津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「旦夕覺書」--風・27

2015-02-22 14:58:23 | 史料

                 一、歩の御使番の時年始の御禮廻の為に江戸中見置御案内申事今も可有之候 村井源兵衛・結城孫助拙者三
                   人被仰付候 日本橋にさらし者有之通悪に見申村井拙者は其儘見候て通り近くに糸屋太郎兵衛御用承
                   候者の所へ立寄申候 小者一人残置候 孫助に早く見仕舞候て糸屋太郎兵衛所へ参候へと残置候 孫助様
                   喧嘩被成候由候肝つふし雨降そふに有之雨羽織じゆりん着居申大小の惣掟袋に頭の所紫皮にて結
                   置候とき申事走り々々ならぬ物にて其の後頭に又革にて袋きせ申候 唯今大方其如く成申候と見へ候
                   扨参候て見申候へは見違候様子にて互に何のかのとせり合申故村井に孫助手を取太郎兵衛所へ参候
                   へ拙者は見違候者召連可参とて跡より同道いたし爰は大勢人集り互にとふこふとの穿鑿成兼可申候
                   先是へ参れと申手とらへ参候内に拙者は御通懸と見へ申候無御構御通候へと申によりいかにも其通
                   に候 併奉公人は互の儀に候彼人は見違へて見へ申候 そなたは年寄町に被居候人と見申候へはさのみ
                   疵にも成らぬ事堪忍召れ候へと申候へはいやそこの人とこへいくそと爰にては埒明可申と申候故村井
                   に目配り太郎兵衛二階に村井孫助召連あかり候へと申拙者は下に居候 見物大勢にてとろほふと申集
                   り申故目をいからし高聲にて何者そ町屋の店をふさくと申刀に手をかけしかり申候へは皆々迯散申
                   候 扨太郎兵衛儀罷出申候 太郎兵衛そなたと知る人かと申候へは成程見知り申と申候へは彼の者申様は
                   拙者は日本橋つめ八百屋の何某と申候侍の比興なる男是へ出被申候へ埒明可申なとゝ腹立候故い
                   かにも見違らえ腹立らるゝは尤に候へ共度々申様に町の人なれは奉公人とは替り少も々々疵になら
                   ぬ事太郎兵存のことく拙者は傍輩にてもなく通り懸候故如斯候 太郎兵幸近所の事なれは能々断被申
                   候へ近邊の店の妨にも成候といろ々々断返し申候 扨二階に上り申候へは下にて悪口申故孫助も可出
                   なとゝ仕候を村井とらへ十方なき事見違たる上に町人を相手とはなとゝしかり候由後に咄申候 拙者
                   上り申候時には上に花色の小袖着目に立申とて下なる小袖と着替申時に候 扨々十方なき仕方何とゝ
                   申候へは慥に小刀ぬきたるをとらへ申候へは其儘捨たると覺候と申候 扨最早可歸と申孫助裏道は近
                   くになきかと尋申候故いや々々着物きかへ申事も拙者同心にてなく候 裏道参候候はゝ迯たると可申
                   候 本道可参候 併彼町人何方に残り申事可有候 先に村井中に孫助跡から拙者参候故近邊の町人とも店
                   々に出合申候 拙者申は扨々各やかましき事に合せ申候なとゝ挨拶いたし通り申候 右の役にて上御屋
                   敷へ逗留仕芝へ折々歸候て休息仕候 其時分は舎人殿は縫殿助殿隼人殿は綾之助殿七右エ門殿は八彌
                   殿三人共に御小々姓にて候 織部殿へ参候へは何と替る事はなきか江戸中方々見申頓て江戸巧者に成
                   可申そ 今時分は別て日本橋は人通り多くどろほふ多く巾着小刀なと用心仕候へなとゝ拙者に右の咄
                   申させ様に御申と存候へ共いや々々孫助為に為らぬ事と扣申候 何の替る事も無御座候と一二度申候
                   其後参り候へは少用有之是へ参候へと居間に呼御申候は此中折々噂を申候へ共終に咄不申候 孫助日
                   本橋にて小刀とられ見違候 三人共に同道と承申候 扨委細咄申候へと御申候へはヶ様々々と咄申候て
                   此間折々御噂承申可申上かと奉存候へ共孫助不調法のみに御座候 然れ共御尋に申上間敷道理無御座
                   一々不残申上候 孫助事は召仕候下々迄も人道稠敷しかり申候 侍中も慮外者なとゝ申段候故今度の
                   儀は色々悪口をも申と奉存候 着物も引破りたるなとゝ沙汰仕候へとも左様に無御座目に立申と着替
                   申候 其時分下々多く見知り申候 若狭守様御手廻りの者共も見へ申候へとも歩の御小姓より上なる者
                   源兵衛私も見知り申さぬに無御座候へはたとへ孫助にて皆々憎み申とも私共見知りたるには何とし
                   たる事かと立寄様子承らて不叶儀に奉存候 然は皆下々の沙汰と奉存候由申候へは尤々と御申候 其時
                   分御屋敷中無隠事故元田古八右エ門未縁者にも不成候時かと覺申候老父とも心安く候故拙者に被申
                   候は孫助は柏原殿こん意にて子供衆皆々鑓稽古孫助打太刀にて候由村井は節齋居被申候事拙者は織
                   部殿御懇比の事に候間委細咄置候へと被申聞候 然共老父咄に傳たる者能き侍と申は我身の飾り咄常
                   に嗜み組頭なと我身善悪共に尋申共聖文なと立ぬ者御不審に思召ならは家来を御穿鑿被成候へは知
                   れ申事抔と他人に申譯させ申物に候 勿論一門の事にても昔より縁者の證據として皆影にて笑ひ申候な
                   とゝ被申候なとゝ被申聞候 其時分拙者頭宗像彦四郎組頭糸川長右衛門組脇にて候故拙者申候は定て
                   今度孫助事御聞可有候同道人まで迷惑なる沙汰に逢申候能々御吟味候て可被召置候 以後皆共は御奉
                   公の妨に成申事可有之由申候へは御尤此中も彦四郎殿其心得と見へ御買物奉行藤本左五右エ門・平井
                   太郎兵衛両人糸屋太郎兵衛方へ御遣近邊の町人共にも尋させ被申候故拙者咄に少も相違無之と申候
                   遠坂関内殿前の頭別て故是も尋被申候故元田八右衛門心付被申候へ共ヶ様々々の心得にて織部殿へ
                   も咄不申候由申候へは殊の外心に叶申候哉尤々おれか聞置候少も心に懸申間敷と被申候 其後織部殿
                   に見舞に参候へは折節御次に御出候て小屋玄関にて逢申候へは堀次郎右衛門かおるそはいり咄候へ
                   と御申はいり申候處に小川重右エ門と申織部殿家来と次郎右殿咄居被申候所に参候へは先刻織部か
                   其方の噂にて候由被申候 定て御呵り可被成と申候へはいや々々そふてなく則重右も聞申候先日何そ
                   織部か尋たる事かあるかと被申候故いかにも先頃御居間に御呼寄御尋被成候儀御座候と申候へは其
                   方の被申様事の外感し若き者の扨々感入たる儀あおの心得にて勤申候はゝ後々は御取立可被成物と重
                   右も聞たると被申候へは重右エ門いかにも其通日外いのこの餅澤山に御取被成候事にて織部呵り被
                   申候事次にて承候 其時とは替り事の外誉申され候と笑申候 如斯の事皆々老父被申候事能覺候て事は
                   替り候ても孫助為にならぬと此方より扣申尋被申候時には有様に申却て拙者誉被申候は人の為か我
                   身の為と成申候
                    

