津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■独り歩きを始めた「新・肥後細川藩侍帳」

2019-04-21 15:45:45 | 自分史

 インターネットで公開している「新・肥後細川藩侍帳」が時折、いろいろな書籍や、論考その他に引用されているのを知り、少々背筋が寒くなる思いがする。
インターネットにUPした以上は、良きにつけ悪しきにつけ共有の財産だと考え、私もあちこちから引用させていただいていることだし、お使いいただくことに異議を唱えるものではないが、このサイトがまだ未完であるがゆえに、内容の錯誤なども有り、引用された書籍や論考にかえって迷惑をかける結果を恐れているのである。
私はいたって小心者だから、参考資料やURLとして当方サイト名がこれらに掲載されるのを見ると、心臓がバタバタする思いである。
何度かブログでも申し上げている通り、「新・細川藩侍帳」は改変を続けているのだが、その都度UPという訳にはいかず、まだまだ間違いがあるまま独り歩きをしている。
かって東大史料編纂所刊行の「大日本史料ー細川家史料」の人名索引のリストを作成してサイトにUPしたことがある。
これはさすがに史料編纂所から削除のご指摘を受け、すぐさまサイトから削除した。
しかしわがサイト「肥後細川藩拾遺」からは消えているが、じつは残骸がさまよっていて、特定の名前を打ち込むとその残骸に出会うことがある。
システム上この世界から消え去ることは出来ないのであろう。
ブログに於いても単なる歴史好きの戯言では済まされずに、過去の投稿についても間違いを見つけては朱書きで訂正を入れたりしている。
間違いに気づかれながらもお見逃し頂いているのであろし、考えてみれば恥を晒しているようなものである。
このサイトを立ち上げたときに、ある方からしっかり出典をあきらかにすることをご指摘いただいた。
それは厳に守っていかなければと心している所である。ときおりとんだことに足を突込んだものだと思うときがある。

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■待たれる新著

2019-04-21 06:10:47 | 講演会

 昨日の午前中は熊本市民会館で催された、(一財法)熊本城顕彰会が開催する「第142回『西南の役記念会』講演会」に出席した。
演題は「加藤清正と忠廣-肥後加藤家改易の研究」で講師は「加藤清正妻子の研究」(一)(続)の著者・福田正秀氏である。
氏との出会いは相当古いものになったが、氏の一つの論考をインターネットで拝見してご自宅を訪問したという「押し掛けフアン」である。
私は人見知りがあってあまり積極的に行動する方ではないが、こればかりは例外の例外ともいえる。それ以来ご厚誼いただいている。
その後「宮本武蔵研究論文集」二巻に続き「加藤清正妻子の研究」二巻を次々に刊行され、今や押しも押されぬ武蔵・清正研究の第一人者となられた。
講演会も多くの方々の出席もあり盛況であったし、内容もますます進化を遂げておられる様が見て取れて楽しく拝聴したことであった。
その中で氏の次の刊本が発行される旨の紹介があった。

         「加藤清正と忠廣 肥後加藤家改易の研究」である。

6月1日に店頭に並ぶようである。又一冊私の書架に氏の著作が並ぶことになる。こうご期待。

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■月齢≒15日のお月さま

2019-04-20 21:24:02 | 熊本

               

                         今日のお月さまは昨日用随分赤身が強く輝いていました。
                         あと10日で平成も終わるとあって、毎日空を見上げています。
                         最高気温26℃、汗をかくような一日でした。

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■建築史家・長谷川堯氏死去

2019-04-20 19:00:31 | 建築

 建築史家・評論家長谷川堯氏の訃報に接した。現役の時代この長谷川堯氏といま一人の川添登氏の著書には大いに親しんだものだ。
この長谷川氏は川添氏とは違い、建築学科の出身ではない。その氏がのちに毎日出版文化賞を得られた「都市回廊」なる著をだされたときには、いささか驚きながらも読んだことを覚えている。
建築の世界から離れた今もこの「都市回廊」や「生きものの建築学」などという著書は今も私の本棚に或る。
村野藤吾の作品や人物評など建築家ではない視点での観察は大変興味深いものがあった。
建築学会賞を受賞されているが、まさに氏にとっては勲章であったろうと推測する。ご冥福をお祈り申し上げる。


                    生きものの建築学 (1981å¹´)

 蛇足だが来年の大河ドラマで主人公の明智光秀を演ずる長谷川博己氏は、氏のご長男だという。これは驚きであった。
ご子息も応援せずばなるまいと思ったりしている。

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■私の歴史狂いの発端

2019-04-20 06:25:36 | 自分史

 私が古文書に触れた最初は、わが家に残る「先祖附概要」という和綴じ文書である。
眺めつすかしつしてもミミズが張ったような文字を読み解くことはできず、断片的にしか理解できなかった。

しかし、家祖である磯部氏が織田信長の家臣だったという記述や、その後毛利氏に仕えたこと、また浪人して下松に居住していた折忠興公が旅の途中で度々お寄りになり、お休み所を提供したり食事を差し上げたりしたことなどが判明した。
下松居住中での細川家との関りが、磯部長五郎とその弟で我が家の祖である磯部庄左衛門が豊前に召し出されるという結果をもたらした。
長五郎が忠興公に殉死した蓑田又助を介錯したことは、森鴎外の小説にも取り上げられ是も驚かされた。
ドラマでおなじみの水戸光圀公のご家来・助さん(佐々助三郎)の名前を見つけたのも大変な驚きで、助三郎が来国した際二代目太左衛門が道案内を勤めたことを後で知った。
そんな記述に触れるうちに、何とか古文書を読めるようになりたいと願望するに至った。

