水害のお見舞いをいただき御礼申し上げます。
何度かブログで書きましたように、我が家は昭和28年の大水害で大方の財産を失いかわりに命を拾いました。
これがトラウマとなり高いところへ/\と引越し現在にいたっていますが、、いまでも梅雨時になるとその折のことが夢に出てくるありさまです。
今般の降水量はまさに28年の降水量をはるかに越え、河川改修が完全に終わっていないなか、熊本市においてはよくこれだけの被害にとどまったと不思議にさえ思えます。
阿蘇市をはじめ、九州各地の広範な地域に被害をもたらしたのも28年の水害に類似しています。
大水害の経験者として、被害者の皆様の無念なる思いがよく判り、なんとも言葉になりません。
今日は朝から久しぶりの良い天気です。突然のように蝉が騒ぎ始めました。湿度の高い蒸し暑い一日に成りそうですが、どちらのお宅も庭やバルコニーは洗濯物が満艦飾です。
熊本は七月盆でお盆休みは八月という面白い慣習なのですが、被害にあわれたお宅ではご先祖様をお迎えする処の状態ではありません。
せめて跡かたづけのために良い天気がつづくことを願っています。
有難うございました。
熊本藩年表稿を読んでいたら、宝暦13年11月郡浦手永赤瀬村黒崎に鯨が漂着したという記事がある。すでに死んでいたのだろうか、村方へ肥料として下げ渡されたという。赤瀬は現在の宇土市、海水浴場でにぎわう場所である。熊本では鯨油をとっていたという資料もみえるが、しかしこんな内海に漂着とはいえ鯨が入り込むことが在るんですねー。
もっとも今年の6月9日、県南芦北町では本マグロを釣り上げ(?)たということがあった。最終的には地元の人たちが大勢の手助けを受けて取り押さえたというところだがこれがでかい・・・250キロというから大間にも負けない。地元の皆さんの手をかりて解体、それぞれの方たちが舌鼓を打たれたという。
http://blog.livedoor.jp/mrandi/archives/52273114.html
この方のお話によるとマグロの産卵場所があるというのだが、それにしてもでかい。
細川コレクション 細川家と狩野派の美
http://www.museum.pref.kumamoto.jp/event/kikaku/20120717-0923_hosokawakanohanobi/index.html
期日 |
平成24年7月18日(水)~9月23日(日)
前期7/18~8/19 後期8/21~9/23 |
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会場 |
熊本県立美術館本館 細川コレクション常設展示室(II) |
開館時間 | 午前9時30分~午後5時15分(入館は午後4時45分まで) 8月13日(月)は臨時開館 8月27日(月)は「障がいのある方々の鑑賞デー」として開館 ただし、開館時間は10:00~16:30(入館は16:00まで) |
休館日 | 月曜日(祝日の場合は開館し、翌日が休館日になります。) |
観覧料 | 一般200円(150円)、大学生120円(100円) 《本館1階「夏のコレクション展」との共通料金》 一般400円(300円) 大学生240円(180円) 《本館「加藤清正展」「夏のコレクション展」との共通観覧券》 一般1100円(900円) ( )内は20名以上の団体料金、高校生以下無料、障がい者手帳をお持ちの方無料 |
主催 | 熊本県立美術館、熊本日日新聞社、RKK熊本放送 |
特別協力 | 公益財団法人 永青文庫 |
【巻物】小笠原小倉家 御家老 伊藤作右衛門 肉筆 家系図*8
小笠原家のものというからちょっと興味があって眺めていたら、なんと細川家臣木下氏(日出藩主木下延俊弟流)に、ここから嫁いでいる方が居られた。
今からは細川家以外のものも気をつけて見なければならない。
作右衛門流二代目景定女が細川家臣木下三郎左衛門俊春に嫁いだとあるが、木下家の二代目であろうと思われる。
小笠原家と細川家の縁は木下家へとつながっている。
http://www.tbz.or.jp/yamabikokan/index.php?view=4187
平成24年度特別展
「The山名~山陰守護大名の栄枯盛衰~」 山陰地方は南北朝期以降、天正年間の鳥取城攻めまでの間、山名氏が守護として支配し、室町時代を通して、幕府政治に参加する守護大名家として、朝廷までにも大きな影響力を持っていた一族でもありました。 |
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【会 期】 平成24年7月14日~8月26日 9:00~17:00(最終入館16:30) 【会 場】 鳥取市歴史博物館 特別展示室 【入館料】 一般500円(65才以上、高校生以下無料) |
東京在住のTY様から、ご先祖様に関わる山名氏の展覧会が鳥取歴史博物館で予定されていることをずいぶん前にお聞きしていた。
お話によると、よくぞこれだけのものが集まったという感じらしい。二度とは見れないということであろう。
ぜひとも興味ある方は足をお運びいただきたい。
史料は良きことも悪しきことも紙面に残す。関係者には申し訳ないとも思うが、このような事の原因は何かと考えるの人情というものである。
貞享二年八月十九日、江戸にて不行跡が咎められて以下の人たちが処分を受けている。
・前川与三兵衛
・谷与三右衛門
・田中次太夫
以上江戸にて不行跡知行召上扶持方下さる
・坂井十兵衛
・続五左衛門
・門司源兵衛
以上江戸にて不行跡暇
・里杢之助
常々行跡叶わず知行召上当前扶持方
・続三四郎
常々不行跡暇
この年の六月藩主綱利は熊本に帰国している。そんな中、江戸定府のいわゆる綱利側近の人たちが大量に処分されている。
在熊の重役たちは、定府の綱利側近の振る舞いを苦々しく感じてきたが、当然のことであろうが綱利の決済の元に処分を断行している。
中には一族である前川(三淵)与三兵衛がいることは驚きである。延宝元年七月廿三日筑後北之関において、従兄弟である前川勘右衛門と藤田助之進同縫殿之進が意趣あって戦った際、三淵家当主山名十左衛門と共に助力して藤田父子を討取る働きをしている。そんな与三兵衛が扶持召し上げとなって、息助武に至り絶家している。
谷与三右衛門は三百石、この処分により拾人扶持被下置、元禄三年妙解院様五十年御忌ニ付御勘気被成御免候(惣左衛門ト改)
田中次(治)太夫は二百石、 六人扶持被下置、元禄三年妙解院様五十年御忌ニ付御勘気被成御免候
坂井十兵衛は二百石、二百石 元禄三年妙解院様五十年御忌ニ付御勘気御免被召帰、六人扶持被下之
続五左衛門は二百石、御暇被遣候、断絶か
門司源兵衛は百五十石、元禄三年妙解院様五十年御忌ニ付御勘気御免被召帰四人扶持被下之、のち御扶持被下置衆・御奉行所触 四人扶持、息・善右衛門が跡を継ぎ明治に至った。
里杢之助(養子 甥、実・岩崎武兵衛二男・兵四郎 )は二百石、養子・政之助が妙解院五十回忌にあたり(十三歳)二百石を拝領、これは祖父・杢之助が
光尚に殉死した筋目によるものと考えられる。
続 三四郎は三百五十石、御暇被遣候、断絶か
http://www.yomiuri.co.jp/zoom/20120712-OYT9I00403.htm
http://mainichi.jp/graph/2012/07/12/20120712k0000e040179000c/001.html
ものすごい雨と風、それに雷で目が覚めました。TVを付けると各地ですごい量の雨が降っており、菊池では河の氾濫が危ぶまれていますし、熊本市でもいつも見慣れている熊本城の石垣が坪井川の増水で足元か隠されているという有様です。
気象台は「これまで経験したことのない雨」という、異例のコメントをしています。
私は高台に住んでいますから水害の心配はないのですが、道路の排水溝からは水が吹き上げています。白川の上流地域での雨量がものすごく、熊本市でも大変危険な状態のようです。消防の車がサイレンを鳴らして走り回り、ヘリコプターが白川の上空と思われる場所を東から西へ繰り返し/\30分以上飛んでいます。自衛隊のヘリのようです。現在の雨は小康状態ですが、熊本中心部は予断を許しません。ただただ何事もないことを祈るばかりです。
私の自宅から程近い場所(1キロ弱)に国土交通省熊本国道河川事務所がありますが、たぶん此処からではないかと思われますが10:09ころから警報と思われるサイレンが数分間鳴り響きました。相変わらずヘリコプターが飛び回っています。明らかに白川の上空を旋回しています。 10;15記
相変わらずヘリコプターが旋回しています。白川の右岸の低地にある住宅地が冠水しているようです。どうやらこの周辺を集中的に見ているようですね。
雨はすっかりやみ空も明るさが増してきました。昭和28年の水害の写真などがメディアで放映され、心配がつのります。
水位が2メートルほど下がったといいますからまずは一安心といったところです。 12:13記
昼食後あまり大降りはしないだろうと、4キロ散歩に出ました。最近始めたばかりなのですが、少々体重が増えたのと足を鍛えようとの思いからです。
我が家の周辺は4キロのコースで高低差が 25メートル程ありますからかなりこたえます。約50分かけての帰り道、又雨が降り出しました。
上空には三台のヘリが爆音を立てて飛び交っています。報道によると龍田町陣内という処の住宅地が冠水したようです。救助活動のようです。
私の部屋から真正面1キロ弱ほどの距離だと思いますが、白川右岸の一番低い処です。ひがいの軽からんことを祈ります。 14:14記
報道によるとヘリコプターで39人の方が救助されたそうです。3:30頃にはヘリの騒音も聞かれなくなりましたが、ずいぶん長い時間救助活動が為されたようです。二軒のデパートも臨時休業しましたが、昭和28年には新築開店早々のデパートが水害に見舞われましたから、もしものことを考えてのことであったと思います。まずは一休みといった感じですが、一時南に下がっている前線が又上がってくるようですから、明日も心配されます。 17:08記
続々と沢村宇右衛門宛書状が出品されています。
詳しく調べていませんが、すべて贈答に関わる礼状ですね。
こういう人たちと、どういう関わりがあるのか興味深いところです。
江戸前期 『 大政参与 稲葉美濃守正則 書簡 (1) 』 武家 古文書
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%91%89%E6%AD%A3%E5%89%87
江戸前期 『 佐貫藩主 松平出雲守勝隆 書簡 (1) 』 古文書
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%8B%9D%E9%9A%86
江戸前期 『 老中 阿部豊後守忠秋 書簡 』 埼玉県 大名 古文書
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%83%A8%E5%BF%A0%E7%A7%8B
現在熊本城内千葉城にあるNHKの局舎はずいぶん古く手狭で、花畑町の建設予定の開発ビルに移転することで動き出したようだ。
その屋上に設置される鉄塔が、熊本市の景観審議会にかけられた話が、新聞に報道されている。
http://kumanichi.com/news/local/main/20120709006.shtml
熊本市には中心部において 「建物や工作物の高さを海抜55メートル以下」とする条例がある。新聞記事にもあるように熊本城の高さが影響している。
この条例が出来た当時、馬鹿なことを考えるものだと思ったが、まさか鉄塔がひっかかるとは思わなかった。
この場所の標高は国土地理院の海抜を知るサイトによると13,6メートルとあるから、建物(工作物)の高さのMAXは41メートルほどということに成る。
政令指定都市になった熊本市のそれも中心部を限定して、こんな条例が息をしているのがおかしい。もっとも今回のように審議会のお墨付きをもらうという抜け道はあるのだが・・・・・。有識者と呼ばれる先生方の将来を見越せなかった発想が問題である。
ちなみに私が住む処が、ほぼ海抜55メートルである。熊本城の天守閣とほぼ同じ高さということになる。
(水害が怖くて逃げ回った末のことである)
畏友K氏が一族M家の歴史をまとめて上梓するべく作業を進められている。幾度か其の原稿を拝見したが、その内容の広範にして緻密成ることに驚かされた。
近世史家S氏が史料考証をてがけられ、一段とその内容が重厚さを増している。
一族の中に河方家から養子に入られた人がある。河方氏は元・松下氏、松下民部少輔述久が豊前細川家に召出され(500石)、息・安右衛門の代に河方を名乗ったものである。。
じつはこの人物についてはたびたびこのブログで取り上げて来た。松下述久は幽齋の田邊城籠城の際、朝廷との橋渡し役を務めたことを綿考輯録は紹介している。そして小野武次郎は次のように記していた。(巻五・・出水叢書・巻一 藤孝公p213~)
従五位下、禁裏に勤居たり、鞠歌の御伽として、幽齋君御懇に有之、内々御和睦をも取持仕候段
は、先祖附にも代々書加来候、後に五百石にて、御家に来、其子松下掃部助事河方安右衛門と改
曽我丹波守殿妹を忠興君御養女に被成、被嫁之、其後代々御奉公相勤・・・・
■曾我古祐
曾我尚祐の子。喜太郎、又左衛門。慶長六年より秀忠に仕ふ。のち書院番、二百石。大坂役の後軍令違反により閉門。のち赦免。寛永三年相續(千石)。寛永八年二月十二日使番。九年四月八日目付。同年十一月廿七日布衣を許さる。十年十二月千石加増。十一年七月廿九日大坂町奉行。閏七月朔日加増してすべて三千石。十五年十二月従五位下丹波守。萬治元年三月十九日致仕、四月廿一日大坂に於て歿。年七三。
ところが近世史家K氏は、曾我丹波の妹を娶ったのは息・安右衛門ではなく述久であると「寛政重修諸家譜」に記されていると仰る。
あわてて私が書き間違えたのではないかと綿考輯録を確認、こちらは上記記述の通りである。
気になるので熊本県立図書館に出かけ、河方家の先祖附を確認すると・・・・ご指摘の通り「寛政重修諸家譜」にそった記述があった。
丹後田邊御籠城之節御和睦を茂何角御取持申上候而相整申候 就夫猶以御意ニ
而曾我丹波守殿妹を三齋様御養女被置民部少輔江嫁娶被仰付・・・・・
これは明らかに綿考輯録編者・小野武次郎のミステイクである。
細川家記・綿考輯録にも間違いはある。並べ立てて論じようとは思わないが、こうして真実が明らかになるのも楽しいではないか。
S氏に感謝申し上げる次第である。
★H73和本江戸寛政期熊本敵討実録写本「岩井実記」上中下1冊古書
寛永十七年十月四日西岸寺河原(白川右岸)で、岩井善次郎が父の仇森山弾正を討ち取ったとされる記録であるが、事実かどうかは確かでないとされる。(肥後文献解題)
同様の記録として「西岸寺河原仇討略記」がある。
「女持不申候者」というリストがある。結婚適齢期の重臣の子息の名前である。
このことについて二度(1)(2)において記したところだが、どうやら私は見当違いのコメントをしていたようだ。
大日本近世史料・細川家史料(五)を読んでいたら、寛永十年八月十一日書状(1133)の追而書に次のようにあった。
追而申候 此前長岡河内(村上景則)娘縁ニ付申度と申ニ付 其方之者之内女不持者書立給候へと申候
處 六七人書付給候へ共 其後ハ江戸へ参 又國替ニ取紛やう/\此比存出 右書付之内 松野右京殿
(正照)之儀申遣候へは はや阿蘇宮神主娘と右京殿被申合由候 左候は此方のを必さし置可申候條被
申出候ことく いか様ニも可被仕候 此外之書付之者共も 卒度も此方より縁邊之儀申間敷間 いか様ニも
可被申付候 為念申候 已上
これは三齋の側近長岡河内の娘の縁談をまとめようと、適任者はいないかと探すためのリスト提出の依頼であったらしい。
其のうち松野右京については、阿蘇家と話がまとまったようだからそのように為し、そのほかの者についても縁辺を申し付けることはないというのである。
河内娘の事はどうなったのだろうか。長岡河内は三齋没後八代を離れることになる。娘も父親と行動をともにしたのであろう。
10,000石の河内、娘も100石を頂戴している。光尚の政権下では受け入れられない存在であったのかもしれない。
また松野右京は氏家元高の妹を室とする史料がある。阿蘇神主女はどうなったのだろうか???疑問はまだ残っている。
(1)女持不申候者 2008-01-29
寛永九年三月十日付の書状の末尾に「別帋ニ切紙進上仕候、此等之趣、可然様可有披露候(以下略)」とあり、別紙覚書が添えられている。三齋宛忠利の書状であるから、三齋からの依頼に対する返事であろうか。いわゆる独身者の名前を書き出したものである。
「女持不申候者」
一、松野右京(正照)
一、半齋(松野親盛)子・松野長蔵(親治カ)歳廿一
一、谷 主膳
一、圖書(藪正成)子・藪右衛門(三右衛門政三カ)歳廿四
一、左馬允(牧興相)子・牧善太郎(相頼)
一、藪市正(正直)
一、右馬助(三淵重政)子・長岡左膳(同之直)歳十九
明らかに三齋が有力家臣の娘の婿探しをしている事を伺わせる、大変興味深い記録である。過ぎる寛永八年十月、側近の槙嶋云庵女を氏家元高に嫁す事を手配したりしている。
肥後入国直前の話しだが、隠居しても尚こういうことで存在感を示している。
(2)女持不申候者--後日談 2008-01-31
寛永九年三月十日付書状の内「女持不申候者」のリストから、松野右京をはずす旨の書状が、翌十年七月二十一日付(書状案)で発せられている。独身である事は間違い無さそうだが合点が行かぬ話しである。
同書状の後書きに「尚々、右京殿儀、事之外不辨ニ御座候付而、知行五百石増候へ共、中/\當年なと女房よはれ候儀は調兼可申と、推量仕候(以下略)」とある。肥後入国宿割帳には千石とあり、後の数種の侍帳には千五百石とあるから、五百石の加増がこの時期行われた事が推測される。そんな大身の身である右京が、それでも「女房よばれ候儀は調兼可・・」とは、どう解釈すればいいのだろうか。
下って八月十三日書状(案)は「松野右京(正照)殿縁邊之儀、先書にも如申上候、右書付上申候内にて御座候、阿蘇之神主(阿蘇惟善=右京とは縁戚関係がある)へハ未不申出候、就其、先度御意之旨、右京殿へ内証ニ而申聞候、被仰出可有御座候間、内々被其意候へと迄申聞候つる・・」とある。「如何致しましょうか、御諚次第にしたいと思います」と三齋に送った忠利の書状であるが、・・・(よく分からん・・?)処で右京さんの奥方は何方なのだろうか、ご存知の方はご示教いただければ幸いである。
そして、その他の者達(先のリストにあった人達)にも、忠利から「縁邊可申付候」と、結婚を促するような記述が有る。(何故・・どうして・・よく分からん・・?)
江戸前期 『 熊本藩士 坂井道仲 書簡3通 』 細川家 古文書
又々、沢村宇右衛門宛書状です。どうやら沢村家関係者から出たようですね。
こちらは同じく細川家家臣の坂井道仲の署名が見えます。侍帳では、子孫の方は見えませんが、間違いなく細川家家臣です。
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筑摩書房
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寛永13年の江戸城外堀の天下普請は、第三代将軍家光の威信をかけた一大国家事業であった。これにより、江戸城は城郭が完成、現代の首都東京に引き継がれる都市プランとその基盤が形成された。人力だけの時代に一体どのようにして大土木工事は可能だったのか。外堀や石垣の構築、水利施設の整備など、インフラの視点から、都市づくりの細部の模様を再現してみよう。本書は、地下鉄南北線工事に伴う遺跡発掘の遺構が物語る江戸の都市づくりの話である。
第1章 江戸城外堀はどのように築かれたか
第2章 手伝普請による城郭建設―江戸・大坂・京都
第3章 堀という都市インフラ
第4章 江戸城と伊豆石丁場
第5章 江戸城外堀の普請現場
第6章 掘り出された石垣
第7章 外堀はどのようにして掘られたか
第8章 「江戸図屏風」の時代