなされし次第の事;細川幽斎夫人のふみ;春日局のふみ;高山右近訣別の書状 ほか);
懐徳録(アンコールワットの肥後人;肥後の銘花;殿様の日常;肥後の鳳凰;南禅寺の塔頭天授庵;先祖の画像;歴代詩文歌集;細川幽斎の処世の和歌;ぬかみそと細川三斎;ガラシャ夫人の最後;細川三斎の医者と薬 ほか)
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細川小倉藩・御用覚書之帳--元和九年六月(7)

2010-08-19 08:35:36 | 歴史
    ■同(六月)廿二日 晴天酉ノ刻ヨリ雨フル 刁(ママ)ノ刻ニ晴ル

   六組頭衆へ申触候
一、御鷹被尋候へと、侍衆へふれ伏事

   則、申渡ス也
一、相良太右衛門を、大手之御門番野村弥右衛門かわりニ申付候事

   さしかミ、直ニ渡ス也
一、御馬ノかい料ノ人足、弐人ニて不相成由候間、今日より壱人相加候事

一、御下台所ノ人かまぬり(窯塗り)申候事

   (不破)平太夫・(中山)左二右衛門・(林)弥五右衛門ニ、談合申渡ス也
一、御国ニて、役儀披仕候衆、役当りノ事

   則、申渡ス也
一、野瀬少左衛門、高月ノ人留御番ニ申付候事

   北村(平右衛門)所へのさしかミ、(吉田)少右衛門尉へ相渡也
一、当町ニ御闕所物在之由候、請取らせ可申事

一、(井上)宗加登城候て、金山之諸奉行談合候也


    ■六月廿三日 晴天 酉ノ刻ヨリ雨ル

   廿九日二、有(田)吉兵衛へ申上せ候也
一、大坂へ、帆莚ノ事申遣へきなり

一、何も御番所たゝ居候ものニ、竹釘一日二、壱人ニ付壱升宛と申付候、其壱升ハ、毎日之儀仕
  共不罷成由、弥五右衛門・(河田)八右衛門被申候由、七月三日より、壱人ニ付五合つゝ被申
  付候へと、申渡候事

   「貼紙」
    一、荷物弐歩六朱分ノ運上銀
      丁銀五匁六分八リン六毛   平田勘兵衛

一、長崎へ之使、今朝戻し申候

一、巻網持せ、清助、廿三日之未明ニ小早ニて、出船仕候
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