Sightsong

自縄自縛日記

MOPDtK『The Coimbra Concert』

2014-06-22 07:16:15 | アヴァンギャルド・ジャズ

MOPDtK『The Coimbra Concert』(clean feed、2010年)。ピーター・エヴァンス聴きたさに入手したが、グループ名は「Mostly Other People Do the Killing (MOPDtK)」。また思い切った名前を付けたものだ。しかも、ロゴマークは、エディ・アダムズの有名な写真「サイゴンでの処刑」を模している。

Peter Evans (tp)
Jon Irabagon (ts, ss)
Moppa Elliot (b)
Kevin Shea (ds)

ジャケットもふざけている。誰が見ても吹き出すと思うが、キース・ジャレット『The Koln Concert』のパロディである。調べてみると、これだけでなく、オーネット・コールマン『This is Our Music』とか、ロイ・ヘインズ『Out of the Afternoon』とか、アート・ブレイキー『A Night in Tunisia』とか、名盤のパクリのオンパレード。

パクリということで言えば、全曲がモッパ・エリオットによることとなっているが、「A Night in Tunisia」、「Let's Cool One」、「A Love Supreme」、「Our Love is Here to Stay」といったジャズスタンダードの断片が埋め込まれている。しかし、これはコミックバンドなどではなく、凝り固まった認知を笑い飛ばすような活動とみるべきだ。かつてジョン・ゾーンが、「Jazz snob, eat shit」と言ったように。

この音楽をどのように言い表すべきか。ピーター・エヴァンスの諸作に通底していて、たとえばイングリッド・ラブロック『Strong Place』でも強く感じられる「Re-focusing」か。楽器編成や文法はジャズのものを踏襲しながら、フリージャズ創世記にあったに違いないような、さらなる自由を見出すための活動が形になっているような感覚か。それぞれのプレイヤーの演奏が全体としての和集合を作っているのではなく、各々の演奏の積集合(共通部分)をキープしながら、あとは四方八方に飛びださせる感覚か。

ピーター・エヴァンスの音楽を聴いていると、スタニスワフ・レム『ソラリス』において、ソラリスの海の上に形成された雲のことを思い出す。人間が飛行機から観察していることに呼応し、雲は赤ん坊の目や鼻や口の形を作りだす。しかし全体としてみれば統合世界としての顔を形成しているわけではなく、観察者は吐き気をもよおすといった描写だった。

もちろん、ここでの演奏は、グロテスクでも、吐き気をもよおすわけでもない。ひたすら愉快である。

●参照
ピーター・エヴァンス『Ghosts』
ピーター・エヴァンス『Live in Lisbon』
『Rocket Science』
ウィーゼル・ウォルター+メアリー・ハルヴァーソン+ピーター・エヴァンス『Mechanical Malfunction』
ウィーゼル・ウォルター+メアリー・ハルヴァーソン+ピーター・エヴァンス『Electric Fruit』


ファン・ドンヒョク『怪しい彼女』

2014-06-21 23:23:45 | 韓国・朝鮮

話題の韓国映画、ファン・ドンヒョク『怪しい彼女』(2014年)を観る(英語字幕版)。

お婆さんが不思議な写真館で撮影してもらったところ、突然、20歳の自分になってしまうという物語。彼女は、自分の孫のバンドに参加し、歌手になりたいという夢を実現させる。

何と言うこともないファンタジーだが、主演のシム・ウンギョンの表情に味があって良い。どこかで観たと思って調べてみると、『王になった男』に召使いの役で出ていた人だった。ずいぶん破裂したものだ。


池井戸潤『ルーズヴェルト・ゲーム』とテレビドラマ

2014-06-20 22:42:24 | スポーツ

そんなわけで(どんなわけだ)、日曜夜9時のテレビドラマ『ルーズヴェルト・ゲーム』を、楽しみに観ている。ついでに、耐えきれなくなって、池井戸潤の原作小説(講談社文庫、原著2012年)を読んでしまった。

中堅電機メーカー・青島製作所が、もっと規模の大きい競合相手・ミツワ電器(ドラマではイツワ電器)に呑みこまれそうになり、大逆転を目指して奮闘する物語である。青島はデジカメ用イメージセンサーの開発によって急伸した企業だが、ミツワにはその技術力がない。青島は家族的経営、ミツワはとにかくコストダウン。