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■お安く読む・PHP新書「インターネット的」

2015-02-22 09:29:01 | 書籍・読書

 

   インターネット的 (PHP新書)
        糸井重里
       PHP研究所

  初版は2001・7月だが、最近になって評判を呼んでいるらしい。そう云われれば「読まざあなるめー」とばかりに注文した。
 すっかりインターネットにおぼれている爺としては、良きことも悪しきことも勉強しようという殊勝な思いからである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

商品説明

 「インターネットそのものが偉いわけではなく、インターネットは人と人をつなげるわけですから、豊かになっていくかどうかは、それを使う人が何をどう思っているのかによるのだとぼくは考えています」 
   糸井重里のこの言葉に、本書のテーマと主張がつめ込まれている。人々のこの新しいつながり方、豊かさ、あるいは新しい価値観(「インターネット的」としている)を、自らが主宰する人気サイト「ほぼ日刊イトイ新聞」の体験をもとに示していこうという。その行き着くところにユートピア的な世界を見出そうとする、野心作といえる。

 「インターネット的」世界については、さまざまな観点から説明されている。その特徴には、「リンク」「フラット」「シェア」という「3つの鍵」があるとしている。人と人との自由意志的なつながりや、満足し合い、分け合うという意識などが、そこでの重要な価値になっているというのだ。糸井自身が生きてきた広告・メディア業界を支配する価値観、プライオリティーは、その対極にあるものとして批判的に語られている。さらに、信頼や本音の関係を基礎にした「インターネット的思考」や、消費の立場から「クリエイティブ」を実現する方法などの行動指針についても提言されている。体験から「ワン・トゥ・ワン」「消費者主権」といったビジネス用語のウソを暴く記述などもあり、おもしろい。

   インターネットの可能性やその未来像を論じた書物は数多いが、本書は2つの点で際立っている。ひとつは、文科系の視点しかもたない職業的コピーライターの手により、インターネットが鮮やかに表現されている点である。もうひとつは、論じられる世界を著者が実際につくり出し、すでに生きている点である。いまだ「実験中」という雰囲気が漂っている、生々しさのある書物と言えるだろう。バラ色のインターネット観と現在進行形の説得力、そして世界を語る熱気が印象深い。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■史談会2月例会「山わ希衣」

2015-02-21 18:02:37 | 熊本史談会

 「山わ希衣」は熊本の高名な国学者・長瀬真幸が文化四年、熊本城下から25~6キロほど離れた真木大神宮の参拝日記である。
上妻博之氏により書写され「上妻文庫」に収められている。
今般本会会員K氏がこれをとりあげられ、合志古文書の会で読み下しが為された。
さらにK氏が校正され、解説文や関連資料などを充実されたうえ、原文に釈文をならべ24頁に及ぶ冊子を作られた。
但しこれは上巻で、今日の史談会に間に合わせようとご努力をいただいた賜物である。
本日約90分の講演をいただいたが、大変面白く皆様の好評の内に終了した。少々時間がたりず講師K氏には御不満が残ったのではないかと少々心配をしている。下巻完成後又お話をお聞きしたいと考えている。

いつも会が終わると疲れがどっと出てしまうのだが、今回は皆さんの好評がそれを吹き飛ばしてくれる。よい企画であったとK氏に感謝である。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■大分の松平忠直配流の賄領・・番外編

2015-02-21 08:01:59 | 歴史

 俳優・里見浩太郎が演じた松平長七郎長頼は、松平忠直が豊後の配流地で為した子の一人がそのモデルだとする話がある。
忠直の事を記した「一伯公傳記」には「其後當國(豊後)にて御妾三人召出さる。一人は本三川の産お鋼殿と申す。一人は山津村より出お菊殿と申す。一人は竹田領緒方より出おふり殿と申す」とある。
慶安三年九月十日配流地で亡くなったため遺族は忠直の嫡男、越後高田藩主・松平越後守光長が引き取る事となった。
慶安四年二月光長の家士ら惣人数百五十六人が下向し、おふりの方の三人の御子を始めとして付添いの女中などが越後に向かった。

    ■松千代殿 廿一歳 越後家にて永見市正長頼と号し三千石を領す・・・・・・・・・・・・・(この人物が松平長七郎長頼のモデル)
    ■熊千代殿 二十歳 同家にて永見大蔵長良と号し二千石を領す
    ■於かん殿 十七歳 同家の家老小栗美作正矩の室となる 

後年越後高田藩ではいわゆる越後騒動と称する御家騒動が起きた。
市正正頼はこの騒動の前に亡くなっているが、その子・万徳丸、弟・永見長良、妹お閑と家老小栗美作の子・大六が継嗣のいない光長の後継をめぐって争った騒動である。将軍家綱の時代一応の決着を見たが、家綱の死去後綱吉は新たに再調査をし、小栗美作と子・大六は切腹、永見長良は八丈島に流罪となりここで死去している。
この事件に連座して小栗美作の弟・兵庫の幼子四人が細川家にお預けとなり、四十年程を質部屋暮らしを強いられた。
         http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/0f4cbd91e8dde94db0177781802f8195 

徳川家康の孫・松平忠直の血は再び天下を揺るがす結果となった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■大分の松平忠直配流の賄領

