「小説・捨てていく話」松谷みよ子
先日、松谷みよ子さんの伝記「じょうちゃん」を読んだ。(→「自伝じょうちゃん」松谷みよ子)
この本が続編に相当する。
『小説』となっているが、すべて実際起こったこと、と感じる。
前作「じょうちゃん」では、小さい頃から離婚に至るまでが書かれている。
本作は、タイトルどおり「離婚」に焦点を当てて、その後を描いている。
別れても別れきれない。
『捨てる話』、なのに、『捨てきれない想い』が、書かれている。
P14
それから長い歳月が経ち、別れますと夫に告げたとき、夫は信じられないようでした。
「君はなんでも古いものを大切にするひとじゃないか」
そうです。でも心だって、すうっと割れることもあるんですよね。
P88-89義父との会話
「ところで蕗ちゃん、今度のこと、どうしただい」
(中略)
「踏んで歩かれましたから」
「そうか」
舅もただひとこと、そういいました。
(中略)
しかし、長い歳月を経たいま、もうすこしいいようはなかったものかと、考えてみるのです。
「言葉が通じなくなりました」
こんないいかただって、できたでしょう。そのほうがより真実ではなかったか。
もっとも通じないと一方的に思っていた私ですが、あのひとのほうも、なにをいっても表面的にしかとらえない私に絶望したのかもしれません。
「舌切り雀のばあさまが、舌を切ることもできなくて逃げてきました」
こんなふうにいえたら、とも思うのです。
P184
人間の暮らしには、ハレとケがあります。あのひとの本をまとめる、供養する、それはハレの世界であり、写真に蝋燭をあげ、水を供える、守ってくださいと念じる、その日常はケの世界でしょう。しかし、ハレともケとも分かち難い心の奥に、ヘドロがつもった沼がありました。
(中略)
のぞかれて、いや、のぞかせて蛇の女房は蛇となりました。そう思ったとき、人間の殻をすっぽり捨てたくなりました。ハレもケも、なにもかも。
(ここから「捨てる話」のタイトルがきているのか?)
P187
あの人に対する愛があるとすれば、それは戦友愛かもしれない、ふと思いました。生きるか死ぬか、戦時を、戦後をくぐってきた戦友です。そして変革の時代、乱世の時代を貧しくはありましたが手を携え、夢に向かって生きてきたと思うのです。
となれば同志愛というべきか。捨てきれずにかかえてきたもの。
申しおくれましたが私は三歳年上の姉さん女房でした。
民話風の喩えもあり、深い味わいがある。
本来どろどろしてる話なのに、清澄な雰囲気さえ漂う。
すばらしい文章力、と思う。
【参考】
WEB本の雑誌に【作家の読者道】というのがある。
第116回が窪美澄さん。
このインタビューの中で、窪美澄さんが、松谷みよ子さんの『小説・捨てていく話』について触れている。
次のとおり。
「モモちゃん」シリーズの松谷みよ子さんの『小説・捨てていく話』というのがあって、これはご主人と別れる話なんです。松谷さんご自身、劇団をやっていたご主人のためにお金を稼ぐのにご主人はばんばん浮気をする。結局松谷さんのほうから別れるんですけれど、「モモちゃん」を読んでこれを読むと背筋が凍ります(笑)。あのシリーズの背景にはこれがあったのね、という。すごく温度を低くして、「私はそれを~~しました」「私はこれを~~しました」と淡々と書かかれているので、よりいっそう怖いです。
(「雨のなまえ」窪美澄でも触れたけど、再録しておく)
【ネット上の紹介】
夫婦とはまことに切ないものです。小さな劇団を共に築いた、一組の夫婦の別れと絆。
[目次]
薔薇の家;電気釜のうた;猫の会議;靴;滝;死の仮面;親指姫;2つの縁側;雨;山姥の林;狼;踏切り;2つの手紙;モスクワにて;夫婦漫才;死;ストップウォッチ;人形;ある埋葬;葬式泥棒;蝋燭
【参考リンク】
松谷みよ子「小説・捨てていく話」