百醜千拙草

何とかやっています

代謝マップ

2021-10-29 | Weblog
最近、細胞内代謝をちょっと学んだりしているのですけど、この広大で芒洋とした分野にはすっかり圧倒されて、まるで島陰一つない太平洋の真ん中で右も左も東も西もわからず闇雲に泳いでいるような感じです。

細胞代謝経路は昔から「がん」などの疾病のターゲットとしても研究されてきており、実際、核酸合成経路などの重要な代謝経路の阻害剤が昔から抗がん剤として使われてきております。時を経て、低分子代謝産物の測定が技術的に容易になってきたこともあり、この十年ほど、再び細胞内代謝がブームとなり、私も図らずも偶然そこに関わることになりました。しかし、「遺伝子の時代」に教育を受けた私は、代謝経路に関しては、学生時代の何十年も前の生化学の教科書的知識が断片的にある程度だったので、ズブの素人です。あまりに知らないことだらけで何を知らないかさえもわからないような状況でしたので、何か道標になるようなものがあれば助かるかもと思って、しばらく前に、有名なRocheの代謝マップを申し込み、先日、届きました。
こんなやつです。



このマップは第一版が1965年に発行され、現在は改訂4版となっています。当初はグルコース代謝を中心としたマップでしたが、要望に答えてアミノ酸や脂肪代謝を含め、1972年に第二版、さらに多くの知識の蓄積を反映した第三版が1992年に発行され、Part 1とPart2に分かれました。(上の写真はPart 1)以後も知識の蓄積は増大の一途ですが、すでにこの2.5平方メートルのサイズにはとても収まりきらないということで、3版からは限局的なアップデートにとどめた第4班が出版40年を記念して、2005に発行されました。現在はドイツ語版は手に入らず、英語版のみになっているようです。以後、さらに15年ぐらいが経っており、第4版時点でも情報はかなり限定しているので、このマップでさえもそれほど包括的ではないとは考えられます。しかし、それでも十分に圧倒的なこのマップは、生命科学分野のごく一部の分野の100年に至る人類の知識の蓄積のそのまたごく一部を示したものです。

Warburg effectに名を残すOtto Warburgがノーベル賞を受賞したのが1931年、クエン酸回路の発見がノーベル賞になったのが1937年ということですから、代謝研究は古い歴史をもちます。そこに関わった無数の科学者や学生の努力の集積、800万本の代謝関連の論文の一部がこのマップに表現されております。素直に感動しますね。

早速、床の上に広げて、興味のある部分から見始めました。中心の円状のものがクエン酸サイクルを示しています。結局、五分で、このマップを使って代謝を包括的に理解しようとするのは諦めました。このマップでさえあまりに大きすぎます。実用性よりは、人々の努力の歴史を示す芸術作品としての価値の方が高そうです。後ろの壁に貼っておけば、ズーム ミーティングの時のよい背景になるかも知れません。

その後、ふと10年ちょっと前に別の施設に移った人のことを思い出しました。もともとは別の講座で生殖系器官の研究をしていた基礎研究者でしたが、扱っていた分子のノックアウトマウスで糖代謝が改善するとわかってから代謝研究にシフトした人で、最近どうしているかなと思って検索してみると、所属大学のホームページには、数年前にその発見をもとにベンチャーを作って医薬品開発もしているとありました。順調にやっているのだなあと思ってその企業のホームページに行ってみると、実は、彼は昨年末に急逝しており、会社の活動は停止したという告知があって驚きました。彼も昨年亡くなった私の大学院指導者の人たちも同年代です。施設を移る直前、初夏の美しい晴れの日に道端で偶然会って、二、三言、話をした時のことを思い出しました。時間というのはあっという間に経ってしまい、全てのものは変わっていくことを実感しました。
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相対的な幸福

2021-10-26 | Weblog
ショパンコンクールで優勝した人は二月まで自宅に帰れないようなツアースケジュールが組まれているそうで、今後、世界を回って人々の賞賛を受けることになります。一方、残りの140名ほどの参加者はコンクール前と対外的にはさほど変わらぬ日々であることでしょう。音楽は人それぞれの好みで、そもそも参加できるということ自体、すでに多くの人々に認められた証拠ですので、彼が圧倒的に優れているということではなく、単に審査員が気に入った点と気に入らなかった点の総合点が他の人よりも高かったというだけのことです。

このコンクールの1965年の優勝者はマルタ アルゲリッチで、その時のファイナルで弾いたコンチェルト一番の演奏がYoutubeで見れますし、その後三十年後にN響と共演で弾いた同曲のビデオも見れます。私、アルゲリッチの指使いのキレのいい男らしいところ(女性ですけど)が好きですし、派手な速弾きもいいと思ってはいるのですが、これらの彼女の演奏と今回のコンテスタントや他のプロの人の演奏を比べみても、アルゲリッチがとりわけ良いとは感じませんでした。アルゲリッチや今回のBruce Liuが技術的に優れているのは間違いないでしょうけど、そもそも音楽は技術面以上に、聞き手の好みでそれぞれが聞いて楽しいかどうかを評価するものだと思いますし。音楽のコンクールで誰が何位だったとかいう話にどういう意味があるのでしょう。

今の世の中、競争社会で、みんな勝ち負けで判断する傾向があります。勝ったからよい、負けたからダメで、勝ったものが負けたものを見下したりします。これは資本主義を支える人間の根源的な性質に由来していると私は思います。

悪魔の辞典では「幸福」の定義に、「他人の不幸を眺めることから生じる快適な感覚」とあります。シャーデンフロイデ、人の不幸は蜜の味、ですけど、これは皮肉でもなんでもなく、我々が感じる「相対的」幸福の中心原則です。

コンクールに勝つとなぜ嬉しいと感じるのでしょう。努力が報われた、人に認めてもらえた、という気持ちの根源を深く考えれば、それは、大勢のライバルが敗退していったという事実があるからこそです。もし幼稚園のように、全員が金賞で全員が優勝だったら、コンクールの優勝には意味がないし、「勝利の快感」もありえないです。勝ち負けというのはそういうものです。勝利の快感は敗者の屈辱に支えられている。そうした競争を、資本主義社会では、既得権益もつ権力者が「切磋琢磨」によって良いものが生まれのだ、と肯定的に喧伝し、社会を競争によってクラス分けをするよう変えてきた結果、一部の勝者を目指して人々は限りある人生を競争に明け暮れて過ごし、結果、勝った人も負けた人も、不幸の中で死んでいくということになるわけです。そして権力者自身は常に審査員席に安全な位置を確保して、他人の努力を批評する立場なのです。