何となく、青島が、かつての旭光学(ペンタックス)の姿に重なってしまう。かつてはオリジナリティ溢れるカメラを作っていたメーカーだが・・・。

青島の家族的経営の雰囲気作りに一役買っているのが野球部なのだが、会社存亡の危機にあって、廃部を余儀なくされている。どうしても、皆でわいわいと仲良く盛り上げる組織の姿に対して、わたしなどは、そこから疎外されている者のことを考えてしまう(『クッキングパパ』が昔から嫌いだった)。しかし、その一方で、必死に奮闘する勤め人の姿を見ていると、意味なく熱くなってしまう(『クライマーズ・ハイ』のように)。単純だな。

ところで、先にドラマのほうをほとんど観てしまったせいか、小説にそれほど面白みを感じない。それほどドラマのほうはキャラが立っていて(『半沢直樹』の二番煎じなのではあるが)、芸達者な役者たちを揃えている。失敗しているのは、唐沢寿明が演じる主人公の細川社長のみ。どんな人なのか最後までつかみかねて、感情移入が出来ないのである。

もう今度の回が最終回だと思うと寂しい限り。小説と比べてどうかな。


アンドリュー・シリル『Duology』

2014-06-19 22:10:20 | アヴァンギャルド・ジャズ

アンドリュー・シリル『Duology』(jazzwerkstatt、2011年)を聴く。

Andrew Cyrille (ds)
Ted Daniel (tp, flh, khakhai)
Michael Marcus (cl)

タイトルからは、トランペットとクラリネットが入れ替わりつつ、シリルとのデュオを行うことを想像するが、そうではなくトリオによる演奏である。(どんなわけでこのタイトルにしたのだろう?)

かのセシル・テイラーと組んでいたからといって、シリルのドラミングはエネルギーがどどどどどと迸り出るものとは違う。どちらかといえば構成的で、かっちりと下からリズム世界を組みあげていく印象のプレイである。理知的にも感じられる。

確かに、セシルとのグループはともかく、オリヴァー・レイク、レジー・ワークマンとのトリオでも、イーヴォ・ペレルマンのグループでも、彼のプレイはそうだったのかなと脳内で反芻してみる。

ヘンリー・スレッギルのグループ「エアー」において、フェローン・アクラフの次にドラマーを務めたのはシリルだったらしい。録音は残っていないそうだが、どんな演奏だったか興味がある。

●参照(アンドリュー・シリル)
セシル・テイラー『Dark to Themselves』、『Aの第2幕』
ジョー・ヘンダーソン『Lush Life』、「A列車で行こう」、クラウド・ナイン
デイヴィッド・マレイ『Saxophone Man』
ウィリアム・パーカーのベースの多様な色
ブッチ・モリス『Dust to Dust』
ザ・ジャズ・コンポーザーズ・オーケストラ
ペーター・コヴァルトのソロ、デュオ


ハル・ハートリー『シンプルメン』、『はなしかわって』

2014-06-19 07:24:26 | 北米

仕事帰りに、ポレポレ東中野で、ハル・ハートリーの映画を2本。

『シンプルメン』(1992年)

ニューヨークに住む、泥棒の兄と学生の弟。父はMLBの有名な遊撃手だったが、テロの容疑で服役中。兄弟が会う人の中には、それを理由に罵る者も、父の思想に共鳴し冤罪だと励ます者もいる。ところが、弟が面会に行くと、父は脱獄していた。兄弟は、残された手掛かりをもとに、なけなしの金をもってロングアイランドへ行く。そこでは、兄弟は、奇妙な人たちに出逢う。父は、港に繋留された船で、仲間に革命を説いていた。

まずは、人物へのカメラの迫りように驚く。各々に最低限許されるであろう制空権に、やすやすと踏み入っているのである。そして、画面に映し出される顔や手足には、いちいち、迷いや、その場限りの思い付きが見え隠れする。状況も演技も一期一会。

ロングアイランドでは、兄弟が、不良少女、バイクをくれる男、バーの姉妹、ガソリンスタンドの店主、ひとりで「グリーンスリーブス」を弾く店員、迷いを露骨に顔に出す警官、漁師たちと、はじめて逢うにも関わらず、テキトーかつ濃密な関係を結ぶ。自分はこう行動し、こう責任を負うのだという、個々の矜持が炸裂していて、実に嬉しくなってしまった。

