原題:『Emperor』
監督:ピーター・ウェーバー
脚本:ベラ・ブラシ/デヴィッド・クラス
撮影:スチュアート・ドライバーグ
出演:マシュー・フォックス/トミー・リー・ジョーンズ/初音映莉子/西田敏行/桃井かおり
2012年/アメリカ
「刻印」を巡る考察
本作の重要なシーンは本編内ではなく、寧ろ最初と最後に現れるタイトルバックの「Emperor」がタイプライターで刻印されている点に見るべきであろう。1945年8月30日に、GHQ最高司令官ダグラス・マッカーサーに命じられて、第二次世界大戦における天皇の役割を探りはじめたボナー・フェラーズ准将が困難に直面した原因は、天皇自身の‘刻印’が見つからないためである。もちろん記録が無いわけではない。実際に、宮内次官の関屋貞三郎が開戦前の御前会議で、天皇が平和を望む短歌を朗読したと証言し、その短歌を朗誦して見せるのであるが、フェラーズが求めているのは「文学」ではなく「記録」なのである。内大臣の木戸幸一も天皇が降伏を受諾し反対する陸軍を封じるために玉音放送を試み、多数の兵士から皇居を襲撃されたという話をするものの、その話を証明する記録は全て焼却され、証人もほとんど自決していた。同じ頃、フェラーズは大学生の時に知り合い交際していた日本人留学生の島田あやを運転手兼通訳の高橋に探させていた。フェラーズは自分の立場を利用して、あやが住んでいた静岡周辺の空襲を避けるように作戦を立て、「記録」していたはずなのであるが、静岡は空襲で大部分が焼けてしまっていたことを知る。しかしあやの実家は戦火を免れ、フェラーズはあやが書き残した記録としてのラブレターを受け取る。
このように様々な記録に関する不確かさを抱えたまま、マッカーサーは天皇に面会することになる。そこで記録に匹敵するものが、大柄で軽装で自然な表情のマッカーサーと小柄で正装で緊張した面持ちの天皇の2人のツーショット写真なのであり、この「文字」に代わる「写真」という‘刻印’こそが、全ての「記録」を含め、とりあえず天皇の戦争責任を宙吊りにしてしまったはずなのであるから、その後に、フェラーズが盗み聞きした2人の会話のシーンは明らかに蛇足であり、演出意図が最後になって破綻してしまっていると思う。