人間の幸福の半分以上はこうした相対的なもので、比較する他人の不幸を必要とする幸福であって、油断すると、勝った方は驕り、敗者や弱者を見下し、負けた方は勝者を妬み、羨み、場合によっては憎しむことになり、幸福を求めるがゆえに、醜い心を生み出しては、ますます業を深めて、不幸の蟻地獄に陥ることになるのです。あー、アホらし。

社会がこうなってしまっている以上、勝った負けたの相対的な幸福感から完全に離れるのは難しいものです。しかし、そんな時には「わたしはわたしのことをする、あなたはあなたのことをする」とゲシュタルトの祈りを唱え、夏休みの青空や、休日の昼間の一杯のビール、あるいは、薔薇の花の上の雨粒や子猫のヒゲ、銅製のヤカンや毛糸のミトンなどを想って、絶対的な幸福というものがあることを思い出すのがよいと思います。
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Fazioli - Steinway - カワイ - ヤマハ

2021-10-22 | Weblog
とういうわけで、三日に渡ったショパンコンクールのファイナルステージが水曜日に終わり、深夜に結果が発表されました。

途切れ途切れながら、三日、ショパンのコンチェルトを何度も聴いていると、さすがに素人の耳にも違いが聞こえてきて、最終日の第一演奏者の小林さんの力強い第三楽章が終わり、あと三人を残すのみとなった時、ひょっとすると、反田さん、小林さんで日本人ワンツーになるのかも知れないと思って、そうツイートしました。しかし、その後の演奏者が強力でした。特に優勝者となった最後の中国系カナダ人、Bruce Liuの演奏は圧倒的でした。日本人二人とも私は第二楽章の細やかで情緒纏綿なところが最大の見せ場だと思ったのですけど、Bruce Liuの見せ所はなんといっても正確で粒のそろった打鍵での速いパッセージで、第三楽章の最後のvivaceは非の打ち所がないと素人の私でも感じました。演奏後の観客の多くがスタンディングオベーションで演奏を讃え、その立って拍手している人の数が他のコンテスタントに比べて明らかに多かったのが私の感想を裏付けていると感じました。

彼の一つの勝因は、これも素人考えですが、Fazioliのピアノとの相性ではないかと思います。Fazioliはスタインウェイのきらびやかな派手さは抑えられている一方、音がクリアに響くように感じます。話にきくと、そもそも、スタインウェイの欠点を克服したピアノを作ることを目指して工学的に計算してデザインされたピアノがFazioliなのだそうです。倍音が多く響くと華やかで豊かな響きになる一方、歯切れ良さが犠牲になります。第三楽章の速くて粒の揃った音を奏でるのに、Bruce Liuの正確な指使いとFazioliのクリアな音質はベストのコンビネーションだったのではないでしょうか。

とはいうものの、反田さんはGadjievと同率二位、小林さんはKuszlikとの同率四位、で二人とも入賞しました。日本人で二位は内田光子以来の快挙だと思います。

入賞者八人のうち女性は二人です。演奏を聴いて思ったのですけど、ショパンの技巧的で速い部分の音を歯切れ良く打鍵するのにかなりの手指の筋力とそのコントロールが必要なようで、その点で、そもそもショパンのコンチェルトは女性演奏者に不利なような気がします。

また、入賞者のピアノの選択も興味深いです。一位のLiuはFazioli, 二位のGadijevはカワイ、三位のGarcia-Garcia、五位のArmelliniもFazioli、六位のBuiがカワイ、残りの入賞者3人はスタインウェイを弾いたということで、入賞者に限れば、Fazioli 三人、カワイ二人、スタインウェイ三人とFazioliとカワイの躍進、王者スタインウェイの後退が見られます。6年前の前回はヤマハを選んだ人も多かったようですが、今回は残念ながらファイナリストの誰もヤマハは選びませんでした。

繰り返しのようになりますけど、プロがフェラーリのようなFazioliやベンツのようなSteinwayのピアノを好むのは当然でしょうけど、彼らが初心者だったときはきっとカローラのようなヤマハのアップライトでドレミを覚えたに違いないと思います。というわけでヤマハはやっぱり偉いと思ったショパンコンクールでした。

ファイナルでのBruce Liu, 反田さん、小林さんの演奏。三人とも一番を弾きましたが、下のビデオの第三楽章の一部などを聞きくらべてみるとFazioliのクリアな音が際立っているように思います。
また、この三人の第三楽章の最初から最後のタッチまで演奏時間を比べてみると、Bruce Liu が9’22''、反田さんが9'33''、小林さんが9'48とLiuのテンポが少し速いようです。これも山場の速いパッセージを際立たせた要因になっているでしょう。

Bruce Liu - FAZIOLI

反田さん - Steinway

小林さん - Steinway
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山葉さんのおかげ

2021-10-19 | Weblog
五年に一度のピアノコンクールの最高峰、ショパン コンクールが大詰めを迎えています。年齢制限や厳しい応募資格を満たす必要があることもあり、すでに選りすぐられたトップクラスの人々しか参加できません。参加者を見てみると7月に始まった予備選には約140名ほどが参加、その中で日本人は30名、本土中国と並んで最大勢力。台湾や中国系カナダ人などを含めると、中国系はその二倍ぐらいはいると思いますが。ついで地元ポーランドが16人、韓国14人など。今月から本選が始まり今年は日本人5名が第三ステージの23名の中に進みました。反田恭平さん、角野隼人さん、古海行子さん、小林愛実さんと進藤美優さんです。小林愛美さんは前回ファイナル進出者、反田さんは日本トップの評判、角野さんは人気のYoutuber。第三次予選の様子を見てみましたけど、みんないいです。
そして週末に第三ステージが終わり、反田さんと小林愛美さんの二人がファイナルの12人に入りました。あと数分でファイナルが始まります。日本人優勝者はまだ出たことがないので期待が高まります。

あいにく、私はショパンはあまり聞かないのでよくわからないし、みんなうまいのはよくわかるので優劣の評価は全くできませんけど、一流のプロの人は指使いをみているだけで、美しいと思いますね。とくに反田さんは手の動きは武術の達人のようです。しかし、ショパンのピアノ曲ばかりを聞いていると(そもそもそう好きというわけでもないので)ちょっと食傷気味です。私にはショパンというのは食後のデザートを楽しむように聞くのがあっています。一日2回のセッションで四人ずつ、合計八時間を何日も聴き続ける審査員はすごいですね。きっと好きな人は3食がケーキでも平気なのかも知れません。

楽器の選択は、演奏者のほとんどの人がスタインウェイを選びました。上の三次予選まで行った日本人演奏者は全員スタインウェイです。パラパラ私が見た中では、スタインウェイを選ばなかった少数派のうち、4人がカワイ(Shigeru Kawai)、4人がFazioli、2人がヤマハを選んでいました。スタインウェイはダイナミックできらびやかな感じがショパンと相性がいいのだと思います。高級ピアノとして最近評価を上げているFazioliは低音から高音までのバランスがとてもいいように思います。カワイは繊細な音がいい感じ。もっともカワイもヤマハもスタインウェイをお手本にグランドピアノを作っているようですが。

