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感情労働者の戯れ言

2008年03月14日 | 雑記帳
 感情労働者としての教師

 実に興味深いタイトルだなと思って、その連載を読み始めた。
 心理学の専門家として著名な深谷和子氏の文章である。

 ホックシールドという社会学者の主張により、以下の定義づけがされている。

 肉体労働者と頭脳労働者の言葉はあるが、それと並ぶ言葉が、感情を酷使する「感情労働者」の概念である

 客室乗務員や集金人がその例として挙がっているが、深谷氏はサービス業全般を指しているとし、看護師や教員、保育士も該当するだろうという。
 自己主張する子ども、そして背後の親に対する「感情」を意識しながらの仕事であることは確かだ。むろん教員は頭脳、肉体どちらも酷使している気がするが、感情という言葉が出てくると、もしかしたら最上位はそれかな、とふと思ってしまう。

 それにしても「肉体労働者」「頭脳労働者」と比較してみると、実におもしろい。
 「肉体や頭脳(の酷使)」と引き換えに報酬を得るとすれば、「感情労働者」は「感情」を引き換えにしなければいけない。教員が報酬と引き換えにする感情とは、対象にいい印象を持たれるためだけのものではないだろう。対象が「育つ」感情である。それは、果たしてどんなものか。

 ごく単純に「喜怒哀楽」と限定したとき、そのバランスは「喜」「楽」を多めに、「怒」を随時、「哀」はまれにというようなものだろうか。
 教員のタイプは様々であっていい。しかし、やはりシンプルに「やさしいけれど、厳しい」という形容詞が、対象へ向かう性格としてはふさわしいだろうし、それを基にした感情の発露でありたい。
 それにしても、学級担任であれば、以前よりそれらの感情をストレートにぶつけにくくなっている現実があることは自明であろう。

 あれこれ考えてくると「労働者」にとって、最も大切なことは「タフさ」だと気づく。肉体しかり、頭脳しかり、そして「感情」も。
 では、どんなふうに鍛えていくというのだ。
 そもそも、肉体と同じように鍛えられるものなのか。
 頭脳はなんとなく鍛えられるイメージがあるのだが、感情となると難しい。

 ただ、感情の出し方なら鍛えられるだろうし、そのコントロールの強さをタフさと言い換えることはできるのかもしれない。