津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■御恵贈御礼「松寿庵先生江戸咄」

2015-04-21 20:01:01 | 書籍・読書

 ■松寿庵先生 第136講 (本になりました)でご紹介した「松寿庵先生・江戸咄」を、編著者の松下様から御恵贈いただいた。
過日メールでご連絡いただいての事だが、まことに恐れ入った次第である。深く感謝申しあげる。
かっては「熊本日々新聞」の連載であったが、その終了を知った時大変残念に思ったことであった。現在の「熊日スパイス」に移行して再び連載が始まり一安心をしたことであった。これは全国の方々に知っていただきたいと考え、2013.9.8日第68講を最初にご紹介を始めたが、編者にも「熊日スパイス」にも御断りなしに始めたという不届きの至りである。いつかお叱りがあるかもしれないといささかびくびくしていたところが、この様な仕儀と相成り驚いている。
ある古文書の会で松本先生に教えをいただいているが、欠席の多い不肖の弟子である。会わす顔がないことである。

松本寿三郎先生、松下康惠様に重ねて御礼を申し上げる。そして是非皆様にもお読みいただきたいと思う次第である。 

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■天草出身の忍の者

2015-04-21 08:41:37 | 歴史

 熊本史談会の会員K氏の奥様は野田喜兵衛のご子孫である。

侍帳「妙解院忠利公御代於豊前小倉・御侍衆并軽輩末々共ニ」によると、「忍之者」として七人の名前が挙げられているが、その中に「拾五石五人扶持 野田喜兵衛」とある。忍の者といえば「伊賀・甲賀」と考えがちだが、こちらは天草の人である。K氏は同一人物だとされるが如何なものであろうか。

綿考輯録に委しい記載がある。

 野田喜兵衛・重綱(天草本渡城主天草伊豆守種綱三男・喜膳)
【天正十七年十一月ニ十五日本渡没落之節、養父美濃ハ討死、喜膳儀は家之系図を持、丹後国ニ罷越、当御家を奉頼候様ニと遺言仕候ニ付、家之系図を首ニ懸、其年十二月迄之内、喜膳儀天草より丹後国江罷越申候、其折節三斎様御鷹野先ニ而御目通りをおめすおくせす罷通候処、若年之者只者ニはあらすと被遊御見受、仮名を御尋させ被遊候ニ付、天草侍野田喜膳と申者之由名乗候得は、御前近く被為召寄、御直ニ家筋等之様子被遊御尋候ニ付、則首ニ懸居申候系図を奉入高覧候得は
  三斎様御詠歌
    天草の藤の名所ハきかさるに野田と名のるハ武士としらるゝ
右喜膳、後喜兵衛と云、忠利様御逝去之節、殉死なり (綿考輯録・巻26)】 

天草を旅立ち何を思ったのか丹後の細川忠興を訪ねている。細川家の豊後・肥後転封に伴い父祖の地に帰るという偶然が面白い。
又、喜兵衛は忠利公に殉死をし名を知られるが、当時69歳であったという。寛永18年(1641)の事であるから、天正十七年(1589)当時は17歳の若者であることが判る。
殉死の跡の事については「忠利公・光尚公御印物」による「追腹の衆妻子及びに兄弟付」次のような資料も見える。
 ● 野田喜兵衛
         右之女房
   御切米拾五石五人扶持・喜兵衛嫡子歩之御小姓仕居申候
         野田三郎兵衛
  「喜兵衛女房ニ為養之扶持方可遣也 印」

喜兵衛の跡は三代に渡り養子を得て跡式、四代の三郎兵衛代「お暇」
【野田三郎兵衛儀弐百五拾石被下置候處 享保九年十二月御暇被下候 先祖訳有之者故追而拾人扶持被下置候處 養子喜兵衛ニ引継被為拝領御中小姓ニ被召出置候】

野田喜兵衛はかっては切支丹であったらしく、「故越中守召仕轉切支丹野田喜兵衛系」として系図が残されているし、「野田喜兵衛申伝之覚」等と云う史料も残されている。波乱に満ちた喜兵衛の生涯は注目に値する。

                                                                            

 

