413年前の明日、慶長五年一月十五日忠興は三男忠利を証人として江戸へ送り出している。
中嶋左近・福知與兵衛・松田慶順・牧五郎、御中小姓の住江甚太郎・本庄久右衛門・松田五左衛門・桑原喜兵衛・稲富平七など九人の人達がお供している。後にはさぞ出世されてろうと思い調べてみると消息の知れない人が多い。江戸屋敷が整っていない時期、どこに住まわれたのか未だ知りえないでいる。
■中嶋左近 東大史料編纂所の「大日本近世史料・細川家史料」の人名索引では、慶長十五年尾張國名古屋城普請の際、普請役人を勤む(細川家記)
とある。別記、中嶋備中について「細川家臣未詳」としているが、綿孝輯録は中嶋備中左近と記しているから、同一人であろう。
「熊本藩侍帳・人命索引」に於いても同人の名前は見えない。
■福知與兵衛 細川家史料には「細川家臣。未詳」とある。福知平左衛門の関係者か
■松田慶順 細川家史料は「細川家臣。未詳」としている。
■牧五郎 これは牧丞太夫・兼重の二男五助である。松田同様の記載が綿孝輯録にある。
(1)留守居組 百五十石 (於豊前小倉御侍帳)
(2)御代官衆 百五十石 (肥後御入国宿割帳)・・吾助
御中小姓
■住江甚太郎 住江小右衛門の息か?
(1)御詰衆 百五十石 (真源院様御代御侍名附)
■本庄久右衛門 丹後以来の本庄久兵衛の嫡男
(1)留守居組 二百石 (於豊前小倉御侍帳)
(2)御留守居衆 二百石 (肥後御入国宿割帳)
(3)百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
■松田五左衛門 丹後以来の松田七右衛門の嫡子
(1)馬廻組三番 三百石 (於豊前小倉御侍帳)
(2)御馬廻衆 三百石 (肥後御入国宿割帳)
(3)一番長岡右馬助組 三百石 (真源院様御代御侍名附)
(4)有吉頼母允組 三百石 (寛文四年六月・御侍帳)
■桑原喜兵衛 侍帳など記録に見えない
■稲富平七 侍帳など記録に見えない
返却期日が過ぎた本を図書館に返しに行く。そして昨年10月28日のブログに書いたように、米田家の先祖附並御奉公附の撮影を試みる。
「い」の巻が写真のように二冊ある。このような物が全十四冊ほど残されているのだが、相当欠本があるように思われる。
ご家臣の資料としては2~3割かけているというのではないかと思われる。
一応二冊を取り出して写真撮影にかかったのだが、非常に状態が悪く、ページをめくるのも困難な状態である。
まずは75コマほど撮影したのだが、破損の危険性もあり図書館の手に任せるのが良いのではないかとも思い出した。
今後は写真の内容などを見ながら作戦をたてたいと思っている
寛永十年三月十日忠利宛・三齋書状(1073)
松井佐渡(興長)二萬五千石之外知行之儀、先書ニ如申もはや是ハ不入儀候事
家老松井興長に対する「加増はいらぬ儀」とする先書と云うものを探しているがいまだ見つからない。特別な意味はないのだろうが、この時期、松井家の知行が25,000石に留められていることが判る。
今日の熊本はよいお天気、買い込んだ古本を虫干しに及ぼうと本棚から取り出した。
このほかにも和綴じ本も含めいろいろあり、全部を写真に納めようとするとするとフレームアウトしてしまう。ちょっと買い込みすぎのきらいがある。
新刊書もどんどん増えてくるから、棚からはみ出した本は棚の前後に積み上げる始末で、捜そうとすると大事になる。
こうして写真に収めてみると、好きな本の傾向が見えるようだが、新刊書の方は種々雑多である。
毎日古本屋さんのサイトに目を凝らしながら、週一くらいのペースで注文をしている。紙魚が走るような本もあって、古本三昧の昨今である。
(買って失敗した本も有り、これは資源ごみに直行という事になるのだが、これが結構あり妻の目を盗んで出すのに苦労することになる)
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吉田神道の四百年 神と葵の近世史 (講談社選書メチエ) |
講談社 |