2015-02-20 09:45:28 | 歴史

昨日大分県立図書館で松平忠直の配流について少々勉強した。

      小藩分立図  大分先哲資料館でみた大分県に分立した諸藩の位置図
 

大分県下は旧藩時代は、中津藩、杵築藩、日出藩、府内藩、臼杵藩、佐伯藩、岡藩、森藩の八藩、それに飛び地として熊本・島原・延岡藩の三領が入り乱れている。
又、日田を主とする幕府領があり日田には代官所があり九州内の天領を支配した。加えて木下氏(交代寄合衆)の立石領、旗本時枝氏の時枝領が存在し「八藩七領」と呼ばれる。

府内藩(竹中家→日根野家→大給松平家)と熊本藩の豊後領である鶴崎のあいだに幕府領がある。
これは元和九年(1623)越前宰相・松平忠直が大分府内藩(中川氏)に配流となり萩原の地の置かれたが、ここが岡藩(中川氏)の領地であった為この地を天領となした。
岡藩は替地として乙津を与えたがこれものち天領となし、再替地三佐海原を岡藩領とした。いずれも大分市の東、鶴崎(熊本領)に隣接する範囲に集中している。
忠直の賄領(5,000石)は「大分郡の内、秋岡・曲・津森・片島・羽田・下郡・千歳・山津・三川・乙津の十村、速見郡の内、北石垣・鉄輪の二村」である。
忠直監視のために萩原横目が置かれた。細川家の鶴崎領からするとこの萩原の地は目と鼻の先である。
萩原にあること三年、寛永三年人里離れた津守へ移され、罪を得た中川氏に代わり府内藩主・日根野氏の預り人となった。
慶安三年九月死去、56歳。27年に及ぶ配流の生活であった。 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■松寿庵先生 第131講

2015-02-20 08:04:43 | 史料
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■大分行き

2015-02-19 21:26:44 | 徒然

 奥方の所用で大分行き、片道130㌔約2時間40分ほどの行程である。ガソリンを入れたりトイレタイムを取ったりして行きは3時間、帰りはノンストップで2時間30分ほどで都合280キロを走行した。
私は奥方とは別行動、当初は鶴崎の町を散策しようと考えたが足の痛みを考慮して、動かなくて良いように図書館で時間調整をすることにした。大分の図書館は、公文書館、先哲資料館を併設して「豊の国情報ライブラりー」と称しているようだが、大変立派な施設でうらやましい限り・・・・・ 
2時間半ほど郷土資料コーナーで鶴崎のことについていろいろ調べ、コピーを30枚ほどとったあと喫茶コーナーでコーヒーを注文してしばし休憩。
奥方を迎えに行き、行き先で小1時間を費やして17時出発。県境の波野(阿蘇市)あたりは雪が残っているところがあったので、路面凍結を心配しながらの走行・・・外気温はー1℃~0℃を表示していたが無事に山を下りた。気が付くと昼食をとっておらず腹がなっている。
帰宅してコーヒーをのんで一息つき、あまり疲れも残らず過ごせたことに感謝・・・・73爺まだ捨てたものではない。 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■拾集昔語から「阿蘇氏」を勉強する(3)

2015-02-19 06:59:50 | 史料

   拾集昔語・三

 一、佐々成政公柳川立花殿へ加勢被成御乞候事 (省略)
 一、秀吉公肥後國へ安國寺(恵瓊)を被指遣候事 (省略)
       佐々成政被召上切腹被仰付候事
       隈部有働并謀叛人共御誅罰之事
 一、阿蘇神主殿御兄弟御母上様を佐々成政公の御城内を出奉事
      一、神主殿御母子様右之通に成政公へ申上候而御城中に入置申候へ共佐々殿急速に被成御上候上に色々不宣沙汰致候故に御城内へ召置
        候而は無御心元いかゞ敷各申談じ御城代神保安蓺守殿へ申達し御城を出し申候て前のことく目丸へ又々引隠し置申候 御後室は又々前之
        通に小宰相の局所の里へ被成御座候て小宰相守被仕居申候 御両君へ者坂梨孫太郎・西源兵衛供奉前之通其外之仁々も前之通に候
 一、秀吉公肥後國へ森壹岐守を御上使に被為差下候事 (省略)
 一、秀吉公肥後國謀叛人之城々へ城番之御衆被為差下候事 (省略)
 一、秀吉公肥後國を加藤主計頭清正小西摂津守行長へ被為拝領候事 (省略)
 一、従 家康様小西行長滅亡以後肥後國を惣ね而加藤清正へ被為拝領候事
 一、加藤清正公阿蘇之宮神主惟善公を被成御取立候事
      一、阿蘇神主惟光公を前に書出し候通清正公に御育被成隈本へ屋敷被進御扶持方をも被進候而御育被成候處に従 秀吉公惟光へ切腹させ
        候様にとの被仰出にて隈本阿彌陀寺にて御切腹被成候 御位牌も阿彌陀寺に御座候 彼御位牌御立被成候前にて小僧衆そゝうになど御座
        候へはめひよいかやうに成とも不思議有之候と空誉和尚愚老に折々咄聞られ候 秀吉公前々より神主は科なき段知し召上られ候て以後右
        之通阿蘇家へ發向之相良殿を阿蘇之大老甲斐宗運右之通に討被申候 然れ共くま相良より吊ひ合戦とて無之儀左様之遺恨に相良之大老
        深水宗甫其砌歌人故紹巴などゝ懇にて眞にて候哉秀吉公之御前近く迄も伺公仕居被申候由に候 右之通の遺恨にて阿蘇の神主は強敵に
        も可成などゝ咄とも候はゝ達上聞如此に被仰付候哉とうたがひ推量之取沙汰共其比申たる由語傳候 然ば加藤子よ雅公に肥後國右之通小
        西落去後に御拝領被成候故宇土之城小西家頼之侍御取抱被成候儀被遊御貴免(キメン)候故南條元宅・建部兵庫頭と申仁人被召置候 然
        處に惟善公は右に書出候通に小西城下へ育まれ御座候を早々熊本へ御呼被成阿蘇神主職に御取立被成度思召候とて 家康様へ御窺被
        成候へば前之通に阿蘇大宮司職に御取立被成候へとの 御書出被成御拝受御知行千石被進阿蘇之御社邊に御在館候様にと被仰候而唯
        今之御屋敷に惟善公被成御安宅候 惟善公被成御批判千石之内山中社家神納御自分領御配分被成候と前々より申傳候 右之通に従 天
        下様清正へ被成下候御書出慥に阿蘇殿へ御座候と前々より申傳候へ共當分無御座候由承候 秀吉公より三百町被進候との御書出は右
        に書出候通阿蘇殿へ被成御所持候 神主殿に限不申阿蘇山坊中令退轉候をも清正公御取立被成候由に候 