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■城 義核翁

2015-04-20 11:48:12 | 人物

 過日ご厚誼をいただいているY様からご連絡をいただいた。城 義核に関するお問い合わせである。Y家からもご縁戚とのことであるが、当方からすると私の母方の祖母(30数年起居を共にした)の叔父にあたる人である。祖母の父が猿木宗那、その末弟が義核翁である。

幼いころ祖母について子飼の細川刑部邸の裏手にあった家を何度か訪れたことがある。
以前書いた「落札・小堀流踏水術第八代師範の書」でいろいろ書いたので、ここでは省略するが、Y様からご連絡いただいた跡、この落札した品を見てみようと思い探したのだが・・・・・・見当たらない。 
昨晩は布団の中で色々考えていたら眠りにつけず、今日はいささか睡眠不足気味。
そして「おう」と声を上げてしまったのだが、県立図書館に収めたことを思い出した。
図書館の「検索」では、「踏水術忘水之巻」でヒットした。内容を写真撮影をしておけばよかったのだが、わざわざ出かけて確認するのも面倒である。
免許状であろうと思われるが、ご子孫を探してご連絡できるならと当時は考えたのだが、判らず終いにて断念して・・・・・図書館行きと相成った次第、 その人物の名前さえ覚えていない。こまったものだ・・・・・

義核翁についてはどこかに写真が残っていそうなのだが、こちらは何とか探し出したいと思っている。 

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■熊本藩の終焉

2015-04-19 16:09:40 | 歴史

 青潮社刊行の「肥後細川家分限帳」に資料③として、「細川藩要路者一覧」(明治三年)が掲載されている。
又、新・熊本の歴史・近代「上」の前田信孝著「激突した城下の維新」に、森田誠一氏がまとめられた「実学党系人物進出一覧表」という、上記要路一覧に比する形の表が示されている。(平凡社刊「明治維新と九州」所収、森田誠一「幕末・維新期における肥後熊本藩」)
この二つの表は、半年にも満たない時間差なのだが前者は学校党政権、後者はいわゆる実学党の政権であり、知事は細川護久であり大参事に弟・護美の名前が連なっている。
以下そうそうたる実学連の人々の名前が見える。
まさに「肥後の維新」が為った。

細川韶邦に対しては実学党が藩主の座から引き下ろそうとする動きがあった。藩主に異義あれば「屹と覚悟の筋有之」とするものである。
明治三年五月八日韶邦が隠居、弟・護久が家督した。 

「肥後の維新は明治三年にきました」とは徳富蘆花の言葉であるが、森田誠一氏の一覧にある実学党による政権が樹立した。
徳富蘆花がいう「肥後の維新」とは、熊本における実学党による政権と解すべきであろうと私は考える。実学党政権は時の流れるに従い明治政府の目指す方向性に乖離するものであり、明治六年には実学党政権は瓦解するのである。

阿蘇波野村やその周辺には「知事塔」なる物がいくつか存在する。明治三年の減免除令に歓喜した農民が「村々小前共え」の全文を碑に刻して、謝意を表したものである。これが隣国などにも大なる影響を与え、その国々で熊本同様の減税を求める一揆を誘発していった。
知事・護久はこのことを大変重く考えて退任を考えるようになる。又弟・護美もこれを追うように辞任を申し出て、逃げるように海外留学の途に就くのである。
実学党政権瓦解の一因と考える識者もある。細川家を頭に仰いだ忠利公以来の永々たる歴史は、実学党の瓦解と共に終焉の時を迎えたと云って良い。

肥後の維新は皆無とは言わないが無血と云ってもいい。薩長土肥に比するといささか頭でっかちのひ弱さが感じられる。 

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■お安く読む・文春新書 「昭和天皇実録」の謎を解く

2015-04-19 10:30:57 | 書籍・読書
「昭和天皇実録」の謎を解く (文春新書)
 
         文藝春秋

内容紹介
最強メンバーは1万2000ページに及ぶ

激動の記録をどう読んだか?
初めて明らかにされた幼少期、軍部への抵抗、開戦の決意、聖断に至る背景、
そして象徴としての戦後。天皇の視点から新しい昭和史が浮かび上がる。

第一章 初めて明かされる幼年期の素顔
第二章 青年期の栄光と挫折
第三章 昭和天皇の三つの「顔」
第四章 世界からの孤立を止められたか
第五章 開戦へと至る心理
第六章 天皇の終戦工作
第七章 八月十五日を境にして
第八章 ‟記憶の王”として

