津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

ご恵贈御礼

2011-04-22 09:22:34 | 歴史

 「肥後加藤家旧蔵豊臣秀吉・秀次朱印状について」

東大史料編纂所の金子拓先生からご恵贈たまわった。これは史料編纂所の研究所紀要第21号(2011年3月)の抜刷版である。九州大学が所蔵する「宇土細川家文書」にある、「阿部氏家蔵太閤朱印写」から51点が翻刻紹介されている。阿部家とは加藤清正の孫女献珠院(忠弘女)が嫁いだ阿部家のことである。忠弘没後その遺品が献珠院の手により阿部家に伝えられたものである。宇土細川家の所蔵になるのは明治以降(神風連乱以降?)のことであるらしい。清正公を敬愛してやまなかった細川家の所蔵になったことも意味あることである。
翻刻されたこれらの文書を目にすると、清正公への想いを新たにするものである。どうやら続編があるらしく楽しみに待ちたいと思う。

一介の歴史道楽者である私と先生の接点は、私が単なる御著の読者に過ぎない。親しくお声をかけていただきメールをいただいたり、講演会でお目にかかり少々のお話を申上げるくらいのことである。ご恵贈は思いもかけないことであった。

東大史料編纂所のサイトで、研究所紀要は公開されているが、残念ながらまだ21号はUPされていない。UPされた折には又ご報告申上げたい。

       http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kiyo-j.html

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

感謝

2011-04-21 07:40:07 | 徒然
閲覧   802,298 PV  
訪問者   200,364 IP  

 上記カウンターは、gooブログのシステムに組み込まれているものである。
今朝7:00過ぎPCを立ち上げたら,この数字が飛び込んできた。本人は特に大感激しているわけではないが、かえって迂闊なことはできないぞというプレッシャーとなっている。
このブログは第1回の書き込みが2004/7/24だから、6年9ヶ月ほどになる。こんな数字になるとは考えても見なかったが、最近では毎日400~450人ほどの皆様に御覧いただいている。只々感謝申上げる。

 当サイトには当初「他力本願的」という文字を冠していた。皆様のお力を拝借しながら勉強したいと考えたからだ。これは今でもまったく変らず、暖かい皆様のご厚誼に甘えるばかりである。齢69古希の爺となったが、まずは10年を目指して頑張ろうと思っている。あと3年数ヶ月この位は健康でいられるだろう・・・(判らないが)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人違い・・?

2011-04-20 08:34:41 | 歴史

 数日前、金沢在住の吉原氏の佐久間氏に関する論考をご紹介した。そのご佐久間勝之が討った(?)と伝えられる竹田永翁についても埼玉のTK様の論考等をご紹介してきた。
「おきく物語」にその竹田永翁が登場しており、永翁が大坂城内で死亡したことをうかがわせている。

           おきく物語 http://www.j-texts.com/kinsei/okiku.html

 この「おきく物語」の編者(?)は、細川家家臣で忠利に殉死した田中意徳の関係者らしいが、意徳が祖母おきくから伝え聞いたことを記したとされる。関係する資料を付き合わせてみると、いささか辻褄が合わなくなってくる。

 先に東京の「ツツミ」様から、次のようなコメントをいただいた。(一部編集)
忠利公の殉死者の中に「田中意徳」の名を見つけ、滅多に無い名から、『おきく物語』書き出しに「田中意徳(割注・池田家の醫也)祖母は。大さかにて。よど殿に。つかへし人にて。云々」とあるのと同一人物なのか否か、と考えていましたが、既に2年近く前に、やはりTK様との間で、この件に関してやり取りがあったようですね。割注の内容と、文禄から慶長の初めに忠利公と共に学んだ人物の祖母が、大坂落城(慶長二十年)の際に二十歳という有り得ない不自然さから考えると、肥後の「田中意徳」は、『おきく物語』に名の有る意徳では無いようにも思えます。(中略) 『おきく物語』も、城を出る常高院(浅井初)を「要光院」と記していたりするので、何処までを史実と捉えるべきか、意徳の件も含め、史料の扱いの難しさを、考えさせられます。

 さて細川家資料にみえる田中意徳とは以下の如くである。

  ■意徳(以得)
元来上方出生之者ニ而、いまた御家に不被召出幼少之節、妙解院様(忠利)於愛宕山御学文被遊候節(文禄三年五月愛宕山福寿院に御登山、慶長三年二月御帰国被成候--吉山市右衛門家記)御一同ニ学文仕候処、昼夜御出精被遊、意徳儀段々心を付奉り御介抱仕上申候、或時御側近被召寄、御出家可被遊旨御内意被成下候間、乍恐最三御留申上候、右之儀共後ニ御満足被為思召上、以後被任御心候節は御知行をも被下、御懇ニ可被召仕之旨、度々御意被成下候、然共御互ニ幼年之儀故其後意徳は存懸も無御座候処、於豊前御代に成早速意徳を上方より被召寄、御知行弐百石被為拝領候  (綿考輯録・巻二十八)

 【忠利殉死】 
 寛永十八年(1641)六月十九日 五人扶持廿石 六十三歳
       於・坪井泰陽寺 介錯・加藤安太夫 
       跡式妻子に五人扶持家屋敷  忠利代豊前召出、忠利愛宕山学文の時に附らる

 
 上記資料からすると意徳の生年は天正7年(1579)であろうか。忠利が55歳で亡くなっているから8歳年上である。大坂城が落城した慶長20年(1615-元和に改元)には37歳になっている。「おきく物語」をWEB上で公開されている菊池真一氏の解説によると、「菊は慶長元年生まれ、幼少より茶々(淀殿)に仕え、大坂落城時二十歳、後、松の丸殿に仕え、やがて田中意徳の祖父に嫁し、延宝六年(1678)八十三歳で没した。」とある。いずれにしても年齢が逆転しており、この意徳なる人は忠利に殉死した意徳とは別人であることは間違いない。竹田永翁についてお教えいただいたTK様は、備前池田家中に代々意徳を名乗るお宅がある事を以前お教え下さっていた。
        http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/c3127539f73cf527ce85ef6970b03c95

 果たして「おきく」の孫(?)なる田中意徳は、何処の何方であろうか。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さむらいの文学

2011-04-19 14:39:38 | 書籍・読書
       江戸文学〈31〉特集 さむらいの文学
 
             ぺりかん社

         【目次】

        武士文学としての『秘書』
        武士の役覚書
        将軍の連歌
        「漂泊野人」江島為信の文学と仕官
        山の手の狂歌連—朱楽連と便々館湖鯉鮒
        サムライ達の物語—近世軍書
        『当世敵討武道穐寝覚』について
        「悪」の武士道—民谷伊右衛門をめぐって
        「士(さむらい)」と「士」
        士としての顧炎武
        白石・鳩巣・武士道—浄瑠璃坂事件の資料を紹介して忠誠心の問題に及ぶ
        コラム・町人西鶴にとっての武家
        『功名咄』の一話
        「野暮な屋敷の大小捨てて」
        片桐且元と大筒
        水戸藩家老中山風軒の文事—和文「方丈記」の紹介

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

竹田永翁のすべて

2011-04-19 08:49:45 | 歴史

4/17のブログでご紹介した、「竹田永翁の最後について」(タイトルは津々堂による)の論考をお送りいただいた埼玉在住のTKさまは、「大坂城士」の研究をしておられる。再び詳細な論考をお送りいただいたので氏のご了解を得てここにご紹介する。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

         竹田永翁

                               『  』・・・史料引用
                               [  ]・・・原注
                               (  )・・・史料名
                               〔  〕・・・私注
                  
