原題:『うたごころ』
監督:榛葉健
撮影:榛葉健
出演:宮城県気仙沼高等学校合唱部のメンバー/寺尾仁志/human note
2011年/日本
映画の解釈の仕方について
このドキュメンタリー映画の主人公は東日本大震災で被災した宮城県気仙沼高等学校合唱部に所属する、中国から日本に帰化した女子高校生である。3年生になる彼女は卒業する前の最後の合唱コンクールの練習をしていたのであるが、震災のために中止となり、代わりとして野外のお祭りで歌う機会を得る。
上映するたびにクレームを受けたのかもしれないが、作品の最後で「この映画は、テレビのように分かりやすく加工して作ることを控えています。被災された人々の人生は“見せ物”ではないからです。その上で、今も過酷な現実を生き抜く人々の存在に、想いを馳せてもらえたら・・・」というテロップが映し出される。例えば、彼女たちが歌った「ぶどう」という歌は、その一粒一粒が繋がって房になることで、震災に遭った日本人のメタファーとして表現しているのだと説明するのであるが、映画においてこのような説明は野暮ではないだろうか。確かに彼女たちの歌唱中にも大人たちの話し声が聞こえてきて、終わった後に、女子高生の一人が「本当に聞いてもらえていたのだろうか」と泣いているシーンがあるのだが、彼女たちに限らず、今までホールという‘繭’の中で歌えていたため誰もがみんな自分たちの歌を聞いてくれることが当たり前のように思っていたことはやむを得ないとしても、津波で流されて‘繭’が無い中で、まさに彼女たちの歌声の実力が試されることになるのであり、実際に、彼女たちの前の方に座っていた女性たちは静かに耳を傾けてくれていたのではなかったのか。しかしこのことは彼女たちだけの問題ではなく、本作自体にも問われる問題であり、一度完成させたものはどのように理解されようと甘んじて受けなければならないはずで、余計なことを言って一つの解釈を強いることは映画として邪道である。彼女たちの歌声を受けとめてくれる人たちがいたように、好意を持って本作を受け止めてくれる人は必ずいるわけであり、全員に理解されようと欲張る必要などなく、全ての人に理解されたいのであるならば、‘テレビドキュメンタリー’という手法を選択するべきであろう。