 その間、熊本大学の松本寿三郎教授の「細川家侍帳」、川口恭子客員教授の「細川家家臣略系譜」が相次いで出版され、これを拝見するに及んで大いに触発された。
独自で一年ほどをかけて「新・細川家侍帳」を作り、又HPを立ち上げるとともにこれをご紹介することにした。もう10数年前の事である。

これが序々に思いもよらぬ反響を得ることになり、現在の私の活動の原動力になっている。
いろんなお宅からご先祖調査のご相談があったり、又先祖附の読み下しの依頼が相次いだ。
有難いことにその後もそれぞれのお宅との交流が続いている。

 一方我家の始祖磯部家については相当の努力をし、いろいろ情報を頂戴もしたが、現在に至るも確たる状況には行きつかないでいる。
当家の先祖附の解読については、大叔父が親交のあった川口恭子先生にお願いしてお手を煩わしたらしく、先生筆跡の読み下し文がコピーとして手元にある。
これを手本に私の古文書解読の一歩がスタートした。

 古い資料との出会いは不思議な偶然がある。
かってNHKの「ファミリーヒストリー」で歌手の財津和夫氏を取り上げるにあたり、私はNHKから資料の提供の依頼を受けた。
財津家は数代前に養子に入っておられ、NHKではそれ以後の新しい時代を中心に編集され、古い資料は役に立たなかったようだ。
図書館通いを重ねる中で財津家の親族に平川家があることが判り、この史料を調べるうちに、財津家の親族とは全く縁のない別の平川家の存在を知った。
この平川家が当家とルーツを一にすることが判り、その資料を得て当時大いに興奮したことであった。平川家文書
初代の兄・長五郎に「熊」なる女子があったことは先祖附にも記載されていて存在は承知していたが、この熊(のち龍源院)が忠興公の元にあり、八代の塩屋観音の復旧に尽力したりしている。
また熊本に於いて女ながら宗嚴寺を創建しているが、このことは熊本史談会の若い友人N君がもたらしてくれた情報である。宗嚴寺

先祖附からは伺えぬこのような貴重な情報が得られると、このような駄文を書き残そうと思わせてくれる。

 先祖附には一定の形式があるようで、各家のものをいくつも読んでいると自然と古文の読み下しは出来るようになった。
全くの独学だが、「くずし字辞典」とにらめっこをしながらも、現在ではいろんな古文書の提供を受けたり、又自らも手に入れたりして楽しんでいる。
その後は家族もあきれる歴史狂いと相成った。

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■平成最後の熊本の満月

2019-04-19 22:30:06 | 熊本


                                  

       22時20分頃に撮影した平成最後の満月です。相変わらずぼやけていますが、何とかファインダーの真ん中に捕らえました。

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■お安く読むー文春文庫「日本史の新常識」

2019-04-19 14:30:24 | 書籍・読書

文芸春秋社の作品紹介から 

かつて、鎌倉幕府の成立は「いいくに(1192)つくろう鎌倉幕府」と習いましたが、最近の教科書では「いいはこ(1185)つくろう鎌倉幕府」と教えています。ほかにも近年の研究で、従来の日本史の常識が次々と覆されています。古代、奈良、平安、鎌倉、室町、戦国、江戸、幕末、明治……。日本史の転換点となった出来事や時代をつくった人物について、出口治明、本郷和人、伊東潤、鹿島茂、倉本一宏ら28人の執筆陣が最新の研究成果をもとに新たな論点を提示する一冊です。

                     日本史の新常識 (文春新書)

     目次序章 通史
交易から見れば通史がわかる 出口治明

第一章 古代
「弥生人」の大量渡来はなかった 片山一道
前方後円墳がピラミッドより大きいワケ 森下章司
謎の天皇・継体はヤマト王権の中興の祖 水谷千秋
蘇我氏と藤原氏を繁栄させた「最新技術」 倉本一宏
「日出ずる処の天子」宣言は苦肉の策 河上麻由子
壬申の乱の陰に「唐vs.新羅の戦争」 倉本一宏

第二章 奈良、平安
東大寺大仏建立は宗教改革だった 武澤秀一
長屋王の変 悲劇の王の「私生活」 渡辺晃宏
本当は激務だった平安貴族 倉本一宏
「光源氏」は暴力事件の常習犯 繁田信一
遣唐使中止でも日中交流は花盛り 榎本渉

第三章 鎌倉、室町
鎌倉幕府成立年は一一八〇年が妥当だ 本郷和人
北条政子「子殺し・孫殺し」の修羅 伊東潤
元寇の真実 「神風」は吹かなかった 服部英雄
元寇の目的は中国兵のリストラだった 杉山正明
「逆賊」足利尊氏は最後まで尊王を貫いた 亀田俊和

第四章 戦国、江戸
応仁の乱は「東軍」が勝った 本郷和人
「汁かけ飯」北条氏政はバカ殿ではない 黒田基樹
織田信長の意外なポピュリズム 谷口克広
豊臣秀吉の世界帝国構想は妄想か 村井章介
秀頼はやっぱり秀吉の子ではない 服部英雄
「豊臣家康」「豊臣秀忠」って誰? 堀新
「慶安御触書」は実在しない 山本英二
名門・酒井雅楽頭家を再興した凄腕家老 福留真紀
江戸の少子化が近代化を支えた 鬼頭宏

第五章 幕末、明治
倒幕の雄藩がなぜ「松平姓」なのか 横山茂彦
坂本龍馬は殺人の「指名手配犯」だった 菊地明
西郷隆盛は「ストレス病」で苦しんだ 家近良樹
岩倉使節団「留守政府」の功績 笠原英彦
司馬遼太郎が見抜いた「西郷幻想」の危うさ 鹿島茂
日米戦争 知られざる「原点」 渡辺惣樹

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■「永源師壇紀年録」は一級資料たりえないのか?

