津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■6日目

2016-04-20 06:49:46 | 熊本地震

 天気の良い朝を迎えました。久しぶりで我が家で約7時間の睡眠を取りましたが、一度も余震が来ず奇跡的でした。
こんなことを書き始めたら7:12頃軽い揺れがありました(震度1位)                 7:15記 

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7:30 水をもらいに奥方と出かける。タイミング良く「おにぎり二個+インスタント味噌汁(カップ共)+プチトマト一個」の配布をうける。
水をいただいて帰宅、頂戴したおにぎりで朝食をとる。

我が家周辺では昨晩通水が予定されていたが、どうやら途中で漏水があったらしく日延べ、今日中に何とかなるか・・・・?
                                             9:00記 

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お昼前に再び給水所へ行く。お昼時と言う事で1人に付き「食パン2枚+インスタントスープ1個+バナナ1個」が配給されていたので頂戴する。
3,40人程度が並んでいるが、随分減ってきた感じがする。
奥方は食事後の食器を洗う水がもったいないと言い出し、食器にサランラップで覆うという工夫を始めた。
ベッドの中でいろいろ考えた結果だと少々得意げである。いろいろ知恵が広がっている。        13:17記

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16:01 震度3の地震がありました。久しぶりと言う感じ・・・・                    16:04記

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「震度1以上の地震が午後4時までに700回に達した」との報道有、脅威的!!!!            17:25記

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    16日の本震が 6強 から に変更されました。

17:40  震度3の地震がありました。

18:00 夕食をもらいに出かけました。「ひじき飯+秋鮭のレモンペッパーオイル焼き、ドーナツ1、イチゴ2」なかなか結構なものです。
    今からいただきます。                                 18:53記

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19:00 震度3の地震がありました。 そろそろ夕食を取ろうかという時期です。
   食事中にもありましたが、記録出来ませんでした。                     19:41記

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22:48  ■今日20日の熊日朝刊・夕刊 up

         水の調達・食事の調達で疲れ果て、本の整理はつかないまま・・・・地震の記録もいくつか抜けて!!!

   そろそろ寝る事にします。明日は雨の一日になりそうです。                 23:10記

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■5日目

2016-04-19 17:23:49 | 熊本

 昨日(18日)のお昼撮影したものですが、本の整理はまったく進んでおりません。(足の置き場を確保しました)

ショックなのは壁の亀裂です。構造亀裂です。余震が毎日繰り返しており建物自体がもつのかどうかもわからない状態ですし、引越しという選択肢も考えなければ成りません。これでは、片付ける気力も失われます。そして本の処分も頭をよぎります。

  この3倍ほどの広さで重なりあって散乱している。

 

                  
                    本棚を起こして見つかった壁の亀裂。 

三時頃から二男の友人の家へもらい風呂ならぬもらいシャワー、人様の善意がありがたい。ささやかな夕食後、また強い余震に奥方が不安がり二男の車で外出、勤務先の会社のトイレをかり、その後熊本城までドライブして被害状況を見て息を呑む。復旧には20年かかると言われている。完成した姿にはお目にかかれそうにない。
自宅近くの飲食店の駐車場で又一夜を過ごす。
今朝(19日)はあまりの寒さで目が覚め、5時過ぎに帰宅。さて今日一日どう過ごしましょうか・・・・・     AM7:50記

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今日は朝九時前から給水所で給水車が来るのを待つ。長い行列が出来ている。広島からの給水車が到着し給水が始まると、私と同年輩の男性が割り込んできた。
いろんな人が非難の声を上げるが動こうとしない。思わず大声を上げて一喝した。殴りかかるような形相で向かってくる。
こういう状況で皆がいらだっているのは良くわかるのだが、最低限のルールがある。
「広島から遠路こられているのに、熊本の恥をさらすような事をするな」と怒鳴りつけた。
最後には「広島」の職員のかたから、背中を押されながら皆の冷たい視線の中を引き上げていった。
当方にもいささかの反省がある。歳を重ねるごとに喧嘩ッ早くなった自分が恐い。         AM10:00記

