津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

進士作左衛門

2012-07-23 10:09:14 | 歴史

沼田氏略系図(作成・責 津々堂)

 光兼---+--光長---+----女
      |       |   |
      |       |  竹田梅松軒
      |       |
      |       +----女
      |            |
      |           松井康之
      |
      +--女(荒川治部少輔晴宣室)---菅野輝宗
      |
      +--女(飯河山城守信堅室)---飯河豊前宗祐---長岡肥後宗信
      |                     
      |       +--女(細川興元室)
      |       |
      +---清延--+---延元---+--延之   +--延相---兼辰
      |                |       |        
      |                +--延将---+=====兼辰---元昭---将休(熊五郎)
      |
      +---女・若州前川城主山形刑部少輔源秀之室--圭長老
      |
      |  細川藤孝(幽齋)---+--忠興      
      |     |         |
      +-----麝香         +--興元  
      |
      +---女・北畠左衛門佐教正室---女・米田求政室
      |
      +---女・進士美作守国秀室-----進士作左衛門(田辺城籠城)---牛之助
      |
      +---女・築山弥十郎貞俊室(義晴命により藤孝生母付き)

田邊城籠城衆の中に明智光秀の側近・進士作左衛門の名前がある。沼田氏略系図からすると作左衛門は藤孝の義甥にあたる。
そういう意味からすると非常に近い間柄である。綿考輯録は作左衛門について次のように紹介する。(第一巻藤孝公p251)

  進士作左衛門
     親を進士美作守と申候て、光寿院様御妹婿也、作左衛門は明智殿ニ奉公、最後まて供致したる七騎の内なり、其後忠興君被召仕候由
     此比ハ御奉公ハ不仕候而、幽齋君より少扶持を被下置候処、籠城仕、大手杉馬場口の受取にて相働申候、其後忠隆(忠興長男)之御
     供仕、北国に罷越、御牢人被成候節、加州ニ御預ヶ置数年罷在、江戸にてハ三齋君・忠利君へも御目見仕候由、三齋君御従弟の御続
     也、寛永の末比作左衛門は果、其子牛之助も忠利君江御目見仕、御脇差なと被為拝領候、牛之助加州にて弐百五拾石取候由、馬廻
     組なり、平野弥次右衛門、加州に居候時之組衆にて候由、其故を以、慶安元年弥次右衛門を尋候て、肥後に来候、右有増の次第、弥次
     右衛門より申上候、書付伝来いたし候、御家に御奉公候由に候得とも、被召出候哉もわかり不申候

この進士作左衛門については、熊本の安國寺で拝見した「土岐系圖」に詳しいのでご紹介しておく。 
この「土岐系圖」によると、明智光秀は土岐系山岸氏の山岸信周の四男だとされる。母が明智光隆の姉である。
進士作左衛門は光秀の長兄進士美作守の二男としている。沼田系図や綿考輯録の記述に添うものである。

    山岸信周       嫡男・山岸総領
                     進士美作守晴舎      嫡男・進士主女首輝舎
                                      一 ・進士作左衛門貞連
                                      一 ・進士六郎大夫貞則
                                      一 ・安田作兵衛国継
                 二男・山岸勘解由信舎
                 三男・進士九郎三郎賢光
                 四男・明智光秀
                     以下 略 

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これが本当の「忠臣蔵」

2012-07-21 16:06:07 | 書籍・読書

 

     これが本当の「忠臣蔵」 (小学館101新書―江戸検新書)
 
                  小学館

売れっ子山本博文先生が語る忠臣蔵・・・・何が本当で何がうそなのか、読んでみるか~

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熊本城図(絵葉書)

2012-07-21 09:54:48 | 古写真

♯Q5絵葉書 明治十年戦役前の熊本城全景_画像1

            絵葉書に残る熊本城図です

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市役所界隈

2012-07-21 09:46:56 | 古写真

★送料無料 熊本 官庁街、市役所前通りの景観 戦前_画像1

          左手前・熊本市役所、中央・逓信局、その間にアンテナが見えるのがNHKかなー
          右奥手前・第一勧業銀行、その奥・郵便貯金局?(現・熊本市役所花畑別館) 