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細川三斎 忠興 消息 手紙 合箱 14 あ397 ■SN■ 

2015-04-18 18:54:07 | オークション

                          細川三斎 忠興 消息 手紙 合箱 14 あ397 ■SN■ 

                          細川三斎 忠興 消息 手紙 合箱 14 あ397 ■SN■  

              読み解くにはいささか骨が折れそうだが、面白そうな史料に思える。私は応札はしませんが、皆さん頑張って・・・

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■史談会4月例会

2015-04-18 18:25:00 | 熊本史談会

 私が熊本史談会の事務方をお預かりしてから、三年目に突入した。新年度でもあるので事業報告・会計報告といつもとは違う仕事が増えて、数日前からてんやわんやの有様であった。新規の事もいくつかあったが、どうやらこれもクリア一安心といったところである。
本番は古川古松軒の「西遊雑記」巻五(肥後)を二回にわたってご説明することにして今回はその一回目。薩摩の米ノ津から熊本の水俣へ入り、三太郎峠をこえて日奈久・八代をへて宇土・川尻を通過、水前寺成就園(見物できず)で今回は終わり。
次回は熊本城の見物から阿蘇へと至るルートである。
古松軒の舌鋒は辛辣なものがあり、いささか「それはないでしょう」といいたくなる感もある。
天明三年のことだが、時の藩主は重賢公である。天下は天明の飢饉の真っ最中だが、財政再建の成った肥後藩では飢餓に陥るようなことは見受けられず、古松軒の記述にもうかがえない。この時期阿蘇に於いては熊本で最初の石橋の建造が為されている。
熊本の各地にのこる多くの石造眼鏡橋は藩からの借入金は当然ある物の、民間の金で作られている。肥後国の民力の向上が伺える時の始まりである。 

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■坂越の舟歌

2015-04-17 09:10:30 | 歴史

 豊前鶴崎の事や舟歌の事、また瀬戸内の海路などについて興味を持っている。鶴崎の舟歌については何度もご紹介してきたが、「御舟歌 復活に寄せて」という本が平成23年に発刊され、歌詞についてはその全貌が見えてきた。
ところがメロディーについては現地・鶴崎には残されておらず、残念の極みである。

ブログ「徒然なかはなし」の主宰者・S様とはお目にかかったことはないが、ブログやメールを通じてご厚誼をいただいている。
Sさまも舟歌に興味を持たれていて、赤穂の坂越の地が細川綱利公とかかわりも深く、此処に残る舟歌が少なからず鶴崎の舟歌に影響を与えているのではないかと推察しておられる。
坂越の舟歌は採譜されており、今般S様の御働きで専門家の手により音声化された。S様にただただ感謝申し上げる次第だが、皆様にもぜひお聞きいただきたい。
                  http://blog.goo.ne.jp/np4626/e/995b3abfcf2c77ffe2c09c52577448eb

これが海で鍛えた船頭衆の声で音吐朗々と歌い上げられたらすばらしいものであったろうと、感激をしたことであった。
そして鶴崎の舟歌がいつの日か復活されることを願うものである。 

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■道中出切手

2015-04-17 07:12:33 | 歴史

                                                                     安政三年の箱根関所に対する出切手

                               
細川越中守歩行之者上下
                               弐人國許江差越候間御関所無
                               異儀御通被成可被下候以上
                                          細川越中守内
                                    安政三年二月六日 福田次郎右衛門
                                 箱根御関所
                                      御番之御衆中  

 時代がいささか遡るが、寛永三年五月五日付の御触「他国江遣候男女出切手之事」があった。(綿考輯録巻三十・忠利公上巻p129)

