関ヶ原合戦に於いて細川忠興は黒田長政と共に石田三成の側近・島左近と対峙した。家康の側近・井伊直政の抜け駆け(?)で始まった戦いは、小早川秀秋の裏切等で西軍が大崩して敗走、九月十五日の内に決着した。
九月十八日、忠興は徳川家康から軍功を賞せられて丹後への帰国を命ぜられている。
一方父幽齋は前田主膳正(勝茂)の案内で、同十八日籠城していた田邊城を出て主膳正の亀山城へとむかった。
途中桧山(現・京丹波町)で一泊し十九日には亀山城の本丸に入った。すで忠興の情報が入っており、大津に在ることが伝えられた。
幽齋は翌早朝半里ほど東の馬堀(亀山市)まで出向き、忠興一行を出迎えた。
忠興は父幽齋が生きながらえて田邊城を出たことに得心していない。幽齋は「三度まで勅使を受けて下城せし者 我等ならで外には有間敷」と述べ、忠興は涙を流し平伏したという。
私はこのことは一方的な受け身の話ではないと考えている。■再び「慶長五年七月晦日 真田昌幸宛石田三成書状」 でも見て取れるように、かなり早い段階でこの結末が予想されている。前年まで田邊城内には、天皇の勅勘を蒙っていた中院通勝が在城していたといわれ、その斡旋が有ったともいわれている。出来レースの感がある。
その後忠興は、田邊城攻撃の総大将・小野木公郷がいる福知山城をを家康の許可を得て攻めている。
公郷は井伊直政や前田勝茂らの斡旋で開城したが、忠興の強い申し入れによって切腹せしめられた。
忠興はその後豊前国を拝領することになるのだが、関ヶ原開戦前には但馬一国を進呈する旨を家康 から約束されていた。
今度上方鉾楯付而無ニ被迎合候儀祝着存候
然者丹後之儀者不及申候 但馬一国無異議
進置候 尚金森法印・津田小平次可被申候間
不能具候 恐々謹言
八月十二日
家康(花押)
丹後宰相殿
このことは結果反故にされたわけであるが、その要因は井伊直政にあるといわれている。
井伊直政が小野木公郷の助命を家康に強く進言していたことが受け入れられなかったことによるとされる。
老後も京都に大変執着していた忠興(三齋)であるが、当時この結果をどう受け止めたかを思うと少々興味深いものがある。
新暦・旧暦のちがいはあるが416年前の出来事である。