しかし、これだけ多くの優秀な日本人音楽家や中国人音楽家が国際的に活躍しているのは、多分ヤマハのおかげでしょう。ヤマハの量産ピアノや音楽振興事業のおかげで日本人は音楽に親しむ機会が増え、それが音楽家の裾野を広げました。ヤマハやスズキがなかったら、今日、日本人音楽家が世界的に活躍することはなかっただろうと思います。いまでは中国が独自に高品質のグランドピアノを生産するようになったそうで、チャイコフスキーコンクールでは実際に中国人参加者によって使われたようです。そのうちショパンコンクールにも中国製ピアノが登場するかも知れません。

追記。ファイナルステージの最初の午後のセッションが始まりました。ファイナルは二つのピアノコンチェルトのうちのどちらかを弾くことになりますが、一人目、二人目は一番を選びました。歴史的に一番を弾いた人が優勝した率が高いらしいです。現在、中休みを挟んで三人目の反田さんの演奏が始まったところです。反田さんもやはり一番を選びました。オーケストラの人も大変ですね。

つい最後まで聞いてしまいました。聴衆はスタンディングオベーション、指揮者も大満足の様子。本人も満足の出来栄えの様子。反田さん、これで少なくとも入賞は間違いなしではないでしょうか。

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限りある楽しみ

2021-10-15 | Weblog
平日に三日ほど休みをとって、季節はずれのキャンプに出かけてました。夏のキャンプでの子供づれの家族はいませんし、季節も少し肌寒いということで、キャンパーはまばらで、ほぼ独占状態です。湖のすぐ横のサイトで、色づき始めた木の葉がパラパラと舞う中、静かな水面を見ながら肌寒い朝に暖かいコーヒーを楽しむのは素晴らしいです。

そのしばしの快楽のために、遠くまで多くの荷物を積んで移動し、寝心地の悪い寝床で体のアチコチを軋ませながら寝て、森の湿気のために大量の朝露に濡れたテーブルを掃除し、左右上下からやってくる虫を払いつつ、夜中は食料を漁りに来る正体不明の夜行性動物と戦いつつ、という苦労をするだけの甲斐があるかどうかは個人の価値観。帰ってきて家で寝たベッドは心地よかったです。多分、もう五年したら少なくともテント キャンプはできないだろうと感じました。

悪いことに、キャンプサイトにも電波は通じているので、ついメールを見たりと要らぬことをしてしまいました。対応しないといけない連絡というのは必ず休暇中に来るというのは、誰の法則でしょう。

湖上の初秋の空は青く深く、昼は青空、夜は焚き火の横で星空を眺めつつ、じっと森の中に座っているのは、贅沢なものです。たまにはいいものだ、と思います。

あと死ぬまでに何回、こういう経験ができるだろうかと思いました。それは、「明日」の数と同じように、有限数であって、ひょっとしたらこれが最後かも知れないのでした。




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雑誌の選択

2021-10-12 | Weblog
ようやく二年越しの小さな論文を投稿できてホッとしました。アイデアはまずまずと思うのですけど、結果がパッとしない、最近、繰り返されるパターンで、とにかく出版することを優先し、このマイナー雑誌に初めて投稿しました。あるグループの「分子」の機能をある「組織」で調べる、という形の論文ですけど、その分子の研究をやっている人々と、その組織の研究をしている人々のオーバーラップが余りないのです。その「組織」の専門誌に行くと結果がパッとしないのが致命症なのが目に見えているので、やむを得ず、今回はその「分子」の専門誌にしました。この雑誌はロングアイランドのコールドスプリングハーバー研究所の出版部が出しているマイナー雑誌の一つで、投稿と同時に同出版部が運営するpre-printに発表するオプションがあります。これは便利なシステムだと思います。

次の論文ネタも同じような感じです。ある細胞内小器官のタンパク輸送を司る分子の異常でヒトの病気が起こるということをマウスモデルで証明したという報告になる予定ですけど、ヒト遺伝学の雑誌に行くには、症例数が足りず、生物学系に行くには知見のインパクトが低いということで、遺伝学雑誌に行っても、医学系雑誌にいっても、生物学系雑誌にいっても、いずれもちょっとずつ足りないという状況です。また、この遺伝子に関するこれまで出版されている論文すべてを検索しても100本もないマイナー遺伝子で、その点でもインパクトがいまひとつ。困って、身近にいるヒト遺伝学をやっている人に相談した結果、この遺伝子異常でおこる病気は過去に報告がないこともあり、とりあえずヒト遺伝学専門雑誌の最高峰をトライしようという話になりました。ちょっと難しいだろうとは思いますけど。しかし、ヒトの遺伝学専門雑誌というのはこの雑誌と二番手との間のギャップが大きいのです。だいたいどこの分野もそうなっていくようで、各分野でトップのジャーナルと二番手以降の間のギャップは開いていく一方に思えます。
 
逆にかつてはパッとしない雑誌だったのが、いつの間にか順位を上げていて驚く例も稀にあります。例えばNARという分子生物学雑誌ですけど、私が学生だった当時は分子生物学雑誌はMBC, MCB, Mol Cell, G&D, EMBOというあたりがトップ ジャーナルで、NARはセカンド ティアでさえなかったような感じでしたが、いまや"Cell"ブランドのMol Cellに次ぐインパクトファクターで、MCBやMBCはおろか、G&DやEMBOも抜いてしまいました。とくにブランド力があるというわけでもないし、不可解です。

インパクトファクターは組織的な相互引用や総説論文を増やすなどで操作が可能なので、必ずしも掲載論文の質を反映するものではないですけど、多くの人がインパクトファクターの高い雑誌に論文を載せたがりますから、ふつうはインパクトファクターと掲載論文の質は相関します。

昔、普段のインパクトファクターが1前後のとあるマイナー雑誌がある年だけ50近いインパクトファクターを記録したことがありました。調べてみると、その雑誌の原著論文のほとんどの引用回数は一桁前半未満なのに、一本だけ極端に多い引用回数を稼いだ論文があって、その一つの論文がその雑誌のインパクトファクターを最高位に押し上げたのでした。

私のやっているようなマイナーな研究分野のマイナーなネタではどうやってもインパクトは低いです。それでも折角の研究をそれなりの形にはしてやりたいという気持ちはあります。インパクトファクターの高い雑誌に掲載されれば、論文は読んでくれる人も多くなるわけですし。

ただの自己満足に過ぎないと言われればその通りですけど、しかし、研究においては、自己満足以上に重要なものはないと私は思っております。
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Senior moment