新羅三郎義光十七代裔武田大膳大夫信時の次子武田侍從定榮は典藥頭にて足利義に奉仕し、山城國〔紀伊郡〕竹田を賜り、竹田氏を稱す。號瑞竹軒。定榮に二子あり。長子源次郎定雄。織部頭を稱す。號梅松軒。初め足利義輝に奉仕し、奉行に列す。足利義輝横死の後浪々。尋で織田信長に從ひ、天正元年十二月十四日沼田彌五郎知行分七十貫文の外、所々散在の知行地を宛行る。尋で豐臣秀吉に奉仕す。庭奉行を勤む。法名玄叔應和。妻は若狹國熊川城主沼田上野介光長の三女。〔文祿五年十一月廿八日『侍從女房夏以來幽齋庵ニ在之、今度自准后彼母儀ヘ被仰理、幽齋、同女房無別義歸宅、母義ヨリ竹田梅松内義、御いま入來、於侍從夕食、予、同女、孫各相伴、令滿足了』(兼見卿記)〕次子法印典藥頭永雄。定雄に四子あり。長子藤松。松井新介康之〔妻は沼田光長の長女〕方にて育置かれ、天正十五年十二月十九日知行百二十五石賜る。慶長三年二十七石七斗加せらる。慶長五年美濃表合戰の軍功により百石加せらる。長じて松井苗字を賜り、松井長介定勝を名乘る。慶長七年正月全て七百石を賜る。後に織部助を稱す。入道號正。正保四年四月十四日熊本にて死去。次子源助長勝、竹田家の家督を繼ぐ。豐臣秀頼に仕へ、大坂落城の砌、千疊敷御殿にて切腹。三子藤四郎永翁。四子半左衞門。定勝に二子あり。長子竹田權右衞門長雄〔九兵衞政之〕は加藤忠廣の推舉により鍋島勝茂へ召出さる。其嗣子權右衞門正眞、實は中野宗閑の子なり。其子文右衞門武眞。其子文右衞門信眞。代々肥前鍋島家臣たり。次子松井角左衞門定信號節哉、定勝の家跡を繼ぐ。延寶八年九月病死。實子志摩丞早世しければ前川彦左衞門正信の次子次助に養女〔孫娘〕を配して角左衞門定頼と稱す。全て千石知行す。正五年正月病死。其嫡子角左衞門季定〔四郎大夫定雄〕號一節。代々細川家老臣松井家家司たり(御給人先祖附、先祖由來付、竹田範十郎先祖附、寛政四年八月竹田半彌書上先祖附、鍋島文庫藏諸家系圖、津金寺文書、佐藤行信氏藏文書、永祿六年諸役人附、義演准后日記)。
竹田織部頭定雄號梅松軒の三子竹田藤四郎號永翁、豐臣秀吉、豐臣秀頼に奉仕し、近習役を勤む(竹田範十郎先祖附、綿考輯録)。天正十九年八月五日豐臣鶴松逝き、豐臣秀吉哀惜の念なほやみ難く日夜悒々として樂しまず。『文祿元年正月十六日武田永翁方より申送りける趣に付て秀吉公への御進歌永翁まて被遣候、御贈答の冩
 太閤樣若君樣を過し夜御夢に被成御覽、御こたつの上に御泪落たまり申に付、一首の御詠歌被遊候、納心有て御進歌尤に候、
                                                                大閤樣
  なき人の形見に泪殘し置て行衞しらすもきへはつる哉
        正月十六日
 
  惜からぬ身をまほろしとなすならは涙の玉の行衞尋ねん
 
 御詠歌拜見候、及ひなき私さたのものまても泪の袖雨にもまさり候、扨て、おしからぬ老の身を幻となしても、若君樣の魂のありかを尋ねまほしき心の底を聊か申し述へ候、宜しき樣に御取りなし御披露仰せのところに候也、
                正月十六日                                              幽齋玄旨
           永翁老 玉床下』(綿考輯録)
『〔文祿四年長岡忠興〕秀吉公の召によつて伏見に御のほり候時、藪の内より年の程五十計なる人出て、與一郎樣にて御座候哉、密に申上度事候と申ける故、傍に御立寄被成候へは、今度御召の子細は、秀次公に御一味之由三成訟申候て、御切腹可被仰付との事なり、自是丹後へ御歸國可然由申上候、忠興君聞召、身に於て科なけれハ直ニ伏見に至り、其旨申開くへし、其方ハ如何成者なるそと問せ給へとも、答なくして逃去り行方を不知と也[一説竹田永翁なりといふ][或は石田三成が手の者なるか]夫より直に伏見の御屋敷へ御入、御歸着之趣被仰上候へは、秀次に一味し黄金百枚借候由、實否分明之間は閉門可仕との被仰出也、或日石田、長束、田、前田善院なと相談にて忠興君へ切腹いたさすへきとの書簡被調由也、善院ハ日比御中能かりけれハ、手を叩て坊主衆茶を持て被參よと被申しか、竹田永翁を呼[竹田家記ニ永翁儀、太閤樣御近衆ニ被召仕、内外之御目附役相勤候故、五奉行衆參談之席にも無遠慮、罷免出候とあり]〔中略〕一口飮て熱しとて返しさまにきつと白眼まれけれは、永翁心早き者にて是を悟り、急ぎ佐渡守所へ行、御奉行衆より忠興君へ御切腹の儀申來るへし、御奉書にてハなく私状と見へ候と善院の風情迄を語り候へとも、評議代りけるにや、其状は不來候、[一書奉行衆爐を取卷き、誰彼と名を書き、與一郎と有時、三成火箸を以切ル眞似をす、折節永翁茶を持來て居たりけれハ、是を避んとにや、善院茶熱しとて返され、石田にきつと目くハせせしと云々、一書ニ忠興公若討手來らハ御一戰有へき御覺悟にて備を定め置給ふと云々]其後も永翁方より石田か讒口頻なる由、康之に告知せ候』(綿考輯録)慶長十六年三月豐臣秀頼の上洛に供奉す(秀頼御上洛之次第)。慶長十七年五月四日晝大坂天滿の織田有樂亭茶會に招かる。黒田筑前守長政、石川肥後守康勝參席す。十一月二十四日夜織田有樂亭茶會に招かる。京都住人是庵、毛利河内守秀秋參席す。十二月二十七日朝織田有樂亭茶會に招かる。生駒宮内少輔正繼、槇島勝太重宗參席す(有樂亭茶湯日記)。十二月三十日日野資勝、竹田永翁へ杉原一束、燒物一貝を送る。同日永翁より禮状到來す(資勝卿記)。慶長十九年五月四日晝織田有樂亭茶會に招かる。松大炊、石河伊豆守貞政參席す(有樂亭茶湯日記)。九月廿三日當番にて眞木島玄蕃頭昭光、溝口新助、竹田永翁登城す。豐臣秀頼より双方撤兵の使者として、片桐東市正且元邸へは速水甲斐守守之、今木源右衞門一政、織田有樂邸へは眞木島玄蕃頭昭光、竹田永翁各々差遣さる(淺井一政自記)。同年大坂城に籠る。馬上五十騎、鐵炮七百挺、雜兵七千餘人預る(大坂口實記)。『一、武田永翁、是ハ大閤御咄衆ニて御諫役、仕人ニてハ無御座候』(大坂陣山口休菴咄)『一、五百石計、大閤之時祐筆、秀頼公へ被付候、大坂陣五六年前ヨリ物頭ニ被申付、千計ノ大將、竹田永翁』(土屋知貞私記)『四千石、太閤之時右筆、秀頼公ヘ被仰付、大坂合戰五六年前、物頭ト成、足輕大將、三千人斗預ル、竹田永翁』(攝戰實録)『武田榮翁、千石、或は竹田に作る、榮翁は秀吉公の時祐筆なり、後に四千石を領せりと云々』(新東鑑)十一月二十六日午の刻より七組の衆、木村主計忠行、竹田永翁等、鴫野口へ出役す(大坂御陣覺書、大坂籠城記)。竹田永翁内西川善左衞門、鴫野口にて敵首一級を斬獲す(武家事紀、高松内匠武功)。『一、大野主馬抱へ之者、上下壹萬貳千人之分、扶持方馬乘ふちまて當月分渡由申候、是は永應与申坊主一所ニ而、秀頼の藏を明ケ、金銀米迄まゝニいたし、天正十五年の判金も牢人とも出し申候を見申者申候事』(後藤庄三郎家古文書慶長二十年三月十三日付松平右衞門大夫正綱並後藤庄三郎光次宛板倉伊賀守勝重書状)慶長二十年三月十七日妙心寺の寺僧、大野主馬首治房へ密書を送り、小幡勘兵衞景憲は關東の諜者たるを告ぐ。翌十八日晝大野主馬方にて岡部大學則綱、武藤丹波守、竹田永翁等寄合ひ小幡の處分を議す(景憲家傳)。『右談合之場にて竹田永翁申は、妙心寺の状共理不聞候、伏見城中に勘兵衞忍ひて罷在、隱岐殿〔松平定勝〕、伊賀殿〔板倉勝重〕と竊にからくり候はゝ、 御所 將軍の前は相濟候、左候はゝ何事に又大坂へ可參候半哉、其上昨日は百騎餘の人數を抱へ候へとて三千枚の金子を與ふる書立を達而斟酌仕候へは、人抱裏切の事にもあらす、彼人少も子細は無見得たり、結句あなたより勘兵衞大坂へ參候を聞、伊賀守武略者に而、出家に申付、訴人をさせ、此方に勘兵衞を殺させて、御所へ申、舊冬の無事に籠城の牢人共さへ扶持可放と誓詞の上、何の爲に勘兵衞を呼越、殊に成敗は不思儀成と有而、去年大佛の鐘の銘難題の如く又可被申候、大坂の惣堀既に三の丸迄埋、手も足も無之樣に仕り、押懸可申武略は殿の御身上危く覺たり、此勘兵衞成敗は必不可有、但其身を呼て有の儘に御尋而、返答の樣子を見玉へと』(景憲家傳)同日七ツ頭に大野主馬方へ小幡を呼寄せ、岡部、武藤、隨雲院を以て之を訊問す(景憲家傳)。五月七日大坂衆、天王寺表へ出役す。天王寺表大將毛利豐前守勝永、天王寺南門筋に陣取る(大坂御陣覺書、鵜飼佐太夫大坂陣繪圖)。毛利が左先頭淺井周防守井頼、其左結城權之助、其左竹田永翁なり。何れも幅五十間程の堀切を前にして天王寺東門口に備を立る(鵜飼佐太夫大坂陣繪圖)。竹田人數百騎(毛利系傳所載くひ帳)。堀切の先へ淺井が鐵炮の者十餘人張出す(鵜飼佐太夫大坂陣繪圖)。大野修理大夫治長が右先頭、毛利が左先頭に並ぶ。大野が旗本は天王寺北東毘沙門ヶ池の南に備を立て、六日の敗殘兵も其隸下に屬す。大野が旗本の背後、小長谷山の北西に右備堀田圖書頭勝喜、野々村伊豫守吉安、左備眞野豐後守頼包、木駿河守正重、伊東丹後守長次等寄合組押續く(大坂御陣覺書、武編年集成、木傳記)。毛利が右手に石川肥後守康勝、其右に篠原又右衞門忠照備を立る。篠原の右前阿倍野街道沿に吉田玄蕃頭重基陣取る(鵜飼佐太夫大坂陣繪圖)。小笠原秀政は天王寺表阿倍野街道に兵〔騎士二百七十餘、歩卒三千餘人〕を三段に分けて備を立る。毛利が旗本は堀切の後に扣へ、毛利が先手は堀切の前に備ふ。毛利が左先頭竹田永翁、諸勢に勝れ出張る。午ノ下刻眞田左衞門佐信繁、鐵炮足輕を小笠原が左軍に差向け挑發す(寛永諸家系圖傳)。小笠原秀政、先手の衆を勵まし之を追撃せしむ。竹田永翁、弓鐵炮を雨の如くに打掛け、其側背を衝き、足輕大將使番白岩市右衞門光重、足輕大將使番森下善兵衞爲重等を討取る。小笠原秀政、大に怒て二陣の衆を押出す。折柄毛利豐前守、本多忠朝を討取り、竹田永翁方へ使を馳て備を立替んと請ふ。竹田永翁肯はず、吾槍を始めて後兔も角も指揮せらるべしと返答し暫時奮鬪す。小笠原勢々人數を繰出し揉立てければ、竹田永翁辟易して天王寺東門の方へ少々退く所を、毛利豐前守、兵を繰出し之を救ふ。小笠原が二陣の衆、勝に乘じて備を亂して溝を越て追行んとす。其時大野修理大夫治長組中、嶋伊豫守正守、石川肥後守康勝、毛利組結城權之助等、小笠原が二陣の右軍を衝く。小笠原秀政、旗本を繰出し、右軍を救援せんとし、勝敗決せざる内に毛利式部、大野が後軍を引率して横合より小笠原が左陣に打懸り、侍大將小笠原主水政信、侍大將岩波平左衞門重直等を討取る。時を移さずして毛利勝永自身兵を馳せて左横合より責懸り、小笠原秀政に重創六箇所、小笠原忠政に重創七箇所を負せ、小笠原忠脩を討取る。然共終には此口にても大坂方總敗軍し諸將離散す。竹田永翁も城を指して引退く(笠系大成、譜牒餘録、寛永諸家系圖傳、寛政重修諸家譜、毛利紀事載くひ帳、難波戰記、國朝大業廣記、保科家傳、大坂記、武編年集成)。
一、七日歸城の途中佐久間勝之に討取らるとする説
『歩者はかり召連、御先手へ參、天王寺邊にて敵にあい申、二人のもの敵の中へむたいに掛入んと仕候を、私〔旗本前備佐久間大膳亮勝之〕をしとゝめ突かゝり、兩人ともに高名仕候、わたくしも能者あらは手にかけ可申と見まはし申所に、人のかたに掛り退敵御座候を大將と見、乘よせ言葉かけ候得者、竹田永應のよし名乘申間、則討捕申、召連候歩のものともに下知仕、みな手をふさかせ候』(佐久間軍記)『〔佐久間勝之〕五月七日天王寺表にをひて竹田永應を討取』(寛永諸家系圖傳)『〔五月〕廿日、竹田永翁首[佐久間大膳亮か家來討取進上申候]』(慶長日記)『〔五月二十日〕佐久間大膳亮勝之[初守政ト稱ス]ガ從士竹田榮翁ヲ討取リ首級ヲ獻ズ』(武編年集成)
一、歸城して翌八日豐臣秀頼に供して自害すとする説
『落城之日長局に居申候、中々いまだ落城なとゝはおもひもよらす、時にそばの粉のありけるを取出して、其下女に申付、是をそば燒にして來れと申ける故、其者ハ御臺所へ參候跡にて玉造口の方ハ燒ヶ申候と申候、其外所々やけ申候と申し〔事之〕外さハきたち候故、千疊敷の御櫞側へ出申候得ば、能何方も見え候故、出見申候へハ、なる程所々燒立候故局へ歸り、帷子を取出し、三ツ重て下帶も三ツして、秀頼公より拜領の鏡を懐中して、御臺所へ出申候へハ、武田榮翁き具足を着て居申候、其外に見知らさる士も二人居申候、女中にあるひはしらさる士、御臺所外にて、肩口の疵を見て給ハれ、上帶をもしめて給ハり候へと申聲をも聞なから、其女中は如何しめされ候や、かまひ不申さしいそき出申候、女中方出不申樣に榮翁申候へ共、夫にもかまひ不申出候』(おきく物語)『〔豐臣秀頼、櫻門より天守に戻り〕永翁ヲ召テ、諸道具不殘殿守ヘ上ケ、燒草ニセヨト仰有』(豐内記)五月八日君側に於て自害す(竹田範十郎先祖附、寛政四年八月竹田半彌書上先祖附、細川家記、駿府記、土屋知貞私記、北川遺書記、松原自休大坂軍記、大坂御陣覺書、大坂籠城記、豐内記、寛文九年佐々木道求大坂物語、道夢聞書、井伊年譜、天慶日次記、武大成記)。
〔竹田永翁天王寺表より城中に引取、君側に於て自害せし事、實なるべし。按ずるに佐久間勝之に討たれしは竹田英甫ならん。〕
竹田半左衞門の子平太夫。松井佐渡守康之の妻自院沼田氏〔沼田上野介光長が長女〕の口添により細川忠利へ召出され、百五十石を賜る。江戸に於て數年奉仕せしが、主の氣に背き、暇乞て筑後國三池に下り一年程浪居す。有馬陣にて立花宗茂手に屬し、首尾宜しければ、細川家へ歸參を許され、歸陣後先知百五十石を賜る。慶安二年三月三日江戸下向に供奉す。時に林外記組に屬して知行三百石。其子安右衞門、寛文七年父の跡目を繼ぐ。其子早之允。後に平太夫を稱す。元祿十一年七月父の跡目を繼ぐ。小姓頭二百石〔飽田郡松崎百十四石一斗一升一合三勺七才、上代南上野三十五石八斗八升八合六勺三才、上玉名内田手永津留五十石〕を知行す。其子平太夫定能。享保十四年九月父の跡目を繼ぐ。其次男家督半彌。其嫡子半十郎。其養嗣子半十郎。其子範十郎。子孫代々肥後細川家臣たり(竹田範十郎先祖附、肥陽諸士鑑)。
 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幽齋公銅像