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小さな容器を手にして給水を待つ高t齢のご婦人などの姿を見ると、妙な正義感で我を忘れて割り込み爺を怒鳴りつけてしまった。
その給水の問題、熊本市で最後に回されたわが給水区(58,000世帯)の給水池に水が満たされ始めたらしい。
どうやら今日中には通水が始まるらしいが、実際給水可能に成るのは明日だろう。
ところが、我が住まうAPの高架水槽が傾いてしまっている。
ポンプアップが可能なのかどうか、これが次の心配事である。                 AM10:34記

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昼から3ℓ のポリ袋を二つもって再度の水配給に出かける。ありがたく頂戴して帰る。考えてみると一回トイレを使うとお終いである。
そのトイレを使ったので補充の意味である。自転車で3~4分の距離だから苦にはならない。 

この小学校の運動場は避難場所に成っている。横にプールがあり水洗トイレがある。これが開放されていて、用を足した人は使用後バケツでタンクに水を補給することが義務である。プールの水位が20㎝ほど下がっていたから、随分活躍した事になる。
そろそろ夏の水泳も始まるし、プールの掃除前でご迷惑でなくて良かった。            PM13:50記 

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奥方は四日分の大量の洗濯物を自転車の前後のかごに乗せて、娘の所へ出かけた。
アシスト自転車だからまったく苦にせずにでかけたが、孫たちに会えるのが嬉しいのだろう。             PM16:00記

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17:52 震度5強の地震がありました。慣れとは恐ろしいもので、椅子に腰掛けたまま成り行きを見守ります。
18:09 震度3強の余震がありました。今日は我が家で寝ろうと思っていましたが、又車中泊となりそうです。
18:12 震度2位の余震がありました。車中泊は仕方ありませんね・・・・・・・・・  (震度は確定ではない)         PM18:22記

20:33 震度3の余震                                      PM20:40記
20:47 震度5弱の余震                                     PM20:55記
    この間三度ほどの弱い揺れあり
22:26 震度3                                         PM22:30記

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奥方は二男の車に便乗して洗濯物を取りに行く。
二男は目の周りに隈を作り、相当疲れているようだ。今晩は車中泊は止めて、我が家でねる事にしました。いつでも逃げ出せるように洋服を着たままです。     
                                              pm22:50記

 

 

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■肥後熊本初代藩主 細川忠利 「自筆書状」

2016-04-19 11:49:23 | オークション

              75,000円で落札された、肥後熊本初代藩主・細川忠利「自筆書状

                  肥後熊本初代藩主 細川忠利 「自筆書状」 三斎とガラシャの子

                                応札できず残念・・・・・

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■4日目

2016-04-18 14:34:53 | 熊本地震

 バスタブいっぱいに入れていた水が残り少なくなり、別に飲料用にためていたポリバケツも水量が半分ほどになり、少々焦りが出てきた。
一昨日は近くの小学校に様子を見にでかけたら、水の配給三時間まちだという。
夕方奥方が水を貰ってくると言って自転車で出かけた。三十分ほどもせぬうちに、三袋の水が入ったポリ袋とバナナ一房をもらって帰ってきた。
よほどタイミングがよかったのだろう。久しぶりにコーヒーを沸かす。
一方息子の友達が、取りにくれば野菜がいろいろ有るというので、往復三時間ほどをかけてキャベツやじゃがいも・トマトなどを頂戴してきた。
他にも「おにぎり」をわざわざ届けてくれる人があって、人様のご好意で食事には不自由しないでいる。

今朝も食事後3ℓと1.8ℓのポリ缶をもって水を貰いにいこうと奥方、私も痛いひざを引きずって出かける。
持参のポリ缶とは別に又三袋の水を頂戴する。今日は給水も再開されるとか聞くがさてどうなるか・・・・・

一方23時ころにかなり長い揺れの余震があり、奥方が外に出ようと言い出した。息子の車で近くの飲食店のPで一夜を過ごす。
5時間ばかりを車中で睡眠をとるが、左ひざが固まってしまった。エコノミークラス症候群?
倒れた本棚を起し、唯今本や資料の整理中、これが又一苦労いつ終わりますことやら・・・疲労困憊で放り出したい気持ちを抑えながら頑張っている。