2021-10-08 | Weblog
今日は別の学会の発表日で、これもオンラインですけど質疑応答はライブでやるので、また上半身だけ取り繕います。実は先日の学会のサテライトのイベントも今日あります。それで、昔の知り合いの発表を探そうとして、学会のオンラインサイトで検索しようとしたのですけど、顔は浮かんでくるのに名前がなかなか出てきません。しばらくその人と関連した昔のできごとをいろいろ思い出しながら、何とか名前を思い出そうとしたのですが、でそうででないくしゃみにように、結局出てこなくてあきらめました。

「ど忘れをする」とか「勘違いをする」は英語で「have a senior moment」といいますけど、この言い回しを、私は昔、私よりも20歳年上の人のメールの中で覚えました。何かの件で行き違いがあって、私が忘れたか勘違したのではないかと思ったようです。

その当時、メールを送ってきた人は中年後期であって、勘違いしていたのも、シニアなのも私ではなくその人の方だったというのが、可笑しかったのですけど、それから随分経って、もう可笑しいと思えない年に私もなってしまいました。先日は、緩い階段を杖を片手に一歩ずつ降りてくる老人とすれ違って、つい将来の自分の姿を重ねてしまい、次に住む家は平家でバリアフリー、コンビニとスーパーが徒歩圏内、病院までは車で十分以内の自然豊かな静かな温泉地で海が見えて冬は温暖、夏は湿気がすくなくてさわやかところにしよう、と思いました。多少の妥協は必要ですが。

結局、その知り合いの名前は思い出せず検索するのは断念しましたが、大抵は忘れたころに思い出すものなので、まあいいかと思って放置しています。

「Senior moments」で思い出したスリー ディグリーズの「When will I see you again」を。最近のことはどんどん忘れるのに昔のことはよく覚えているものです。

(意訳)はーあー、ふーうー、ど忘れ。いつ再び思い出すのでしょう?いつ分かち合えるのでしょう、ど忘れを。永遠に待たないといけないのですか?一晩中泣いて苦しまないといけないのですか?
いつ心は通いあうのでしょう?ど忘れは恋人?それともただの友達?
これは認知症の始まり、それとももう末期?
いつ思い出すのでしょう?
、、、

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一人残されて昔を懐かしむ

2021-10-05 | Weblog
ノーベル医学生理学賞発表されましたけど、ちょっと驚きました。失礼ながら他にもっと適切なものがあるのではないかと思いました。Piezoに関してはちょっと触っているので、フォローしていますけど、今では関連した論文が週に1-2本出れば多いぐらいのレベルです。比較するべきではないとは思いますけど、昨年のHCV、一昨年のHif1、その前のImmune Checkpoint とかを思い出せば、インパクトという点で見劣りするように思います。近年は、研究そのものが細分化してしまい、広く大きなインパクトがある発見や発明というものそものが少なくなったような気がします。受け手があってはじめてインパクトは起こるので、受け手の数とその影響度の大きさがインパクトを決めます。そういう点からは近々、RNAワクチンでしょうけど、委員会はあと数年は様子を見るでしょうね。ま、インパクトがどうとかイノベーションがどうとか、研究している本人にとっては、余計なお世話でしょうが、賞というのはそういうゲームですし。私のやっていることはインパクトはゼロですけど、自分が楽しいことが一番だと思っています。

今日は、先週末から始まった学会の最終日です。学会はハイブリッドですけど、参加者の2/3はオンラインの参加を選びました。私もオンラインのみの参加です。というわけで、気楽なもので、空港に行ったり、辛い飛行機でマスクをつけて移動したり、晩飯の心配をしたりする必要もありません。発表も、バーチャルポスターで、ウチの優秀な技術員の人がオンラインポスターの作成もそのナレーション録音もしてくれてすでに提出ずみ、質疑応答時間も特にないというので、ふらっとサイトを覗きに行って、面白そうなものを見ればよいです。知り合いに会うのはできませんけど、知り合いの多くも会場には来ないようですから行ってもあまりメリットはなさそうです。今年は去年と違って、ライブ配信はGuidebookというソフトをつかっており、これが強烈に使いにくいです。

最近はウチの分野の学会も面白くなくなりました。初めて参加した時は、とても面白いと思ったものでした。当時はゆったりした時代で、学会も丸々一週間あって、水曜日の午後は観光のために開けてあるというようなスケジュールでした。その時、一緒に参加した大学院時代の師は昨年亡くなってしまいしたが、会場のそばの海辺のシーフードレストランで一緒に昼食を食べたのを昨日のことのように思い出します。会場は活気があり、多くの企業がコースディナー付きの教育講演を開催し、そこでタダ酒を飲み、タダ飯を食べながら、いろいろな所から来た人の中に混じって面白い話を聞く非日常の一週間でした。今では会費を払ってのビュッフェで、見慣れた人がどこかで聞いたことのあるような話をして、その中身は翌日には忘れてしまうという有様です。

学会が面白くなくなった理由は複数あります。第一に分野が縮小しつつあること、第二に主に研究資金の問題で基礎研究よりも応用研究的なものに重点を置いた研究が増え、製薬会社の下請け研究みたいなものが増えたこと、それから、私の興味が分野の中心的な関心からかなり外れてきたこと、などが理由として浮かびます。研究が細分化したこともあると思います。先のノーベル賞のように、多くの人が関心を共有するような研究は少なくなったと感じます。しかし、結局、多くは私の側の問題です。早い話が「ああ、昔はよかった」と思うほど長く居すぎたこと、それから今のこの分野の研究にあまり刺激を感じなくなったことが大きいです。

大体、研究は三十年周期で焼き直されるように思います。いま流行っているAIやコンピュータによる種々の解析などは、90年台に流行した人工生命研究を思い出させますし、その人工生命研究はさらに60年台に流行したサイバネティクス研究の焼き直しでした。われわれの研究分野も一回り前の流行を新しい技術を使って焼き直したという感じのものが増えてきた(と感じる)ようになりました。はやりすたれはどこの世界にもあり、それは螺旋階段のように循環しているようです。

きっと、私の年代以上の他の人も私と同様の虚無感を多かれ少なかれ抱えているでしょう。彼らはそれでも、研究の中身そのものよりも、ビジネスチャンスとか出世の機会とか政治力の強化とか、研究の周辺部のことがらにそれなり興味を見つけたりして、なんとかやっているようです。臨床家や教育者なら日々の義務をこなすのに忙しくて虚無感を感じているヒマもないかも知れません。

みんなそうやって次に移っていくのでしょうけど、そうして周りを見渡すと自分一人が、同じ場所に取り残されているように感じて、つい昔を懐かしんでしまうのです。過去に輝いていた(ように見える)研究への供養のようなものかも知れません。
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人生はなぜむなしいのか II

