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境界をはるかに超えて…

2024年10月26日 | 雑記帳
前日よりつづく

 男の「後厄」であり、冒険家等がその齢で死ぬ者が多いのには理由があり「43歳が人生のある種の頂点を形成しているからだ」と持論を展開している。一個の生命体として見た時、肉体的な強さは20代の方が強いかもしれないが、精神的能力を加えた「総合力」として、43歳までは「登り坂の局面がつづく」とする。


 大きな視点では納得できる。経験値はそれ以降も上昇するが、肉体的な低下傾向は顕著になり、何かを成し遂げるための限界がある例は、長く続けたプロ野球の一流選手の引退時期等を見てもわかる。「冒険家・登山家」という極限のチャレンジをする者たちにとって、その意味はさらに深く重いことも想像できる。




 同じ遭難死に何故意味の軽重があるのか。角幡は「他者への訴求力」という判断基準を持つ。人生の登り坂の方が人々に訴えるというのである。感覚的に理解できても、訳を表現するとなると難しい考えである。しかし彼はこう言い切る。「冒険活動においては、生きようとする努力が死に近づくこととまったくひとしい


 「登山者には死への憧れがある」と、かつて誰かが言った言葉として覚えている。それはきっと「生命の燃焼」体験を求めているのだと解釈していた。一般的な愛好者と一緒にできるわけはないが、やはりこの文章にも「生への希求度」という語があり、齢をとるとはその減退であり不満を募らせる過程になることは明らかだ。


 「全能力、全体力を駆使して、死の瀬戸際まで近づき、そして生還すること」の価値とは、その完全燃焼感こそが他者に訴えるという論は、現実的な冒険行動と常に向き合う著者ゆえの力強さが伝わる。しかし「人生の減退期」の真っただ中の我に響く結論は、とたんに現実的な一言だ。「生きようとして死ぬしかない


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