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小須賀覚書 4/4 及び 同・読み下し(四)

2012-07-20 09:25:56 | 史料

                                    長刀に而かいしやく仕地震之間へ火をかけ、面々廣
                                    間へ出候而、小笠原正齋、川北石見両人致切腹候而
                                    長岡越中守殿屋敷焼拂申候 付り局おしも
                                    退すまし候て京都に忍び居候而越中守殿、与
                                    一郎殿御帰陣之時右之段々委細物語申候。内記
                                    殿ハ人質として江戸ニ御置被成候

 

    この文章には引き続き「右十八ヶ所之合戦は慶長五子之年七月中旬より九月中旬迄之内六十日之間ニ國々ニ而取合御座候」とある。
    この小須賀覚書のガラシャの生涯に関わる記事は、霜女覚書とは異なり多くの伝聞の一端であることがわかる。
    しかしある種の臨場感があり、霜女覚書と比してみると興味深いものがある。
    又当サイトに掲載している、日本基督教会宣教教師:山本秀煌が著した「細川公爵家の先祖忠興夫人の信仰美談」に紹介してある「小須賀覚書」
    とは、若干の異同が見られる。 

 

 

 

 

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江戸名所圖繪 「八見橋」

2012-07-19 11:48:49 | 地図散歩

                  昭和三年発行の本からスキャンしましたので、はっきりしないところはご容赦ください。

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広重江戸名所百景色から「八つ見はし」

2012-07-19 10:51:45 | 地図散歩

 八つ見橋とは、ここから八つの橋を見ることが出来るからそう呼ばれていた。本当の名前は「一石橋」、いちこく橋ともいっこく橋とも呼ばれるが、私は「いちこく橋」を好みとする。橋をはさんで両側に後藤家があったため、後藤が二軒つまり五斗が二軒で十斗=一石といういかにも江戸らしい洒落の効いた命名である。八つの橋とは自らを含め、江戸橋・日本橋・鍛冶橋・呉服橋・常盤橋・銭瓶橋・道三橋である。
広重の江戸名所百景の「八つ見はし」は、わずかに橋の欄干を見せながら、対岸の銭瓶橋を正面にして富士山を望んでいる。銭瓶橋が架かる堀が道三堀、先に細川藩竜口邸前に架かる道三橋があるのだが、この錦絵では見ることが出来ないようだ。細川藩邸も同様である。
この錦絵は安政三年八月に出来た百景色のうちの第45景とされる作品だが、当時の様子が伺える興味深い作品である。
安政三年八月二十五日江戸は、大風・大津波で諸侯の藩邸が被害にあったというが・・・・

いろいろ教えていただけるサイトがあるのでご紹介しておく。
             http://hiroshige100.blog91.fc2.com/blog-entry-96.html

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小須賀覚書 読み下し(三)

2012-07-19 08:46:34 | 史料

隣へ是非/\御退候へしうとめ子御申候故、よめ
子も備前中納言殿御前へ御退候。越中守殿御前
よめ子も宮川殿もたしぬき 御退其内に稲富
裏之門を明逆心致候而立退申候。御前地震之間へ
御入候而川北石見守御よひ被成被仰候ハ局下(しも女)
事ハ我等供可致候と色々様々申候へとも、不残何
れも御果候はゝ越中守殿、與 一郎、内記帰陣被致候而も
此一巻語り傳へ可申者無之候間、下(しも女)儀ハはしたの

様に出立候て、我等自害致し候段々見届候而火をかけ
候と一度に小さきつゝミに物を入いたき局ハ退候而
何方にもかくれ居候而、越中殿、與一郎、内記帰陣被
申候を待請居申候而、逢申具ニ物語致候へハ、草のか
けに而も満足可申、其上に而越中守殿、與一郎、内記
可為満足と御申候而夜半時分ニ川北石見守長刀を
持御前 へ懸御目、石見申候ハ御祝言之時懸御目只
今御目にかゝり納ニて御座候、追付御供可申と申候て、

 