『はなしかわって』(2011年)

スキンヘッド、険しい顔、万年同じ服、手には修理ツールやドラムスティックが入ったアルミのアタッシェ。あやしい男である。かれは、生きていくために、オカネの工面をし、ドラマー、映画、窓の輸入、水道工事などさまざまな仕事を抱え、マンハッタンを一日中歩き回る。それでいて、カッコつけて仕事の謝礼を断ったり、ブルックリン橋で出逢った自殺願望者のことをずっと心配したりする。 

都市で暮らす者は、ひとつひとつフックを見つけて、紐を結えていかなければならない。絶望の映画ではなく、明らかに希望の映画。


ジェレミー・ペルト『Men of Honor』

2014-06-18 07:38:16 | アヴァンギャルド・ジャズ

ジェレミー・ペルト『Men of Honor』(HighNote、2009年)。

この後にも何作かリーダー作があるが、今ではサックスのJ.D.アレンと組んでいないようである。

Jeremy Pelt (tp) 
J.D. Allen (ts)
Danny Grissett (p)
Dwayne Burno (b)
Gerald Cleaver (ds) 

何というか、カッコいいのではあるが。ハード・バップの延長というか、保守本流というか、イマのジャズを聴いているようには思えない。別にフォーマットは従来型でも構わないのだが、ペルトの個性がどこにあるのかよくわからない。いや、カッコいいのではあるが。

最近はどうやらエレクトリック多彩化方面に転換したらしいので、もっと聴いてみたいところ。

J.D.アレンのサックスは派手ではない。しかし、少し謎めいたフレーズであり、スムーズで、舌足らず感もあって悪くない。

J.D.アレン、メルボルン、2008年 Leica M3、Summicron 50mmF2、TMAX3200、フォマスピードバリアント311、3号フィルタ

●参照
メルボルンでシンディ・ブラックマンを聴いた 


エマニュエル・レヴィナス『実存から実存者へ』

2014-06-17 22:52:51 | 思想・文学

エマニュエル・レヴィナス『実存から実存者へ』(ちくま学芸文庫、原著1984年)を読む。

だれもが、実存から逃れることはできない。だれもが、実存の内に置かれている。自分の存在は唯一無二の事件そのものであり、類型化も抽象化も不可能である。

この、レヴィナスによる大前提は、各々による苛烈な内なる闘いをもたらす。気だるさ、怠惰、疲労、義務、努力、希望といったものさえも、レヴィナスにかかると、実存は実存の中で個別に視ることしかできないゆえの足掻きの現象となる。これは恐ろしい思想である。だれもが地獄を抱えつづけなければならないのだぞと宣告されているのだから。

外部に逃れえないために、世界において他を対置して存在を論ずることは、実は、無理のあるヴァーチャルな行為である。これが、レヴィナスによるハイデガー批判にもなっているわけだが、またそれは、傲慢なる他者支配の基盤そのものに疑いを見出す考えでもあるのではないか。

「・・・自己から外に出た自我は、暴れ出すか、さもなければ非人称的なもののなかに落ち込んでしまうからだ。」

●参照
エマニュエル・レヴィナス『存在の彼方へ』(1974年)
エマニュエル・レヴィナス『倫理と無限』(1982年)
ジャック・デリダ『アデュー エマニュエル・レヴィナスへ』
合田正人『レヴィナスを読む』
高橋哲哉『記憶のエチカ』


イングリッド・ラウブロック(Anti-House)『Strong Place』

2014-06-17 07:40:20 | アヴァンギャルド・ジャズ

イングリッド・ラウブロックのグループ「Anti-House」による『Strong Place』(Intakt、2012年)を、ようやく聴いた。

Ingrid Laubrock (ts,ss)
Mary Halvorson (g)
Kris Davis (p)
John Hebert (b)
Tom Rainey (ds)

何しろ、イングリッド・ラウブロックのサックスの音が好きである。柔軟にベンドし、攻めたり引いたり、挙句にヘンなノイズを発したり。

ヘンといえば、メアリー・ハルヴァーソンのギターも負けていない。音が立っていて、ときおり平然と表に出てきては、サックスやピアノとくんずほぐれつ。

もはやソロ廻しのジャズではないことは言うまでもないのだが、かといって、すべてを緊密にアンサンブルとして固めたわけでもない。構造というと陳腐な例えになってしまう。ライナーに引用されているリチャード・フォアマンの言葉でいえば、「re-focusing」か。目と耳の焦点を、次々にあちらこちらに合わすことを要請されているようで、普段使わない筋肉に電流が走る。