                一、御侍中より他国へ遣候女之分ハ 御印(藩主の許可)
                一、御侍中男女并又若党其外下々ノ者相煩、他国へ湯治仕候分ハ、我等(三家老)共三人十日替りニ壱判之切手ニ
                  而出シ可申候旨、被仰出候事
                一、町人之分ハ、御町奉行集切手にて出シ可被申候事
                一、百姓之分ハ、御町奉行集切手にて出シ可被申候事
                     御国中川口御門口、女切手之事
                一、人持衆・御物頭衆分ハ、我等共参人之内一判之切手
                一、御馬廻衆ノ分ハ、御番頭衆之切手
                一、御小姓組衆ノ分ハ、御小姓頭衆之切手
                一、御与はつれ衆ノ分ハ、津川四郎右衛門殿・松野半斎・志水伯耆三人十日替ニ仕、一判之切手ニ出可被申候
                一、御留守居衆ノ分ハ、高田九郎右衛門・住江甚兵衛替々壱判之切手ニ而出シ可被申事
                一、御弓鉄炮衆分ハ、其頭々ノ切手
                一、御船手之分ハ、御船頭かしら之切手
                一、御手廻衆ノ分ハ、与頭之切手
                一、男上下共ニ急用ニ而夜中ニ御門出申時ハ、人持衆 御物頭之分ハ、其主人之切手ニ而可被通候、与付
                  之衆は与頭切手ニて可被出候事
                一、毎月十八日ニハ御門切手なしニ女出シ可被申候事
                  右一ツ書之通、御門川口江我等より可申渡旨被仰出候、何も頭衆書判印判仕相渡候条、切手参候
                  時、念を入判形引合候而可被通候也
                     寛永三年
                        五月五日                    長岡監物
                                                  有吉頼母
                                                  長岡式部少輔 
 

身分によって「出切手」の発行が違う訳だが、後年になるとお寺が発行するものが登場する。そのあたりについても調べを進めたいと思っている。

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■おおひばり・・・・・

2015-04-16 17:05:28 | 徒然

 句集をみていたら、芭蕉の句に 永き日を囀(さえず)り足らぬひばりかな とあった。大変素直な句ゆえあまり知られた句ではないようだ。
私が子供のころにはあちこちの広い畑からひばりが飛び立って、上空でさえずる姿を見たものだが、もう半世紀以上も前の話になる。
上空に上がってさえずるのは、縄張りを主張しているのだそうだが、飛び立つときは巣から離れたところから飛び立つのだと、幼い友達が自慢げに話していたことを思い出す。降りてきたところに巣があるんだと、子ひばりを捕まえようと頑張っていたが、捕まえたという話は聞いたことがない。

「おおひばり・・たかぁくまた♪♪」という唱歌を小学校低学年のころ歌った覚えがあるが、歌詞もメロディも後半はすっかり忘れている。

                おお、ひばり、高くまた
                かろくなにをか歌う
                天の恵み、地の栄え
                そをたたえて歌う
                そをことほぎ歌う

こんな難しい歌詞だから小学校低学年では意味も分からず歌っていたわけだ。

春の季題に「ひばり」がある訳だが、半世紀もであったことのないからとても句にするには出来ないことである。



 

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■熊本藩の社会と文化

2015-04-16 10:08:43 | 書籍・読書

                           熊本藩の社会と文化[蓑田勝彦]

 4月10日付の熊本日々新聞に八代古文書会(代表・蓑田勝彦氏)が発刊された、「熊本藩社会と文化」が紹介されている。
これは会が月一回発行する会報を1号から50号までをまとめたものである。会員(現・20名)が江戸時代の古文書を読み解き、八代の干拓事業や自然災害の歴史、人々の暮らしぶり等を多彩な内容となっている。
A4判270頁、価格6,000円(税抜) 楽天ブックス等でも購入できる。Amazonにも紹介があるが、新刊ではなく早速古書として15,024円で出品されている(今日現在)・・・・??

わが熊本史談会でも、例会の史料をまとめてはどうかと云う意見があるが、現在の私には荷が重すぎて如何ともしがたい。
蓑田先生を始め古文書の会の皆様のご努力には敬意を表したい。 

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■忠利と叔父・孝之の仲 (番外)

2015-04-16 07:26:22 | 先祖附

 細川孝之をまとめる意味で番外としてご紹介する。

■中院通勝は天皇の勅勘を蒙り19年もの間丹後の国に在った。
 天正八年(1580)六月十八日、通勝、逐電、依勅勘也、在丹後国 で始まり 慶長四年(1599)十二月二日通勝は天皇より七絶を賜っている。
 これが実質の勅免だとされている。十二月七日、通勝勅免出頭とある。その間十九年である。出典は「当家伝」とある。