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■熊本大地震三日目、そして今日

2016-04-17 10:28:40 | 熊本地震

 一昨日寝る前に少しベッドの位置を動かしました。虫が騒いだのでしようか、これが幸いしました。
本震の強烈なゆれに飛び起きた瞬間、本棚が倒れてきました。打撲と少々の怪我で済んだのは奇跡というべきです。
まだ手のつけようがない有様ですが、どうやらベッドが押しつぶされて壊れているようです。
昨日の日中はTVの報道を横目で見ながら、猛烈な被害の状況に胸が痛みました。復旧には十数年かかるという熊本城の悲惨な有様や、「阿蘇の赤橋」や「阿蘇神社」、トンネルの崩壊、ダムの決壊、メディアの報道を聞きながら思わず大嘆息をはいています。

リビングの棚にあった陶器やガラス製品の殆どが落下して割れてしまい、大事にしていた茶器類も全滅しました。棚の中身は1割ほどになり後は何を飾りましょうか?。物にあまり執着しない私ですが、思い出が消えてしまう悲しさを感じています。

昨晩は覚悟をきめて強引に帰宅し、ベッドが使えないため椅子で4時間ほど睡眠をとりました。

今日は雨も上がって良い天気、捜索活動も本格的に成ることでしょう。
わたしは本をリビングに動かして、本棚を起こさなければ成りません。今日中に終われますかどうか・・・・・・

奥方が「疲れたつかれた」と云いながら後始末に動き回っていますから、私もゆっくりして要るわけにも参りません。

 

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■どうやら生きています。

2016-04-16 10:06:13 | 熊本地震

 超ど級のすさまじい地震を体験しました。神様はまだ生きよと仰っているようです。
今回の地震が本震だそうですが、震度5のたびたびの余震が強烈です。
家の中は危険なので避難いたします。今夜は車の中ですごすことになりそうです。
皆様へのご挨拶は改めて申しあげます。

                    津々堂 (メガネを失し画面がよく見えません・・・・)

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■熊日新聞「号外」から・・・

2016-04-15 19:21:33 | 熊本地震

 熊本日々新聞に掲載されている「屋根瓦」が無残な熊本城の天守閣です。
その他重文の長塀の倒壊や、三の丸の石垣その他の崩落など熊本城は大被害です。
復旧には相当の期日と多額のお金が必要でしょう。一口城主(10,000円)にご協力お願い致します。

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■松寿庵先生・第186講

2016-04-15 18:36:15 | 史料
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■お見舞いありがとう御座います。

2016-04-15 00:50:13 | 熊本地震

 メールやお電話で皆様からお見舞いを頂戴しお礼申し上げます。
なんとか無事に致しております。ライフラインもガスが止まったくらいで済みましたが、お風呂に入れず難儀です。
とにかく初めての経験で地震発生時は、まったく身体が動かず固まってしまいました。
家具や冷蔵庫が動き、食器が飛び出して床一面割れたものが散乱しています。本棚の本や資料がほとんど飛び出して悲惨です。
デスク周りだけ何とか整理してPCを動かしています。

活断層が次々に壊れていくような感じで、未明まで大きな余震が数分おきに発生していましたが、現在では数十分おきくらいに成りました。
3時間ほどの仮眠をとって起き出しましたが、いつも訪問してくれる「すずめ」が何事もなかったかのようにやって来てくれてほっとさせられます。

まさに地震の活動期の中にいる事を実感させられています。人生74年こんな事は経験しなくて良かったのですが・・・・

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■宇土軍記 肥後・下 (廿八)1

2016-04-14 11:40:28 | 花押

      廿八、三宅喜蔵と南条元宅勝負の沙汰説々の事
              付 福田九郎大夫走廻の事、飯田角兵衛鑓を入るヽ事、関九左衛門走廻の事、
           於搦手旗本の若侍走廻の事、三宅伝記の事、南条伝記之事

一、九月廿清正西岳え着陳の日、寄手三宅喜蔵 後号国左衛門 と城方南
   条元宅と出合鑓を合たると云説有り、或は組合たりと云説も有
   之、又初鑓を合其後組たりと云説も有之、又大手黒門口にての
   事と云説も有之、又搦手馬場口にての事と云説も有之、右の説々
   後人の取沙汰故不分明、何れも難捨置候ニ付一々此次に記之置
   申候、是ハ目録の心にて候間引合候て一覧可有之、弥追々可考
   事也
一、清正記亦続撰清正記に云、寄手の内大手石瀬口より寄たる一番
   備の頭加藤百助、大手塩田黒門口へ押寄ける折節、城方南条元
   宅家来福田九郎大夫と云者を壱人召連、塩田口前出シ 前出とハ大手黒門前ゟ
    三宮山山下迄の惣名也 に出見物仕居たるに、寄手三宅喜蔵是を見て只壱人進
   ミ出、一ノ鑓可仕と言葉を掛大身の鑓を持来り暫迫合しが、喜
   蔵、元宅が口の外レ左りの頬耳の際まで突外しけるを、元宅、
   喜蔵か鑓の柄に取付引合ける所に、福田刀を以喜蔵を切らんと
   せしかば、喜蔵勝負難叶思ひ鑓を捨て 有説に云、於戦場為武士者兵具を捨て 引退事いかヽ、此批判無
    之ヤ、後ノ勝負の時鑓を取返したると見へたり 引返所に、跡より寄手飯田角兵衛義、家来
   関九左衛門と云者を壱人召連 関義、後忠利公之御奉公申上子孫今に在之 進ミ来るを見
   て、喜蔵これに刀を得取て返しける所に、元宅是を見て少も不
   引退、主従弐人にて能こたへて待請たり、国兵衛主従弐人・喜
   蔵、都合三人にて又迫合有之、此時は国兵衛間先に進ミ鑓を入
   たるに付、南条を無難城中え突退たりと云々、右の趣は角兵衛
   直の物語を以為記のよし、右は寄手の先手を以城の大手へ取寄
   たる時の趣也
   右ノ勝負至両度暫間為在之義、日中と申眼前の事にて両味方跡
   に続申候処、互助候て不出来不審、併古ハ加様の一騎合の勝
   負には、残る味方は何れも跡に扣へ見物して居たる事多義のよ
   し申伝候、
一、又云、所にての云伝には三宅ハ栗崎の方より縄手を馬に乗来、また
   馬場口の縄手にて下立、南条と出合たると云々
一、此次に元宅か若党此節壱人討死と有之候ヘハ、元宅ハ上下三人
   か其外数多召連出申候歟、此段不分明候なり
一、又云、敵味方共に於同日同敵同所に両度の働、古より珍敷義共
   也、城大剛強英雄の武士是也 又鑓を入り合て、これに心違たる也
一、又云、熊本勢俄に寄来ニ付、元宅塩田口の門外へ走出、籠城の
   士卒の妻子共を急に城内へ取入させ申時節に、元宅と喜蔵出合
   たるとも申伝候也、其時右に有之飯田か家来関九左衛門刀にて
   南条か内甲を切ル、頬に当と也、清正これを聞給い甚感悦之也
一、又云、元宅を初に喜蔵か鑓付たる共有之、又後関か刀にて切付
   たるとも有之、疵所ハ両説共に同所也、至両度引所に手負たる
   にてハ有之間敷、何等を証とすへきか、
一、又云、有時塩田口馬場村搦手の門へ旗本組の若手の諸士押寄申
   候内に、庄林与力に井村彦右衛門・佐分利作右衛門 後改作左衛門 其外 
   三宅喜蔵・飯田国(角)兵衛并家来関九左衛門等門外に扣たる、然処
   に城内より歩行士弐人出て井村と暫太刀打せしか、何とかした
   りけん、塩田縄手の深田に井村落入たり、此時二人敵競ひ懸り
   て切付たり、井村数所手を負なから相働て(くとカ)いゑとも、深田の中
   にての事故働事不自由にて危かりける所に、佐分利勘左衛門跡
   より是を見付て馳来り、彼敵壱人を刀にて切倒し候所に、飯田
   家来の関九左衛門へ首を取せたり ヶ様の時不案内成武士ハ大集首抔迚論不事有之可取事の場
    中の高名と是を可申候、扨勘左衛門ハ残一人の敵を追ちらし井村を沼田より
   引揚助たり、其時勘左衛門か又作右衛門其廻に出て有りけるか、
   件の働を見て傍輩共に向申様ハ、唯今井村を助ハ我等か此倅勘
   左衛門とハ、各以後の証拠に見届給候へと詞をつかい申由、右
   働に付従清正井村え感状を給ハるとなり、佐分利父子共に其節
   ハ未タ無足にて罷在候処、従宇土開陳の後父子共に知行七百石
   宛に感状を相添給りたる由、此両人其以後豊前小倉へ参三齋公
   え御奉公申上候由也
   無足というに二足あり、切米取の奉公人を無足と云家中を在之、
   四国松平土佐守殿家中なと如是、又熊本御家中有馬の時、御家
   中の子供御目見へハ仕、未不被召出、何をも不取侍を無足の中
   にに(小歟)姓とて一組御仕立被成候、本文に無足と有之ハ家中の子供
   の類
一、右の時元宅城内より門を開突出寄手を退散す、此時喜蔵脇より
   元宅を目にかけ進ミ出勝負を仕たるとも申候、右は旗本の勢を
   以搦手者取寄たる時に働の趣なり 

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■「長五郎の娘・熊( 龍源禅尼)」・・その後

2016-04-14 08:24:24 | 歴史

 史談会の仲間N君が昨晩電話をくれた。龍源禅尼のことが、宇野廉太郎著「肥後名家墳墓録・8」に記載されていたという報告である。
ここから龍源禅尼が元禄7年に70歳で亡くなったことが判明した。
そうすると生年は寛永元年となり、三斎公のお側に仕えたという最後の21歳の年というのは、正保2年となりこれはまさに三斎公の没年である。
「平川家略系」や「肥後国誌」の記載内容、それに「肥後名家墳墓録・8」で事跡が補強されて真実になりつつある。
16日の史談会でコピーをいただくことにした。N君に大いに感謝である。しかしこのような有難い史料を残してくれた先人にただただ感謝である。

        ■消えた宗厳寺
        ■驚愕の事実・・長五郎の娘・くま
        ■平川家略系
        ■驚くべき偶然
           

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■細川幽斎・忠興のすべて 米原正義編 新人物往来社

2016-04-13 17:22:25 | オークション

                     細川幽斎・忠興のすべて 米原正義編 新人物往来社 

                  細川幽斎・忠興のすべて 米原正義編 新人物往来社

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■消えた宗厳寺

2016-04-13 08:32:10 | 地図散歩

 推定延宝六・七年(1676~7)とされる「手取・千反畑・外坪井之絵図」のうち外坪井の図である。
ここに「長五郎の娘・熊( 龍源院)」がすんだ、宗厳寺が見える。かっては「久本寺」があった場所である。(久本寺は豊前街道沿いの現・薬園町に移転している。)
宗厳寺をたずねていろいろ調査をしたいと思っていたら、このお寺が廃寺になていることが判明した。
かって「
■享保十四年・藪の内火事を書いたが、この火事で宗厳寺も焼失している。これが原因ではないのかと想像している。
周辺のお寺も焼失したが再建がなされている、何故宗厳寺は再建が叶わなかったのか・・謎である。
長五郎・龍源院のお墓もここにあったと思われるが、その後の行方が知れない。いまは小さなコンビニが建つ裏手の駐車場があるあたりである。
せめてその地に立ち手を合わせて来ようと思っている。 

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■宇土軍記 肥後・上 (廿六)(廿七)

2016-04-12 08:25:18 | 史料

       廿六、清正智謀深キ事

一、清正の手段を考るに、右ニ如書記侯清正は豊後へ出陣有りしに、
   飛違へ俄に熊本の先手本道筋を押来り、廻江の迫合其ゟ石ノ瀬
   口へ取寄侯ニ付、城方ニは家中の諸士共妻子の片付、又は籠城
   万事の支度の儀、治国ニてさへ為武士は其覚悟可有之儀也、ま
   してや是は可及乱国儀兼て期したる儀なれは、其程ニ取込有之
   間敷事の様ニハ存知侯得共、廿八ニ有之通南条元宅、急キ妻子
   共を城内へ取入カ、下知の時節三宅と出合たると有之侯ヘハ、
   城内の騒動不大形儀と見えたり、備有て備なきと云ハ此の儀也、
   為武士は可覚悟事也、扨又敵方の心を察せらるゝに、清正も定
   て如先手の此本道筋を可被成と思ひ、石の瀬口へ究竟の人数を
   出し可防之と也、清正其隙も被考、旗本ノ人数ハ道を替へ遥の
   山の後を廻り玉フニ付、敵曽て是をしらず、城の後へ出玉ひ不
   意に取詰給ふニ付、道筋に何の障もなかりしと也、たとひ敵雖
   知之、宗徒の勇士ハ石ノ瀬 口へ指遣すべし跡ハ、小勢なれは出
   て可防様も無之、手行を失ひ乍思被取詰たる事、城位詰敵を噤
   る謀共也、清正宇土の城を責むと数年工夫有之時節を相待、不
   慮の事出来遠き豊後へ出陣有之、是を幸として敵の心を悉能察
   し、熊本えハ開陳無之道ゟ俄のやうに宇土の城へ取詰玉ふ事な
   り、豊後へ出陣なくハ如何様の謀ニて可被取詰歟、其縁に触た
   る謀なれハ不尽事也、誠以智謀深事共也、又云、小西於在城ハ
   村々の敵共可申候へとも、留守ニて家来計ニて候ヘハ、上手ゟ
   下手への手段ハ何事ニても仕能ものなれは、清正強き勝とは不
   被申侯也、
   古語云、近而示遠、遠而示近、亦眼看東西而心看在西北、或は
   無人行又常蛇又一向ニ裏抔と云、是皆良将の手段也、清正是ヲ
   不違事共也、

      廿七、清正の陣取ニ付断之事

一、清正の陣取は敵城の後南に相当ル、栗崎山の峠に古の陳城ノ跡
   の由にて小キ山形有之侯、是に陳城を構へ渠給ふ、其所を城ノ
   越と申侯にて構の跡少相残居申侯、自是敵城を目の下に見下侯、
   幅三、四町計の沼相隔りたり、此沼古ハ足入、今ハ浅田ニ罷成
   侯也、
一、清正の本陣の通栗崎山の由所ニてハ申伝侯所に、本文所々ニ
   ハ清正本陣ハ西岳と相見え申侯、西岳ハ馬場村の山の事也、
   昔ハ不知近世ハ段々の畑也、此山北南の幅ハ弐町計、東西の長
   サ四町余計、高サ六、七間計、本丸ゟ少高キ歟、自城西岳の峠
   迄ハ三町計も可有之侯、栗崎山と西岳との間ハ五、六町計可有
   之侯、向合て有之也、栗崎山ハ自是城南ニ相当り申侯、西岳ハ
   自城搦手の方西ニ相当り申侯、方角違申侯、本文ニハ本の儘に
   何方も西岳と書付置申侯、弥所の儀迫て可考也、
一、又云、西岳ニハ何とぞ旗本の先手など陣取たるか、栗崎山ハ城
   ゟハ遠侯間に沼有之、縄手を通路としたる地形ニ侯へは、本陣
   有之侯ても堅固成地也、城は巻詰たる儀、其上大将ハ清正ニて
   名将の儀ニ侯へは、初ハ館栗崎山ニ被陣取、城をとくと巻詰た
   る、已後は本陣を栗崎へ被移たる事か、又最前ゟ栗崎山ニてハ
   無之西岳ニて侯や、此段不分明也、大手受取の輩は石ノ瀬ニ陣
   取番手として竹束を相守たるなり、搦手の各ハ西岳に陣取、其
   後に本陣をも取敷、諸組ハ又番手ニ竹束を相守申侯ハ、互ニ為
   助力可然侯成歟、是ニてハ海上の通路もよく侯半歟、尤西岳ハ
   城ヘハ此ニ近く侯得共、山ニて勝地ニて侯得は苦かる間敷歟、
   様子不相知侯儀ニ侯へとも心付ニ記置侯也、

              宇土軍記上 (了)

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■明治期 肥後熊本【本妙寺真景全図(+錦山神社】石版画刷物

2016-04-12 07:12:02 | オークション

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