2021-10-01 | Weblog
先日、「人生はなぜ虚しいのか」というタイトルで思うところを書いたのですけど、その中にも、それからそれを書くきっかけとなった菊谷さんのビデオにも、「なぜ」という問いかけに対する「答え」が示されていません。そのことについても書いておこうとちょっと思ったので。

菊谷さんのビデオでは「なぜ人生は虚しいのか」という問いに対して、いきなり「仏教では人生は虚しいものであると教えている」と説明します。

これは、なぜツイッターをブロックするのか、と聞かれたブロック太郎が「ツイッターにはブロック機能がついているから」と答えたのと一見、相似のように見えるかもしれませんけど、全く異なるものであります。

仏教で人生は虚しいと教えているから人生は虚しいのだ、というのではなく、あえて言うなら、これは、「人はなぜ人生が虚しいのかと問いかけずにいられないのか」という問う側の問題であると思います。これは循環論法のようですけど、この問いを問うこと自体が、まさに人生が虚しいものであるということの証明に他ならないということではないでしょうか。

週末に川べりを散歩したときに見た水鳥は顔を水に突っ込んで水草を食べ、嘴を使って身繕いし、ときどき羽を広げて伸びをし、しばらく休んでは同じことをずっと繰り返していました。毎日毎日、彼らは死ぬまで同じような日々を過ごすのだろうと思いますけど、多分、彼らは「人生はなぜ虚しいのか」と自問自答したり、あるいは「生きているのが辛いから死のう」とも思わないだろうと想像します。ただただ、栄光の生命そのものを生きております。やってくる困難は右から左へと受け流し、受け流せない困難は素直に受け止める、シンプルです。

人生の虚しさを実感して、「人生はなぜ虚しいのか」と問わずにいられないのが人間で、そう問う瞬間に、人生は虚しく、そして、そう問うことによって、人はその人生の虚しさに対処しているのだと思います。
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枯葉

2021-09-28 | Weblog
日が短くなり気温が下がって、だんだんと秋めいてきました。葉が色づく木もちらほら見かけるようになりました。若い頃、秋はもっとも好きな季節でしたが、最近は、加えて寂しさも感じるようになりました。

週末、今年最初の枯葉の掃除をしました。まだまだ青々とした葉がほとんどの裏の樹を眺めて、この大量の葉がこれから枯葉となってどんどん落ちてきて、それを毎週、かき集めることになることを思いました。

「枯葉」というシャンソンは、もとは映画の挿入歌ですけど、1950年にイヴ モンタンが歌って有名になった曲で、すぐジャズに取り入れられ、最も有名なジャズ スタンダードの一つになりました。しかし、キャノンボール アダレイ とマイルスの有名な演奏のために、スタンダードでありながら逆にジャズではこの曲が演奏される機会はそう多くないように思います。

実は、これまでイヴ モンタンの「枯葉」を聴いたことがありませんでした。先日、Youtubeでたまたまこの曲を歌っている彼の晩年のライブ映像を見つけました。この歌はメインのメロディーの前にヴァースがついていて、さらにその前に語りの部分があることを知りました。その出だしは、「思い出して欲しい」という言葉で始まるのです。枯葉が北風に吹かれるころ、幸せだった過去、人生がもっと美しいかったころを回想するという歌です。

よかった昔を回想する歌というのは沢山あります。私も子供時代のさまざまなことを昨日のように覚えていますけど、なぜかいい思い出ばかりを思い出します。過ぎ去った日々は隣の芝生のように美しいのかもしれません。私の子供時代は、まだフォークソングが流行っていた時代でした。

ひと月ほど前にビデオをリンクしたフォークグループの「風」の大久保一久さんが最近、急死したというニュースを先日、知りました。71歳とのこと。伊勢正三さんはホームページで、「風」は今でも解散宣言をしていないデュオ。久保ヤンのやさしさがなかったら、「風」は存在せず、僕はただの孤独な男に過ぎなかったのです。と述べています。

今日は、昔を思い出して「枯葉」を。これらの人々も全員故人となって久しいです。

本家、モンタン。

枯葉と言えばコレ。マイルスのミュートのトランペットが曲調によく合ってます。

サラ ヴォーンの嵐のようなスキャットに舞い散る枯葉。感傷的なオリジナル曲とは異なった解釈。

日本でも数々な人がカバーしたようです。代表として越路吹雪。
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自己充足感

2021-09-21 | Weblog
科学雑誌のフロントページで、とあるステムセル研究者の訃報をみつけました。私の分野外の人ですが、7-8年前、知っている数人の人が共同研究したりポスドクをしたりしたりしていた関係で、名前は知っているという程度の人です。訃報欄で年齢が56歳というのを知りました。何となくもっと年上の人だろうと想像していたので、ちょっと驚きました。数年前の二、三の論文を思い出しました。あのころは、ああいったタイプの研究が流行していたのだなあ、きっとこの人もその頃は研究やキャリアや家庭のことで忙しい毎日を送っていたに違いない、きっと数年後に死ぬことになるとは思いもしなかっただろうなあ、などと考えていると、人は何のために生きるのか、という若い頃からの疑問に思いを馳せずにいられません。

アカデミアも含めて、競争が厳しくなる社会で、成功を求めて人は努力し、多くの時間や労力をその競争に打ち勝つことに費やした挙句に、成功した人もそうでない人も、みんな早かれ遅かれ死んでいき、あっという間に忘れ去れていきます。振り返れば人生の時間は本当に短いものだと思います。どうせ死ぬのになぜ人は生きるのか、という古い疑問に誰もが自分を納得させ得るような答えらしいものを見つけたいと望んでいると思います。

競争によってランクがつけられ、ランクの高いものからよりよい機会や報酬が得られるという現代の自由競争社会のシステムを、随分前から我々は、侵すべからず原則であるかのように、教えられて育ちました。もちろん、そんな原則など人工的なものにすぎず、人間は自由に生きることも選択できるわけですけど、社会の人との関わりの中で生きていれば、自由勝手に生きるのは、実は何かと不自由なものです。結局、みんなが共有する価値観に沿って、うまく立ち回る方が楽でもあるし、かしこいやり方だと多くの人は考えてそのように行動すると思います。しかし、世の中には標準化されたシステムの中で生きることが困難な人も多いです。私自身もどちらかと言うとそう言うタイプで、競争に打ち勝っていくことはおろか、社会の繋がりの中で居場所を見つけるということでさえ、ストレスに感じるほどです。

最近、「ダークホース」という本を知り、興味深く、読み始めました。非典型的な経路で成功を収めた人の共通点を調査したもので、価値観が「標準化」された現代社会に適応できなかった人々がどのような経路を辿って成功に至ったのかという考察がされています。

先のステムセル研究者のうように、アカデミアでの成功者というのは大抵の場合、典型的な経歴をもつ人が多いです。例えばアメリカなら、中流以上の教育熱心な白人家庭に生まれ、中学高校と学業にはげみ、優秀な成績を収めてアイビーリーグ大学を卒業した後、一流の大学院で学位をとり、一流の研究室で研鑽し、一流大学にポジションを得て、業績を積み重ね、業界と学会で名前を売り、地位と政治力を確立するというパターンです。これは現代の競争社会に沿った戦略で、ここに必要なのは、能力と運に加えて、子供時代から将来の学問的成功という目標に向けて、持続的な努力を注ぎ込む献身さです。ひたすら努力し、数々のプレッシャーと競争に打ち勝つ鋼の精神を持ち、競争に打ち勝つことを素直に喜べれば、正攻法で成功を収めることができそうです。一方で、こうした競争を勝ち抜くことで成功する以外の方法で成功を手に入れた人々、この本では「ダーク ホース」と呼ばれていますが、彼らには、そうしたあきらかな成功の法則や備わった性格的特性はないようです。しかし、著者らが解析したところ、彼らに共通しているのは、標準化された社会システムに馴染めず、結果、自らの充足感を第一に追求してきたということのようです。

思うに、この話は、自らの充足感を第一に考えて行動しつづければ成功するという非典型的な成功法則ではなく、自らの満足を追求する人々の一部が社会的成功を収めることもあるということだと思います。社会的成功、すなわち地位とか金とか名誉とか、は、他人の評価です。ダークホース的な人々が優先しているのは、自己充足感です。自己充足感と社会的成功は直接結びつかないし、むしろ相反するものかもしれません。逆にいえば、金も名誉も地位もなくとも、自己充足感に溢れた毎日があれば、それが彼らにとっての「成功」ということなのでしょう。

アカデミアや会社で競争を勝ち抜いて出世階段を上り詰めた人々でも、あまり幸せそうに見えない人がいるのは、他人の評価と自己充足感のバランスが悪いのかもしれません。
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専門家の話

2021-09-17 | Weblog
石破氏、総裁選不出馬を表明とのこと。敵の敵は敵でも味方ということでしょうが、河野氏を支持するらしいです。総選挙での自民の大敗を見越してここは洞ヶ峠ということでしょうか。勘ぐるに、岸田氏が勝った場合は、総選挙で議席を減らし、その後はアベ政権時代の不祥事を蒸し返されて立ち往生するだろうから、その後に自民党の改革を名目にして総裁を狙う、また仮に河野氏が勝った場合は、アベ、麻生の力を削ぐチャンスだし、河野氏も長続きするわけがないので、薩長組を潰した上で河野退陣のタイミングを狙うということでしょう。アベ、スガが溜め込んだ数々の爆弾付きの問題をこの落ち目のタイミングで引き受けるのは得策ではないということでしょうな。しかし、これで衆院選で野党が勝てなければ、河野氏の総理大臣、たとえ短命に終わるとしても、日本は当面、下り坂が止まらないでしょうね。人望と信頼のないリーダーのもとで組織が動くはずがないです。この一年でも十分イヤというほど思い知りました。

それにしても、日本の大人は随分、幼稚化したものだなあ、と最近のニュースを見ていて思います。ろくに事実を調べもせずワクチン陰謀論を平気で撒き散らす人とか(ちゃんと調べていたら、陰謀論を信じたりしないでしょうが)、まったくのウソをワイドショーで知ったかのようにしゃべるコメンテーターとか、ホームページに朝鮮差別の文書を露骨に公表して、韓国から撤退することになった化粧品メーカーとか、、、子供でもやらないようなことを大の大人が平気でやって反省しないのです。政治家のレベルは国民のレベルといいますけど、やはり今の日本のレベルはアベ スガ並みなのか、と思うと気が滅入ります。

幼稚さというのは無知からきていると思います。自らの無知を自覚することが無知からの脱却の一歩です。その近道は、複数の専門家に話を聞くことではないかと私は思います。

この間、ピアノの調律師の人のビデオを見ていたのですけど、ピアニストからのクレームがついた時の話が大変興味深かったのでそのビデオを下にリンクします。

専門家の話を聞くと、まるで、4次元のこの世界に折り畳まれて隠れている残りのミクロの次元が目の前に開かれるような感じがします。専門家の話は深く、自分がいかにものごとを知らないかを実感させられます。

なので、専門家でもない開業医や一般の医者などの人が撒き散らすワクチン陰謀論には気をつけましょう。専門家の話は、当たり前に聞こえるようなものでも、すごく深いのです。分子生物学の知識もウイルス学の知識も免疫学の知識も疫学の知識もそれぞれの専門家は一般開業医の何百倍も深いのです。何年もそればかりやっている人たちですから。知識が足りず、判断能力が不十分なところに陰謀論が入り込む余地ができます。陰謀論が自分の主張に都合のよい場合、証拠やデータに当たってそれを理解して自分の主張の是非を判断するよりも、陰謀論を信じる方がラクです。陰謀論なら証拠やデータが乏しいことがその根拠とさえなっているので、データを集めて多角的に検討、判断するという労力も頭脳も必要ないですから。

話がズレましたが、ものごとは、思い込みを捨て複数の専門家の話を謙虚によく聞いた上で、客観的に判断しましょう、ということです。例えば、このピアノ調律師の方のビデオで紹介されている下の話、ピアノでビブラートがかからない、というようなクレームは、おそらく専門家かプロのピアニストが解説してくれないと理解できないと思います。


1. このピアノからこんなに美しい音がでるはずがない
2. 自分はこんなにうまく弾けるはずがない
3. ビブラートがかからない

1.と2.はプロのピアニストが楽器に求めるものというのは素人が求めるものとは違うのだことを教えてくれます。また、3.は大変、興味深いです。ピアノの構造上ビブラートは絶対にかからないようにできているのに、ビブラートがかかったように聞こえるように作曲されている曲があって、それにはピアノの調律や調整がどうも重要なようです。

この話をきいて思い出しました。単音楽器のサックスで和音を出す、という話です。普通は倍音を使うことを考えると思いますが、昔、ローランド カークというジャズ プレイヤーは複数の音を同時に出すためにサックスを3本まとめてくわえて演奏するという力技を編み出しました。ピアノでビブラートをかけると聞いて、すごい力持ちのピアニストがピアノを持ち上げて揺すっている絵を想像してしまいました。

Roland Kirk


もう一つ、このピアノ調律師の方のビデオで学んだのですが、ピアノの音色を変えるテクニックというのがあります。プロなら誰でも知っていると思いますけど、キーのどの部分をどのように弾くかによってピアノでは音色が変えることができるのですけど、それは木でできているハンマーの棒のしなり具合がタッチによって微妙に変化するというメカニズムだそうです。だから電子ピアノではこれができないということですね。

専門家の話は深く、われわれにあたらしい世界を見せてくれます。
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鉄壁のブロック

2021-09-14 | Weblog
普段はツイッターで人のツイートに乗じてやってますけど、今回は久しぶりにブログで自民党に文句。

Japan As No.1 の時代をなんとか覚えている私にとって、日本が今日ここまで坂を転がるかのように急激に衰退したことは感慨深いです。エコノミック アニマルと呼ばれ、うさぎ小屋に住んで24時間ガムシャラに金儲けに邁進していたころの狂気じみた時代が過ぎ去ったことは悪いことばかりではないと思いますけど、一方で一億総中流路線をすてて、自民党がネオリベ的立場を鮮明にして、国民政党であることをやめ、既得権益者が一般大衆からカネを巻き上げるための政治装置となりさがった小泉政権あたりから、当然のように貧富の差は広がり、一部の富裕層と対照的に国民生活のレベルは単調減少しました。加えて、その過程で福島の原発事故が起こり、コロナが起こり、そのつど、ガツンガツンと崖から落ちるように日本は落ちてきました。こうした不運なできごとからも日本は逆に立ち直っていく機会はありましたが、残念ながら、国民の生活よりも当面の自己利益の増大にしか興味のない与党政府は対応を誤り、悪い状況をより悪くしていく一方でした。

コロナは、アベにとっては最大の挽回のチャンスだったと思います。モリカケ桜、でアベの犯罪が追求されていたとき、例えば台湾やニュージーランドのように強いリーダーシップを発揮して、国民の生活を守るための施策を積極的に行っていれば、支持は上がり、モリカケ桜が燻っても、コロナの最中に疑惑の追及から逃げるために仮病を口実に総理を辞任するような格好の悪いことにはなっていなかったでしょう。逆にやったのは、あの馬鹿馬鹿しいマスクの配布。そのマスクでさえ疑惑まみれで配布でさえマトモにできず行政のロジスティクスの劣化を晒すに終わりました。国民には徹底的にバカにされ、野党に押し切られてようやく給付金を決めたころには、その効果は薄く、結局、モリカケ桜を蒸し返され、国会の度重なる虚偽答弁を認めざるを得なくなり、逃げ出すハメになりました。その次のポンコツに至っては言葉がありません。まだご祝儀の支持率が多少高かったときに思い切ったコロナ対策をやっていたら、今回のように党内からバカにされて内閣改造もできず、現職でありながら総裁選に出馬さえできないような状況に追い込まれることはなかったでしょう。

いずれにしても、無能なのに恫喝や寝技で権力を持ち続けたために、すっかり腐り切ってしまった今の自民党。この独裁体制は小泉政権から始まり、結果、バカ殿と金魚の糞ばかりの党になってしまいました。

そんな自民党の時期総裁に立候補したのは、当然ながら冴えない面々。石破氏はまだ正式な出馬表明をしていないようですが、消去法でいって、今後も自民が与党に残るとすると石破氏がまだベストという状況だろうと思います。出馬になれば、最終的に石破氏と岸田氏、党員票で石破氏が競り勝つと予想するわけですけど、党員の中で石破氏についで人気なのが、ブロック太郎、変節太郎、と呼ばれる河野氏。

私、この人だけは御免被りたいと思います。ようやくアベが去り、ポンコツが去ったのに、多分、アベ以上に不誠実で傲慢かつ自己中の世襲ボンボンが総裁で下手をすると総理大臣、というのは勘弁願いたいです。

というわけで、最近ツイッターでも総裁選の話題が多いので、私も、人のツイートに乗じて、この人が、大臣の椅子を目の前にしたとたんに脱原発の主張を引っ込め、ブログの脱原発記事を全部消して、変節太郎と呼ばれていることとか、都合の悪い記者の質問を無視し続けた傲慢映像とか、自分に批判的なツイートをする人を片っ端からブロックして、ブロック太郎と呼ばれているとかいう話とかをリツイートしているわけです。先日は、流れてきたツイートに添えてあった河野氏のホームページの写真に「貫くべき信念があります」と書いてあるのを発見して、おもわず吹き出してしまいました。変節ぶりを第一に批判されているのというのに。権力のためには過去の自分を否定し信念も恥も捨てるという信念ですかね。

その写真の文句が本物かどうか確認しようとホームページに行ってみたら、違う文句に変わっていました。また変節したのかな、と思い、今度はツイッターに行こうとしたら、なんと、私、ブロックされてました。私のような世間にはなんの影響もないような超弱小ツイッターアカウントもブロックするのだから、AIかバイトでもやとって、しらみつぶしにブロックしているのでしょう。自分のツイートに批判的なコメントがついて拡散されるのが嫌なのだろうと思いますけど、このXXの穴の小ささは政治家としては前代未聞だし、加えて手前の出世のために信念をサッサと引っ込めて、ブログ記事を消してなかったことにしようとする淺ましさは、総理大臣どころか公人としては、大いに不適格だろうと思わざるを得ません。

ひょっとしたら、河野氏は噛ませ犬で、総裁選をネタに総選挙に向けて自民の無料宣伝をメディアにさせるめの話題づくりとしてわざわざ担ぎ上げているのかもしれません。そうなら、私はまんまと自民党の手に引っかかったわけです。でも、やっぱり言わずにいられなかったので。
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発声のコツ

2021-09-10 | Weblog
来月の発表の録音をすませました。オンラインだと確かに会場に行く必要がなくて楽ですけど、会場の人の反応を見ながら喋るということができないので、やりにくいです。上半身だけドレスアップして、部屋の中を片付けて観葉植物を飾り、コンピューターの前に座ります。誰かが5メートル先で聞いている状態を想像しながら話します。

これはプレゼンテーションでの発声のコツを解説してあるいくつかのサイトから学んだ方法で、5メートル先にいる人がクリアに聞き取れるような声を意識して喋るとマイクを使って録音する場合でもちょうどよいようです。

私の声は普通に話すと声質が悪い上にこもるので、少しでもよく聞こえるようにと思いながら喋るのですけど、話の内容を追ってスライドを説明しながら、喉の奥を開けるとか少し大きな声でしゃべるとか、ということを常に意識しながら喋るのは難しく、喋っている間にいつもの冴えない喋りに戻ってしまいます。なので、5メートル先の人に聞こえるように喋るというのは比較的イメージしやすくよい方法だと思います。実際、5メートル先にふんふんと話を聞いている人がいれば、その人に向かって喋るでしょうし。

そうして録音した自分の声はやはり心地よいしゃべりとは程遠いですけど、死にたくなるレベルよりは多少ましでした。聞いている人は私が自分で思うほど声質など気にしていないだろうし、話の内容も多分2割ぐらい聞いていればいい方でしょうから、もっと気楽にやればいいのだろうとは思います。

今回のことで、Youtuberの人々の喋り方をちょっと注意して聞くようになりました。きっと何度もリハーサルをやって練習しているのでしょうけど、自然に感じのよい声でナレーションが入ると、内容にあまり興味がなくても聞いてしまいます。逆に必要な情報を得ようとビデオを探す場合でも、不必要にテンションの高い人とか、余分な冗談から入る人とか、妙に低調な人とかのビデオは避けています。必要な情報を無駄なく正確に聞きやすく伝えてくれるようなのが好きです。

それで思い出しましたが、ずいぶん昔、Jennifer Capriatiという女子テニス選手がいて、なかなかプレーはよかったのでしたが、世間では知能が問題視されたことがありました。その理由が喋りで、会見のときなどにやたら"filler words"と呼ばれる無意味な言葉が挿入されるのです。「あー」とか「えー」とか「いわゆるひとつのー」とかその手の言葉です。一分間にfiller wordsの典型句の "you know"を口にする頻度を数えたという記事もありました。

私も実感しますけど、優秀な人の発表には、こういう無駄な言葉がほとんど入らないのです。これは思うに、優秀な人は頭の中ではリアルタイムで言うべきことが推敲された上で整理されているからではないだろうかと思います。上手なピアニストが初見でも詰まらずに弾けるのと同じではないでしょうか。

Youtubeではナレーションがうまくて、内容が面白いので、つい見てしまうのが、クラッシック音楽のウンチクを語る「厳選クラッシックちゃんねる」で、この方はおそらく発声やプレゼンのトレーニングを本格的にやった人ではないだろうかと思います。私にはこのレベルのプレゼンは永久にムリです。


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語学習得の困難

2021-09-07 | Weblog
毎日5分のフランス語を始めて、何と1年たちました。毎日の課題が徐々に難しくなったので、今では20分ぐらいかかりますけど、習慣というのは恐ろしいもので、朝のコーヒーのついでにやっていたら、一日も欠かさずここまで続きました。しかし、最初の数ヶ月と違って、学習のスピードは頭打ちとなってしまったようです。一年たっても、ごく簡単な会話でなければほとんど聞き取れませんし、しゃべれません。読んで理解するのはそれよりはマシですけど、書けません。

身近にフランス語ができる人がいて、時々、気を使ってフランス語で挨拶してくれますけど、コマサバ? サバビアン、ボン ジョルネで止まってしまいますから、これでは上達するはずがありません。会話のネタになるようなこと、例えば「政権交代が日本経済に及ぼす影響」とか「おにぎりの最高の具はなにか」とか「あなたは神を信じますか」とか、をフランス語で語れるぐらいでないと、会話にならんのでしょうね。当分はムリです。だいたい聞いたことが理解できないのですから。

英語話者だとフランス語をマスターするのに約800時間が必要なようですから、私だとその二倍ぐらいと見積もると、仮に毎日一時間でも数年はかかる計算なので想定されたスピードなのかも知れません。

学習の進歩が実感できないと、モチベーションが下ります。その問題点を自分なりに考えると、基本の文法と語彙の知識が十分でないことが原因ではないかと思います。語彙力や文法力をシステマティックに高める努力をしていないので、わからない単語が入っていたり、イレギュラーに変化したりすると、ついていけなくなります。英語の文法や語彙の知識で理解しようとすると、フランス語特有の文法は知っていないとダメですし、英語の同様の単語が違う意味に使れたりすることがしょっちゅうあるので、却って混乱します。

また、一年たっても基本的なことなのに知らなかったことが随分あります。英語にない場合に多いです。最近はある動詞の変化を調べていて、日常会話には使われないが、お伽噺や書き言葉で使われるタイプの過去形があることを知って驚きました。結局、一つの動詞が主語のタイプや時制によって20種類ぐらいに変化するのです。また関係詞の中でも動詞は異なる変化をします。

私の感覚ではフランス語の文法や語彙は英語の数倍は複雑です。ヨーロッパ系の人々が英語を簡単に習得できるのは、彼らの言葉との類似性に加えて、英語が彼らの言語よりもはるかに単純な言語だからでしょう。

私のようなレベルでもフランス語が聞き取れる場合は、コンテクストの理解がある場合です。話の流れがわかっていれば、文章中のキーになるいくつかの言葉が理解できると、その他の部分は推測できます。多分、日本語でも英語でも聞いて理解するいうのは頭の中でキーワードから推測をして、推測と実際の音との合致をを確認するという作業を高速でやっているのだと思います。

ところが、文法の知識や語彙変化の知識などが十分でなければ、その予測をしながら聞いた音を確認するという作業ができず、結果として理解不能になります。逆に正確に発音された文章を聞いて単語が完全に聞き取れた場合でも、文章の意味がしばらく理解できないこともしばしばあります。

結局、思うに、一日、五分ぐらいでは使いもののなるレベルの知識を得るには圧倒的に経験時間が少ないということだろうと思います。日常の会話で使われる語彙は限られており、そう難しい構造の文章を話すわけでもないのに、外国語学習者がなかなか聞き取れず話せないというのは慣れの問題と思います。慣れとはつまり記憶の蓄積のことで、おそらく、会話が成り立つようなスピードで文章を理解し、文章を話すためには、あらかじめさまざまパターンにそった数多くのテンプレートの文章が頭の中にすでに存在している必要があるのではないかと想像します。その都度、聞いたり話したい文章を単語と文法の知識で解析したり構築するのではなく、あらかじめそれらの文章のパターンに一番近いものを記憶の中のストックから取り出してパターンを認識するというやりかたをしないと、実用にはならないと思われます。昔、TVで、出だしの一秒を聞かせて曲名を当てさせるというクイズ番組がありましたが、聞いて文章を理解するというのはこれに近いものがあるのではないかと思います。最初の数語が発声された段階で次にどういう文章が続くのかが無意識に予測できるだけのパターンの記憶の蓄積がなければ、リアルタイムのコミュニケーションは難しいでしょう。

よく、英語などでも数百語を知っていれば大丈夫、みたいな本がありますけど、多分、それでは実際には使い物にはならないでしょう。結局は、その数百語の組み合わせでできるかなりの数のパターンを音と意味とともに一つ一つ覚え、そのパターンの一部を自分でも発音できるようになるという作業が必須であろうと思われます。

ま、私はフランス語を使って何かしたいという目的があるわけではなくて、ラジオ体操がわりみたいなものなのでこれでもいいのですけど。これが一通りおわれば、習得難易度と今度は実用性も考えて、次はスペイン語かインドネシア語をやろうかなと思っています。
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