    ○是歳(天正十三年・1585)通勝長男孝之誕生、幼名茶智丸(中院系図)考之の名は藤孝(幽齋)の一字をもらったものであろう。
     通勝はこれ以前に、幽齋養女、実は一色左京大夫義次女を娶っている。義次は丹後の旧主一色氏の一族かと思われるが、梅本政幸著
       「丹後の史蹟」所収「一色氏家系」「丹後一色氏累代」には名を見ない。

■細川護貞様御著「細川幽齋」の慶長四年己亥の試筆の紹介に、括弧書で(『衆妙集』には「孝之に家督相続し侍るとての元旦に」とあり)として、
 つぎの歌が紹介されている。
               あら玉の今年はよをもゆづりはの常盤の色にならへとぞ思ふ

■小倉城内にある孝之の屋敷
    ないき殿(内記=忠利)、長岡中務殿(孝之)、(屋ふ内匠(藪政一)、(長岡武蔵(有吉興道)、(加賀山隼人、
    (
松井佐渡内子(長岡興長)
       

■寛永五年(カ)九月三日の忠利の書状に次の記事がある。「休斎の内儀とその娘(小万)でが湯治に出向くことについて了承した」というものである。
  娘・小万は細川家重臣 小笠原民部長之室、寛永十三年十一月に31歳で亡くなっているから、当時23歳といったところか・・・・ 

         休斎御内儀并小万湯治之由得其意候叓

■ 細川孝之の舅・半井通仙の死に関わる記事がある。寛永十六年卯月十八日付忠利から肥後(光尚)への書状

         半井通仙遠行之由候 其方被召連候馬乗被被申付為香典銀廿枚此書状ニ相添半井琢庵へ吊ニ我等ゟ
         使者遣候由被申付遣可被申候 銀子ハ佐藤少左衛門所ゟ渡候得と其方ゟ被申付候事 

    

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■忠利と叔父・孝之の仲(三)

2015-04-15 07:01:27 | 先祖附

                    七月廿四日立允主への御書

                 一筆申入候、仍休斎之儀此前より主御身体之儀ニ付而、切々書物を取替申候、久敷事共御入候間
                 書物尋候へ共、江戸ニ有之書物之内ニ候哉、見出シ不申候間、休斎ニ御入レ、本書見申度候由申候
                 ヘハ、本書を見せ申間敷候由ニ而使にも被見不申候、是は何と仕たる事ニ候哉、かほとニおちほい
                 の間被存候而ハ曽而頼敷不存候間、以来我等ニ御用有間敷と申入候、此書物之入候事ハ休斎今迄之
                 分にてハ気もつまり可申候間、鷹をも御つかひ候様ニ知行所をも可申付と存、書物なと能見候而失
                 念之事も候へハ、如何ニ候と存候而之事にて候つる、色々小倉にても不聞儀、御入候へ共堪忍申候、
                 主も可為其分候、いつニ而も御次ニ此由 三斎様へ可被申上候、御気六借時分可然事之様ニ不入儀
                 候条、何その御次ニ此段可被申上候、恐々謹言
                      七月廿四日
                           立允
                            進之候

                    七月廿六日三斎君江之御書
                
                 休斎之儀立允かた迄申候処ニ、御直ニ聞召候由主馬申候間申上候、 三斎様御意次第ニハ何事も可
                 仕と被申様と聞え申候、高野へ被参候共可然候事御座有間敷候、孝之儀御座候間、立允知行へはい
                 り候て被居候様被仰間敷候哉、立允ニ肝を御いらせ候て成共、左様ニ候ハゝ外聞も可然かと奉存候、
                 余之儀ニハ替り申候間、被加御言葉候様ニ此等之趣可被申上候、恐々謹言
                      七月廿六日
                                   魚住伝左衛門殿
                  尚々、か様之むつかしき儀、何とも迷惑仕候、以上

                 
                    七月廿九日、仁保太兵衛、下村五兵衛江之御書之内
      
               一、我等おち・休斎事我等申候事を不被聞候間中を違候、就夫又上度由被申候間主儘を申候、乍去我等
                 中違ニ而候故 三斎は御構候事不成候故、立允笑止かり主知行へよひ候て置可申様ニ聞候、縦又其
                 段替り被上候事も可在之候、段々約束違候て心儘ニ候間右之分ニ候、それ故主身体之事も今ハ構不
                 申候、ない語とそと可存候間、申遣候段々御入候なかき儀候間此度不申、左門殿なと御尋候ハゝ、此前
                 かしらをそり京へ被上候時、色々かための書物なと被申付候、左様之儀事ニ違候とて腹を被立しかり
                 被申候由ニ候、今弟之知行へはいり候て被居候由、承候通御尋候ハゝ可申候事
               一、我等事九月廿日之前後ニ国を立可申候、其心得可申候、八木ハ何程払候哉、銀子又何と払候哉、様
                 子可申す越候、謹言
 

                    八月四日立允主江之御書

                 四日之書状披見申候、休斎去二日古八代之下古府本迄着船之由、得其意申候、更共熊本を立退 三
                 斎様御近所ニ被居申候事、熊本へ之慮外之様ニ被申候哉、其方一人ニ而ハ無調法如何と、云庵泰岩寺
                 同道ニ而可有異見由承届候、恐々謹言
                      八月四日
                             立允
                               御返事
 

                    八月十五日三斎君よりの御書之内

                 休斎儀立允鉄炮けいこのため八代へよひよせ可申かと為談合申候処、何様ニも我等次第と承候、得
                 其意候事
 

                    九月十七日三斎君江之御書之内

                 休斎今迄之被居所、加藤右馬允親いはい所にて候を、先被成御借候、焼香も被成迷惑仕候由被聞召
                 小川四郎右衛門家弐ノ丸ニ御座候ニ付而、休斎へ可被成御借由御談合承届候、御許容にてハ無御座
                 由、奉得其意候事
                      小右近様
                          御報
                 尚々我等おじニ休斎と申者御座候、不聞事候而中をたかい申候、他国も如何とて、我等弟知行八
                 代へ召寄候、其段ハ少も不苦候由申聞候、かやうの事を申候哉、以上
                    考ニ、御本書乱帳ニ成申たるか、先是を書抜
 

                    十二月晦日、三斎君江之御書

                 休斎賄之八木之事留守ニ渡り候事、我等ハ今日日本之神承候、少も不存候つる、惣別立允造作如何
                 ニ候間、何時も申越候へと右ニ申候つる其儀を承、頼母申付候と存候、又知行之事是ハ休斎被請候わ
                 け無之候、休斎可被請と被申候哉、左様ニてハ有間敷候、謹言
                     十二月晦日
                                 志水次兵衛殿
                                 賢斎
                   尚々、休斎国ニ被居候ハゝ我等養可申と申候へとも、無同心候つる、立允合力ニハ只今之分過
                   申候間、主も立允合力左様ニ可請とハ被申間敷候、已上 

                  

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■吉田神道家と細川家

2015-04-14 19:13:40 | 歴史

 吉田神道家の援助者としての細川家のことが、綿考輯録・巻31(忠利公・上巻p173)に見える。

これは光尚と烏丸家の御弥々の祝言に関わる記述に紹介されている。
つまり「御弥々殿は萩原殿へ御養子之御約有之候得共、いまた烏丸殿へ御座候・・云々」という記事に続いている。

 此萩原殿と有之ハ右兵衛督兼従朝臣の事也、吉田兼治朝臣之御二男、御母は忠興君の御妹後浄勝院、豊国大明神の神主にて領壱万石なりしに、豊国社荒廃後領地も上り散々の体ニ而候を、忠興君段々仰立候趣を以、豊後国ニ而千石之知を領し堂上ニ被列候、寛永十年九月朔日萩原殿より三斎君江御書之内ニ、今度ハ拙者儀ニ付、種々被入御情、忝奉存候とあるも此の事なるへきか、又寛永十一年閏七月、忠利君より酒井讃岐守殿江之御書

                 一書申入候、萩原殿之儀豊国へ被遣候時も万事 権現様御直判を以被仰出、知行之儀も勿
                 論右之分ニ御座候、此御書物三ツ内慶鶴と御座候ハ、萩原殿雅名ニ而御座候、又豊後にて
                 千石被下候時も、三斎へ御奉行衆より慥被仰聞候由候、秀頼より御申渡候儀ハ一ツも無御
                 座候、御書出三ツ則懸御目候、恐惶謹言
                     閏七月二日
                           酒井讃岐守様
                                  人々御中

右此御書ハ、萩原殿豊国神主之時、領地之証書被進候哉との問に、御答被成候かと見え申候、按るニ、太閤秀吉を豊国大明神と勘免之比ハ、秀頼公御幼稚にて、家康公諸事御はからひなるゆへ、家康公の御判なるへき事勿論なり、所詮萩原家之事三斎君大方ならさる御周旋の次第、彼御家ニは今ニ厚く慕はるゝ由
右ニ付而高本慶蔵覚書左之通

                 六所大明神神主行藤上総介藤原保定云、昔年為学問在京し、吉田の松岡仲良か許にありける比、
                 仲良命にて萩原佐兵衛督兼嶺卿の御三男に、句読なとさつけ申とてたえす参りけるに、ある時
                 兼嶺卿仲良か許に参り給ひて、保定にむかひて明日は三斎祭をするなり、そなたハ肥後の人こ
                 とに細川の家臣なるよし、折から幸なれハ、朝飯後より來りてゆるりとかたらるへし、其案内
                 に來りたるとのたまふ、難有御事なりと領掌して、仲良にそのよし申けれハ、実々かの御家に
                 ハ年ことに祭り給ふ、奇特に思ひよられたり、かならす参らるへしといふ、明の日仰のことく
                 参りけれハ、いつものかわりて奥のかたにめしてかたのことく饗応し給ふ、上総介不審におも
                 ひ、いかなれハ御家にて三斎をまつらせ給ふにやと申けれハ、不審もつともなり、さらハ事長
                 けれともそのよしを語るへし、余か先祖ハ吉田家の息なりしを、豊国の祠たてられける時、一
                 万石を寄せられてその神主になされたり、しかるに此祠破却の時、からくのかれ出て吉田にか
                 へりひそまり居けるを、そなたもしりつらん、三斎所縁あるにつけて、関東にさま/\申こと
                 わり、一万石の家廃亡すれハ千石を給ふ例なりとて、あなかちに愁訴せらる、三斎申さるゝ事
                 なれハさすかに黙止しかたく有けん、豊前中津の辺にて千石の地あて行ハれて、堂上に列し
                 たり、されとも所領海をへたてゝ物事便ならさりけれハ、その後やう/\に申ことはりて、今
                 は畿内に点しかへられたり、されハ余か家領ハまたく三斎の庇護なれは、家のあらんかきり疎
                 略すへからすとて、年々に祭りををするなり、此よしミにてさき/\ハ細川家ニも絶す書通を
                 もしたりしに、いつの比にやかの家よりことはり申さるゝむねありて、今は音問をたにせす、
                 心の外の事なり、余か家にとりてハかく疎略にてハ過しかたき事なるそ、折もあらハかの家の
                 有司にそのよしをもかたりてよ、かゝる事なれハけふそなたをまねきたり、心よく一献をもす
                 くしてよとて、ねんころにもてなし給ふ、その日は三斎君御忌日なりしや、又ハ二三月比なり
                 しや、年久しく事にてたしかにハ覚へすとそ、

右ハ寛政二年戌十二月八日上総介物語之趣也、此方様より御取遣御断之事不分明、天明七年未十一月よりハ又々御取遣等有之候由、萩原殿より上総介江右物語之年月も覚不申由、且又慶長より寛永迄は豊前ハ一円ニ 忠興公御領地ニ而候処、壱万石萩原殿御知行とあるも、始は 忠興君御領之内を分被進たるにても可有之哉、又豊後御代官地之内なるを萩原殿にてハ後年豊前と被心得候哉、尚可考

豊国社に対する家康の処置は言語に絶するものがあった。のちには入口を塞ぐように建てられた妙法院の仕打ちにより、豊国廟は墓参さえ難しくなり、まったく顧みられることさへない有様となった。神主・吉田家の興亡もまた豊国社とともにあった。忠興存命の時代は妹・伊也の聟・吉田兼治の家の事でもあり、彼の政治力が如何なく発揮されたことが良くわかる。
その後幾たびか将軍家においても豊国社再建の機運が上がったというが、妙法院が家康の言を楯にとり拒んだため、実行されることはなかった。明治廿年に至り再建の機運が満ちみち、三十一年に竣工を見たのである。秀吉没後三百年の年であった。 

津田三郎の著作「秀吉・英雄伝説の奇跡」は豊国社と萩原氏の不遇な歴史と、明治に至ってからの豊国神社の再建のことなど大変委しく書かれている。
然し上記の六所大明神神主行藤上総介の言については、触れられていない。
萩原兼従はその後神道家として大成し、没後は吉田山の神海霊社に祀られた。その社前に立つ石の鳥居は万治三年十一月、宇土支藩細川行孝が寄進したものである。その所以は、家記には登場しないが行孝は幼少期萩原兼従の許で育てられたとある。
兼従の母・浄勝院(伊也)は忠興の妹であり、兼従と行孝は叔父・甥の間柄である。なぜ行孝寄進の鳥居がここに存在するのか、津田三郎氏は御承知であっただろうか。 

                 
                 
                  

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■忠利と叔父・孝之の仲(ニ)

2015-04-14 07:12:05 | 先祖附

                一、十二月廿九日、中務少輔孝之主の御事ニ付御奉行中江之御書
                      中書殿ふちゆうニ候ハん間
                  一米百石・まめ三十石
                  一こそて 一重
                  一たる 十
                      右之分使ニう右衛門を仕可遣候
                   右馬介をそへ候て遣、今度ハ知行も申付候て進候
                   様子との事ニついて、我々知行のありたけまかな
                   いノ様子書付、此内何ノ知をなにほと進候へと御申
                   候へ、其上たんこう可申よし申候処ニ、知行無之
                   所御聞わけ候て、以後はたはり有之時いか様にも
                   申付候へととの事承とゝけ候、何とて他人さへよく
                   可仕に、おやこノ様ニ御さた候ハゝ、我々かたよ
                   り成次第とハゆめ/\不存、其上中書殿前々よ
                   り我々すいふん心をつけ申候様ニ存候、今以如在
                   少も無之候、何とかなと存候へ共、公儀のかれか
                   たキ事多候て引たり不申候故、三斎様より進候御
                   ふちの内申うけ候て人ニ遣度と存候、時も御さ
                   ゝキ其段口上ニよく可申よし可申候、以上
                      元和九年十二月廿九日  御名
                                  奉行中

                   休斎主ハ幽齋君之御末男ニ而細川中務少輔孝之と
                   申候 初孝紀幼名茶知丸、其後与十郎 丹後ニ而幽齋君之御隠居領を
                   御譲被成、扨豊前ニ而は領弐万五千石ニ而香春之
                   城主なりしか、豊前御立退 年月不分明 御剃髪有之、休
                   斎宗也と号せられ、京ニ御幽居被成候、忠利君
                   り三百人扶持被進置候

                     考ニ、豊前御立退御剃髪等之事元和九年之様ニ
                     見江候得とも、大坂御陳中慶長十九年十二月廿
                     六日横山掃部・矢野利斎・藤崎言斎ニ御当被成
                     たる御書ニ、中務殿より御使えお被下候間申候と
                     被遊、同御書中ニ休斎もやかて下し可申と御座
                     候、惣而休斎主御事ニ付而、三齋君・忠利君
                     御書の伝りたるハ数々有之候得とも、連続不仕
                     候而始終之御様子わかりかたく候、先ツ見当り
                     たる分こゝにひろい揚置申候、再考可仕候
                     以上

                   謹而申上候、仍中務殿心易京へ上下を仕、小倉を
                   居所ニ定、気をも延度候由にて、我等ニ御申候ハ
                   ゝ成間敷とて、御かくし候て法体ニて御座候、我
                   等と中務殿と申様書付にて取かハし申候間、懸御
                   目候、京へ御越候而第一賄もつゝき申ましく候、
                   其上不入様ニ存候間、色々留申候へ共、其段は同
                   心無御座候、京へ御越し而も心まゝにハ有間敷由
                   堅御申候、如何御座候ハん哉、得御内意申候、た
                   とひ在京不入儀と思召候とも、我等申分にてハ此
                   儀ハ同心有間敷候間、御内意も有やうニ不申候て
                   成ましきと存候、如何可有御座候哉、此等之趣可
                   然様可有御披露候、恐々謹言
                        正月廿七日
                             長舟十右衛門殿 

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