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小須賀覚書 3/4

2012-07-18 11:47:05 | 史料
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小須賀覚書 読み下し(ニ)

2012-07-18 10:56:18 | 史料

之天下一にて知行千石取、生国ハ丹後之國之者 
にて、 冶部少輔殿内衆ニ鉄砲之弟子多持居候付
越中守殿御前を人質ニ取可申候由執沙汰御座候て
稲富方へ 内證申来候間、小笠原正齋、川北石見
御前へ参上候而右之旨申入候。友齋之妹若狭國武
田殿内儀後家ニ而年七十ニ餘り、越中守殿おば
こを常々御内儀に付被置候処ニ御前被申候ハ我等ハ
人質取候ハんと申来候ハゝ″、いかにもいやしきなりを

致置可申候左候へハ、宮川殿ハ都之建仁寺ニ御子息
雄長老御座候間是非御退頼申候と色々被仰候に付
宮川殿建仁寺へ退被申候。越中守殿子息與一郎
殿ハ前田肥前守殿妹むこ、此よめ子へも我等事を
はしたの様ニ致退可申候よめ子之儀は若き上
臈を召連候て退き申事中々成申間敷候間、幸
屋敷隣備前浮田中納言殿内儀は、よめ子之
姉御にて候間、ついち一重の事に候間、橋を架け候て

         (3につづく)

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史料散策 CiNii 田代孫三郎「肥後遊覧覚書」について : 幕末佐賀藩士の肥後見聞録

2012-07-17 14:00:23 | 史料

久しぶりにCiNiiで史料散策、串間聖剛氏の論考 田代孫三郎「肥後遊覧覚書」について : 幕末佐賀藩士の肥後見聞録 を見つける。
             http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/ys00605.pdf?file_id=6623

他藩の人が見た率直な見聞録であり、読んでみると大変面白い。

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小須賀覚書でした 2/4

2012-07-17 09:04:19 | 史料

 

ガラシャ夫人の最後を伝える史料として「霜女覚書」と共に知られる「小須賀覚書」でした。
第1回分の読み下しを書いておきます。如何だったでしょうか。
第2回もがんばってお読みください。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

一長岡越中守殿、子息與一郎殿 同舎弟
内記殿両三人は家康公御同陣にて景勝陣に
立被申候。越中守忠興御内儀は明智日向守光
秀御息女ニ而候。大阪玉造口に屋形候而それニ御入候。
越中守殿奥方之法度世上ニ無之堅き仕置ニ而
地震の間と申候て八畳敷に座敷を拵四方之
かべニ鉄砲之薬を紙 袋に入懸ならへ置候而何
時も大地震あり候ハゝ御内儀右之座敷へ御入
候て焼御果候筈ニ不断之仕置ニ而候由。就其
屋敷之表ハ小笠原正齋預り、裏の門は稲富
預り、奥方ハ光秀公より御前ニ附き参候川北石
見請取、右之三人ハ長岡越中守殿大阪屋敷之
留守居ニ而候。越中守殿と石田冶部少輔殿成
前方より中悪敷猶以此度ハ敵味方ニ而候故、右三人之
留守居拵へ候ハ自然越中守殿御前を人質に取ニ
参候ハんこと気遣仕居候処稲富は其頃鉄砲

         (第2回につづく) 

 

 

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▲聖徳記念絵画 37 西南役熊本籠城 和紙装台紙

2012-07-16 19:56:43 | オークション

▲聖徳記念絵画 37 西南役熊本籠城 和紙装台紙附_画像2

               ▲聖徳記念絵画 37 西南役熊本籠城 和紙装台紙

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読み下ししてみてください 1/4

2012-07-16 10:14:13 | 歴史

                これは大変有名な文書です。四回にわたりupしますのでチャレンジしてみてください。答えはのちほど・・・・・

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うんちく

2012-07-15 20:50:29 | 史料

宝暦12年11月、上へ懸る場合口達も書面も「被成候を以来被遊候」とすべきの達しが為された。
重賢公の代になって規律が大変厳しく為されていくことが判る。文書を読む上で大変ヒントになる。 

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