2019-04-19 06:57:23 | 歴史

「永源師壇紀年録」をご紹介する中で、綿考輯録では伺えない事柄がいくつか出てきて、これが真実であれば細川家に対する認識が変わってくる。
ここでは藤孝の「仁恵の心をもつ思慮深い」人柄が浮かぶ。足利将軍家の血を引くという生まれながらのものであろう。
義輝亡き後、弟・覚慶を救い出し艱難の流浪の旅を続け、将軍家を再興したその力は、まさに藤孝の忠義心に他ならない。
しかしながら権力を得た義昭は佞臣の讒により藤孝を疎んじ始める。藤孝は将軍家を捨てて信長についたとされてきた。
将軍家の終焉は義昭の慢心による結果であろうが、藤孝はその結果を悲しみ義昭に付き従おうとしてい事が判る。
信長は非常に驚くとともに、藤孝を討とうとさえしている。これをとりなしたのが光秀である。その結果として藤孝は信長に臣従したのである。
その後に於いても義昭に対する心遣いが感じられる。

この史料の中で何度かにわたって藤孝と忠興の不和がうかがえるが、二人の性格の違いや人間臭さが感じられて興味深い。
これも綿考輯録では伺えないものである。

細川家の歴史をひも解く中で一番心が痛むのが、幽齋の女婿である一色義有の誅伐事件だが、これは信長の強い意向の結果であることが判る。
このことは信長の指示にも拘わらず藤孝が中々実行せず、たまりかねた信長はこれを忠興に命じて実行を促している。
綿考輯録等ではこれらのことについては触れておらず、編者小野武次郎は知らなかったのであろうか。または織田家に忖度して割愛したのかもしれない。
細川護貞様の著「細川幽齋」においても触れられておらず、事件に対する記述も避けておられるような感じである。
いずれにしても拭い去ることのできない細川家の汚点であるといえよう。

又忠興の娘・古保については第二女としながらもその生年を天正十年としている。つまり興秋よりも一年早い生まれであり、生母は郡宗保女と明記している。
そして三女・多羅が古保の同母妹であるとしている。多羅は明智珠(ガラシャ)の娘と紹介されることが多いがどちらが真実であろうか。
平成三十年に開催された「細川ガラシャ」展の図録にある「細川ガラシャ略年表」との齟齬がみられる。「永源師壇紀年録」は一級資料たり得ないのだろうか。

この記録を精読するとその記述が必ずしも正しいとはいいがたいところも見受けられる。一級資料として利用されない所以であろうか。

忠興の長男・忠隆の三人の女子についての誕生の年月が記されており、内膳家ご子孫が生母を前田利家女・千世姫とされる根拠が薄れたように思われる。
関係者のご検討を願いたい処である。

23回にわたりご紹介した「永源師壇紀年録」は、その一部分である。他の部分も又機会を得てご紹介しようと考えている。


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■享保の火事(2)

2019-04-18 13:09:37 | 歴史

尾藤又左衛門   小堀半九郎    圖書殿下屋敷   
戸田儀兵衛    山川岡右衛門   辛川忠助
續 才兵衛    安藤久左衛門   齊藤源兵衛    
近藤友仙     横井喜平太    兼松七右衛門
大概貞右衛門   吉村市左衛門   水野杢左衛門   
中路加兵衛    山崎平助     緒方夫右衛門
元田尉大夫    永井幸淳     成田伊右衛門   
安場仁左衛門   元田尉大夫添屋敷 高並伊兵衛
吉田傳兵衛    浅山平大夫    岩崎次郎兵衛   
樹下團之允    牧寺平右衛門   小栗九十郎
林 孫兵衛    三宅藤馬     坂牧瀬左衛門
岩越惣右衛門   嶋 又左衛門   原田弥三兵衛
大洞次左衛門   松田七右衛門   明石半右衛門
    上リ屋敷                   上り屋敷、其節平井吉兵衛ニ拝借
町野玄格     金守喜平次    萱野丹右衛門
萱野丹右衛門添屋敷 寺川助之允   渡邊新之允
加来大助     栗崎祐節     魚住小右衛門
丹後寺      額田権次     児玉織右衛門
瀬川才右衛門   小川半七郎    吉住半右衛門
                  松下伴右衛門
松崎甚九郎    渡邊権大夫    橋本又之允
小崎孫右衛門   智姓院      大石長右衛門
内藤宗伯     伴 十郎兵衛   田中九郎兵衛
高橋弥次兵衛   津田治左衛門下屋敷 村川作左衛門
吉田平右衛門   伊藤吉右衛門   正垣又之允
杉山宗朴     愛染院      稲津角之允
小林半大夫    有吉七兵衛    小林半大夫添屋敷
田中左兵衛下屋敷 慈圓院殿     兼坂藤右衛門
    四ヶ所
和田十郎兵衛   金津十次郎    宮部角兵衛
増田勘次     瀬崎次郎四郎   芦村十郎左衛門
尾藤甚次郎下屋敷 嘉悦市左衛門   専念寺
薬師堂一乗院   鏡前院      金剛寺
志水次郎右衛門  志水次郎右衛門添屋敷 岡 孫大夫
佛厳寺      住江四郎兵衛   松崎次兵衛
荒木善兵衛    早川十郎兵衛   都甲太兵衛

志水源太     永良助之允    松野主殿
松野主殿下屋敷  岡 久右衛門   武藤助左衛門
中村兵助     大村猪右衛門   松崎善左衛門
安井吉兵衛    三宅藤馬下屋敷  平野角左衛門
入江平内     藪 久左衛門   牧 平次郎
塚本七郎右衛門  平川奥左衛門   白木七郎右衛門
吉田庄右衛門   沢村仁三右衛門  宇野弥右衛門
堀田諸兵衛    野田伊兵衛    志方弥次兵衛
財津惣兵衛    山羽牛右衛門   筑紫丹右衛門
大膳殿下屋敷   堀 次郎大夫   堀次郎大夫添屋敷
梅原丹七     真藤久左衛門   中山勘左衛門
            上ヶ屋敷
宮川庄兵衛    平野久右衛門   浦上十兵衛
圖書殿下屋敷   財津正作     石川源太右衛門
小笠原庄左衛門  筑紫権左衛門   藤掛忠右衛門
堀 一学     中村進士     池邉如堅
不破角右衛門   上田治部左衛門  大木弥七兵衛
安富孫左衛門   横山隼太     平野弥右衛門
堀田安右衛門   松浦梶平     服部武兵衛
野々口又之允   元田弥五右衛門  野々口勘右衛門
小笠原備前殿   小笠原備前殿下屋敷 宗像加兵衛
              四ヶ所
赤尾源五左衛門  中路新右衛門   高山八右衛門
                     御借屋敷
浅香忠兵衛    香山角右衛門   魚住市郎右衛門
宮脇彦左衛門   吉住弥内     米田作左衛門
嶋 庄右衛門   宇野理兵衛    長塩彦之進
古庄養谷     門池杢兵衛    橋谷市蔵
木原猪右衛門   牛嶋角兵衛    松本團四郎
沢 丹右衛門   稲津角之允    遠山七郎右衛門
            同添屋敷
戸嶋嘉平次    井沢十郎左衛門  野田安左衛門
稲津弥七     内膳殿下屋敷   釈将寺
大木隼人下屋敷  松岡久右衛門   筑紫半蔵
松本助左衛門   米田傳兵衛    藤崎太右衛門
佐田宇兵衛    佐々木金助    匂坂織右衛門
            上ヶ屋敷

沢村甚兵衛    梅田藤大夫    河喜多作左衛門
福田新兵衛    寺井十兵衛    荒木市郎左衛門
猿木勘左衛門   中村進士添屋敷  岡元猪右衛門
山路太郎左衛門  釘本源之允    大里牛右衛門
椋坂政之助    池邉左大夫    堀田甚助
   御借屋敷
岩間次左衛門   向臺寺      浄永寺
西方寺      千手坊      山田猪源太
田中左兵衛下屋敷 井関岡右衛門   内藤市之允
     二ヶ所
河喜多貞右衛門  永良弥角     岩立観音堂
一宮源四郎    妹尾左七右衛門  溝口蔵人殿下屋敷
竹田半大夫    塚本弥次兵衛   塚本仁兵衛
井上新之允    志方五郎兵衛   尾藤甚次郎下屋敷
小山伊小右衛門  仙勝院      圓通岩          仙勝院→現熊本地方裁判所
道家玄養     平野五左衛門   内膳殿下屋敷
沢村権兵衛    松野四郎大夫   足軽屋敷
                     二百三十五ヶ所
地子屋敷     御切米取屋敷   阿蘇大宮司出府屋敷
   三ヶ所        四十四ヶ所
    

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■永源師檀紀年録・巻之四(23-了)

2019-04-18 06:15:32 | 史料

 慶長五年
〇同年十二月廿六日忠興主初テ小倉ニ入ル、然モ先主此ヲ退クノ時キ急ニ黎民ヲ催促して新税ヲ納テ去ルカ故    豊前入国す
 ニ、今年貢税ヲ闕ク、此ヨリ黒田ト相悪シ。
〇同八年二月十一日征夷大将軍ヲ内府公ニ宣下、就テ功臣ヲシテ爵ヲ叙セシム。大樹ハ永井直勝ヲ以テ大蔵卿    長岡姓を細川に改む
 ヲ召シテ話堕数刻ヲ移ス、復タ足利家ノ逓伐(代か)ノ譜式等ヲ詰問ス、大蔵卿此ヲ委説ス、大樹甚タ悦懌
 シテ大蔵卿ニ命シテ、忠興主父子渾家ヲシテ長岡ヲ細川ニ復称セシム。
〇同年八月廿九日前野雲州ノ室長媛掩粧ス、安昌院殿心月妙光大姉ト号ス、此レハ是レ忠興主ノ息女也。      忠興女・長死去
〇同九年十二月十四日木下正俊ノ室ノ加賀媛掩粧ス、松屋院殿即庵妙貞大姉ト号ス、此レハ大蔵卿ノ息女也。    幽齋女・加賀死去
〇同十年忠興主上表シテ家督ヲ忠利主譲ラント請フ、大樹父子聴シテ倶ニ共ニ釣帖ヲ授テ證ス。
〇同十年四月忠利主ハ従五位下部叙シ、侍従ヲ行ス、茲年忠隆主息女ヲ生ム、徳媛ト名ク。            忠隆長女・徳誕生
〇同十二年十一月朔大蔵卿ノ息男幸隆卒ス、享年三十七也、真慈院一漚ト号ス、初ノ名ハ幸賀也、愛宕山下ノ    細川幸隆死去
 坊ニ薙染シテ妙庵ト号ス。
〇同十三年忠隆主息女ヲ生ム、吉媛ト名ク。                                 忠隆二女・吉誕生
〇同十四年四月忠利主ハ釣命ヲ承テ小笠原秀政ノ息女ヲ聚テ以テ室家ト為ス。此ノ室ハ岡崎信康主ノ外孫女ナ    忠利、秀忠養女と結婚す 
 ルカ故ニ秀忠公ノ養女ト為シテ入輿ス、土井利勝・鵜殿兵庫頭・伊丹喜之介輿ニ奉ス。茲年忠隆主息女ヲ生    忠隆三女・福誕生
 ム、福媛ト名ク。
〇同十五年八月廿日未下刻大蔵卿輦下ノ邸ニ卒ス、春秋七十六也、舎維シテ泰勝寺(注1)ニ斂ム、泰勝院殿    細川幽齋死去
 拾遺補闕徹宗玄旨大居士ト号ス。定家卿色紙・灰カツキノ茗(碗か)・尼崎ノ臺碁盤、及ヒ石奩ヲ大樹ヱ             →碗の下に皿
 遺献シ、紫塵愚草及ヒ硯箱・源氏抜書宗祇花押ヲ秀忠公ヱ遺上ス、大居士幼ヨリ賦性兵術ノ余力ニ文ヲ学シ詩ヲ
 述へ歌ヲ能シ、以テ古今ノ歌伝ヲ三光院殿ニ受ケ預リ、以至射・御礼式等多能ニシテ普ク達セザル物ナシ、
 乃シ家集アリ。御水尾帝是カ号ヲ衆妙集ト賜フ、奎翰ヲ染テ辱ク其ノ外題ヲ筆授シ玉フ。
     (注1)泰勝寺者為南禅天授之末寺也、東福不二ノ元西堂推穀而使妙心下ノ乾明ヲシテ監泰勝、自    
         此長為妙心下也、元西堂者沢村衛士之男也、沢村承命養妙鮮院殿之男、以継其家因以元公
         投ノ不二而出家シム。寄附五十石後此禄自太守替附也。天授当時住僧者藤孝室光寿院之弟
         也、是以為細川之香火場也。
〇同十九年九月十七日因幡一通ノ室多羅媛掩粧ス、廿七也、徳雲院殿玉叢英蘭大姉ト号ス、忠興主ノ息女也。     忠興女・多羅姫死去
 此ノ冬大坂関東ト矛盾ニ及フ、忠興主師ヲ豊前ヨリ出シテ急ニ大坂ニ赴ントス、未発ニ和睦ス。忠利主ハ秀     大坂冬の陣
 忠公ニ従軍シテ至ル。
〇元和元年夏大坂ニ再ヒ変アリ、忠興主ハ近侍四百人及ヒ弓炮ノ軽卒五百人ヲ率テ、四月廿八日ヲ以テ中津ヲ     大坂夏の陣
 発シ、海波ノ激揚スルヲ厭ハズシテ昼夜大舸ヲ行ル。五月三日ヲ以テ摂州花熊ニ至ル、大樹父子其ノ来ル事
 ノ迅速ナルヲ感悦ス、忠興主ハ歩騎一万余人ヲ帥テ小倉ヲ発シ、中国ヲ経テ浪速津ニ至ル、忠興主先鋒ヲ大
 樹ニ願フ、是ヲ以テ軍隊ヲ藤堂高虎ニ列ス、忠興主連枝父子各戦功ヲ樹ツ、大樹父子褒賞ス、興秋主ハ父ト     細川興秋自刃す
 不和ノ故ニ戦忠ヲ大阪城ニ謁ス、城陥テ後チ京南稲荷東林院ニ於テ自殺ス。享年三十三也、黄梅院殿真月宗
 心大居士ト号ス。茲年七月十五日忠興主息男ヲ生ム、坊ト小字ス、妾服也、妾ハ清田主計鎮乗女也、坊殿後     細川立孝誕生
 ニ元服シテ中務少輔立孝ト称ス。
〇同年七月廿六日永源第八代玉岑琳禅師入寂ス。九岩永達大統ト兼任シテ古岳ノ徒仏岳松前板ヲシテ監院セシ
 ム。

   〇元常ーー+--玉峯永宋西堂 永源第七代
        |
        +--頼勝 弥九郎 右馬助 刑部少輔
        |
        |   万吉 兵部大輔 従四位下 侍従 剃髪後正二位法印 大蔵卿幽齋
        +--藤孝ーー+--忠興
               |
               +--興元

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                              (永源師檀紀年録・巻之四)は今回をもって終了いたしました。

     細川興秋に関する秀逸の論考をご紹介します。「試論:細川興秋公の大坂の陣以後

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■「味土野(みどの)ガラシャ大滝」の展望所と遊歩道が完成

2019-04-17 13:39:19 | 新聞

ガラシャゆかりの地の滝で開眼法要 京都・京丹後    毎日新聞から

 京都府京丹後市弥栄町味土野の「味土野(みどの)ガラシャ大滝」の展望所と遊歩道が完成し、展望所で16日、開眼法要が営まれた。市観光協会弥栄支部が整備を進めていたもので、近くには駐車場も設けて観光客誘致につなげたいという。

 大滝は標高約400メートルの山中にあり、地元では「味土野大滝」と呼ばれ、落差は50~60メートルある。住民によると、以前は滝つぼに大きなアマゴがたくさんおり、手づかみで捕っていた。木が生い茂る季節は府道から見えにくくなるため、弥栄支部が展望所を開設することになった。

 弥栄支部長の梅田肇さんによると、地元の野間連合区などと「麒麟(きりん)がくる京丹後プロジェクト推進協議会」をつくり、大滝を新しく「味土野ガラシャ大滝」と命名した。来年のNHKの大河ドラマが戦国武将・明智光秀の生涯を描く「麒麟がくる」と決まったためで、光秀の娘のガラシャが本能寺の変の後に幽閉された味土野を観光資源として生かすことが狙いだ。

 梅田さんによると、ガラシャが幽閉された女城をはじめ、護衛の武士が詰めたとされる男城の案内板などの整備も進め、総事業費は約300万円。施設の維持、管理は推進協議会で行う。女城には府立宮津高建築科によるあずまやの建設も予定している。ただ、展望所に至る府道は狭く、急な坂が続くため、整備が課題となっている。

 この日の開眼法要には20人が参列。味土野出身の木下肇さん(93)は「山の奥に眠る古里が世に出してもらい、見違えるようになった」とあいさつした。【塩田敏夫】

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■永源師檀紀年録・巻之四(22)

2019-04-17 11:46:12 | 史料

  慶長五年
〇同年九月内府公軍ヲ関ヶ原南宮山北ニ張ツテ、藤堂・本多・福嶋ヲ以テ前隊ト為シ、忠興主及ヒ黒田・金森    関ヶ原の戦
 ・田中・竹中ハ二ノ前隊ト為ス、酒井雅楽頭ハ命ヲ承テ息ノ阿州ヲ将ト為シテ兵ヲ此レニ附シ、以テ是レカ
 軍令ヲ細川玄蕃頭興元主二聴カシム、其ノ他ノ佐久間父子ハ土井ニ、立花飛州ハ本多野州ニ軍令ヲ差拝ス、
 此ノ軍令ヲ主ルノ三将ハ当世傑出ノ雄将ナレトモ、今マ浪子ナルカ故ニ如此也、此ノ十五日辰刻ヨリ箭鋒ヲ
 交ユ、興元主ノ軍隊ニ就テ佐久間ト法ヲ論ス、内府公ノ法ニ曰、前隊ハ土井、其ノ次ハ酒井ト、然ル二興元
 主ハ土井ノ軍ノ右ニ備ヘリ、是ヲ以テ土井ノ軍監佐久間父子快ヨカラズ謂テ曰、玄蕃頭殿軍法ヲ背ケリト、
 興元主聞ザルガ如ス、佐久間怒テ軍使ヲ本陣ニ馳セ訟フ、土井此ヲ酒井ニ告ク、雅楽頭驚キ往テ説テ曰、軍
 法ナレハ私法ヲ挟事勿レ、只乞フ、土井ノ後ニ備へヨト、興元主曰、前陣後陣ハ必シモ前後ニ隊ルヲノミ法
 ト為スニ非ス、地形ニ依テハ幾クヤウニモ隊ル也、前陣ハ左リ後陣ハ右ニ隊ル事是レ亦珍シカラズ、敵ニ会
 フ事ノ前後ヲコソ論ジツ可シ、刃ヲ交へ土井ノ軍ノ退ザルニハ此ノ軍ハ一兵ヲモ戦カハセジ、此レハ是レ法
 ヲ背クニ非サル也、其ノ證ハ目前ニ在ント、言訖ラザルニ左軍果シテ敗レヌ、佐久間父子令スト云へトモ終
 ニ崩レ退ク、右陣ノ阿州ノ隊ハ他ニ転ゼラレズ。其ノ能キ度ヲ見テ突戦ス、阿州モ又タ躬ラ能戦テ竒功多シ、
 興元主ハ兵ニ令シ且ツ戦ヒ大ニ功勲ヲ立セヌ、内府公ノ馬ヲ進ムルノ路傍ニ壮士ノ首ヲ提テ畔ニ蹲踞スルア
 リ、方二知ル今己ニ功ヲ策スナル事ヲ命ヲ承テ安藤帯刀是ヲ問フ、曰ク興元ノ家士加藤采女也ト、内府公此
 ヲ褒メ曰、勇士ナリト、此ノ日諸将各進ミ戦フ、福嶋・京極・藤堂ハ西方ニ進ミ、忠興主ハ山ノ手ノ石田・
 小西・安国寺カ堅陣ニ進ミ、近キ浮田・嶋津ヲ隔テヽ直チニ入ル、石田ノ家臣嶋左近・同新吉ハ兵ニ一歩モ
 退ザラン事ヲ令シテ死亡ヲ省ズシテ力戦スト云へトモ、忠興主躬ラ士卒ニ先千膽前忽後縦横無碍ニ旋轉シテ
 戦カ故ニ敵ノ隊へ紛レリ、此ノ時松平下野守此レニ横ニ当テ苦戦シテ勢ニ乗シ進事度ヲ失ヒ敵却テ囲ミ伐ン
 ト欲シテ幾手危シ、忠興主鎗ヲ提テ奮戦フ群ヲ為シテ進メル、敵崩レ破テ紛レ走ル、因テ野州ハ免得テ完シ
 其ノ南ニ備ヘル、藤堂玄蕃ハ此ノ紛レ走ヲ看テ今マ此ヲ伐ツノ能キ度ナリト云テ、士卒ヲシテ前後ヲ一同二
 崩して馳セ撃タシム、嶋新吉此ニ命ヲ殞ス、黄門秀秋俄然トシテ隊ヲ改メテウラキリヌ、依之平岡石見守・
 稲葉佐渡守・脇坂・朽木・小川等モ相沿テ秀秋ニ慣フ、石田カ軍イロメキタツテ大ニ敗亡ス。石田・小西・
 安国寺ヲ活捉ス、此ノ行ヤ内府公旗本ニ列スル所ノ古田等ノ三十七人各功名ヲ策ス、福嶋ハ陣ヲ浮田ニ、井
 伊ハ大谷ニ応シテ戦ヒ、黒田・浅野ハ軍ヲ関ヶ原駅路ノ東ニ張リ、藤堂ハ前隊ニ処シテ陣ヲ駅路ノ南ニ備へ、
 野州ハ内府公ノ右軍ニ備へテ戦フ、其ノ他ノ池田・京極等各々大ニ勝利アリ、此ノ十六諸侯ノ中、忠興主ハ
 戦功最モ群ヲ出ツ、如何ントナレハ忠興主ハ石田・長束ヲ一面ニ対シ横ニ小西・安国寺ヲ接シ、向前シテ隊
 ヲ張リ出ス事六町ニシテ躬ラ敵ニ当テ魁シテ其ノ最モ堅軍ト称スルヲ先ツ破ル、此ノ勝利ニ乗シテ諸軍各励
 ミ伐テ功ヲ立タルナリ、家々功ノ勝レルヲ自負シテ其ノ説紛々タリト云へトモ、兵事ニ老タル人ニ非サルヨ
 リンハ争カ此ノ優劣ヲ弁別センヤ、忠興主ノ長男与一郎忠隆主ハ秀忠公ニ従軍シ、次男与五郎興秋主ハ忠興
 主ニ従軍シテ倶ニ戦功アリ、秀忠公賞帖ヲ忠隆主二授ク。此ノ主曽テ羽柴ノ称ヲ秀吉ヨリ授リ、従五位下ニ
 叙シ、侍従ヲ行ス、父ト不和ノ故ニ剃髪シテ休無ト号シテ輦下ニ隠棲ス。内府公此回ヒ吾カ軍ニ得ル所ノ首
 級ヲ点検ス、午後ニ逮テ諸侯聚リ至ル、本田・井伊執達シテ諸侯ノ功績ヲ言ス、就中忠興主ノ戦功ミドコロ
 アリト公列侯ヲシテ席ニ進マシメテ各慰労ス、忠興主・正則倶ニ謂テ曰、公ノ武運ノ然スル所ナリ曷ソ臣等
 カ微功ニ預ラント、公大ニ悦フ、忠興主ヲ召シテ曰、汝カ乃父志ヲ我ニ通シテ募兵ナリト云へトモ田辺ヲ守
 リテ堅シ、辱ク勅命ヲ奉シテ其ノ完全ヲ得ル時、偏ニ文武及ヒ風雅ノ道兼備ノ誉レ高キ故ナリト、重テ忠興
 主ハ内府公ニ白シテ言ク、臣願クハ他ノ兵ヲ雑ヘズシテ小野木ヲ福知山ニ征伐セント、公聴ルス、仍テ内府           福知山城を攻撃す
 公ニ扈従シテ入洛ス、直ニ師ヲ丹波ニ出ス、三條ノ通衢ヲ経ルノ時キ門ヲ鎖シテ妨ルノ所ハ撃碎シテ過クル
 カ故ニ、都下大ニ擾走ス。福知ヲ囲テ昼夜ヲ捨ズシテ戦フ、小野木ハ内府公ニヨシミ有ルヲ頼ンテ山岡道阿
 弥ニ託シテ降シ剃髪シテ忠興主二謁ス、内府公思惟スラク、此ヲ宥恕センカ否也、忠興主連枝ノ怒リ解シ難
 カルベシ、如カジ此ヲ殺ニ遂ニ此カ首ヲ石田・小西・瓔甫等ト共ニ梟ス、同十六日ニ於テ内府公ノ東征ニ従    小野木公郷切腹す
 軍スル諸侯ヲ封ス差アリ、忠興主二豊前闔国ヲ領セシム、木槻ノ領地ハ元ノ如シ、以テ丹後ヲ捨シム。
   (九月)
〇同年十一月十八日豊後ノ国人等旧主大友ノ為ニ一揆ヲ起シテ、柴田小太郎ヲ酋トシテ大友ノ長臣吉弘等ト共    石垣原の戦
 ニ軍ヲ石垣原立石ニ張ル、又タ木槻領ヲ押妨セント欲ス、忠興主ノ元臣松井佐州・有吉武州等戦ヲ挑ミ、此  
 ヲ破テ進テ立石ヲ襲テ陥リ、柴田ヲ撃ツ、直ニ師ヲ石垣原ニ出シテ黒田如水ノ兵ト会シテ共ニ吉弘加兵衛ヲ
 襲フ、如水ノ臣井上防州鎗ヲ交ヘテ吉弘ヲ刺ス、遂ニ城ヲ屠ル。

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■享保の火事(1)

2019-04-17 06:49:42 | 歴史

 昨日私はノートルダム大聖堂の火事のニュースを聞きながら、奇しくも「火事」に関する記事を書いていた。
自分史をまとめる中で、我家の三代目・又之允が享保の火事に際し類焼の災難にあっているし、初代の姪にあたる龍源院(兄・磯部長五郎女・熊)が創建した宗厳寺も灰燼に帰した。そんなことも記録しておこうと思った所以である。

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 享保14年(1729・宣紀代)4月28日、熊本は大風に見舞われる中藪ノ内から出火、屋敷1,380ヶ所、総家数2,584軒という大火事となった。
                                           (雑花錦語集)(肥後国誌・上巻p102)
肥後国誌は雑花錦語集を引用しているが、その雑花錦語集の記事は松本寿三郎氏によって「熊本市史」に「手取・薮内火事類焼の面々」として紹介されている。
享保年間の絵図は見受けられないが、延宝六・七年の作と推定される「手取・千反畑・外坪井之絵図」を見ると、現在のホテルキャッスルから九州郵政局あたりに「御台所衆」の屋敷が集中して見える。このあたりが火元か?
私の遠い親類に「塙」氏が居るが、これが火元のご先祖様ではないかとも思ったりしている。
この一文をご紹介するが、皆様のご先祖様の名前がないことをお祈りする。名簿が長大であるため三回に分けてご紹介する。

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  手取・薮内火事類焼の面々
 享保十四己酉年四月廿八日午ノ上刻、手取於薮内御台所方役塙善左衛門屋敷より火事出来、同日申ノ下刻火鎮ル、右之節類焼之面々

   堀内弾蔵     永井平右衛門   塩山市右衛門
       裏長屋計
   益田忠右衛門   堀部右学     渡部左大夫
   右田左一右衛門  松本杢兵衛    検校屋敷
       上り屋敷
   相良又左衛門   佐野安右衛門   松岡儀右衛門
   粟津嘉次郎    後藤喜左衛門   増田庄次郎
   山崎万七     桑木源太右衛門  塩山勝之允
   上村理右衛門   河本真左衛門   清田清兵衛
   高森弥右衛門   永松久悦     住谷庄右衛門
   小嶋伊左衛門   御臺所方屋敷   御切米取屋敷
       上り屋敷      十九ヶ所      弐ヶ所
   御路次之者屋敷  歩御使番屋敷   朽木内匠
       拾ヶ所       壱ヶ所
   戸波十右衛門   宗岳寺      佐分利平右衛門
                         表長屋計
   新坪井米屋町   地蔵院      新坪井魚屋町
   佐藤軍平     橋本角大夫    吉田藤右衛門
   松原勘助     中村作右衛門   新坪井八百屋町
   松原安大夫    中西傳左衛門   歩御使番屋敷
                         十八ヶ所
   歩御小姓屋敷   御掃除組屋敷   御掃除坊主屋敷
       十壱ヶ所         十八か所        壱ヶ所
   東岸寺      新坪井鍛冶屋町横町 永福寺
   永屋勘平     宗厳寺      中川武兵衛
   甲斐弥次兵衛   内尾儀兵衛    竹原清大夫
   内膳家下屋敷   真藤又之允    児玉四郎兵衛
   神山園右衛門   松下伴右衛門下屋敷 宇佐川忠右衛門
   鯛瀬宇兵衛    清田角大夫    即生寺
   宝光院庚申堂   糸橋       御切米取屋敷
             (寺原)          八ヶ所
   御切米取屋敷   足軽屋敷     地子屋敷
        六ヶ所       六十ヶ所         四ヶ所
   手嶋喜大夫    東 又左衛門   山内次右衛門
   山口元節     西村兵右衛門   安東五助
   財津平右衛門   小野三右衛門   井上又十郎
   堤 孫左衛門   米村兵作     山内仁右衛門
   堤 新平     崎村茂右衛門   蒲池喜左衛門
   小原勘右衛門   上野勘右衛門   緒方平兵衛
   歩御小姓屋敷   御切米取屋敷   御掃除坊主屋敷
        三十三ヶ所        三十七ヶ所        壱ヶ所
   流長院      壽昌院      浄国寺
   順恩寺      快宝院      鏡照院
   真光寺      良善坊      常永寺
   足軽屋敷     水足庄三郎    内膳殿下屋敷
       百八十ヶ所
   山中彦十郎    上田弥右衛門   後藤丞右衛門
   津田治左衛門   大宮司屋敷    横田平助
   宇田四右衛門   永江宗愚     水足半助
   竹田津次左衛門  河崎作之允    中津海三右衛門
   瀬戸源左衛門   飯銅上右衛門   小林半右衛門
   加来佐左衛門   志方半兵衛    一村弥三兵衛
   

     

 



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■ノートルダムの火災

2019-04-16 14:56:44 | 建築

 20代の後半、ヨーロッパ数か国を旅したが、その折ノートルダムも身近に見学した。
キリスト教建築はバチカンやドウモウ、ケルンの大聖堂なども見て回ったが、巨大な教会がもつ荘厳さや、合唱する少年少女たちの声が複雑な教会の作りに相まって不思議な残響をのこす、心地よい音のハーモニーの空間も体験した。
仲間に「キリスト教徒になろう」と冗談をいったほど、それぞれの地で感銘を受けた。

ノートルダムはゴシック建築のお手本のような建物で、重要な構造体であるリブボールトを支える、不思議な形をしたフライングバットレスが特異なデザインとなっている。

              
花をモチーフにしたきれいなステンドグラスや、高くてスマートな尖塔等が今でも目に浮かぶ。


その尖塔に火が回り、折れて落下していくさまなど、パリっ子ならずとも涙してみた人も多いことだろう。
いずれは再建という事になるのだろうが、現代の優れた建築技術をしても100年ほどの時間は要するのではないか・・・

世界遺産中の最たる遺産ともいえるノートルダム・・悲しい姿は見たくなかった。
被害状況写真 https://www.afpbb.com/articles/-/3221132?pno=0&pid=21177489

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■地方史ふくおか

2019-04-16 14:51:37 | 論考

 過日O氏所蔵の刀三振りを拝見、夫々刀身のみである。刀というより太刀が正しいと思われる、細身の反りがあるものである。
大刀と脇差は無銘だが、小刀には「大道」の銘があり由緒あるものらしい。

随分依然一度この「大道」という刀について書き込みをしたことを思い出して読み返してみた。
    大道とか宜貞とか・・刀工のこと 2010-10-26 

その中で、「地方史ふくおか」に「豊前小倉の刀工大道一家の系譜・・細川藩時代前後に於ける豊前系大道と美濃系大道」という、論考の存在を紹介していた。
しかし入手については果たしておらず、この書籍を入手したいと思い日本の古本屋其の外いろいろ探したが見つからない。
「地方史ふくおか」は、福岡県地方史研究連絡協議会が発刊しているが、その名が示すように福岡におけるいろいろな郷土史の団体が参加している福岡の郷土史の総元締めのような処である。この協議会の事務局は福岡県立図書館にあった。
今朝ほど電話をして、残部があれば入手したい旨を申し上げると、残念ながら売り切れであるとの事、さてどうしようかと電話先で思案していると、該当記事をコピーで提供できますとのありがたい話、早速入手の手続きをとった。

いろいろ機会をとらえては雑多な資料を集めているが、刀は門外漢であり大事な資料としてファイルに収まることになる。

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