 (以下六項 省略)  

                                            

       
         

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■お安く読む・洋泉社歴史新書「 なぜ、地形と地理がわかると江戸時代がこんなに面白くなるのか」

2015-02-18 17:53:39 | 書籍・読書
なぜ、地形と地理がわかると江戸時代がこんなに面白くなるのか (歴史新書)
 
                   洋泉社

 そもそも江戸の地形が取り上げられるようになったのは、「ぶらタモリ」が貢献しているかもしれない。
監修の大石学先生のお人柄はTVなどで拝見しているが、お人柄そのままで肩の凝らない本なのではないか? 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■拾集昔語から「阿蘇氏」を勉強する(2)

2015-02-18 07:15:47 | 史料

  拾集昔語(二)

 一、宗運歸陣色々工夫緒方喜蔵事 (省略)
 一、同宗運折々四百八ッ宛の首討取之事 (省略)
 一、同宗運盛世之砌甲佐御舟在々字侍に井芹と云者之一黨を譯有之候而忝被殺之事 (省略)
 一、同入道實子を數人被殺同氏嫡子宗立無分別之事 (省略)
 一、同入道残念咄之事 (省略)
 一、同入道死去之事 (省略)
 一、阿蘇神主惟種公御逝去惟前公御謀叛之事
       一、惟種公天正十一年之秋御歳二十有餘にて御逝去被成候 然は甲斐宗運存命に候はゝ何の申分も有之間敷候へともはや阿蘇家下かちに
         罷成濱の御所え出仕申候仁人も其八月頃からは疎に成候 如是の折節惟前公被思召候は惟光公・惟善公を何とぞ被成候て阿蘇大宮司
         御職を可被成御勤とて益城の中山・砥用・甲佐・堅志田の御知行は申に不及悪黨/\と引卒し矢部に御取懸被成候はんと御座候 此旨伊
         津野・早川城代衆西北渡邊・田上之仁々矢部に内通申上候に付家老仁田水・犬飼・高森其外男成・井田の人々一同に申候は矢部に引受
         候ては見苦敷候 此方ゟ令發向一戦を可遂とて右の仁々大将にて貮千人歩立にて令發向候處に矢部と砥用との堺満坂にて雙方の軍人
         行逢無頼之合戦に惟前公御敗北被成候て國中に御在館被成候處無之候故郡浦之様に被成御落去船にて薩摩え御父子共御立退被成候
         て島津を御頼被成候處に島津以之外御取持にて挌護被申候由に候 然とも惟前公追々御逝去にて御子へも御育米共被進候て被召置候
         に以後加藤清正公惟善公え御知行千石被進候由にて右之惟前公之御子惟元公へも知行千石被進候由に令風聞候 惟元公御早世故御
         子孫断絶の旨風聞いたし候 併當分は神主殿之御親父友貞公と御状の取やり共被成候 かの様に若輩の砌阿蘇にて承り候かと覺候

 一、益城郡に熊野花の山城振本已後落城之事 (省略)
 一、薩摩島津より初發に肥後國へ人數を指向之事 附肥前國龍造寺隆信を島津被討之事 (省略)
 一、阿蘇惟種公の御後室両若御達を隠し申事
       一、阿蘇の御家臣甲斐氏・仁田水氏初發に薩摩江令歸伏候故其外下いつれも同前にて惟豊公の後室両若御達濱の御所江被成御座候ては
         當分御家人を先として他は申に不及無心元候とて元來金石の御家人に南郷・矢部・高森・男成・早川の城主兄弟・渡邊・甲佐・中山の田上
         砥用上島の田上・北里・下城・坂梨・西北迫此人々一同に申談候は御後室は小宰相と云大女と能き隠居の在所へ供奉御心安可被成御
         座候 御代々の御文綸旨御寶物は男成明神の御寶殿に奉隠納一太夫守護可仕候 其内綸旨口宣文書は坂梨氏背負可申候 此外の御寶
         物は濱の御所江人しらさる穴蔵有之候に隠置迫井出両頭在番仕與風御母子様共に被成御上京候と申ふらし鳥居之大門をたて小門を開
         き注連を引廻し諸人出入令禁制可罷有候 御両若君へは坂梨氏孫太郎・西源兵衛・渡邊軍兵衛此三人供奉仕砥用・矢部境の奥目丸の深
         山幽谷へ忍ひ隠れ守り仕時分を待可申旨申合右の山中に各三人附居候て御兵粮の運送は右残り候者共彼幽谷の隠家に相送可申旨申
         談扨真先に御綸旨御文書を坂梨氏背負次に惟光公を西氏肩に載せ参らせ次に惟善公御字をほそ殿と申候を渡邊軍兵衛肩に載せ忍入
         候處に御跡ゟ三人追かけ其若君はわれ/\請取守護可仕と申候を渡邊ふり返り見候て其手令推察候 己等共薩摩江御供可申とや内々
         見聞も致候はん 時分か手並見せんとて大岩のかけにほそ殿を置申候て提たる鑓にて坂の上よりまくりかけ真先の者を突伏候へは真下
         りにかいふつて迯候故鉢巻に能々御取附被成候へ大将はハむつからぬものにて御座候ぞと申候て朱に成候鑓を片手にひつさけ各の跡
         をしたひ参り候由祖父折々咄被申候 亡父度々承候と被語聞候 阿蘇の御家其頃は惟前公方神主公方とて阿蘇家二つにわれて有之候
         由にて定而惟前公方の者にて有之候はんと亡父咄居申候 惟前公先筆に書出候通に被成敗北候故其方人共は隣人と成或は令逐電山
         谷野外に身をほそめ罷在候由に候間定て左様の者ともにて若君を背負薩摩江参間敷にもあらず候故軍兵衛被申分尤と存候 惣て軍兵衛
         は大の男にて大力の由語傳候 亡父初て神主惟善公江軍兵衛病死後に罷出候へは亡父に孫兵衛と假名共被仰付上下被為拝領なせ當
         分迄罷出不申候やと被仰出候に多年在京仕藪醫傳受仕居申候て参不申上候と申候へは坂梨氏の老翁軍兵衛事を被申出昔物語被咄出
         候に惟善公被仰出候は其通に候 鑓に血のついて流れ候をすさましく思ひ候事夢の様に有之候と被仰候と亡父折々咄聞被申候事