ところで、ヘンリー・スレッギルに捧げた曲「Cup in a Teastorm (for Henry Threadgill)」が収録されていて、その曲作りのコンセプトがなんとなくスレッギル。

●参照
ウィーゼル・ウォルター+メアリー・ハルヴァーソン+ピーター・エヴァンス『Mechanical Malfunction』
ウィーゼル・ウォルター+メアリー・ハルヴァーソン+ピーター・エヴァンス『Electric Fruit』


ビル・マッケンリー『Ghosts of the Sun』

2014-06-15 22:29:03 | アヴァンギャルド・ジャズ

ビル・マッケンリー『Ghosts of the Sun』(Sunnyside、2006年)を聴く。

Bill McHenry (ts)
Ben Monder (g)
Reid Anderson (b)
Paul Motian (ds)

この盤に色を付けているのは、紛れもなく、ポール・モチアンのドラミングである。柔軟な板バネのようにどこまでも伸び縮みして、鞭のように強靭。これに、さらに、ベン・モンダーの巧いギターがおそろしく噛み合っている。モチアンが、自身のグループでずっとビル・フリゼールと組んでいたことも、よくわかろうというものだ。

(ところで、かつて、青山のBody & Soulで、テザード・ムーンの一員として演奏するモチアンを、至近距離で観た。もちろん演奏は素晴らしかったのだが、その後、ビビってしまうほどの迫力があって、サインでも貰おうかと思っていたが、やめた。)

マッケンリーのテナーも極めて真っ当に鳴っていて、ずっと耳が吸い寄せられる魅力がある。ケレン味というものはないが、好きな音。

●参照
ポール・ブレイ+チャーリー・ヘイデン+ポール・モチアン『Memoirs』
ゴンサロ・ルバルカバ+チャーリー・ヘイデン+ポール・モチアン
ビル・エヴァンス『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』
キース・ジャレットのインパルス盤
70年代のキース・ジャレットの映像


平頂山事件訴訟弁護団『平頂山事件とは何だったのか』

2014-06-15 14:45:35 | 中国・台湾

平頂山事件訴訟弁護団『平頂山事件とは何だったのか』(高文研、2008年)を読む。

ちょうど5年前、訴訟の弁護団に加わった大江弁護士による講演を聴いた。そのとき、既に上告が最高裁に棄却された(2006年)後であり、現在まで、その意味での進展はない。しかし、いまも平頂山事件(1932年)そのものが日本でさほど知られているとは言えず、このような本が読まれていく意義は大きいということができる。

1932年、中国遼寧省、撫順の炭鉱(戦後に戦犯収容所ができた場所)。同年に成立した満州国の地域内であり、それ以前から、実質的に、満鉄や関東軍を通じて、日本が資源やインフラの権益をおさえていた。この炭鉱も、「匪賊」こと反満・反日ゲリラに対し、関東軍が守備にあたっていた。ある日、ゲリラの襲撃があり、過剰すぎる対策として、関東軍の憲兵隊は、ゲリラ通過点と想定される平頂山地域の住民を1箇所に集め、機銃掃射によってほぼ皆殺しにしたのだった。

犠牲者数、推定約3,000人。死体は外部からの視線に晒されないよう、ダイナマイトで崖を発破した泥によって埋められ、隠された。

中には、生き残った者たちがいた。彼女ら・彼らは、親戚のところに身を寄せた。証言を発することはできず、犠牲者とわからないよう改名した者もあった。日本の敗戦までは当然として、戦後も、中国政府によって、その声を抑制されてきたからである。そして、日中国交回復(1972年)の際に、戦争責任について、国家間での話がついた、はずであった。しかし、それは民衆の頭越しの国家間の決定であり、やがて、個人が国家の責任を問うことまでは解決済みではないとする考えが出てきた。(このあたりは、韓国でも同様である。)

その考えを妨げぬとする銭其琛の発言が、1995年にあった。実質的なゴーサインであったと言える。これは、永野法相による「慰安婦はなかった」発言(1994年)など、しぶとく発せられる歴史修正主義へのカウンターでもあったのだろうか。もちろん、国家間が良好な関係にあったからといって、個人に黙っていろということは妥当ではない。