2011-04-18 16:26:26 | 熊本

 熊本市の出水神社は、細川藤孝(幽齋)公・忠興(三齋)公・忠利公・重賢公を祭神とする神社である。昨年幽齋公の没後400年祭が執り行われ、縁の古今伝授の間が解体改修された。今年三月には幽齋公の銅像が建立された。恥ずかしながらまだ拝見していないので写真をお見せすることが出来ない。製作者田畑功氏のブログを御紹介しておく。

            http://www.habiro-art.com/blog/?p=684

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

竹田氏先祖附にみる「永翁」

2011-04-18 12:19:51 | 歴史

          先祖附
一私先祖者森羅三郎義光之孫甲斐源氏之末流ニ而武田定栄代ニ至従
  足利将軍義晴公城州竹田之地を賜領地仕候ニ付氏を竹田与改申候
  定栄儀者典薬頭ニ而瑞竹軒と申 義晴公江昵近仕候
一竹田織部正定雄儀右定栄子にて初竹田源次郎後梅松軒と申候
  義輝公御代御奉行職相勤 足利家御没落後 秀吉公江仕申候
一松井織部定勝儀右梅松軒嫡子ニ而初竹田藤松中比長助と申候
  母者沼田上野介光長女ニ而松井佐渡守康之妻者 幽齋様之御養女ニ而
  母為ニ姉ニ而御座候故藤松儀丹後久美城江罷越候を康之被留置天正十五年
  知行百弐拾五石遣被申其後松井氏を授松井長助与改申候
  長岡佐渡守興長幼年之比より附役被申付慶長三年弐拾七告餘加増
  同五年八月濃州岐阜御合戦之節興長江相従追手門■■(紙貼付けにて判読不明)
  堀ニ早ク附働申候 同九月関原御合戦ノ節ハ鑓を合首を捕申候
  帰陳之上感状を以百石加増被申付 同七年於豊後國木付猶又加増
  都合七百石ニ而三番組之番頭相勤織部と改名仕興長代迄相勤正保四年
  於熊本病死仕候 織部子孫今以松井之名字免無之内者竹田ト名乗申候
一竹田源助長勝儀右梅松軒二男ニ而御座候 秀吉公 秀頼公江仕元和元年
  五月大坂落城之節於千畳敷 秀頼公江殉死仕候
一竹田永翁儀右梅松軒三男ニ而御座候 秀吉公 秀頼公江仕大坂御陳之節
  御馬印并雑兵八千預リ天王寺表江出張備立候様子ハ大坂御陳之御繪圖ニ
  相見候通御座候 右源助同様於大坂殉死仕候
一私高祖父竹田半左衛門儀右梅松軒四男にて御座候

  右者此節吟味仕委相分候處右之通御座候

          寛政四年八月         竹田半弥

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
         竹田氏略系図(作成 責・津々堂)

 梅松軒---+--松井織部---松井角左衛門・・・・・・・・・・→松井家家臣竹田家
        |
        +--源助長勝
        |
        +--永翁
        |         初代
        +--半左衛門---平大夫---安右衛門--+--平大夫・・・→細川家家臣竹田家
                                   |
                                   +---早之允 (以下不明・絶家カ)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

竹田永翁の最後について

2011-04-17 09:33:27 | 歴史

 五回に亘り金沢在住の吉原氏の「佐久間氏に関する論考」をご紹介した。その前に私は佐久間勝之が竹田永翁を討ち取った人物とご紹介したが、これはどうやら断定するにはいささか疑問があるように思える。ご厚誼をいただいているTKさまから、次のようなご教示をいただいた。感謝申上げる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

大坂陣で佐久間勝之の討ち取った首につきまして、かねてより一寸疑問を抱いてます。慶長二十年五月七日竹田永翁は天王寺表へ出役しています。天王寺表の大將は毛利豐前守吉政で、天王寺の南門筋に陣取り、その左先頭には淺井周防守井頼、其左に結城權之助、其左に竹田永翁が、それぞれ幅五十間程の堀切を前にして天王寺東門口に備を立てました(鵜飼佐太夫大坂陣繪圖、大坂御陣覺書)。竹田永翁麾下の人數は百騎です(毛利系傳)。さて「佐久間軍記」に『人のかたに掛り退敵御座候を大將と見、乘よせ言葉かけ候得者、竹田永應のよし名乘申間、則討捕申』とあるのですが、一方で「おきく物語」には、『御臺所へ出申候へハ、武田榮翁くろき具足を着て居申候、其外に見知らさる士も二人居申候』
とあり、既に大坂城中に引揚げているようです。どちらの史料も必ずしも全幅の信頼はできませんが、「慶長日記」にある五月『廿日、竹田永翁首[佐久間大膳亮か家來討取進上申候]』という事と、「竹田範十郎先祖附、寛政四年八月竹田半彌書上先祖附、細川家記、駿府記、土屋知貞私記、北川遺書記、松原自休大坂軍記、大坂御陣覺書、大坂籠城記、豐内記、寛文九年佐々木道求大坂物語」等にあるように、五月八日竹田永翁が君側で自害した事は確かだと思います。では佐久間勝之が討ち取ったのは誰でしょう。一つの可能性として、大坂陣で戦死した法印竹田定白が挙げられると思います。定白の號は、「寛政重修諸家譜」に英甫、「竹田家譜」に永翁齊とあります。仮に「佐久間軍記」にあるように戦場で名乗ったとしても、物際の騒がしい中エイホとエイヲウを聞き違える可能性もあるかもしれません。実際に冬の陣の本町橋筋の夜討で、槍の相手が岩田と名乗ったのを戦後イワサと覚えていたという武士の事例もあります(兵用拾話)。ただし「竹田家譜」では定白は大坂落城の際に城外の竹束の上で自害とし、佐久間との取合いについて記載はなく、真相はよくわかりません。それにしても七日に取った首を二十日になって進上したのは何故でしょうか。名が知れていれば直にも進上しそうな気もしますが、これもよくわかりません。

参考:おきく物語
   http://www.j-texts.com/kinsei/okiku.html

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐久間氏関係論考- 5

2011-04-16 10:37:16 | 歴史

            金沢の歴史と歩んだ先祖たち
                                  吉原 実

 

 金沢経済同友会の提言から始まった「ふるさと教育」の一環として官民一体で金沢の歴史を見直す動きが活発になってきている。しかし、百万石まつりのイメージゆえか、加賀百万石・前田利家から金沢の歴史が始まった様に取られる方も多いようである。現代に先立つ二百五十年の華やかな前田家の歴史が、金沢の伝統文化に色濃くその影響を残しているゆえ致し方ない事でもあろうと思うが、それに至る前の歴史も決して忘れてはならない。

古代から中世に至り、加賀の守護富樫氏が一向衆に滅ぼされ、それ以後八十五年に渡り金沢御堂(現金沢城公園)を中心とした一向衆門徒たちの「百姓の持ちたる国」も金沢の歴史の大きな部分を占める。やがて戦国時代も後期を迎え、天正八年(1580)三月、時の秩序を大きく変えようとしていた尾張・織田信長の軍勢がその将柴田勝家の下、ここ金沢にも侵入を開始した。その先鋒に立ったのが、勝家の甥である佐久間玄蕃盛政だったのである。その猛攻の前に、門徒衆が守る金沢御堂はあえなく陥落し、盛政は十三万石を領する初代金沢城主となったのである。

しかし、門徒衆は白山麓の村々で最期まで激しく抵抗し、盛政にゆっくり城に留まらせる事を許さなかった。盛政は、白山麓・鳥越村(白山市)を中心とする山内衆と呼ばれる一向一揆門徒たちの掃討に乗り出すが、その中核となっていた鈴木出羽守の巧みな采配により、苦戦を強いられる。二度に渡る敗戦の後、巧みに講和を持ちかけ松任城(白山市)で出羽守始め首謀者たちを誘殺してしまう。その後、盛政は鳥越城と二曲(ふとぎ)城を落とし、吉原次郎兵衛(私の先祖の一人と思われる)と毛利九郎兵衛をそれぞれ城将として入れ、四百人程の兵を置いた。