 一、島津大友殿を亡し可申との事 (省略)
 一、秀吉公九州へ被遊御下向候事 (省略)
 一、阿蘇惟種公の御後室両若御達御歸城之事
       一、秀吉様被遊御下向に付薩摩の軍人不残引取候故世上静に罷成候 就夫御後室若君達御隠居所より濱の御所へ被遊御歸候 然は外目
         を仕候者共も前々のことく勤たてまつり罷集別條無御座候故右之通に毎月つき副居申候者共先々在所々々江しはらく令歸宿候由に候
 一、秀吉様御横目九州へ被為出候事 附 惟種公の御後室秀吉様へ御禮被仰上候事 秀吉公薩摩へ被遊御入馬候事 肥後國侍秀吉公へ御禮被申上候事
       一、薩摩之軍士秀吉公被遊御下向候と其儘一戦に不及本國江引取候に付秀吉公豊後より肥後國内小國満願寺に被遊御一宿御制札など御
         立被成筑紫前國秋月に被遊御出秋月より筑前肥後國南の關に被遊御出候之由に候 豊後江被遊御着座候 明日御横目を數人九國中へ
         密々御廻し被成被遊御見聞候に矢部濱の御所の鳥居門を横目衆一覧候て鳥居門の領被仰上候へは被仰出候は阿蘇の神主は被遊御聞
         候程有之凡人は鳥居門ならず候と被仰出候由語傳候
       一、右に書出候通に阿蘇御家人共顔に手をおゝひながら甲斐氏・仁田水氏・宗立を始執事の武蓺前々のことく又濱の御所江勤申候て各申談
         候は南關江秀吉様暫く被成御滞座候内に御禮被仰上可然旨各評定仕候へは御後室も尤と被仰出御女身ゟの御禮にて候間女衆を可
         被成御進上とて小宰相と申大女古老の美相なるを被指上候へは御前宜敷殊の外御機嫌にて後室の女使扨又幼少之子共故如此の旨
         宜敷被思召上候 為育先々御新知三百町被為拝領候と被仰出其通の御書出小宰相頂戴仕罷歸御後室江差上候得は後室不斜被遊御大
         悦御若子様達先々被成御育候御手立御座候とて御祝の處に甲斐武蔵(是は甲斐宗立執事也)申候由は扨も御不足成儀を被仰候ものか
         な當國内にてさへ八千町今更三百町(一本八百町御座候に今更三百町とあり)扨も不足見くるしく存候とて御内書を引破可申と申候を漸く
         御後室御なため被成候て御受納被成置候 於于今右之御書阿蘇神主殿御所持あられ候 彼武蔵左様の無道もの故以後佐々殿江謀反を
         起し候 甲斐宗立を先として秀吉公被遊御下向候へは薩摩を■(小に月)き何とそ天下の御手下に成阿蘇の御幕下を離れ御直の御領知を
         致拝領たき願迄の故に阿蘇の御家亡ひ不申候様にの願を存候仁其砌一人も無之候由其心得故に阿蘇の其砌の御家人共秀吉様江御直
         に御禮を申上候 仁々の居城々々に後筆に書出候通に佐々殿え逆心の以後秀吉公規度被成候 御城番衆被為遣候 右之三百町の御書出
         を慮外なから反古になし候は甲斐武蔵にて候 其譯は武蔵を初め佐々殿え謀反を起し申候故に阿蘇御家人と申名負にて御後室若子達無
         御存事に御座候へとも主人に反し阿蘇の御家御落去無是非候 委細後筆に可書出候 

                     (以下・四項 省略)
 一、秀吉公佐々内蔵助成政考へ肥後國を被為拝領候事 (省略)
 一、阿蘇惟種公の後室若御達を佐々成政公の居城へ忠臣共各申合せ入置申候事
       一、阿蘇の御家臣前々御家老分の仁々右之通に秀吉公御下向に付御直参上罷成御禮被申上候故に知行之御書出し殿下様より可被下と各
         待被申候迄にて御後室若子様江慮外とは見へ不申候得とも又々別心の面振り見え候故前々より疎略に存せざる両高森・北里・下城・西北
         坂梨・迫・男成・早川・渡邊・村山各又令参會申談候は御後室若御達矢部に奉置候ては矢部・甲斐元來不實の仁々にて候 其上なから御
         船金石之甲斐氏如此の上は無心元候間いざ/\國主に申上候て熊本之御城内に入置可申と申合せ秀吉様被遊御下向治り候へとも薩摩
         またいか様に変し可申も不相知候間是非右之通にと令談合此旨佐々成政公江申上候得は以之外被成御満悦神妙/\能こそ申上候早々
         いれ申候へ可被召置と御座候て被成候て被成御對面御城中に結構成一座敷被成御渡候 附衆には坂梨孫太郎・西源兵衛両人相つき申
         候者各申上候は彼者共罷居候處迄被仰付御賄をも殿より被仰付御心能御入座にて候 色々御懇に被仰付候上に被仰付候は神主殿江は
         御朱印の外に往々御私領可被成御寄候 安世迄は暫く當城江御座候へと被仰附衆両人は申に不及申談候 右之仁々令大悦候 然は右之
         仁々不残被召出御目見被仰付難有かり申旨語傳候

 一、佐々殿山鹿郡隈部を被責候事 (省略)
 一、同郡有働の家頼知略之事 (省略)
 一、肥後國侍佐々殿へ對し一揆を起す事 (省略)
 一、阿蘇家の侍成政公の城に助城仕る密忠之事 
       
一、右に書出候通に阿蘇神主公之御母子を両高森・北里・下城・迫・田上・男成・村山・早川越前・同丹波・坂梨・西・渡邊(イ本に高森伊豆守・
         同三河守・北里加賀守・下城備中守・迫三河守・田上三郎太郎・男成萬次左衛門・村山丹後守・坂梨孫太郎・西善兵衛・渡邊軍兵衛)
         此者共申談し坂梨・西両氏を守にいたし殿の御城江入置申候故に今度國侍の一揆人數一分にては無之候 然れども上向きは人數一分に
         て無之候はねば各通し不申殺候故いやともに共々一分に成城外遥かの所に各一所に罷有候て其夜一同に申談候は成政公に今夜御内
         意を申上候て明日致後詰御勝利を得させられ候様にいざ/\可致候 是以御母子公之御為と一同に申談し早川越前守が弟丹波守事工
         夫瓣舌の能者にて候間彼仁を遣し此旨申上候と内談相極め各連判の神文調口上には明未明に御城ゟ西之平に中黒の旗をさし立可申
        
 候 此旗を印に御懸り可被成候 後詰一時の間に御勝利を可被為得候 神主母子を御城内に入置申候砌御目見仕候何某々々にて御座候
         神文に各連印仕進上申候 此中一揆同前に罷居申候はてでは通りかたき譯に御座候故寄手に相加り居申候 今夜能折節にて御座候間
         御内通申上候と誰ぞ殿の御内に智臣の仁を頼み右之通申上候様にと一同に申含其夜の四つ過に密に丹波差運候處に丹州城戸に忍て
         夜廻りの者に御門外より御ために宜敷御内意為可申寄手之方より使に参り候者にて候 御前宜き御方是え被成御出候はゞ申上度候と被
         申可給候と申候へば丹波に人を附置此段申上候へば建部兵庫頭と申仁罷出候て何事候とあらゝかに被申候 丹波守いや/\不苦者に
         て候と申候て御門外より右之段々申達候て神文を渡候へば建部氏扨は候と被申候て請取則殿え右之通申上神文指上被申候へば被成
         御覧以の外御満悦にて無二無三の忠節の使とて被成御出御門内より御對面被遊御懇の御意にて明朝後詰の御約束御直に被為得其意
         候と被仰出候 譯罷歸丹波右之仁々江申聞候由に候 左様にて成政公建部に被仰候は阿蘇家頼之者共之中ゟ神文連判之密忠内通之儀
         天道の冥助に相叶候と被仰即刻御城内え被仰渡候は明日未明に御大将御直に西の手に被成御出候 西の手に中黒の旗見申候はゝ夫
         に向て弓鐡炮射かけ間敷候 此旗は味方候ぞ中黒の旗を目當にして各かゝれと被仰付置候 案のごとく翌朝未明に如申上候中黒の旗を
         押立候に付西之手へ御大将御切懸り被成候に後詰右之通仕候故に此手より崩立候て一たまりもたまらず寄手令敗北菊池香右衛門致自
         害候 甲斐武蔵は引取候落人に紛れ何地とはなく令逐電候を以後に捜し被出候て公義より被成御誅罰候 御大将御直に御高聲に被仰出
         候は軍法免候ぞ/\何れも前後を不論切懸れ/\と被仰候に付御城内の荒仕子等に至迄切て出令追討候故に二時ほどの合戦に上下
         二千三百八十餘人成政公被為御討取候て御勝鬨御揚被成候に後詰仕候者被召出被仰候は今度の密忠被成御失念間敷候 以後御取立
         可被下候間左様に奉存候時を奉待候へと被仰付候處に右之者共各一同に申上候由は私共儀は不苦阿蘇神主母子往々奉頼候と申上候
         へば被為得其意候 神主へは御朱印之外に可被成御寄附候 世上治定まではやつぱ城内え召置候へと被仰出候を両高森・北里・下城・
         西・坂梨・田上・迫・早川越前・同丹波・村山・渡邊軍兵衛一同に忝御禮申上候て先々在所々々江罷歸候由に候 後筆に書出し候通に成政
         公御落去被成候故阿蘇殿も下々右之者共も如此に成果候 其上阿蘇家頼右之通に有働家人之謀計状にめて私々の一揆を發し候を幼少
         の主人に及ほし於于今阿蘇殿謀叛と云名負無是非候 右之通成政公秀吉公へ被仰上候はゞ阿蘇殿は勿論下々右之者共も人並にて今に
         通り可申者をと是のみ無是非存申候由聞傳申候

                                        (巻二 了) 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■中くり

2015-02-17 08:53:57 | 徒然

                                                                         

                 これは最近グッドデザインで注目されている品物、TVでつい最近目にしたのですが・・・用途はなんだと思いますか
                 正解は「栓抜き」なのですが、私は「ア・中くりだ」と思わず声を上げてしまいました。
                 細川家では「銀の中くり」とよばれて差物(下図中央)に使われていました。
                 購入してペーパーウェイトか何かに使ってみようかと思っています。ちなみに今は刀の鍔を使っていますけど ?? 

 

                          

     中央にあるのが銀の半月(中くり)の差物、当初忠興所要の差物であったが牧丞大夫が拝領、その後忠興に召上られ後徳川秀忠の請いにより
     細川家から将軍家に献上され、秀忠の差物の一つとなった。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■御恵贈御礼「一宮市北方--加藤家文書」

2015-02-17 07:00:43 | 書籍・読書

 岐阜市の「歴史伝承フォーラム」代表の田中豊様から御恵贈を給わった。どうやら事務局がある所が「美濃源氏フォーラム」のH氏が経営される会社であり、そのH氏の御推挙によるものらしい。御二方に厚く御礼を申し上げる。

この加藤家文書とは、一宮市北方で代々庄屋を勤められたこの地方の有力者らしいが、多くの貴重な文書が残されているらしい。
この本はすでに発刊された「加藤家文書・三」を再刊されたものである。
先に当ブログで、桜田門外ノ変につき少々記すと共に、事件を目の当たりにした杵築藩の文書をご紹介したが、この本にも同様の報告書が掲載されている。

又、坂下門で襲撃を受けた安藤対馬守の事件にも触れられている。目次は以下のようにある。

                ■ 事件の概要 桜田門外の変 坂下門外之変
                ■ 水戸中納言様浪人 三月三日朝五ッ時 狼藉之次第急状之写 (原文・借文併記 以下同)
                ■ 水戸殿浪人并井伊掃部討留 一件
                  諸侯御達 一件
                  諸侯御咎メ 一件
                ■ 安藤対馬守藤原信陸殿 御登城之節狼藉之次第
                ■ 亥五月小笠原図書頭并水戸殿武田耕雲斎 云々
                ■ 新両替四丁目中程明屋敷ノ板囲ニ張有之 云々
                ■ 春来彼是違叡慮候上攘夷御親征之期限未 云々      以上

大変興味深い史料であり興味が尽きない。時間をかけ精読したいと思っている。深謝。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■早寝・遅起きが癖となり・・・・・

2015-02-16 22:35:03 | 徒然

 正月に寝込んでから快気後も一週間ほど体調がもどらず、そのまま早寝・遅起きが癖となってしまった。
今日はシャワーのあと缶ビールを久しぶりに飲んでホワッとなって、酔いさましにPCに向かっている。
そろそろ就寝の時間である。早寝がくせになってこの時間になると瞼が重くなる。
起きるのは7時~15分あたり、つまり9時間以上の睡眠をとっている。
私がうつしたわけではない(症状が全く違う)が、奥方も私より一週間ほど遅く風邪をひき、こちらも体調が芳しくないらしい。
こちらはその後私よりも早く床の中である。
私はいまだ左ひざの調子がわるく、快気以来外出したのは二・三度である。寝込んで5キロ減った体重が半分ほど元に戻った。
少し運動をしないといけないなーと思いながらも、膝が悪いと運動どころの話ではない。
それでもなんとか散歩を始めなければと少々焦り始めている。
二三日後は奥方の所用で大分まで出かけなければならない。車の運転には支障はないが大分は遠い。片道3時間奥方の用が済むまで私は別行動で鶴崎の町を散策しようと思っているのだが・・・さてさて如何あいなることか?

そろそろ布団の中に入ろうと思うが、入ったら入ったでいろいろ考え事をしていると、何時ものことだが本当に寝付くのは日が変わっての事となる。
皆様はまだまだ御休みにはならないでしょうが・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・お休みなさい。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■論考・史料翻刻etcいろいろ

2015-02-16 08:46:50 | 論考

  ■ 城下町・熊本の街区要素の一考察

    ■ 近世古文書ハンドブック

  ■ 史料翻刻 木下韡村日記(四)

  ■ 吉田家文書「上京公私控」   (熊本市立熊本博物館・館報№26)

  ■ 荘村助右衛門の慶應三年「崎陽新聞」について   (熊本市立熊本博物館・館報№25)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■拾集昔語から「阿蘇氏」を勉強する(1)

2015-02-16 07:19:19 | 史料

阿蘇氏について「拾集昔語」から特に阿蘇氏に関する記述を抜粋して勉強しようと思い立った。 
拾集昔語について「肥後文献解題」は次のように紹介している。
「渡辺玄察物語の一部で、渡辺玄察が元禄八年六十四歳の時安芸掾・彦之進の両名に 与えた記録で戦国時代以降阿蘇家を中心とした肥後の治乱記である。」