内容紹介 秀吉も、義満も、徳川将軍たちも頼った「神使い」その盛衰を描く歴史学 徳川家康のブレーンとして名高い金地院崇伝曰く、「神ならば吉田存ずべき儀」。 幕府の権力が直接及ばない「神」の領域を、「吉田の神主」たちは、いかにして手中に収めていたのか。近世史の一断面として、神祇管領長上吉田家の盛衰を見通す! |
目次 序 天下人と天上の神 第一部 神使い 第二部 零落と再興 第三部 鍍金(めっき)と正金 結 神と葵 |
津田三郎著に「秀吉・英雄伝説の軌跡」 がある。秀吉亡き後、豊国神社に関わってきたのが吉田神道家であるが、豊国神社や秀吉の墓所の破却等、
家康の狂気にも似た行為になすすべもなく立ちすくんでいる。それでも吉田山にささやかな豊国廟を設え守っていく。
兼見の16歳離れた弟・梵瞬や、その跡を継いだ兼治(室・幽齋女伊也)の息・兼従などの苦労を知った。
この本においても新たな事実を知ることができるのではないかと期待している。
http://www.museum.pref.kumamoto.jp/event/kikaku/20130109-0324_jisyukan/index.html
熊本県立美術館では1月9日から「藩校時習館物語」展が始まった。熊本県立美術館本館 細川コレクション常設展示室II で3月24日までである。
http://www.city.yatsushiro.kumamoto.jp/museum/event/per_ex2/noh/05noh_list.html
一方八代市立博物館・未来の森ミュージアムでは「 能面と能装束」展が始まっている。1月8日から2月10日までである。
細川家の史料では「有明」とよばれる茶入れだが、後には安國寺恵瓊の手にわたり「安國寺肩衝」となったという。廻り廻って再び細川家の元に帰り、今度は「中山」と名附けられた。現在は五島美術館の所蔵になるこの茶入れだが、色々な資料によると、この茶入れは、幽齋公から三齋公に伝えられたとされているが、いささかの疑問がある。
安國寺肩衝の流転 http://www.ttec.co.jp/~fudouin/ekei/tyaire/t-1.html
名物茶入 http://members.ctknet.ne.jp/verdure/cyaire/a.html
豊臣秀次が謀叛の疑いをかけられ秀吉から成敗された折(秀次事件)、細川家も連座の罪で疑われ窮地に陥ったことがある。
娘・長の婿・前野出雲守長重は秀次近くに仕えていたため父と共に切腹させられたが、長は出家させて難を逃れている。
一方秀次から借金をし、連判状に名を記していた忠興も切腹の沙汰が心配されたが、家老松井康之の奔走で黄金の返済をなし秀吉の誤解をとき、命拾いをした。このとき秀吉から拝領したのが、この「有明」の茶入れだとされる。綿考輯録は次のように記している。(忠興公・上 130~131)
康之帰候以後、忠興君閉門御赦免ニ而、御登城被成候得は、奥へ通り候へとの御意にて、各列座の中を御通り候ニ、
何れもあやうく被存体也、太閤ハ奥の間に床を枕にして御座有けるか、三成か訟へ捧る処の一味連判を取出し、是ハ
其方の判にてハなきかと被仰、忠興君如何ニも能似申たる判にて候へとも、筆くわく違候と御答被成候得は、左こそ有
へき事なり近く寄れとて、懐の中に手を入レ御さくり候へ共、懐剣も無りけれハ、如何にもケ様ニ有へきと見つる事也、
大たをれ者に一味し、ケ様の連判有之と云共、惣而十人の中五人も三人も謀判を加る事は可有也、忠興ハ先年明智
叛反にさへ組せさりし事なれハ、此判は偽り成へし、たとひ一味とも以前の忠義に対しゆるす也、さそ此程ハ気積りた
るへし、茶の湯して慰候へとて、有明といふ御茶入を被下候間、畏て御礼申上候、其時御側衆、扨も結構なる物を被
為拝領候と御取合有けれハ、太閤夫よりも大事の物を遣したりと被仰候、忠興君暫く御思案被成、誠に此以前も時雨
の御茶壺を拝領仕候と御申上候へは、いや夫にてハなし、一大事の命を遣したりと被仰候、扨御退出被成候ヘハ、御
次の人々御命をさへ危く存候ニ、名物を御拝領ハ冥加に御叶被成候事と各御申候なり
この茶入は上記「安國寺肩衝の流転」に帰されている如く、転々としているが、津田秀政(與庵)の茶会でこれを見かけた忠興はこれを持ち逃げしたという逸話がある。また息忠利代これを売り払い家中扶助の資金にしたことを知った忠興が、「茶の湯あかりし」と云ったとも伝えられる。
これらも綿考輯録が記するところである。
漢字検定一級に出るとされる四字熟語が1,112文字有るのだそうだが、そのほとんどは日常使われることがないように思われる。
そんな四字熟語にも含まれないのが、この「急流勇退」である。「細川家家臣略系譜」にはさまっていた古い紙切れの中に、この四字熟語が書かれていた。
そして今一つ、栗本鋤雲とある。自分で書いているにもかかわらず記憶が全くなく、まるで判じ文でこのメモがいったいどういう事なのかとんとわからない。
「急流勇退」を検索するとその意味はすぐ分かった。(官職などをいさぎよく、きっぱりと辞めること。船が急流中で勇敢にさっと引き返すように、仕事の調子のいいうちに、機を見て辞職する意から。)
栗本鋤雲の方は承知しているが、この二つの文言は全く別物と思い込んでいた。いろいろググっている内に、栗本瀬兵衛編「栗本鋤雲遺稿」という刊行物があることを知り、内容を眺めていたらここに「急流勇退」という文章があることが判明した。
その後いろいろ調べていたら、此処に書かれている「急流勇退」の人物が遠山左衛門尉親子であるという事が判った。
あの遠山の金さん(景元)と、その父親の二人である。
改めてこの紙切れが挟まれていたページを眺めてみると、「と」と「ち」の項である。「遠山彦次郎」「遠山三右衛門」家が掲載されていて、なるほどと合点した次第である。両家とも「景」の字を通字としているので、遡ると左衛門尉家と同じルーツに至るのかもしれない。
いつのころ挟み込んだのか判らないが、「お主なかなかやるじゃないか」とにゃりとしたことであった。
「急流勇退」・・・地位に連綿とする政治家や官僚などに、この四字熟語を教えたいものである。
我が家に関わるいろいろな資料を整理している。そんな中にK氏が東京に居られたころ、わざわざ国立公文書館に足を運ばれとっていただいた、昭和三年の「昭和大禮贈位書類」のコピーがある。高祖父・上田久兵衛の贈位内申が含まれている。
この書類は十一冊に及ぶ大部のようだが、四枚のコピーはその「第九冊」の中にある。
どうやら県別にまとめてあるようで、1ページ目は福岡で五條頼元・加藤司書・黒田齋清・黒田長元・立花鑑連・田中吉政など11名の名前がある。
熊本はと云えば、菊池武時・菊池頼隆・細川忠利・浅井鼎泉・木原楯臣・小橋元雄・赤星有隆・上田久兵衛・池邊吉十郎など13名である。
その結果は、福岡・熊本ともすべてNGなのであるが、その結果報告書を福岡の例を見てみると次の様にある。
右十一名ハ孰レモ當時ノ皇室又ハ國家ニ對シ精忠ヲ抽テテ其績勞尠カラスト雖
事歴中猶考覈ヲ要スルモノアリ或ハ既ニ其功勞ヲ或ハ他トノ權衝ニ稽へ考慮ヲ
要スヘキアルヲ以テ他日ノ詮議ニ譲ラレ可然
それぞれの人が以後贈位がなされたとは伺われない。
私が面白いと思ったのは熊本の場合ばかりではないが、時代がごっちゃ混ぜになって人選がなされていることである。
その中に細川忠利公の名前があり、既有位階を「従四位下」と記している。
当時の熊本県は、忠利公の位階を父・忠興公の従三位くらいを狙ったのかもしれないが・・・慶長十年に家督して従四位下となったが、以来そのままということになった。
わが高祖父・上田久兵衛や、西南の役において西郷軍に加担して共に斬首された池邊吉十郎にも、「おなさけ」がかけられ内申(推薦)がなされている。
上田家の想いは別として、私は「そんなもんはいらんわい」と思っている。
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百年前の日本語――書きことばが揺れた時代 (岩波新書) |
岩波書店 |
かって同じ著者の「振り仮名の歴史」を読んだが、これがなかなか面白かった。
最近明治大正の著作をいろいろ楽しんでいるが、あの時代の豊かな表現がまったく絶えてしまって、日本語が危うくなっていることを実感する。
楽しんで読みたい一冊である。
今野真二氏の著作 http://www.amazon.co.jp/%E4%BB%8A%E9%87%8E-%E7%9C%9F%E4%BA%8C/e/B001I7ITZW
年未詳三月五日忠利宛三齋書状(1812)に、二つの大名物茶入れについての記述があった。
已上
書中、又立飛州よりの御撚も具ニ見申候、我等へも先日此分ニ御申候つる、
其方如被存候、我等ハ拝領ノ尻フクラト山の井ならてハ、茶入ハ持不申候、
残ハ何もあらみにて候、飛州よりとり申候ツル付ハ、一段おもしろキ物にて候
ま、せう/\ノ物ニかへ申事ハ不成事候、飛州と我等事候間、いかやうニも
と存候へ共、數寄道具ハ一切さやうニハなき物にて候、近日御すき候は、ま
つ返シ申候て、又可申請候、則唯今、茶入さん三郎ニ渡申候、茶入之そこね
申所つくろい可申と、うるしを付申候へとも、のこいし進之候、兎角ニ可申請
候間、御國へ御歸之時給候様ニ可被申入候、其内かへの茶入之事、たんこ
う可申候、状書そこなひ、中をツキ申候、恐々謹言
茶入ノ箱ノヲニ此印ツキ申候 ○(ローマ字青印)
三月五日 宗 (花押)
写真は尻膨(利休尻ふくら)であるが、これは関ヶ原の戦いの褒美として忠興が徳川秀忠から拝領したものである。
綿考輯録には次の様に記してある。
(慶長六年)三月十七日、大坂の御館に御入、十九日家康公江御目見被成
候処、御料理等被仰付御首尾能御座候、同日秀忠公岐阜・関原表之御軍功
御賞美之御物語なと有之、利休尻膨の御茶入を被進候、前かと御戯ニ国ニ
かへても御望と被仰候を御覚被成候而、今其望を被叶段秀忠公御意と也
この茶入れは宇土細川家に伝わり、この尻膨他の道具と共に綱利公へ進上、3,000両を下賜され宇土細川家財政立て直しなどに使われた。
其の後、細川本家所有のまま現在に至っている。大名物である。
山の井肩衝についても綿考輯録に以下の如く紹介されている。
忠興君に康之より差上候茶入、高さ三寸八分廻り七寸也、本ハ越前ゆのふ
峠の茶屋ニ有之候を、康之家来稲津忠兵衛と申者囉(もらひ)候ヘハ、安々
とくれ候故、腰銭を六十遣候所斟酌いたし候を、是非に与帰候、扨傍輩共ニ
見せ候ヘハ皆々笑ものニ致し候故、稲津も抛転し枕なとにせしを、岡本久右
衛門と申利休児小姓立のもの、松井方ニ茶道致し居候が心付、康之ニ見せ
候ヘハ、是ハ能茶入なりとて忠興君へ数寄を仕り候時出し申候、忠興君殊外
御褒被成、古田織部へ見せ候へ、目か上りたらは可誉と被仰候故、織部殿
へ見せに遣候処、甚誉被申候、則ふた袋被申付候ニ、此茶入之袋ニ可成き
れ無之とて、京・大阪・堺方々尋、漸取出被申候由、其後忠興君へ御意ニ入
候ハヽ、可差上と康之申上候ヘハ、我ハ能茶入持たる間、其方秘蔵仕候へ
と被仰候、此故を以康之遺物ニ差上候、然共ふた袋思召ニ不叶、御仕直、始
之ふた袋ハ一度も御茶湯に御出し被成候、或時古田氏ニ御茶之時御出し被
成候処、殊之外感被申、私之勢高之茶入千枚仕候を進上申、其上金千枚差
上、此御茶入申請度と被申候由、其後加賀之前田肥前守殿より土井大炊頭
殿を御頼、金二千枚ニ御申有之度、乍去千枚ハ只今進し、残而千枚ハ度々
ニ可進と被仰候ヘハ、忠興君、度々ニ取可申齢無御座候とて御笑被成候、
此処茶入山井と被名付候
浅くともよしや又くむ人もなし我にことたる山の井の水
と云古歌の心也、松井方にてハ稲津肩付と申、世上にてハ松井肩付とも申せ
し也、三齋君より立孝主ニ御譲被成、丹後殿御伝り候哉、寛文十二年御勝手
被差支候由ニ而、望の方へ被遣度、代金五千両之由、乍然もし綱利君ニ可
被召上哉とて、先ツ御家家老迄御内談之趣有之候、此節綱利訓御在府故江
戸ニ伺ニ成候処、山の井の御茶入ハ他家ニ被遣御道具ニて無之と被思召候
間、被留置、宇土ニハ右茶入之代銀四百貫目追々ニ可被遣候、左候ヘハ茶
入何方へも参り不申、丹後殿御勝手の足りニも成可申との思召、江戸より被
仰下候(以下略)
求古尋論 散慮逍遥
ことをもとめついにろんず りょをさんじてしょうよう
三體千字文にある一文である。
徒然を感じなば古人の著書を讀み、古人の遺し置きたる道理を研究すべしとなり
斯の如くなさば、煩わしき世の中の事をも思はず、人と爭も生ぜす、心ゆたかに樂々と過し得るなり
一応写真に撮りましたが、さすがに恥ずかしくなって今回は取りやめといたしました。
そのうちにご披露したいと思いますが・・・・・この一文のように生きられれば幸せだなーと感じながら書いてみました。