翌天正九年二月、織田信長は京で正親町天皇を迎え馬揃え(軍事パレード)を開催。その為、柴田勝家始め多くの武将が全国から参加し、その防備の手薄になった隙を突き一向衆が突然蜂起した。この知らせを受けた盛政は、急いで救援に向かうが、金沢城より鳥越へ向かう途中の鶴来あたりで「城は陥落、城兵はことごとく討ち死に」という悲報を受け取る。やがて敵の真っ只中に突入した盛政は、愛馬・晴嵐に跨り、槍をふるって獅子奮迅の働きをする。この気迫に圧倒された一揆軍はたじろぎ、二つの城を取り返されてしまう。これ以降盛政は、「鬼玄蕃」と呼ばれ門徒衆に恐れられ、味方には畏敬されるのである。その姿は、京都・建勲神社の絵馬に描かれている。これ以降、白山下十六村は盛政に従ったが、吉野、佐良、瀬波、尾添など石川郡八村はなおも抵抗を続けた。天正十年三月、吉野谷村(白山市)を中心とした門徒衆が一斉に蜂起、盛政たち柴田軍は徹底した掃討作戦を展開し、春なお浅い手取川を血で染めたと伝わる。後の加賀藩への吉野村上申書には捕らえられて磔にされた者三百人、一揆を起こした七カ村は三年の間、耕す人とて無く、荒地となっていたと記されている。この様に金沢のみならず、白山麓を舞台に盛政は、織田信長軍の先鋒として戦に明け暮れなければならない状況にあったのである。その名は今なお白山市の歴史の中にはっきりと残されている。

その間にも盛政はここ金沢でも、蓮池堀(後の百間堀)をうがち西町、南町、堤町、松原町(きんしん本店のあたり)、近江町、安江町、金屋町、材木町のいわゆる尾山八町を整備し、後の城下町金沢の基盤を造ったのである。

京・本能寺で織田信長が死に、その翌年天正十一年天下の覇権をかけて柴田勝家と羽柴秀吉が賤ヶ岳で戦い、それにも柴田方の先鋒として活躍した盛政だったが、武運つたなく戦に敗れ、後に京で斬首され「世の中を巡りも果てぬ小車は火宅のかどをいずるなりけり」との辞世の句を残し、その華々しい生涯をわずか三十歳で終えた。三年間という短い金沢城主であったが、初代城主としてのその数々の事績は、その名と共に語り継がれるべきではなかろうか。

その後に入った金沢城主・前田利家より、加賀百万石・前田家の華々しい歴史が連綿と続く事になる。その加賀藩二代藩主・前田利長に仕えた佐久間半右衛門という人物がいる。織田家の宿老であった佐久間信盛の子で、盛政の父方の従兄弟にあたる。母は前田家の本家である尾張・前田城主であった前田種利の娘で、利家の父、利昌のいとこになる。

この様に元々前田家と姻戚関係にあったこの半右衛門の孫娘が、実は三代藩主・利常の子(女子)を産んでいる。しかし、この事は当時秘密とされてその子は他家に養女に出された後、加賀ハ家のひとつ前田対馬守直正の妻となり駿河守孝貞を産んでいる。やがてこの人は小松城代や金沢城代を務めた加賀ハ家の重鎮となり、その家は幕末まで続く事になる。佐久間半右衛門家も後に四家に分かれ、加賀藩士として幕末を迎える事になるのだが、その中にも特筆すべき人物が出ている。佐久間寛台(ひろもと)というその人は、藩の書物奉行兼書写奉行を務めていた。当時、加賀宝生流の能楽は爛熟期を迎えていたが、藩校・明倫堂で初代和学師範の野尻直啓に師事し学んだ教養で、その加賀宝生流最初の刊本『宝生流寛政版謡本』の注訳に取り組んだ。文化六年(1809)から三年かけ、加賀藩宝生流の謡曲二百十番の注訳書『謡言粗志』(ようげんそし)四十二冊を編纂したのである。それは加賀藩の秘本として現在に受け継がれている。

一方、我が家は盛政の弟、安政が祖であり賤ヶ岳の合戦で生き残り、後に徳川の大名となり飯山藩主(長野県飯山市)となる。大河ドラマ「新撰組」で石坂浩二さんが演じていた幕末の洋学者、佐久間象山が本家筋にあたる。残念ながら私の家は金沢と一時縁が途絶えたが、ここ金沢にもその歴史と共に歩んだ加賀藩ゆかりの先祖達がいたのである。今、その人たちは野田山・大乗寺の本多家墓地に並んだ所で静かに眠っている。

これらの史実を後世に伝えるべく数年前より活動し、石川県、金沢市など行政側にも理解を求めた所、速やかに対応して下さり金沢城公園内や『金沢市史』などの文献にも初代金沢城主・佐久間盛政の事績と名が残った。また、タイミングよく大河ドラマ「利家とまつ」にも登場した。私自身も論考の執筆や講演などを通して多くの人に史実を知って頂くように努力している。お陰で最近は新聞等にもその名を見ることができるようになってきた。それと共に、ここ金沢に我が家の家紋を染め抜いた旗が翻った時があった事に対しても、大きな誇りと感動を覚える。

「ふるさと教育」の一環として県教委の歴史副読本の編さんや前田家墓墳調査、金沢城調査研究など多くの事が行われている。これらを通して史実に沿った形での金沢の歴史を後世に余すことなく伝えて行く為には、私のようなささやかな行動など官民一体の努力が必要だと思われる。

 

 

        金沢信用金庫会誌・平成173月掲

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

漢字の気持ち

2011-04-16 08:54:22 | 書籍・読書
    漢字の気持ち (新潮文庫)
 
         新潮社

【本の内容】
漢字は、人々の思いを背負っている。祈りや愛情、思考や哲学、悩みや苦しみなど、人間の心のありようが凝縮されている—古代から脈々と続く漢字の心象に魅かれた書家・刻字家高橋政巳が、語源を遡り、百余の漢字を筆書きしながら、古代の中国や日本人の心と姿を明らかにする。「恋」と「変」はどう違う?名前の漢字の由来は?漢字の奥深さと楽しさに溢れたユニークな漢字読本。

【目次】
第1章 人として大切なこと(食卓を囲んで心と心が響き合う—響
     パンドラの箱には一枚の布が残っていた?—希 ほか)
第2章 連想を楽しむ(「人」の向きが変わると—人従比北背色
     足跡の位置が変わると字も変わる—止出歩 ほか)
第3章 多面的な世界に遊ぶ(「ひかり」と「かげ」の関係—光景陽陰
     「みる」にも多様な「みかた」がある—看見視観診監 ほか)
第4章 社会のことを考える(神聖な動物による神判—法慶薦
     「医は仁術」ならぬ「医は呪術なり」?—医楽療薬 ほか)
第5章 自分を見つめる(「私」とは何?—私僕自己吾我
     「悲しみ」と「哀しみ」の違い—悲哀 ほか)
第6章 人生をいとおしむ(「愛」をめぐる変遷—愛
     「やさしさ」の形とは—優 ほか)

【著者情報】

高橋 政巳
1947(昭和22)年、福島県生れ。刻字の草分け的存在の故・長揚石氏(国際刻字聯盟初代会長)に師事。2010(平成22)年、毎日書道展刻字部門会員賞受賞。福島県喜多方市でギャラリー「樂篆工房」を主宰し、篆書を初めとする古代漢字を通じて、その歴史的意味や美しさを探求している

伊東 ひとみ
1957(昭和32)年、静岡県生れ。奈良女子大学理学部生物学科卒。奈良新聞社で文化面記者、雑誌・単行本の編集者を経て、文筆家に。源氏物語など中古文学に通じている 


     

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸のお金の物語

2011-04-16 08:25:34 | 書籍・読書
     江戸のお金の物語 (日経プレミアシリーズ)
 
         日本経済新聞出版社

2007年日本管理会計学会「論文賞」を受賞したというこの本、ぼんくら頭の私は江戸期の貨幣制度がよく理解できないでいる。この本を読んで、人様に自信を持って話せるようになりたい。 
    

【本の内容】
「銭の単位は十進法、金は四進法と十進法、銀は秤で量って使う」「お茶や薬は銀、日用品は銭で支払う」—やたらと複雑だった江戸時代のお金は、いったいどのように作られ、稼がれ、使われていたのか。意外に知らない江戸の通貨事情をユニークなエピソードとともに紹介する。

【目次】
序章 江戸時代はお金の時代
第1章 複雑だった江戸時代のお金—金・銀・銭の三貨幣
第2章 町人のお金の稼ぎ方・使い方
第3章 お金に追いまくられる武士
第4章 お金と貿易・お金の改鋳
第5章 明治になって    
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雑花(華)錦語集

