津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

白金邸

2013-01-23 18:48:39 | 史料

 細川家下屋敷である白金邸である。御裏は含まれていない。天地が逆さまになっているこの平面図をご紹介するのには二つの理由がある。
一つは「地震の間」である。(まだこだわっている・・・・) 今一つが今回のメインなのだが、赤穂義士の切腹の場所を右上に示している。
2月4日(旧暦)が切腹の日なので、堀内傳右衛門の「旦夕覚書」や「御預人記録」などをご紹介しようと思っている。
次回は切腹の場所のを示した「場所図」や、赤星閑意・画の「義士切腹之図」をご紹介し、その相違点などを探りたい。 
これらを比較するためには、この絵図は天地さかさまにする必要がある。 

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入江平内事(三)

2013-01-23 08:35:59 | 年表

         入江平内事

            一先祖入江平内儀兄入江淡路守と最初には若州邊見家江相勤
             申候処邊見家断絶ニ及申候ニ付  御家ニ来候処淡路守江は
                                                御知行三百石平内江は弐百石被為拝領  三齋様御近習
             ニ被召仕候
            一天正十年九月八日一色殿御討果候節  三齋様江御長刀
                を取差上申候右御長刀ニ而被遊御働日並小左衛門と申者
                之面を遊御剥差候其砌ゟ面之御長刀と被遊御号候平内
                も並ニ切出働申候
            一同十八年秀吉公関東御陳之節伊豆國並山城攻之砌
              三齋様御水練ニて堀を越城之様躰を被遊御見分候節
              平内壹人被召連同水練仕御供仕候
            一慶長五年八月岐阜被遊御攻候節は 与一郎様御
              手ニ付従 三齋様被為 拝領波草之陣羽織を着仕候而相働
              申候 三齋様被遊御覧奇特成ル働仕候由被為成 御意候
            一同年九月十五日関東御合戦之節 三齋様御側ニて相働
             玄蕃様江之御使等も相勤申候
            一慶長六年十月従 三齋様被為 拝領候御書出樹下
             団之允家ニ持傳居申候写左之通

                    豊前国下毛郡之内
                 一六百九拾五石六斗弐升八合
                       内
                 一 三百五拾石     樹下壽林
                 一 百石          樹下右門
                 一 弐百石        入江平内
                 一 四拾五石六斗弐升八合
                       松下因幡組江出候
                       以上
                       慶長五年六月十月日 御衆印                                                               

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沢村大学吉重

2013-01-22 15:57:44 | 史料

 ある方から沢村大学(1560~1650)について知りたいとのリクエストがあり、急きょサイト内にある諸々史料をを引っ張り出している。
上の図は、藤本正行氏の著「鎧をまとう人びと」にある、沢村大学の画像を引用させていただいた。正保二年に描かれたものだとされるが、この時期
になると戦場経験者が少なくなり武装の参考にもなる貴重な史料だとされる。三十数度の合戦に望み、幾多の高名をなし寛永十四年の島原の乱に
も従軍している。 

この画像を見て思い出されるのが、皆朱の鑓である。かって熊本高校に在ったとされるが火事で焼失したとされる。残念の極みではある。
              澤村大學の「皆朱の鎗」

戦場での高名はここでは除外するが、豊前時代にはある誤解があって忠興の不興を買い、豊前をはなれたりしている。
其の後大学が三齋のもとに出向くのは17年後のことである。

また大学は中路周防女に50石の米を借り17年返済せず、29,880石余にもなり忠興がとりもちして解決したりしている。 
             澤村家の借金    
澤村家の借金・・2
何とも豪快な話ではある。

これらをまとめてお役御免としたいところだが、その他たくさんの逸話も有りなかなか骨の折れそうなことではある。
 

 

 

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熊本・観光文化検定

2013-01-21 16:37:02 | 熊本
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遺伝

2013-01-21 13:50:53 | 徒然

 去年の11月頃から喉に違和感を覚えるようになった。喉風邪でもなく、食事が通らないでもなく、それでもなんとも不愉快な感じだったが、昨年末あたりから喉の付け根の両側が痛くなり、最近これが顕著となって固定化してきた。
音声は文字ではなかなか形容しがたいが、盛んに喉を「んー、んー」とやっている。
亡くなった母が全く同じことをやっていて、遺伝として私に受け継がれたらしい。ある日突然出かけた母が「病院に行ってきた」という。
口数が少ない母は、具合が悪くても口に出さないタイプで、私に告げずに病院に出かけたという事に驚いた。
そして、「バセドー病だといわれた」という。妻と二人、「喉も晴れていないし本当かなー」などと疑ったりもした。
母の「んー、んー」は二三十年続いたように思うが、病状が悪化することはなかった。

同じ感じが今私にある。当初は手術でも伴うような病気ならいやだなーと思ったのだが、どうも母からの遺伝のような気がする。
なんとも不愉快な感じがあって、私も盛んに「んー、んー」とやっている。病院嫌いの私としても、これは何とかいかずばなるまいと考えるこの頃である。
死ぬことはあるまいと思っているが・・・・・・ 喉は此処ですよとばかりの違和感である。 

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入江平内事(二)

2013-01-20 11:22:48 | 歴史
「武家家伝-入江家」には、【元秀には景秀と景光の男子があり、景秀は高槻落城後しばらく流浪していたが、勝龍寺城主細川藤孝に召し出されて丹後に供して細川家の家臣に列した。慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦に際して、細川幽斎が田辺城に籠城したとき、景秀は大手口を固めて活躍した。弟の景光も細川氏に仕えて忠興の近習を勤め、天正十年、忠興が一色義定を手討ちしたとき、同十八年の小田原の役のときも忠興の側近くにあった。かくして、元秀の子たちは細川家に仕えて、近世に至ったのである。】と紹介されている。
「綿孝輯録」によると、兄景秀については淡路、弟景光については平内入道真斎としている。 
    左近将監     淡路守     徳左衛門
    元秀---+---景秀---+---元景---+---景就・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→細川家家臣・入江傳十郎家(300石)
        |     |      |
        |        +---正勝  +---正照
        |
        +---景光(平内入道真斎)
入江家は「丹後以来」の家であり、兄・景秀(淡路)は「田辺城籠城衆」として、慶長六年忠利(当時忠辰)から、懇のお言葉を戴いた。
           入江淡路田辺籠城功労之事ニ付、慶長六年被下候御書 (綿考輯録・巻28)
      折紙拝見候、誠其後久敷不申承候、書中之ことく去年一乱之砌、
      於田辺二長々苦労有之由、尤心中察申候、手柄成儀共満足申候、
      爰許長々之義迷惑推量之外ニ候、仕合之儀ハ無残所候間、機遺
      有間敷候、奥御陳儀も爾今不相極候、大略ハあつかいと申候条、
      可為其分と存事ニ候、恐々謹言
      五月三日        内記忠辰(忠利)御判
                      入江淡路殿 まいる

 豊前にて三百石被下候、妻ハ毛利家士乃美某女なりしか、城下引払候とき、一揆を防ぎ男子に勝る働有しと也、父は左近将監光秀と云、摂州高槻の城主にて、信長の為に殺され、一族郎従ともに此時分散せしと也、淡路其比は権之允と申候て、幽斎君青龍寺城御在城の時より御出入仕候、乱舞好奇にて、又してハ円斎か所によりて小鼓を打し也、五郎次か鼓に似たりしといふ、豊前にて御万殿に御附被成候、忠興君・忠利君御自筆之御書数通頂戴、後剃髪して普門と云、慶長十九年六月病死  (綿考輯録・巻5)
 又、弟・景光(平内入道真斎)については次のようにあるが、子孫については不分明としている。
淡路弟、二百石、若狭の逸見に仕へ牢人して御家ニ参候、芸能多く形儀のぬるき者なり、能登守教経の矢の根・大脇差・乗鞍忠興君へ差上申候、平内果候節、忠興君御追悼の御詠歌被下候
      立のほる煙の末はなきものを つきせす落るわかなみた哉
忠利君より被為拝領御書于今本家に持伝候、真斎子孫有之哉、不分明  (綿考輯録・巻14)
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奮闘八文字

2013-01-19 14:16:08 | 徒然

 ある御宅の先祖附を読んでいる。大方を読み終わったのだが、八文字ばかりがどうしても読めなかった。
昨日は五時間程をかけて四文字を解読、残り四文字が持ち越しとなった。
私はこの類の文書は、読みとタイピングを並行して行う。読めない字は■で表記して置く。
これが多いとがっくりするのだが、今回は約2,600~2,700文字の内の8文字だから、一度の荒読みではそう多いとも云えないのだが、なんとしても0にしたい。
文章の流れを見ながら目星をつけて、くずし字解読辞典やくずし字用例辞典をひも解くことになるのだが、どうやらその目星が狂っている。
一休みしてタイピング原稿と先祖附とを全文照合しながら、間違いがないかをチェックしているが、ほかにも出てきそうでひやひやものである。 

どうも■をつぶしてしまう事ができないのではないかと不安に駆られながら、重い気分でもう二時間を過ごしてしまった。 

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祝71歳

2013-01-19 10:53:17 | 徒然

                               目出度さも中くらいなりおらが春   一茶

                               門松は 冥土の旅への一里塚めでたくもあり目出度くもなし  一休宗純
 

 小生本日71歳と相成りました。いやはや・・・・・


人生雪だるまの如く転げ落ちるのが加速している感じだ。冥土が段々近くなってくるのを実感する。
七つ違いの姉の話によると、随分寒い日であったらしい。刻はまさに寒中で明日は大寒(今年は20日)といった日だから、我が誕生の日も「冷ゆることの至りて甚だしきときなれば也」であったのだろう。後期高齢者と呼ばれるにはいささか時間があるが、爺も本格化したというわけである。
ここ数年病院通いをするような病もちではないが、膝が痛かったり、疲れが抜けにくくなったりと年相応の現象が当たり前になってきた。
毎日6~7時間パソコンをあやっているから、肩や腰がぱんぱんで半端ではない。
最近は恒例の4キロ散歩も寒さを理由に辞めているのだが、少し暖かくなったらまたはじめようかと思っている。

とにもかくにも齢を重ねるのはあまりうれしくもないから、祝杯ならぬ残念杯(ざんねんばい)をあげて、今しばらく生かしていただくよう神様仏様にお願いすることにしよう。 

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入江平内事

2013-01-18 14:33:13 | 史料

          2011.9.15熊本県立図書館に出かけた折、「入江平内事」という書写資料をコピーしている。
         その日のブログで、ご紹介する旨を申し上げていたが、なにしろ読みづらい文字で延び/\にしていた。
         デスク周辺を整理していたら一年四か月ぶりにこの資料が顔を出した。読んでほしいと云っている気がしてチャレンジしている。
         まずは写真でご紹介し退路を断っておきたいと思う。
         200石の平内の跡は断絶したものと思っていたが、どうやらそうではないよだ。・・いろいろある・・ 

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文楽「八陣守護城」

2013-01-18 13:41:25 | 熊本



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12歳~75歳

2013-01-17 13:15:41 | 徒然

                  実は僕 家でカエルを飼つてゐる 夕立来るも 鳴かないカエル
歌会始を報じるTVで、12歳の太田一毅くんの歌を聞き温かい思いにさせられた。 
国語の担任教師が一クラス分まとめて投稿したのだそうだが、本人もともかく、この教師にとっても意義深いことであったろう。

一方、芥川賞・直木賞が発表され75歳の黒田夏子さんが芥川賞を受賞された。筆歴は70年というから年季が入っている。本物だ・・・・ 
私はまったく存じ上げないが、ぜひとも作品を読んでみたいと思っている。

奇しくも同じ日にお二人の晴れの姿を拝見したが、人間の可能性を深く考えさせられた。
高齢者の領域に足を入れてから久しいが、健康でさえあればいろんなことがやれる。
私の手帳には、平成15年の歌会始の熊本の歌人安永蕗子先生の歌を記している。
選者として召され、私が大好きな次の句が紹介された。

                  楠若葉はやくれなゐに炎ゆるなり 城下しばらく男の町なれば

そして16年の御題「幸」と投稿のための書式や、締切日なども合わせてメモっている。(メモっただけで終わってしまったが・・・・) 

来年の御題は「静」、皆さんも頑張ってみませんか。

                          写真
 

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加藤清正の肖像

2013-01-16 18:21:56 | 徒然
 
下は一年前の記事である。この新聞記事は削除されたようだが、14日に御能を拝見に出かけた折、DrT様から上記のものを頂戴した。
偶然のことでびっくりしている。 
 
 
 
 
加藤清正の肖像

 今日の熊本日々新聞は、熊本市のO様宅から加藤清正の肖像画が発見されたことを報じている。               http://kumanichi.com/rural/re...



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「肥後辛島家のひとびと」展

2013-01-16 15:56:33 | 展覧会

                                            肥後辛島家のひとびと・展     
 

関連講座 講座「肥後辛島家のひとびと」

          第1回 1月19日(土曜日) 第4代 辛島道珠(からしま どうしゅ) 終了

          第2回 2月 2日(土曜日) 第8代 辛島才蔵(からしま さいぞう)

          第3回 2月16日(土曜日) 第12代 辛島格(からしま いたる)

          (注)時間は午後1時30分から午後2時30分まで(事前申込は不要です)

 

■ 辛島彝蔵  (南東17-25)
     与三左衛門
    1、道珠  
著作:肥後名勝略記(元禄二年頃)
    2、道専
    3、義先
       
辛島雲蔵 名は淳美、義先と称し、別に耻月と号す。藩の文学となり、傍ら書及び管楽を善くす。
              享保十八年八月二日没す。享年四十四。

    4、義助 
       
辛島青渓 名は光輔、字は翼之、義助と称し、青渓と号す。藩黌時習館訓導となる。
              寛政五年四月廿一日没す。享年七十。墓は春日万日山。

    5、才蔵  御鉄炮三拾挺頭・惣教支配・時習館教授 三百石内二百石御足高
      
 辛島エン井 名は和雄、一名憲、字は伯彝、才蔵と称し、エン井と号す。幼にして穎悟、数歳にし
               て句讀を受け大學を背踊す。長じて草野潜渓に学ぶ、後時習館訓導となり又江戸
               にして大府の命を蒙り經を昌平黌に講ず。藩臣此の栄典にあずかるもの薩(摩)の
               赤碕海門、芸(洲)頼春水等数人のみ、後進んで時習館教授となる。所謂六教授の
               一人也夙に程朱を信し、忠君憂国の念終始一の如く、又親に事へて孝養を極む。
               天保十年二月廿三日没す。年八十六。墓は万日山。

    6、大吉  新知百石
    7、多喜次  訓導部御物頭列 百石
        
辛島蘭軒 名は知喜、字は叔陽、通称は多禧次、蘭軒と号しエン井の長子なり。最も文学に長じ
               時習館訓導となる。性廉正剛直、しばしば書を執政に上る。言皆凱切却つて流俗の
               忌む所となる。明治十八年四月没す。年八十。墓は春日萬日山。

    8、彝之允(彝蔵)
    9、格(いたる)    熊本市長

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「個人情報の保護について」の対応について

2013-01-16 11:23:07 | 徒然

 当サイトの「侍帳」の中の記述並びにブログ記事について、問い合わせを戴く中、個人情報の提供を求めるような一部の申し入れがあります。
いわゆる「侍帳」につきましては、明治初期の当主までの情報を種々諸資料から集めて開示をしております。これに準じてブログで発信しております。
沢山の皆様からお問い合わせをいただき、こちらで取得した情報を直接お届けしていますが、最近いささか不審なメールなどが届き関係者の住所などを問い合わせるものがあります。当方では関係者の皆様の現況情報(住所・氏名・電話及び縁戚関係など)につきましては、一切クローズしておりますことを申し上げます。必要があると判断した場合は、ご当人さまに当方からご連絡しご了解をいただいたうえで、どのような内容をお知らせするかをご通知することと致しております。

サイト開設以来思いがけない数の皆様に楽しんでいただいている中で、現況実害は出ておりませんが充分心して運営をしなければならないと考えます。
ご報告を申し上げ、ご理解をいただきますようお願い申し上げます。 

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古文書を読む

2013-01-15 16:47:29 | memo

      この写真は、高梨素子著「後水尾院初期歌壇の歌人の研究」に掲載されている、幽齋の田邊城籠城に関し朝廷からの停戦の働き掛けに関する貴重な資料である。          
      著者の所蔵による。
   従来田邊城への停戦・和議の使者は、三条大納言實条・中院中納言通勝・烏丸中将光廣だとされてきた。
   処が氏の著作によると、日野輝資・中院素然・富小路秀直だとし、これを裏付ける冷泉少将為親宛の三人からの書状が写真で紹介されている。
   細川家資料によって語られてきたことが、強力な資料により再検討を余儀なくされるのではないか・・・・・

   貴重な史料であるため引用させていただき、内容を再認識したい。

                                     尚々田邊之儀
                                            さきへ
                                     前田主水罷越候間
                                     可御心安候 以上 

                                   昨晩両三人
                             至室河原
                             着仕候徳善院
                             衆 存之外遅々候て
                             如此候 前田主水ハ
                             今日田邊へ可令
                             参着之由候てさきへ
                             罷越候 彼地之様子
                             不可有別状候間
                             御心安可被思召之由
                            ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                                   内々可預御取成候
                             両三人ハ明後日
                             早々田邊へ可参着候
                             猶追々可申入候
                             恐々謹言

                               九月四日   輝資
                                        素然
                                        秀直
                               冷泉少将殿
                                    

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