そして、犠牲者3人を原告として、日本人弁護団が組まれた。資料や証言によって史実を明らかにするも、地裁、高裁、最高裁すべて、「国家無答責の法理」を理由として、敗訴となった。「国家無答責の法理」では、国家の権力行使の一環として行われた行為であればその当否を問うことができないとする。要は、軍隊の行うことは、いかに本来の業務を逸脱した虐殺行為であっても、責任を回避できたわけである。

ただ、この法理を適用しない判決も出てきている(強制連行など)。また、平頂山事件については、責任の所在はともかく、司法によって、事件の事実認定はなされている。

●参照
平頂山事件とは何だったのか(2009年、大江弁護士による講演)
森島守人『陰謀・暗殺・軍刀』(平頂山事件についての外交官による記録)
澤地久枝『もうひとつの満洲』 楊靖宇という人の足跡(澤地久枝は平頂山を訪れている)
平頂山事件資料館


亀井俊介『ニューヨーク』

2014-06-14 23:36:45 | 北米

亀井俊介『ニューヨーク』(岩波新書、2002年)を読む。

これで、ニューヨーク関連の新書を、懲りずに3冊目。ほとんどラノベ感覚だが、さすがに飽きた。しかし、同じような内容の入門書を続けて読むと、いやでも重要な事件や背景について刷り込まれるというメリットがある。

先住民の歴史を脇において、ヨーロッパからアメリカにわたってきたところから語りはじめると、他国と比べてどうしても歴史が短くなる。それでも、新書くらいのボリュームでは、通史は浅いものにならざるを得ない。本書も、ニューヨークの歴史や、市内各地域の特色についてうまくまとめてあるものの、具体的な話に踏み込まないため、あまり面白くはない。

ニューヨークは、田舎に紐付けられた田舎者が集まる東京と違い、根無し草が集まる都市であるという。そして、それでこそ、どんどん都市の表面が塗りかえられ、活気のある場になるのだとするのが、著者の主張である。しかし、東京がそうとばかりは言えないのではないか。わたしも田舎者ではあるが、いつも帰る場所としての田舎が心のなかにあるわけではない。大学生のころ、たまに帰省すると、もう東京に戻りたくてしかたがなくなり、いよいよ戻ってきたときに東京の夜景をみて、しみじみと嬉しい気持になったことは、一度や二度ではない。

●参照
上岡伸雄『ニューヨークを読む』
千住博、野地秩嘉『ニューヨーク美術案内』


フランク・パヴィッチ『ホドロフスキーのDUNE』、バルテュスのポラロイド

2014-06-14 22:36:57 | ヨーロッパ

ヒューマントラストシネマ有楽町で、フランク・パヴィッチ『ホドロフスキーのDUNE』(2013年)を観る。

1975年。既に、『エル・トポ』や『ホーリー・マウンテン』を商業的に成功させていたアレハンドロ・ホドロフスキーは、次なる企画として、『デューン』の映画化を開始する。

キャストやスタッフは、ホドロフスキーが直感でこれはいいと思った人。特撮担当として、最初にダグラス・トランブルに目を付けるが、会ってみると多忙で傲慢なビジネスマンであり、怒って他を探す。ちょっと前に完成していた、ジョン・カーペンター『ダーク・スター』(今みるとしょぼい!)の特撮担当ダン・オバノンに決定。さらに、H・R・ギーガー。俳優として、サルバドール・ダリ。お気に入りの料理人をセットにして、オーソン・ウェルズ。さらに、自分の息子には、演技のため2年間武術の特訓を受けさせた。音楽はピンク・フロイド。凄いというかなんというか。

これらのアイデアをひとつひとつ固めていき、設定や絵コンテからなる分厚い企画資料を作成し、スポンサー探しをはじめた。しかし、巨額の予算や、ホドロフスキーの頑固な怪人ぶり(何しろ、12時間の映画にしたいなどと考えていた)のため、資金調達ができず、映画化は挫折した。そのかわりに、結局はデヴィッド・リンチが同作品を映画化したのだが、ホドロフスキーはその駄作ぶりに大喜びしたという。

作品は完成しなかったが、ホドロフスキーが撒いた奇抜な種は、あちこちで芽をふいた。『スター・ウォーズ』、『エイリアン』、『ターミネーター』、『プロメテウス』など、新旧の名作群に、『デューン』のコンセプトが活かされている。つまり、作品のかわりに世界を創った男というわけであり、これは愉快だ。

それにしても、何かに憑かれたように愉しそうに話し続けるホドロフスキーに、圧倒される。劇場からもときどき呆れたような笑いが起きる。何なんだ、この人は。こちらまでヘンに元気になってくる。学生のころ、『エル・トポ』の気色悪さに辟易して、他のホドロフスキーの映画を観ていないのだが、これはつまりわたしがお子ちゃまだったということだ。

ついでに、近くの三菱一号館美術館にて、「バルテュス 最後の写真 ―密室の対話」展を観る。

晩年のバルテュスは、身体的にデッサンが困難となり、ポラロイドで少女の写真を撮り続けた。狭い会場には、ほとんど同じポラがずらりと展示されている。アトリエでは自然光以外を拒絶していたくせに、フラッシュもときどき焚いている(DMの写真もフラッシュ一発写真)。しかし、薄暗い中で、ぶれてはいても、自然光のみで撮ったポラのほうが断然良い。

美しいといえば美しいし、変態的といえば変態的。(だってそうでしょう)

ホドロフスキーもそうだが、バルテュスも、思い込んだら意地でも方向を変えない。無理だがわたしもこうありたい。

●参照
バルテュス展


佐藤学さん講演「米国政治の内側から考えるTPP・集団的自衛権―オバマ政権のアジア政策とジレンマ」

2014-06-14 08:55:55 | 北米

佐藤学さん(沖縄国際大学)による講演「米国政治の内側から考えるTPP・集団的自衛権―オバマ政権のアジア政策とジレンマ」を聴講した(PARC自由学校公開講座、2014年6月13日、ちよだプラットフォームスクエア)。

2010年に法政大学で開かれたシンポジウム「普天間―いま日本の選択を考える」において、佐藤さんが、沖縄の米海兵隊が外部の脅威に対する抑止力となっているとの言説がいかに無意味であるかを明快に説いたことは、非常に印象的だった。あらためて話を聴きたいと思っていたところ、OAMのNさんに誘っていただいたのだった。

講演の内容は以下のようなもの。(※文責は当方にあります)

○バージニア州の共和党の予備選で、下院ナンバー2のエリック・キャンターが、ティーパーティー系の無名候補に敗れた(2014/6/10)。投票数も少ない選挙ではあるが、このことの衝撃と意味は非常に大きい。
○ティーパーティーは、極端なキリスト教保守であり、排外的な移民排斥政策や、同性愛結婚反対や、中絶反対や、軍事予算を削減して米国予算の赤字を抑えるべきとの政策を、狂信的に掲げている。最近は不振が続いていたが、これで潮目が変わった。つまり、共和党の主流はティーパーティーの主張をある程度取り入れざるを得ない。しかし、そうすると、白人以外の票が離反する。アメリカにおいては白人が少数派となりつつあり、さらに共和党の政策が保守化・反動化するだろう。
○このことは、共和党の政治家にとっての難題となる。たとえば、ジェブ・ブッシュ(ブッシュ元大統領の弟、元フロリダ州知事)は、ヒスパニック票の取り込みを意識した行動を取っている。しかし、ティーパーティーの影響力が強まると、移民政策が排外的なものになり、彼のような動きは批判の対象となる。つまり、共和党が極端な保守反動の少数政党と化す可能性がある。
○ティーパーティーは、オバマ政権を、社会主義であり独裁政権であるとして激しく批判している(おそらく人種的な要因もある)。また、TPP反対も、その文脈にある。自由貿易には賛成だが、その枠外の産業振興策には反対ということである。すなわち、米国においてTPP推進は一枚岩ではない。
○「オバマケア」(医療保険制度改革)に対しては、中低所得者層が反対する構造がある。アメリカでは医療保険を持っていない人が約15%も存在し、オカネがないと医者にかかることもできない。中低所得者層にとって、「オバマケア」は歓迎されてしかるべきものだが、なぜ反対か。その理由として、①民間保険会社がテレビCMなどで行っている猛反対のキャンペーンによる影響、②保険がカバーしきれない大病(癌など)は、多くの人は使わない、そして、③85%の下の層が反対したこと(分断工作)、が挙げられる。反オバマのティーパーティーも、「オバマケア」を「オバマの嘘」として攻撃している(医療保険の政府ウェブサイトに機能障害が生じたことも批判材料となった)。
○アメリカの経済は、全体としてみればよくなっており、失業率も改善している。しかし、これはまた、就職を諦めた人たちが労働市場から撤退したことを意味する(格差の拡大・固定)。
○共和党は、オバマを批判し、リビア空爆回避(領事館攻撃への対応)などの対処が、ひいてはロシアのクリミア併合につながったのだとする(軍事的な弱腰)。しかし、今ではアメリカは戦争などしたくないのである。
○アメリカでは、集団的自衛権など日米関係には関心が薄い。
○そもそも、戦争になって日本がアメリカを助けるなどといった局面は起こりえず、集団的自衛権の議論にはリアリティがない。それどころか、日本はアメリカにとっての「汚れ仕事」をさせられるという懸念がある。戦争によって、経済には確実に甚大な悪影響が出る。すなわち、沖縄の米軍基地だけの問題ではない。
○米中は経済的に依存しあっており、戦争を想定することには無理がある。仮に想定するとしても、中国人民解放軍が警戒するのは沖縄の米軍基地などではなく第七艦隊であり、そのために、横須賀を如何に攻撃するかという研究もなされている。

>> 参考記事 佐藤学「「戦争できる日本」へ事態危惧クリミア・尖閣・フォークランド」(2014/3/31、琉球新報)

講演後、懇親会に参加させていただいた。

近々に、佐藤さんも共著者として執筆した集団的自衛権の本が出るそうだ(合同出版)。秋には、単著がコモンズからも出る予定だということである。

ところで、佐藤さんが会場への差し入れとして配ってくださった「はごろもパイ」(みやざと製菓)。これには、宜野湾市大山の名産物である田芋(ターンム)を使っている。普天間の地下が琉球石灰岩によって涵養された地下水脈であり、そのために大山の田芋栽培が出来ている。換金性が高い作物であり、地域経済にとっての意義が大きい。(伊波洋一、『けーし風』第81号

 


千住博、野地秩嘉『ニューヨーク美術案内』

2014-06-14 00:53:59 | 北米

千住博、野地秩嘉『ニューヨーク美術案内』(光文社新書、2005年)を読む。

それなりに面白くはあったが、千住博という人の「ご神託」をまとめているような本でもあった。

美術はネットや印刷媒体では二次体験に過ぎず、実物に対面しなければはじまらない。それはその通りだ。しかし、体感を経たあとの解釈が、もはや印象批評に他ならぬものとなっている。ゴッホの筆遣いからも、リキテンスタインのスタイルからも、「神」への祈りを見出すのみ。少々辟易してしまった。

ガイドブックでもない、作品の解釈としては中途半端、図版はお粗末。


上岡伸雄『ニューヨークを読む』

2014-06-13 07:13:11 | 北米

上岡伸雄『ニューヨークを読む 作家たちと歩く歴史と文化』(中公新書、2004年)を読む。

17世紀、オランダ人がマンハッタン島に植民地を建設し、ニューアムステルダムと名付けた。当然先住民がいたが、島は騙すような形で買い叩かれた。その後、イギリス統治とニューヨークへの改名、独立戦争、南北戦争、大量移民、世界大恐慌、公民権運動、「9・11」があり、その間にも、この都市は発展を続けた。

明らかに見えてくることは、いかに一部(マンハッタン島南部)を除いた地域が田舎であったか、移民や黒人にとっての格差がいかに拡大していったか、発展の上滑りのなかでどれだけ上層の人びとが狂騒的だったか(20年代のジャズ・エイジに限らない)。そして、都市が誰にも鳥瞰できないカオスとなったことが、ポール・オースターやドン・デリーロの目を通じて見えてくる。

本書はアメリカの歴史に紐付けた読書案内にもなっている。これまで敬遠していた本も読みたくなるというものだ。

●参照
尾崎哲夫『英単語500でわかる現代アメリカ』
エリカ・ロバック『Call Me Zelda』
ポール・オースター『ガラスの街』新訳(1985年)
ポール・オースター『リヴァイアサン』(1992年)
ドン・デリーロとデイヴィッド・クローネンバーグの『コズモポリス』
室謙二『非アメリカを生きる』
デイヴィッド・マレイ『Be My Monster Love』、『Rendezvous Suite』(イシュメール・リード)