2011-04-15 10:32:50 | 熊本

 これは加々美又兵衛長意(星々子)の筆による、膨大な記録集である。   http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/67aee888361aa7fe2a5cd8a75e15d773
全196冊に及ぶといわれているものの内、170冊が熊本県立図書館に現存する。

 又兵衛は他にも錦嚢移文も著し、是についてはそのリストをかってご紹介した。
http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/56abb00421757bb9870efd5bed93b7cc
http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/9ab0218e5a89cd2656688987d3249c2b
http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/98840bf0cbe8c7c8b8c1a36e1545aa42

 さてこの雑花錦語集が、熊本県立大学文学部の日本語日本文学科で読み下しの作業が行われ、その成果が冊子として発行されていることを知った。昨日熊本県立図書館にその六編及び七編が並べられており、自由に持ち帰ることが出来たので頂戴してきた。これはありがたいことである。司書の方にお聞きすると、自由配布は初めてのことらしい。是非とも一~五編もそろえたいと思い、県立大学に問い合わせをしようと思っている。

 錦嚢移文も膨大な量で、私も微々たる所を読み下しをしているが、「古文書を読む会」などを立ち上げて、これにチャレンジできないものかと思ったりしている。
 加々美又兵衛が残した二つの業績さえ解読作業は緒に就いたばかりであるから、永青文庫の膨大な史料のすべてが明らかになるには、100年の時間を経ても終わらないのかもしれない。
古文書解読に携わる人たちの育成も問題であろう。何か出来ないか・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐久間氏関係論考- 4

2011-04-15 08:35:12 | 歴史

「江戸初期における近世小大名の実態 信濃飯山・長沼両佐久間家について」

                                       吉原 実

  江戸の初期、元和二年より元禄元年にかけて信濃・飯山藩主と信濃・長沼藩主は戦国武将柴田勝家の甥であり、佐久間盛政の弟にあたる佐久間安政、勝之兄弟を初代とする佐久間氏であった。その初代安政、勝之兄弟は豊臣秀吉直臣として仕えていたが秀吉が没した直後、徳川家康により近江・小河と近江・山路(共に滋賀県東近江市)がそれぞれに与えられた。小河七千石、山路三千石であった。慶長五年(1600)の関が原合戦には東軍徳川方として参陣し、その功により戦後近江・高島(滋賀県高島市マキノ・今津)が加増され一万八千石の大名になったのである。さらに慶長十三年には常陸小田(茨城県つくば市)に五千石加増された。旧主であった豊臣氏との戦い大坂ノ陣では冬・夏ノ陣ともに徳川秀忠に従い、その臣土井利勝の下にあったようである。そして戦後その功により、安政は信濃・飯山(長野県飯山市)三万二千石、勝之は信濃・長沼(長野県長野市)一万八千石を加増拝領した。元和二年(1616)のことである。これら所領の変貌を詳しく見ていくことにする。

 

飯山、長沼付近の所領について

安政、勝之が拝領した北信濃の地の多くは、越後・高田藩(新潟県上越市)四十五万石で家康の六男であった松平忠輝の領地であったが、素行が悪いという理由で改易になり、それに伴う大名の配置替えで二人には千曲川の左岸の地が与えられた。 

 信州水内郡の内、一万二千五百十八石余りが長沼藩領になった。寛永十一年十一月十二日、駿府城番を務めていた勝之が病死し、嫡男勝年はすでに早世していたため次男勝友が二代藩主になり、同時に勝年の子勝盛に五千石を分地して長沼居館に住まわせ長沼知行所とした。寛永十九年に勝友が二十七歳の若さで亡くなり、幕府は長男勝豊(八歳)に家督相続を許し、次男勝興(七歳)に三千石を分地させ旗本として赤沼村(長野県豊野町)の新館に住まわせ赤沼知行所とした。

 正保三年(1646)九月、勝盛が嗣子がないまま二十三歳で病死したため改易され、長沼知行所は収公された。その際長沼藩領との部分的な差し替えが行なわれたようである。正保郷村帳では長沼知行所に属していた三才村・石村・神代村が長沼藩領に組み替えられている。その反面、長沼藩領から現在の信濃町、牟礼村の多くの村々がはずされている。この事は後の寛文七年(1667)十一月の松代・長沼領五十八カ村の黒姫山入会山論の訴状にも書かれている。「佐久間大膳殿(勝之のことであるが、実際は勝豊の代)御知行の内十五か村、二十一年以前替地に成られ、御領所に罷りなり候」この二十一年前というのが正保四年にあたる。同時に赤沼知行所の村々も差し替えられたらしく寛文十年(1670)の訴状に正保郷村帳と異なる千七百石余りの村々が出てくる。一万石になった長沼藩は、三代藩主勝豊が貞享二年(1685)八月に死去、次男勝茲(かつちか・十七歳)が四代目藩主となる。しかし、元禄元年(1688)五月十四日将軍綱吉の御側小姓となったが、翌日綱吉の気色にふれる言動があって逼塞させられ、十八日病と偽り役を辞そうとした事がさらに逆鱗にふれ、改易を申し渡され領地は幕府領に編入され長沼城は破却された。

 一方赤沼知行所も、勝興が寛文四年五月に死去し、実子がなかったため、長沼藩二代藩主勝友の弟で旗本になっていた佐久間勝種の次男盛遠を養子として後を継がした。しかし、天和二年(1682)八月、勝種が罪科に問われ改易

され遠流になった。これに連座して盛遠も改易され赤沼知行所は廃絶されたのである。後に小禄の旗本として残ることになるのだが、長沼藩系の佐久間一族は七十年余りで大名から姿を消すのである。

 そのような長沼藩領は現在の長野県内に比定すると、長野市内の長沼地区を中心にして信濃町、三水村、牟礼村などの千曲川左岸で、防御上長沼城に千曲川の流れを引き込む改修工事も行なったようで、現在の流れにその痕跡が見られる。新田開発にも熱心で、北国街道周辺に特に多くの新田が開発されたようである。現在の野尻湖畔にある黒姫山の入会をめぐり、飯山藩との間に度々論争があったようで、特に飯山・佐久間家断絶後にはその回数も増え、幕府をも巻き込む入会山論を展開したようである。また、赤沼知行所における佐久間勝種、盛遠親子の過酷な治世に対する寛文十年(1670)の「信州水内郡赤沼領惣百姓中訴状」は有名である。十七か条に渡り領主の非道ぶりを幕府に訴えたもので、その為か後の天和二年(1682)、勝種の遠流と盛遠の改易という結果をもたらす事になる。

ここで、当時の過酷な大名の改易(とりつぶし)について述べる。改易は慶長五年(1600)の関ヶ原合戦の大規模な戦後処理に始まり、幕末までのおよそ二百六十年間に三百六十余家がとりつぶしあるいは減封処分されている。   とくに家康・秀忠・家光の三代のあいだに処分された大名は二百二十四家、没収総高は一千二百十四万八千九百五十石にものぼり、そのうち百七十五家は外様大名で多くは豊臣系の外様大名である。没収された諸大名の所領は、そのほとんどが徳川一門の親藩や譜代大名に与えられ、幕府直轄地(天領)や旗本領となったのである。飯山佐久間家の場合も、最期の藩主となった安次がわずか九歳でまさかの急死、それを生前の家督相続者の届出義務を怠ったとの理由で容赦なく処断したものだった。長沼佐久間家の場合は、徹底的な「賞罰厳明」政策で知られる五代将軍綱吉の時で、藩主勝茲の将軍に対する不敬との理由だが、綱吉の短気・偏執狂的性格から難癖を付けられたのかもしれず、不運としか言いようがない。播州赤穂浅野家に対する処置の仕方からも想像が付くようである。改易とは、幕府領への収公目的を第一とする政治的な手段であった気がする。この長沼藩改易の様子は詳しく史料に残っている。元禄元年五月二十一日城地請取役として飯山城主・松平遠江守忠親が仰せ付けられ、江戸より御徒士目付阿部四郎五郎、井上新左衛門の二人が出張した。五月二十五日飯山を出立した松平忠親は、途中病気のため神代村にて三夜逗留、二十八日全快して長沼に至り、城地を受け取った。領地は高井郡新野村御領所陣屋代官・滝野重右衛門へ預けられた。城主・勝玆は丹羽若狭守長次に預けられ、奥州二本松の城中に蟄居させられた。元禄四年正月二日、二十三歳の生涯をそこで閉じたのである。この時江戸より検視として御徒士目付石崎甚兵衛、畦柳弥一兵衛の両人が二本松まで出張した。勝玆の妻は母方の叔父、本多備前守忠将(母の兄)へ預けられ、江戸八丁堀屋敷に移り住み女子を出産、公式の手続きを経て家名仰せ付けられ佐久間左京と称し百五十石賜り、次の代には江戸駿河台坂口にて屋敷を拝領、三百石に加増された。その後幾多の変遷を経て、秋月長門守麻布屋敷内に居住し、甲府在番を勤め二百石にて維新を迎えたのである。

 次に前後するが、安政、勝之が近江より信濃の地に移封された経緯をもう一度詳しく述べる。元和二年、松平忠輝の除封処分によって、高井郡の堀直重、小笠原忠知、幕府直轄地を除いた川中島四郡が空き、ここが新たに入封した松平忠昌、佐久間安政、同勝之、近藤高政、河野氏勝などの所領と井上新左衛門、酒井忠利、稲垣忠左衛門などが管轄する幕府直轄領とに分割された。

飯山藩佐久間安政領は現在の長野県飯山市と下水内郡全郡(栄村)、上水内郡内の神代の一部と舟竹、福王子、芋川、倉井、赤塩、古海、柴津、熊坂、野尻、柏原、浅野、大倉(信濃町、三水村、牟礼村、長野市の一部など)を含んだ地域である。

 その治世では、真宗寺・大聖寺(佐久間家の菩提寺)・英岩寺・光蓮寺・常福寺・慶宗寺等の寺領を安堵せしめ、新たに移転してきた西念寺・称念寺・西敬寺・妙専寺・蓮證寺・忠恩寺などにおのおの寺領を与え、今日の飯山の寺町を作ったのである。

二代藩主安長の頃、幕府の宗教政策により北信濃の修験道は聖護院別当となった勝仙院が管轄し、伊勢・熊野・富士・白山・愛宕・三島等諸山の先達を務めることとなった。安長は領内の修験を取り締まる年行事職を勝仙院に委ね専から修験寺院の庇護に当たった。この頃飯山の愛宕山権現は小菅大聖院末であったが、著しく荒廃していた。それを郭伝房に再興させ、領内修験寺を保護した。

 寛永十三年には、太田村大坪の新地寺岡に真宗寺を戸狩村より移建、柏原明専寺を芝野へ移し、宿場町の整備を行なっている。飯山八幡社、諏訪社、飯綱社はじめ南条、上倉、奈良沢、瀬木、静間等の神社に領地を寄進したり、千曲川の川欠が激しいので伊勢神宮に社領を寄進して祈祷をさせている。

 江戸城修築の折には、叔父長沼藩主・佐久間勝之や小諸藩主・松平忠憲と共に土井利勝の手に属し、江戸城惣廓の石塁総坪四万四千五百余坪の中玄関内前門虎口ならびに西城石垣を築いたのである。また、勝之は上野東叡山寛永寺の建立にあたり諸大名と共に寛永八年、石造り大燈篭一基(お化け燈篭と言われ現存している)を奉納している。

 また高井郡の天領代官や松代藩主・真田信之などと、木曾山支配の尾張大納言と共に巣鷹の親子を将軍に寄進している。因みに安長の兄で早世した勝宗の奥方は真田信之の女で死別後松代へ戻り、剃髪して見樹院と称し、倉科村の内三百石を貰い母の菩提を弔うため大英寺を建立した。このような真田家との関係のおかげで飯山・長沼両佐久間家断絶の折、多くの家臣が真田家に仕官したようで、此の内の一家飯山藩主の名跡を継いだ松代藩士の家より、幕末の洋学者・佐久間象山が出るのである。

 安政、勝之は幕府中枢との関係にも気を配ったようで、「黒衣の宰相」と言われた金地院崇伝とも親しく交流を交わしていたようである。共に先祖が鎌倉幕府成立に功があった相模・三浦一族であったことも関係しているのかもしれない。また、飯山二代藩主・安長の奥方は徳川秀忠三臣の一人老中・井上正就の女である。京都所司代・板倉重宗とも親しく交流を交わしていたようである。また安政の奥方(後妻)は正親町天皇と織田信長の間を取り持った武家伝奏の公家・勧修寺晴豊の女であるが、後陽成天皇の武家伝奏・勧修寺光豊の姉にあたる。

 小大名ゆえの涙ぐましい努力のかいもなく、不運にも寛永十五年十二月、三代藩主安次が夭折し飯山佐久間家は断絶、幕府から使番蒔田玄蕃頭定正が一時飯山城目付となり、やがて遠州掛川より松平忠倶が入封して飯山城主となったのである。

 

 

近江・高島付近の所領について

 安政・勝之が飯山と長沼に移封される以前、共に近江・高島(現在の滋賀県高島市マキノ、近江今津地域)に所領を持っていたが、それがそのまま飯山・長沼両藩の飛地となり、代官所が置かれた。飯山藩領としては、マキノ地域の二十村の内十村でその石高は、一万二百八石九斗四升八合となる(寛文検高)。高島郡内の他の地域(今津、新朝日、安曇川)にも三千七百三十五石余の石高があ

り、合計一万五千石余が高島郡内にあったようである。

 その代官所は中庄村に置かれ、貢租微収と民生に当たった。その代官は佐久間九郎兵衛、小原作左衛門、山本小三郎と三代に渡ったのである。その中庄に安政が慶長年間に建立したと言われる菩提寺幡岳寺がある。

位牌堂には、安政や叔父にあたる柴田勝家などの位牌が現存し、長谷川派絵師により、臨済宗の高僧・雲居希鷹(うんごきょう)が賛を書いたと思われる安政の肖像画も伝わっている。しかし、マキノ地域を治めていた飯山藩に関する史料は乏しく、研究もなされていないのが現状である。

 佐久間勝之が治めた長沼藩領は、近江今津近辺に集まっていたようである。

大供、新保、上弘部、藺生、岸脇、井ノ口、中ノ町、浜分、北仰、桂、酒波、深清水(すべて今津地区)などで、領家(浜分村)に陣屋が置かれた。

旗本であった勝之の次男勝興の赤沼知行所領も、北仰、桂、深清水にあったようである。深清水の一部は飯山藩領でもあったが、他にも多くの大名が領地を持ったようである。

近江山路・小川の所領について

 秀吉没後に徳川家康より、近江佐和山近くの小川(小河)を安政が、山路を勝之が与えられた所領である。共に滋賀県東近江市内であるが、地元にはなんら史料もなく、東近江市立博物館の学芸員の方が私の問い合わせに驚いていた事が印象的であった。

 安政が八千石、勝之が三千石領していたらしいが、この地より関が原合戦に参陣しその結果大名になった縁の地である。後の飯山、長沼移封までは領していたと思われるが、それを裏付ける史料は皆無である。陣屋はあったようである。

常陸小田・北条の所領について

 慶長十五年(1610)安政には小田、平沢を勝之には北条それぞれ三千石が加増された。共に茨城県つくば市内である。陣屋が置かれていたようであるが、やはり関係した史料は皆無である。『筑波町史』等に記述があるのみである。

その他の所領について

 旗本となっていた佐久間信盛の子、正勝(不干)や信勝が所領を持っていた武蔵国児玉・横見両郡(埼玉県本庄市、吉見町)にも安政、勝之の所領があったようで、不干と連名の元和五年二月発給の文書が現存している。石高など詳細は判明しない。武蔵国(現在の三鷹市内)には旗本柴田勝重の所領があった。勝重は安政、勝之の甥にあたる。関東には佐久間一族の者たちの所領が点在していたようである。

以上のように江戸初期の小大名が、幕府の権威が増大する中その所領経営の為に、苦心している様子が手に取るように解る。四百年も以前の事であり、史料不足は否めないが、せっかく手に入れた武家として上り詰めた大名の地位も幕府の中央集権的政治の都合により、一瞬の内に崩壊してしまう現状を目の当たりにしたような気がする。

 

             転写及び参考文献

 

        『飯山町誌』 飯山市教育委員会編

 

        『マキノ町誌』 マキノ町教育委員会編

 

        『今津町史 第二巻 近世』 今津教育委員会編

 

        『豊野町の歴史 豊野町誌2』 豊野町教育委員会編

 

        『大日本史料』

         

        『筑波町史 上』 つくば市教育委員会編

 

        『戦国 佐久間一族』楠戸義昭著 新人物往来社

 

        『長沼村史』 長沼村史刊行会編       

 

                                      平成20年飯山・北信濃新聞連

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「肥後国衆一揆展~刀狩への序章」/山鹿市立博物館

2011-04-14 18:53:40 | 熊本

山鹿市立博物館では7月10日迄「肥後国衆一揆展~刀狩への序章」が開催されている。1588(天正16)年、豊臣秀吉が全国に発した「刀狩令」のきっかけの一つとなった「肥後国衆一揆」の舞台が山鹿地方であったことを広く知ってもらおうと企画された。

 国衆一揆は、当時の肥後国主、佐々成政に山鹿を領地とした隈部親永ら国衆が反抗した戦いで、隈部親永木像・位牌(いはい)や秀吉が国衆に領地を保証した朱印状といった貴重な資料のほか武将のよろい・かぶとなど総数40点が展示されている。(毎日新聞から)

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%A5%E5%BE%8C%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E4%B8%80%E6%8F%86
 http://www.ccis-toyama.or.jp/toyama/magazine/narimasa/sasa0205.html

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐久間氏関係論考- 3

2011-04-14 07:09:27 | 歴史

     「金沢城主・佐久間盛政その名跡に関する一考察」 

 

                吉原 実

  

天正八年(1580)より四年間であったが初代金沢城主であった佐久間盛政は、天正十一年に叔父である柴田勝家の元、賤ヶ岳の合戦に参加し敗れ後に京で斬首された。盛政の娘虎姫は生き延び、後に羽柴秀吉の武将、新庄直頼の養女となり、父盛政が賤ヶ岳の合戦の折、大岩山の戦いで討ち取った中川清兵衛清秀の次男中川秀成の奥方となったのである。

二人の間にできた子、七男内記(勝成)に盛政の佐久間家再興を託そうと考えた。盛政の一番下の弟である信濃・長沼藩主佐久間勝之の娘と添わし、その間にできた子を佐久間と名乗らせ盛政の名跡を継がそうとしたが、残念な事に子はできなかった。一方、中川家の方にも大変な問題が起こっていた。虎姫とその夫中川秀成が続けて他界し、家督を継いだ久盛には久清という男子が一人しかいなかった。それは弟大蔵がわずか十四歳で亡くなった為で、中川家の家督継承を心配した久盛は内記を中川家に呼び戻して、中川姓に復す事にしたのである。結局は虎姫の願いは叶わなかった。ここに豊後・岡(現竹田市)に残った佐久間盛政の血脈は中川家に残り、その家督は引き継がれなかったと筆者は考えていた。

ところがその後の調査で、「士林泝」、「尾張群書系図部集」、「尾張國諸家系図」や佐久間一族の名古屋にある菩提寺、龍興寺所蔵の系図等にその名跡を継いだ家が江戸期まで続いていると記載されている事が判明したのである。それは尾張・徳川家に仕えた佐久間重行家の事である。虎姫には夫秀成との間に七人の子があったが、その内の一人の娘の子にあたるのが重行となっているのである。つまり虎姫の孫に盛政の家督を継がした事になる。重行は清右衛門といい、「尾張藩士名寄」によると当時の京都所司代・板倉周防守重宗家の食客となっていたが、重宗の推挙により尾張大納言の家臣となったようである。中川秀成か久盛、長沼藩主・佐久間勝之、飯山藩主・佐久間安政などの口添えも当然あったものと思われるが、板倉家と佐久間家との姻戚関係などはどの史料にも見られない。

しかし、幕府の重臣である板倉周防守を動かす程であるからして、相当の親しい関係にあったのは事実であろうと思われる。佐久間家に対する評価が高いのであったのかもしれない。家紋も佐久間家多くに見られる「丸の内三ツ引き」ではなく板倉家から下賜されたと思われるその家紋「三ツ頭左巴」であり、その名にも板倉家に多い「重」の一字が付いている事からしても、板倉家との親密さが読み取れる。重行の子、重直(角左衛門)は上州安中・坂元両所奉行を任されており、藩内でもかなり重用されていたようである。次の重勝(八兵衛)は三百石で藩主のお側小姓、足軽頭を勤めていたようである。続いて重賢(源兵衛)馬廻り小頭を務めている。次に重豊(清右衛門)百石で馬廻り。雅重(源兵衛)、この人の時に佐久間より本姓三浦に戻している。

尾張藩における弓の名人として名をあげたようで足軽五十人頭を務めていたが、子が無く、どの資料もこの人の代で絶家したとなっている。しかし他の尾張藩内の佐久間・三浦家に無いその家紋や家禄から見ると、現在名古屋にその子孫と思われる方がおられ、血脈だけは保たれたのかもしれない。

実はもう一家、盛政の名跡を継いだと伝わる家がある。紀州・有田の豪族、保田氏の系統である。盛政の弟安政が紀州と河内の守護、畠山昭高の家臣であった保田佐助知宗の婿養子となり、保田安政と名乗っていたのは『信長公記』や『佐久間軍記』などにも書かれており真実と思われる。安政の義父・知宗は、天正四年五月の石山合戦・三津寺城攻めの折に討ち死にしてしまうが、その知宗が盛政の養子になったと書かれている系図がある(笠松系図)。安政が知宗の養子となった事と混同されていると思われるが、知宗には弟重宗がおり、この人も賤ヶ岳で討ち死にしたとなっている。しかし、その後、重郷、重之、重吉と続き大庄屋として明治維新まで来ている。保田氏より分かれ、笠松氏を名乗っている。地元、和歌山県の史料には重宗が盛政の養子と書かれた物もあり、かなり錯綜している様子であるが、この家の三代目重之が尾張の佐久間重行と同人物である事の可能性も無いとは言えないのではないだろうか。尾張の佐久間重行と同時代の人であり、紀州と尾張共に徳川家縁の藩であり、幕府の重臣・板倉周防守重宗が尽力した話でもあるので、十分考えられる事である。単なる筆者の憶測であるが、今後の尾張・紀州関係の新史料の発掘に期待をかけるしかないようである。

次に、岡藩の佐久間数馬資則家の事を述べたい。この家は盛政の弟、勝之の直系となる。代々岡藩の御典医をされていた地元の名家だそうである。盛政の娘虎姫の子、内記(勝成)と盛政の弟佐久間勝之の娘の間には子ができず、内記自らも中川家に帰り虎姫の望んだ佐久間家再興は叶わなかった事は前にも述べた。その勝之の娘を再嫁させるため、中川家の初代で賤ヶ岳の合戦で討ち死にした中川清兵衛清秀の奥方やや(熊田姓)の甥の子、熊田藤助を中川家に迎え中川隼人正資重と改名させ結ばせたのである。二人の間には平兵衛という男子ができ、その子に佐久間姓を与え佐久間数馬資則と名乗らせ新しい家を興したのである。つまり現当主が十一代目にあたる佐久間勝之直系もしくは熊田家直系の家なのである。盛政の血脈は中川家に吸収されてしまったが、それに代わりこの家が、地元で代々盛政や虎姫の菩提を弔ってきたようである。当時の人々は、よほど佐久間という名を残したかったようであるが、結果的には勝之の血が新生佐久間家として豊後に残った事になった訳である。

このように、その武勇で名をはせた佐久間盛政家の名跡は、様々な形で江戸期から現在に受け継がれたようであるが、今後の研究成果により、より詳しく解明される事であろうと筆者は考える。                       

 

      参考文献

      

『士林泝』 名古屋叢書続編 第二十巻

 

『尾張群書系図部集』 続群書類従完成会編

 

『尾張國緒家系図』  加藤國光著

 

『藩士名寄り』さ上  林 政史本

 

『寛政重修諸家譜』 第二 板倉系図

 

『寛政重修諸家譜』 第五 中川系図

 

『佐久間重行家について』 佐久間凡雄著

 

            『有田市史』『清水町史』『清水町文化9・10号』

 

            『中世武士団と地域社会』高橋修著 清水堂出版

 

 

                               平成17年 石川史学会々誌第38号掲載

                                     

 

 以下、「佐久間・中川・熊田各家関係系図」があるが表示不能であるため、後日表示することとする。       

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする