沼田氏略系図(作成・責 津々堂)
光兼---+--光長---+----女
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| | 竹田梅松軒
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| +----女
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| 松井康之
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+--女(荒川治部少輔晴宣室)---菅野輝宗
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+--女(飯河山城守信堅室)---飯河豊前宗祐---長岡肥後宗信
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| +--女(細川興元室)
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+---清延--+---延元---+--延之 +--延相---兼辰
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| +--延将---+=====兼辰---元昭---将休(熊五郎)
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+---女・若州前川城主山形刑部少輔源秀之室--圭長老
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| 細川藤孝(幽齋)---+--忠興
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+-----麝香 +--興元
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+---女・北畠左衛門佐教正室---女・米田求政室
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+---女・進士美作守国秀室-----進士作左衛門(田辺城籠城)---牛之助
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+---女・築山弥十郎貞俊室(義晴命により藤孝生母付き)
田邊城籠城衆の中に明智光秀の側近・進士作左衛門の名前がある。沼田氏略系図からすると作左衛門は藤孝の義甥にあたる。
そういう意味からすると非常に近い間柄である。綿考輯録は作左衛門について次のように紹介する。(第一巻藤孝公p251)
進士作左衛門
親を進士美作守と申候て、光寿院様御妹婿也、作左衛門は明智殿ニ奉公、最後まて供致したる七騎の内なり、其後忠興君被召仕候由
此比ハ御奉公ハ不仕候而、幽齋君より少扶持を被下置候処、籠城仕、大手杉馬場口の受取にて相働申候、其後忠隆(忠興長男)之御
供仕、北国に罷越、御牢人被成候節、加州ニ御預ヶ置数年罷在、江戸にてハ三齋君・忠利君へも御目見仕候由、三齋君御従弟の御続
也、寛永の末比作左衛門は果、其子牛之助も忠利君江御目見仕、御脇差なと被為拝領候、牛之助加州にて弐百五拾石取候由、馬廻
組なり、平野弥次右衛門、加州に居候時之組衆にて候由、其故を以、慶安元年弥次右衛門を尋候て、肥後に来候、右有増の次第、弥次
右衛門より申上候、書付伝来いたし候、御家に御奉公候由に候得とも、被召出候哉もわかり不申候
この進士作左衛門については、熊本の安國寺で拝見した「土岐系圖」に詳しいのでご紹介しておく。
この「土岐系圖」によると、明智光秀は土岐系山岸氏の山岸信周の四男だとされる。母が明智光隆の姉である。
進士作左衛門は光秀の長兄進士美作守の二男としている。沼田系図や綿考輯録の記述に添うものである。
山岸信周 嫡男・山岸総領
進士美作守晴舎 嫡男・進士主女首輝舎
一 ・進士作左衛門貞連
一 ・進士六郎大夫貞則
一 ・安田作兵衛国継
二男・山岸勘解由信舎
三男・進士九郎三郎賢光
四男・明智光秀
以下 略