拾集昔語は(一)(二)(三)巻に及ぶが、数回にわたってご紹介する。

拾集昔語(一)
   一、阿蘇大宮司公神孫御代々之事 (省略)
   一、阿蘇四ケ社四ケ之神領と申事健宮明神之事 (省略)
   一、同ㇰ神主公従前々天正中比迄之御領知之事 (省略)
   一、同ㇰ神主公従前々御家頼侍仁人之事 (省略)
   一、永正之年中に阿蘇神主惟長公を菊池家之主将に菊池之侍取持候連判仁人之事 (省略)
   一、阿蘇神主公中古以来天正之年中迄益城郡矢部へ被遊御住城候事、以後同神主惟豊公御名誉御高位之事、阿蘇之御家御買物愚老拝見申候事
       (△中古以来阿蘇之大宮司惟種公迄益城之内矢部之内矢部に被遊御在館候に付色々之事)
       一、益城郡之内矢部犬飼村に有之候古城を愛東寺之城と申候 彼城は阿蘇之神主殿前々御築被成候城之由に候 天正中つ比國中一同に令
         落去候 其比迄は犬飼備前守と申仁阿蘇殿之御家臣にて御城代仕居被申候之由語傳候
       一、同町頭に有之候古城は岩尾之城と申候 此城も前々阿蘇殿御座被成候御城之由に候 此城も落去は右同前にて候 阿蘇神主公は右に書
         出候通阿蘇明神之御神孫にて被成御座候 神書にも肥後國を最初には阿蘇の國と申候と有之候由承候 就夫阿蘇之明神を国造之明神と
         も奉申候由語傳候 然は神主殿御善世天正中つ比迄は彼岩尾之城番を黒仁田豊後守と申仁被相勤居候由に候 其前廉は甲斐大和守親
         宣
と申御家老御城番被致候由に候 黒仁田氏分ケ候而滅亡被致候 其跡は阿蘇家之御家老中替る/\被相勤候由に候 彼岩尾之御城は
         御
要心能城と御座候而従阿蘇被成御座候而中古より天正の年中迄惟種公も彼御地へ被成御座候 夫故に御家老衆替る/\に御城番被
         勤
申村も有之候 然れ共御陣之内は其村之内にては無之候へ共矢部は海邊遠里にてはまと申事矢部にては珍言故御座處を右之通に申
         候
由に候 濱之町などゝ申來候事も左様之由緒と語傳候 如此之語傳益城にも然々無之候と見へ候 惟種公迄右之通に彼所に被遊御在館
         被成御早世其儘其砌令亂國候ゆゑ彼城も天正中つ比致落去候 彼城には右之通に御城番被相勤居候而神主公を守護被申候由に候
         濱の御所へ神主殿被遊御安住岩尾之城は右之通に御座候ひつると乍恐たゞ今御花畑之通にて御座候と奉存候 右之城々落去後に當國
         を加藤主計頭清正公・小西摂津守行長へ南北半國づゝ従秀吉様被成御拝領候に矢部は小西行長領分に成候由然は右之愛東寺・岩尾
         両城番に従行長結城彌平次・太田市兵衛と申侍頭両人に與力之侍被差添被遣置候 岩尾城には平人罷在候由語傳候 右之侍頭両人共
         に二千石取にて候 右之通與力衆を手に付ケ御城番被召候由に候 與力之侍衆は
         五百石土橋掃部、三百石島澤市右衛門、三百石平地源右衛門、三百石中小路三右衛門、三百石速水七左衛門、同後藤三五兵衛、同田
         邊平左衛門、同横田勘左衛門、同加々山二郎作、同岡兵左衛門、同天木庄太夫、同小野田彌右衛門、同吉田木右衛門
         此通に城番之由に候 然は小西氏滅亡以後従家康様清正公に肥後之國をかさねて被為拝領候砌右両人之侍頭を清正公被成御抱候て
         城番頭は被成御替別條に被召仕候而城番には長尾豊前守・加藤萬兵衛と申御侍頭何れも知行三千石取にて被両頭被遣候而與力衆も
         同前に被成御抱候 與力衆はやつぱ前々之通に被成御付置然れ共其以後古城々々被成御立置候事従天下様御禁制と被仰出古城々々
         山野或山畠と成果候 清正公行長へ肥後被為拝領候事清正公へ一國ふさねて従家康様御拝領之分ケ後筆に可書出候
       一、阿蘇之神主公は右に書出候通に御神孫にて殊更前々は御大名にて乍其上高位高官之御家に而御座候 右に書出候前々の御領知を
         當分石積(コクヅモリ)に致候はゝ三四十萬石も可有御座候 然は神主殿御代々附に御座候惟豊公に其砌之帝従 後奈良院様御内裏御修
         理を被成御勤候而被成御献上候様にととの就 御勅定右之通の御領内を被成御勧進金子に御ふさね被成候て其比迄は海陸共に人心
         不可然候ゆゑ矢部に當分まても有來候天䑓寺福王院と申候 彼福王院其砌の住持法印に被成御持せ御献上被成候而御修理被御調上
         候 以之外被遊御叡感烏丸殿を勅使に矢部濱の御所へ被為差下惟豊公に忝くも従 後奈良院様御勅筆被為御頂戴惟豊公矢部に乍御座
         有従二位之御位階被遊御勅定候綸旨口宣其外御公家衆より被為進候 御書愚老此前御病用に被召阿蘇友隆公様へ伺公仕候砌被成御
         免身を浄め頂戴仕候而奉薫誦冥加之至天山難有奉存候 箇様之御事は阿蘇家頼之末孫々々に有之候共儀にては無之候 大形に被存
         間敷候 愚老儀は曾祖父渡邊吉久奥に書出候通に永禄八乙丑年三月十二日熊之庄舞之原にて阿蘇殿御用合戦に被致討死家傳子同氏
         軍兵衛は愚老が祖父相良義陽の侍頭豊永藤時(トウジ)を討取阿蘇殿怨敵の井芹大将加賀守を討取此後筆に可書出候通に惟光公・惟
         善公御両殿の御母上に付添廻り御奉公を勤佐々成政公へ肥後國侍一揆を起したる砌も名誉なる後詰各同前に致し助城(ジョジョウ)仕被
         申候事是皆神主公に被奉對たる事ともに候 か様の分ケ自然の道理にて候上に軍兵衛吉次の傳子愚老が實父渡邊吉政入道號休巴右
         先祖以来神主殿へ年々當年迄も年始の御祝禮闕し不申候 左様の分ケにて神主殿御一家の内に而も不被成御免拝御寶物を御拝せ被
         成候 前々御舊例とは乍申友隆公両度拙宅へ被遊御出候も古今怠慢不致右之通故に而御座候間此旨を被相守候て愚老無く成候とても
         年々一度づゝは阿蘇殿へ御禮可被相勤候 軍兵衛・吉次忠節の段々後筆に可令細書候 扨又右之御寶物迄に限不申一同に被成御見候
         色々有増書出候に如此之御寶物奉拝候事は天和元年の辛酉二月十一日に奉拝儀此段はめつらしき事ゆゑ書出召置候
       一、忝も後奈良院様之御勅筆綸旨口宣
       一、右御同前に従御公家衆神主殿へ被為進候御書
       一、阿蘇神主様之御由来之御文書色々
       一、神主殿は阿蘇明神之御神孫慥成御由来之書立
       一、阿蘇之御社家衆之由来書
       一、神主殿の御代々被遊御頂戴候綸旨口宣百に及奉拝候
       一、正平之年中に薩摩之國主を阿蘇殿へ被遊御勅許候との御綸旨
       一、阿蘇山衆徒大宮司請下知相守候へとの綸旨
       一、同衆徒中より大宮司之御下知背申間敷との連判書物
       一、阿蘇四ケ社の神事無怠慢大宮司勤候へとの綸旨
       一、大宮司に九州を引卒して鎌倉へ責上り逆徒を可令進罰との綸旨
       一、高氏・直義逆心を構候間不日に責上追罰候へとの御綸旨
       一、頼朝公より被進候御書
       一、北条殿御代々より被進候御書
       一、新田左中将之御書并錦の切れに御書被成被進候御手紙之御書
       一、直冬公より被進候御書
       一、今川了俊公より被進候御状
       一、筑紫小貮より被進候御状
       一、大友殿より被進候御状
       一、薩摩島津殿より阿蘇宮へ御願書
       一、阿蘇に可被成一味との相良殿の書物阿蘇の宮に被納候書物
       一、下野之御狩之御繪圖
         右之御數々奉拝候此外色々御寶物馬の角なとをも見申候為後覺書出候
       一、惟種公は當友隆公之御曾祖父にて御座候 右に書出候通り天正之中つ比迄は岩尾之御城濱之御所へ被成御座候 然は惟種公の御舎
         兄を惟前公と申候 彼惟前公に先々御親父従惟将公御神主職を被成御譲候 然れ共御亂心に被為成候故に御舎弟惟種公へ御神主御
         ゆづらせ被成候て惟前公へは砥用・中山・甲佐在々にて過分の御知行被進甲佐伊津野居城松の尾之上當分迄も御陣の内と申所の三
         四町四方も可有平地一面之所當分迄も大堀有之候處に被成御殿作(トノヅクリ)御安座御住館被成候 甲斐宗雲取持被申候而御兄弟様之
         中めて度様に道之道を諫言被申上居候故矢部・甲佐目出度御両殿へ阿蘇御家人群衆致し無事に被成御誕生御嫡子を惟光公御次男を
         惟善公と申候

   一、益城郡御船古城根元之事 (省略)
   一、同郡同城主甲斐宗運事 (省略)
   一、甲斐宗運同郡之熊之庄合戦之事、同郡早川城主同所圓福寺渡邊氏討死之事 (省略)
   一、甲斐宗運黒仁田氏を被討候事 (省略)
   一、相良氏阿蘇家之内益城郡豊田響之原まて發向之事 (省略)
   一、甲佐松之尾城主伊津野氏討死之事、同豊田之城様子之事 (省略)
   一、甲斐宗運響之原へ出馬合戦相良氏を被討候事 (省略)
   一、田代宗傳渡邊吉次首尾能事 (省略)

                         この巻・了 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする