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百醜千拙草

何とかやっています

鎖国化の理由

2021-12-21 | Weblog
英語力「112カ国中78位」の日本で広がる外国嫌い というフランス人記者の書いた記事を読みました。

日本は112カ国中78位――。近年、さまざまな指標における世界での日本のランキングの低さが話題になるが、ついに「英語力」も下から数えたほうが早くなってしまった。11月16日に発表された、EF英語能力指数(EF EPI)において日本の順位は2020年の55位から大幅にランクダウン。2011年の14位からは急落している。ちなみに、隣国の韓国は34位と日本から背中すら見えない状態だ。、、、

官僚主義の狂気を描いた、フランツ・カフカの小説の主人公が今や成田空港における手続きを担当しているようにすら見えた。審査官らは英語が苦手で、ほとんどの手続きを外国人スタッフに頼っていた。、、、「今の日本に本社の役員を招くことはとてもできない。こんなプロセスを経させたら会社はすぐさま日本への投資をやめるだろう」と、このフライトに乗っていたあるフランス人は嘆く。

今や外国企業は工場やオフィスの設立場所を決める際に、日本を迂回するようになっている。中には北東アジアの本部を日本から韓国に移した企業もある。、、、かつて国際企業の若い幹部候補たちは、キャリアアップの足がかりとして日本でのポジションを切望していた。が、今はもう違う。日本におけるほとんどの市場が縮小しているため、日本は高齢の幹部が優雅にキャリアを終えるために定年前に甘い汁を吸える赴任地となっている。、、、フランスにとって日本は今や、二流の国になっている。真の意味での国賓訪問は、8年前の2013年に当時のフランソワ・オランド仏大統領が訪日したのが最後だ。、、、日本は、東京オリンピックを開催したことで、世界の中心にい続けられると思っているかもしれない。しかし、1964年に東京で開催された壮大で革新的な大会のような重要性は、オリンピックにはない。、、、日本政府はまた、2025年に大阪で開催される万博も桁外れに重要視している。、、、しかし、世界的な博覧会は、今や開催国以外では誰も気にとめないローカルなイベントとなっている。日本人で誰が、現在ドバイが万博を開催していることを知っているというだろうか。、、、(引用 終)

と日本の国際社会からの後退、先進国グループからの脱落を指摘する記事。いまや、日本の若者に大志と夢を持て、というのが無茶な世の中になっている中で、誰が苦労して外国と交際しようとするでしょうか。海外進出してビジネスを拡大していこうとする成長期は遠く終わり、海外企業は日本を見捨て、日本企業は競争力を失っている状況で、人々が攻めではなく守りに入り、外国に興味が向かなくなるのは当然だろうと思います。

日本人の英語能力は確かに高いとはいえませんけど、それは日本語という言語の特殊性が大きいでしょう。語学の習得は語彙と文法の知識に加えて実践練習のための努力と時間が必要ですが、近縁の言語を学ぶ場合と言語の語彙も体系もかけ離れた言葉を学ぶ場合では習得難易度は数倍になります。例えば、英語話者がスペイン語やフランス語を習得するのに必要な時間が600-800時間と言われているのに比べ、日本語だと2200時間と3倍かかります。この逆も成り立つとすると、日本人が英語をそこそこ使えるようになるのには、週に5時間、年に9ヶ月やったとして、年間180時間、中高の6年では半分にも足りません。政府が本気で日本人の英語力を上げたいと思っているなら、週に10時間ぐらいのプログラムを組む必要があると思います。日本人全員が英語が使える必要はないし、必要なら一日2時間毎日やれば2-3年で問題ないレベルに達するので、英語は高校からは選択制にして選択者は授業時間をふやせばいいのではないでしょうか。

しかし、問題なのは、語学教育システムではなく、言語習得へのモチベーションが低く、外国と関わりたくないと思わせるようになった日本の社会そのものです。今の日本は、政治の無能と腐敗によって、経済成長が止まったあとの30年間、その維持と安定に失敗したばかりか、政治の著しい劣化と腐敗が進み、経済成長の間に貯えた国富を売っては一部の人間の利益に付け替え、国民の生活より一部の特権者の利益を優先してきたために、驚くべきスピードで二流の貧困国へと転落していこうとしています。加えて、超高齢化社会という喫緊の問題を抱えています。こんな状況で、どうやったら若い人が将来に希望をもって外向きに発展的な態度でいられるというのでしょう。彼らにとっては語学習得に投資して外国と積極的にかかわるのはメリットよりもリスクの方が大きいとしか思えないのではないでしょうか。もっとも、これからますます日本が貧しくなって、外国に活路を見出すしかないと国を脱出する人々が増えれば語学能力はあがるかも知れませんが。

私、個人的には、国内で自給自足ができるようになり、人々がそれなりに幸せに暮らしていけるようならば、日本が多少内向きになるのは悪いことではないと思っております。超高齢化が終われば、人口激減がはじまりますけど、それは高度成長のツケでもあります。みなが一斉に成長すればみんな一斉に老化するのです。老化が進んでいるのにいつまでも「成長戦略」しか考えられない与党政府はすでに脳が老化している証拠でしょう。老人が語学を学ぶモチベーションや外国との付き合いへの積極性を失うのは当然のことで、日本がこうして「ランキング」を落としているのは日本がそういう時期だからだと思います。この衰退期が終われば安定期に入り、またそのうち昇り調子の時期がやってくるだろうとは思いますが、その時には是非、過去に学んで、今日の痛い経験を生かしてもらいたいと思います。
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ベルリン ポスドク法

2021-12-17 | Weblog
以前ちょっとだけ立ち寄ったベルリンは楽しい所で、有名なガラス張りドームの議事堂やベルリン大聖堂などの観光地はもちろん、ちょっとした駅前の多国籍の屋台が集まる広場なども、どこに行ってもコスモポリタンな活気があって、若い時ならきっと住んでみたいと思っただろうと思うような街でした。しかし、そんなベルリンであっても(あるいは世界中どこであっても)、ポスドクは、屋根の上のバイオリン弾きのように生きています。

しばらく前の話題。先月のScienceのフロントページから。

9月、ベルリンの議会は、多くの若手研究者を悩ませる不安定な雇用状況に対処するため、急進的な一歩を踏み出した。、、、
 この規定は、議員たちが大学の代表者たちに相談することなく採決したもので、市のポスドクの労働条件を改善するものだと支持者たちは言っている。
しかし、雇用の凍結、辞任、ベルリンの研究の中心地としての地位を失うという予測など、混乱が起きている。、、、
 他の国々の若手研究者と同様、ドイツのポスドクは、限られた教員の空席をめぐって厳しい競争にさらされている。また、時間的な制約もある。2007年に制定された時間的制約に関する法律は、博士号取得者が不安定な契約に縛られるのを防ぐためのものである。しかし、生産性の高い多くの研究者を学問の世界から追い出してしまうという意見も多い。
 ベルリンの法律は、ドイツ研究省のウェブサイトに掲載されたビデオが引き金となった。2007年のポスドク期限の法律を宣伝するためのものだったが、研究者の怒りをかった。このビデオは、ハンナという名のポスドクの物語で、この法律は、ハンナのような年配のポスドクに、必要であれば学外の仕事に移ることを奨励し、若い研究者に機会を与えるものだと説明している。、、、
、、、6月24日には、ドイツ連邦議会でこの問題が議論されるほど注目を集めた。ベルリンという都市国家を統治する議員たちは、さらに踏み込んで、すでに制定されていた法案に永住権に関する条項を挿入したのである。
、、、批評家たちは、この法律には、ベルリンに1000以上あるポスドク職のほんの一部でも常勤職に転換し、将来さらにポスドクを雇用するために必要な資金が含まれていないと指摘している。「その目標は高く評価できる。しかし、そのためにはもっと資金が必要だ」と、大学の指導者を代表するドイツ学長会議の会長であるペーター・アンドレ・アルトは言う。
 、、、その一方で、この法律が影響を及ぼす4つの研究集約型大学のうちの1つであるベルリン自由大学は、すべてのポスドク採用を中止している。
 、、、この法律が施行されれば、大学の大規模な再編成が必要となり、他の目標が達成できなくなる、と言う。例えば、学部が正規職員を増やすと、連邦法とは別の規則で、より多くの学部生を受け入れなければならなくなり、さらに予算不足に陥る。また、この法律が施行されると、大学の教授陣が他からポスドクを呼び寄せようとした場合、自動的に正社員として採用されることになるので、大学の能力にも影響が出るだろう、、、。
 ドイツ以外の研究者も注目している。ストラスクライド大学の上級講師で、アーリーキャリアの科学者を擁護してきたミゲル・ジョルジは、この法律は欧州連合内で変化を求める他の声と一致していると話す。例えば、彼が2016年に共著した宣言では、短期プロジェクトへの資金提供から、より長期的なポジションへの資金提供へのシフトが提言されている。それが機能するためには、「資金提供のパラダイムを変える必要がある」と彼は言う。

問題は、議員たちが長期的な効果を理解しないまま、「制度の革命を1つのパラグラフに詰め込もうとした」ことだとクンストは言う。、、、制度に手を加えることは、6年制限によって引き起こされた意図しない害と同様に、下流に影響を及ぼす、、、

ポスドク問題は世界的な問題で、経験を積んだ博士研究者のサプライと彼らが本来就くべき安定した研究職のポジションのデマンドの乖離によって起こされています。日本では、大学院からポスドクというパスを推奨したのは、新卒者の就職機会の減少の問題を先送りするための時限爆弾つきの政策でありました。それが爆発したあと、予想された通り、日本政府は結局は自己責任ということで成り行きにまかせ、高学歴貧困という問題を作り出しました。
 ドイツでのポスドク期限や、今回のポスドクの永久職化というのは、高学歴の経験を積んだ研究者の生活やキャリアを保障する目的であるのはわかりますけど、欠けているのは長期的かつ包括的視点でしょう。数人の人がコメントしている通り、決定的に足りないのは「カネ」です。ポスドク一人当たりの補償を厚くすれば、資金がそれに伴って増えないのであれば、より多くのポスドクか誰かをクビにする必要があります。つまり、競争はこれまで以上に激しくなり、ポスドク職にさえつけない博士が大量に出る可能性があります。また、そうしてポジションを手に入れたポスドクがハズレだった場合は二重の意味で痛いです。

解決策はカネをなんとかするか、博士プログラムを縮小するしかないと思います。それによって「生産性」が落ち、科学技術の「競争力」が落ちるとしても、私は個人の幸せは、国家の競争力に優先すると思います。ドイツはEU中央銀行を支配しているとは言え、ドイツの問題解決のためにEUのカネを刷るわけには行かないでしょうから、資金はどこかを削って回すしかないでしょう。
 一方、日本ではカネを刷ってなんとかするという手があります。何なら、ポスドクや大学問題もニューディール政策のネタに使えばいいです。ちょうど、オバマがリーマンショック後にやったようなばら撒きを長期的計画の下にやればよい。カネを刷って大学や研究関係、学生、せっかくですから全国民に広くばら撒けば、彼らはカネを使い、モノやサービスを買い、大学をに授業料を払い、さまざまな会社も人々の生活も潤います。一人10万円といわず、100万円ぐらいとりあえず、ばら撒きましょう。100兆円ぐらいですか。どうせ日銀が政府口座に数字をチョイと入力するだけのことで、キャシュレスの世の中、お札を印刷する必要さえないです。管理通貨制下での実体のない「カネ」なのですから、緊急事態を乗り切るのなら、もっと管理に融通をきかせればいいと思うのですけど。
 だいたい、日本の経済の6割以上は内需ですから、国民に使うカネが乏しければ経済は成長するわけがありません。この状況で大企業にいくらカネを注いでも内部に溜まるだけでトリクルダウンしないのだから、直接国民に無差別にばら撒いて、ボトムアップに澱んでしまったカネの流れを刺激しないとムリです。大学にドーンと資金援助して、ポスドクや教員の研鑽がムダにならないようにポジションを作ると同時に長期的には大学の規模や数を人口動態にあわせて徐々に縮小して均衡を保つことを目指せばいいのではないでしょうか。

しかし、財務省と与党は「プライマリーバランス」信仰が染み付いているようですから、まずは政権を変えないとダメですね。
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風の時代

2021-12-14 | Weblog
西洋、インドの占星術によると、昨年末に240年続いた「地の時代」が終わりを迎えて「風の時代」に突入し、これからは、物質的なものが尊ばれた時代から、より精神的なものが尊ばれる時代になるのだそうです。占いというのは私は当たった試しがないのですけど、歴史を振り返れば、時代には波や周期があり、ミクロな視点ではカオス的なブラウン運動をしているようにしか見えなくても、マクロで見ると結構はっきりしたアトラクタを指して世界はコヒーレントに動いているように見えるもので、個人のレベルで占いは役に立たなくても、世界全体のレベルでは有用なのかもしれません。

振り返ってみれば、直近の「地の時代」の始まりの240年ぐらい前は18世紀の終盤で、ちょうどヨーロッパで産業革命が始まったころです。産業革命によってモノを作る技術と規模が拡大し、人々の物質的豊かさへの追求が増大し、植民地主義から世界大戦へ、そして環境破壊、経済戦争、拝金主義社会と繋がったと言えます。物質的な豊かさやさまざまな技術の開発は急激な人口の増大を来たし、増加した人々は高エネルギー消費型の西洋的ライフスタイルを好み、飽くなき物欲は、結果地球環境を激しく破壊し、森林は農場化のために焼き払われ、山は希少金属をもとめて掘り返され、海洋は放射能やその他の有害物質によって汚染され、化石燃料の燃焼によって大量に放出された炭素は森林による固定化が追いつかず、温暖化にともなう海水上昇は低地帯を海底に沈め、億単位の人々が難民化すると予想される状況になっています。

個人のレベルで言えば、科学の進歩は驚嘆すべきもので、膨大な人々の努力が物質レベルでのこの世界の成り立ちを解明し、それに応じて人々の生活を向上すべく、科学知識は技術に応用されて、われわれの生活は便利になりました。いまだに折々に目にする素晴らしい科学研究の成果には単純に感動しますけど、物事には両面あります。科学はその他もろもろの人間の活動、音楽や芸術などと同様に人間の知的生活を豊かにするものではありますが、それが技術へと応用され、資本主義と結びついて、ある特定の目的のために追求されだすと、さまざまな弊害を産みます。そして事実、地球レベルでみれば、各個人の物質的な豊かさへの欲は上に述べた通りに、地球環境の激しい破壊に至りました。

ある人が、夜のロスアンジェルスの灯りを飛行機の中から眺めた時、その広がりがまるで正常組織へと浸潤していく悪性腫瘍のように見えたと述べました。地球を人間の体だと例えると、その隅々まで入り込んではコロニーをつくり、己の生存と欲のままに増殖し、周辺の環境を破壊していく現代の人間は、確かに悪性腫瘍細胞のふるまいにそっくりです。結局、ホストの体を滅ぼして自らも滅んでいく腫瘍細胞の姿が人類の未来と重なります。

とすると、その悪性細胞を抑え込むための腫瘍免疫に類似のメカニズムも地球にはあるのかも知れません。コロナのパンデミックが風の時代の幕開け前に起こったのは、地球の歴史というマクロな視点からみれば、それは地球の免疫反応、あるいは警告であったと後々、解釈されるようになるかも知れません。コロナに限らず、地球の各地での異常気象の増加は、これまで以上に地球に負荷がかかっているということそ示しているようです。

もちろん、「地の時代」の唯物主義の物質世界で育った人々は、地球の意志とか地球の免疫システムとかいうと鼻で笑い飛ばすでしょうが、現実に人類は、自らの行いの報いとして、すでに目の前に破滅的な未来を突きつけられているわけです。誰かが何とかしてくれるだろうと全員が楽観的に考えて、このまま突き進んだら50年後はどうなるでしょうか。じっくり考えたあとで、幸せな未来があると予想できる人は少数ではないでしょうか。

幸い、このコロナパンデミックで、人間の活動は抑制され、それに伴って、われわれは急激な環境の改善を目の当たりにしました。飛行機が飛ばず、車が減った都会の空は澄み渡り、良質の蜂蜜が沢山とれるようになりました。人間が活動を抑制すれば、地球は回復する力を持っていることが示されました。コロナを地球からの警告であると捉えて、人間が利己的な活動を自主的に抑制していけば、地球は警告を解くことでしょう。ま、このように擬人的に考えなくても、人間が一斉に活動を抑制すればコロナは行き場を失って終息するはずです。

幾何学の問題を解く時に引く補助線のように、地球の意志をいうものを仮定してみると、われわれが、どう問題を解決するべきか、人がどう生きるべきかが見えてくるように思います。時代を「地の時代」とか「風の時代」とかに区分するのも補助線のようなものだと捉えれば、ただの占い以上の意義があるのかも知れません。
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動物実験廃止への動機

2021-12-10 | Weblog
12月2日号のNature front pageのCorrespondence のカラムで、EUの立法的部門であるEuropean Parliamentのニュースに関して科学研究における動物実験の最小化、廃止を訴える記事を目にしました。

「、、、9月には、欧州議会のメンバーが、必要のない動物実験をできるだけ早く廃止するために、タイムテーブルに裏付けられたEU全体の行動を要求した。この課題に取り組むには、科学界の並々ならぬ努力と献身的なコミュニケーションが必要である。ワクチン接種、行動生物学、移植手術など、生物医学やトランスレーショナルリサーチの多くの側面が動物実験に依存しており、動物実験からの切り替えに消極的な研究者を克服するためには、科学コミュニティが代替手段の考案に参加する必要がある。、、、」

と、動物実験の代替手段の開発を勧める論調です。しかし、そんなものが簡単にできるのなら、誰も動物実験などしません。現在の技術レベルだと、人工的なオーガノイドなどは、ごくごく限られた用途にしか使えず、実験動物の変わりに使えるレベルには、おそらく永久に達しないだろうと私は思っています。生理学的あるいは病理学的な研究なら動物実験なしで説得力のある結論を得るのは困難であり、また説得力のある結論を得てインパクトのある論文を書かないと研究者としては生き残れないとなれば、現状では簡単に動物実験をやめるわけにはいかないでしょう。

とはいうものの、私も動物実験はすべきではないと考えるようになり、現在のプロジェクトにカタをつけた後は動物実験はしないつもりです。これは人間の我欲のための地球環境の破壊はすべきではないと思う私の子供のころからの価値観的なものの延長なのかも知れません。三つ子の魂なんとやらで、人間というものは簡単には変わらないものだと実感しています。

ところで、EUの動物実験抑制への取り組みは古く、この記事のもとになったEuropean Parliament の記事(MEPs demand EU action plan to end the use of animals in research and testing) から、化粧品成分のテストを動物で行うことはEUでは2009年から禁止されていることを知りました。一方で、EUが最終的に動物実験の廃止を目指しながら、現状では、2017年には1200万頭の動物がムダに殺されているという現実があり、この目標と現実との乖離がこの度の声明に繋がった模様です。

産業革命以来、物質的繁栄を求めて科学技術の発展を「良いこと」として人類は努力を続け、大変な量の質の知を蓄積しました。その努力には純粋に感動しますけど、一方で、その裏には動物実験や人体実験をはじめとして、無数のさまざまな犠牲がありました。それらを差し引きすると、トントンどころかマイナスでさえないか、と私は密かに思っております。科学技術の発展は良いこともありますが、それと同じぐらい悪いことも作り出し、そのうちのいくつかは取り返しのつかないレベルに達し、地球環境をそこに住むものに適さないような状態に変えようとしています。

これは私の予感にすぎませんけど、遠からず科学技術の発達は何らかの形でピークを迎えて、徐々に衰退していくのではないだろうかと思います。科学技術発展へのモチベーションは何か誰かに役に立つものを作って(金儲けをしたい)という動機が大きいと思います。純粋に学問的興味だけでやっている分には害は少ないと思いますけど、資本主義社会の「豊かさ(つまりカネ)」への追求への強い欲と結びついた科学技術開発の努力が現代の地球規模の問題を作り出してきたといっても過言ではないでしょう。そもそも目標に向かってひたすら努力するやりかたは人間を近視的にし、他を思いやる余裕をなくさせて、長期的に世界に害をおよぼすバランスの悪い状態を生み出します。

動物実験の規制の強化は、これまでのような人間の行き過ぎた利己的活動に対する反動の前触れでなのかも知れません。このEUが主導する動物実験廃止への動きは動物福祉、すなわち動物への思いやりの心に基づいています。つまり、これまでは「自然は人間の幸福のために利用する存在である」との狭い考えであったのが、他の生物へと意識が拡大した結果であり、人間の精神の成長の結果とも言えます。大義のために我欲を我慢することができるのが大人ですから、これが人間の成長なのであれば、人間の不便と引き換えにしても、こうした考えは徐々に徐々に世界に広がっていくでしょう。

多分、アメリカで奴隷制度が廃止された時と同様に、イデオロジカルな動機によって動物実験も遠からず(と言っても50年ぐらいはかかるでしょうけど)廃止にいたると私は想像しています。そして、100年もすれば人間は自然ではなく自らの欲の方をよくコントロールすることを覚え、科学技術の発展への情熱も冷めているのではないだろうか、と想像します。科学技術の発展が人々に幸福をもたらす以上に地球や地球に生きるものに害を及ぼすのであれば、将来的に科学技術は衰退するだろうと思いますし、それは多分人類の長期的な成長において望ましいことなのでしょう。
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都市ランキング

2021-12-07 | Weblog
まだ先の話ですけど、このところの株式市場の不調で、引退の資金が心配になってきました。株式市場のこのところの不調というよりは、この二年ほど、株式市場はバブル状態だったのだと思います。コロナで実質経済規模は縮小し、本来、経営規模拡大などに使われる予定であった資金が行き場を失って賭場に流れたのだろうと想像しています。いずれにせよ、株価は上がればいずれ下がらざるを得ませんし、だいたい年に何もしなくても20%以上も利益がでるのは異常でしょう。
ただし、世界中で、株式などによる運用利益を税制優遇によって引退後の老後資金に使うことが政府に推奨されてきた以上、株式市場は長期的には絶対に上昇する必要がありますから、戦争とか国家破綻とかの破滅的な事態にならない限り、政府はなんらかの介入をして、株式の成長は保たれるだろうとは思っています。国民の老後の生活が、株式とか実体のない数字のゲームに頼っているのですから、イカサマもいいところなのですが、それを言い出すと「カネ」という口座の数字にもそもそも何の実体もないし、「貨幣経済」のシステムというものそのものがすでに「信用」という実体のないものに基づくバーチャルな存在にすぎないわけですが。

それはともかく、カネという数字を通じて実体のあるものがやり取りされる以上は、口座の数字には実体はなくても意味はあり、引退後に向けてその数字を一定レベルにあげて維持していくことは幸せに暮らすために必要です。4%ルールで引退後の生活を補うとすると、私の場合は今後の物価上昇率を考えると早い目に引退するとあまり余裕がなさそうです。

ということで、引退後に豊かに暮らす一つの選択肢として、生活費が比較的安く、安全で快適な場所に移る、ということが挙げられます。

しばらく前、InterNationsの調査で、国外脱出者が選ぶベスト、ワーストの国を少し前に紹介しましたが、今年のベスト、ワーストの都市もリンクします。

多分、回答者の大部分はアメリカ、ヨーロッパ系の人々なので、日本人とは選択の基準が異なっているとは思いますが、興味深いです。

ということで、ベストはクアラルンプール、二位がマラガ(スペイン)、三位デュバイ、四位シドニー、五位シンガポール、六位ホーチミン、、、と東南アジアが相変わらず人気。多分、経済的な利点に加えて住みやすさというのが重要視されているのだろうと思います。

一方、ワーストはローマ、ワースト二位がミラノ、と国でも都市でもイタリアの不人気は相変わらず。お金があって田舎に住むのならいいところなのでしょうが、そうでない人には仕事がないというのが主な理由のようです。ワースト三位がヨハネスブルク、四位がイスタンブール。ヨハネスバーグは色々な意味で危険だし、トルコの経済は非常に低迷していることが原因でしょうか。ワースト五位はわれらが東京、とほほ。続いてカイロ、パリ。

都市の生活の質ランキングではヨーロッパの都市が増えます。ベストはウイーン、二位がスイス バーゼル、三位シンガポール、四位ミュンヘン、五位プラハ、六位チューリッヒ、七位マドリッド、八位ローザンヌ、、、スイスが強いですね。プラハは物価が安く歴史的趣きがあって落ち着いた街。お金があって都市に住むならヨーロッパが快適ということでしょうか。東京は14位と比較的健闘しています。便利さや食文化が評価されたのでしょうか。

気候やレジャーではスペインが強いようで、一位はマラガ、二位バルセローナ、三位はケープタウン、四位はマドリッド、五位シドニーとトップ5のうちの三つを占めています。暑くて湿気の多い東南アジアはその点が弱点でしょうか。六位のメキシコシティーは高地にあるので、多分緯度のわりには快適なのだと思います。メキシコはユカタン半島は昔に行きました。低地の熱帯のジャングルは気候的にはちょっと辛いですけど、高地に住むならいいかも知れません。メキシコは医療制度もよく、物価も安いので、引退後のアメリカ人の人気移住地になってきているようです。私もちょっと考えてます。メキシコには公用語が定まっていないようで、英語もそこそこ通じるようですけど、やはりスペイン語話者がほとんど。フランス語が一通り終わったら、とりあえずスペイン語をやることにします。

経済および住居でのランキングでは、クアラルンプール、ホーチミン、バンコック、と東南アジアが上位を占め、四位にメキシコシティー、五位マラガ、という順。東京は57都市中43位。日本の都市の住環境は悲しいです。なんとかならぬものでしょうか。郊外の新興住宅地も狭い土地を切り開いて、そこに最大数の家屋を並べて作ろうとするものだから、やはり空間に余裕がない。田舎は不便だし、昔ながらの集落はやはり密集していますし。比較的いいのは平野が広く、新しく開拓された土地である北海道でしょうか。移住者どうしで古い因習も少ないようですし。でも寒いのはちょっと。

住みたい街ランキングでは、一位、クアラルンプール、二位、メキシコシティー、三位マラガ、四位ナイロビ、五位ムスカット (アラビア半島、オマーン)となっており、土地の人々の友好さなどが考慮されています。そして、東京は57都市中、堂々の最下位。ちょっと悲しい。ストックホルム53位、コペンハーゲン54位、パリが55位、デュッセルドルフが56位という感じで、ヨーロッパの生活費用が高い街も抑えました。東京は、人々の友好度や外国人に暖かいランキングでも48位、55位というランク、言葉の通じやすさでも最下位。

ガラパゴス化する日本というのが近年の懸念ですけど、経済の低迷、重なる天災、腐敗政治、超高齢少子化と日本が外向きに発展できる要素が少なすぎて、内向きに排他的になっていっているのではないかと危惧します。入管での度重なる犯罪行為は、そうした没落するかつての世界二位の経済大国の悲しい現実に生きる人々のルサンチマンの現れではないのかと思ったりします。いずれにせよ、食料の多くを輸入に頼る日本で、ガラパゴス化は死活問題ではないかと思うのですが。

また、高齢化社会で、若い外国人に来てもらって助けてもらおう、と考えているなら、もうちょっと外国人に住みやすい環境が提供できるように政府は考えないといけませんね。どうして同じアジアの国でありながら、マレーシアがトップで、日本は下から五番目なのかを深く考える価値があるのではないでしょうか。確かにクアラルンプールの街は都会も郊外も整っていて空間や自然に余裕があり、住環境は東京よりははるかに上でしょうし、英語も通じやすいでしょう。物価も多少安いでしょう。しかし、それだけでここまで差がつくものでしょうか?こうした東南アジアの街から学んで日本をもっと住み良い場所にできないのでしょうか。
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記号化した生命

2021-12-03 | Weblog
まえの続きですけど、科学研究で動物実験が行われる際、人間の立場からみると、その動物は何かのデータを出すための道具という扱いになります。データを抽出すれば、その元になった個体は存在を失います。つまり、人間からすると、実験動物は、呼吸をし、餌を食べて、動き回る存在ではなく、ある種の遺伝子型や何らかの研究の分類上必要な属性によって、分類される記号的存在であって、同じ属性を持つものは相互置換が可能な替えのきく抽象物となります。

生き物から物体、そして記号へと変化する間に、動物もわれわれ人間も生命という不思議を与えられた存在から単なる概念上の存在になっていきます。それぞれ個性をもって呼吸をし生活を営む実験動物ではありますが、記号に変換することで「生命」は抜き取られ、動物を研究道具に使う人は、命を奪うという生々しさを感じずにすむのです。同様に、食用にされる動物も、殺され、皮を剥がれ、血を抜かれ、肉を削がれて、四角く切られて綺麗に包装されていれば、それは「食べ物」という物体であって、誰かによって殺され、「生命」を奪われた牛とは無関係になってしまいます。

キューブラーロスの子供のころのエピソードで、ペットのように思っていた兎が、両親によって殺され料理され晩御飯のおかずになって出てきたことに強くショックを受けたという有名な話がありますが、それはペットという愛情を注ぐべき生き物が、同様に愛情によって結びついた両親の手によって、突然「兎肉」という記号つきの肉料理という物体に目の前で変換されてしまったからでしょう。

またよくある話ですけど、寿司に舌鼓を打っていた外国人が、魚の頭が盛りつけてある魚の活け作りが出てきた途端に強烈な拒否反応を示すことがあります。これも、寿司や刺身という食べ物は、すでに記号化された物体であって、少し前まで生きていた生き物の体の一部であるという認識が希薄になっているからだと思います。日本人でも、活け作りはOKでも白魚の踊り食いはダメという人は多いでしょうから、どこまでが生き物でどこまでが食べ物かという線引きは多分に恣意的なものだと思います。

生きている肉体は、生命という不思議なものが血肉からなる物質に宿ってできており、精神とかスピリットとか、目には見えないけれども確かに存在するものが付随しています。それを物体だけにする、あるいは記号にするというプロセスによって、生命や精神や個性を取り除き、第三者が扱える対象とする、そうして科学実験は行われ、食物は作られます。その際に取り除かれた「生命」はどこへ行くのでしょう?

昔の知り合いから聞いた話を思い出しました。ある研究者が恐山の霊能者に、目が赤い小動物がたくさん肩のあたりにいるのが見える、と言われたのだそうです。

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殺生

2021-11-30 | Weblog
長らく生理学的な研究を行う必要から、モデル動物を作成してそれを解析するというスタイルでやってきましたが、当初から動物を使う実験には抵抗がありました。私に限らず、動物を実験に使ったり殺したりするのが好きな人はまずいないと思います。昨年のコロナの施設閉鎖の時、実験動物の間引きをせざるを得なくなり、そうしたが日々が続いた時に動物実験は自分にはもう無理だなとつくづく感じることになりました。

さまざまな理由で、人間は動物を殺し、実験に使ったり、色々に利用したり、食料にしたりするわけですけど、実験に関して言えば、例えば私が学生だったころと今では動物実験における倫理上の理由における規制はずいぶん厳しくなりました。実験の結構細かい手順を書面にして、倫理委員会での認可を受ける必要があります。動物を実験に使って最後は殺すことになるのを、必要悪と認める一方で、必要ない苦痛を動物に与えないようにするという動物福祉の理由だと思います。

しかし、例えが悪いかも知れませんけど、人間の世界でも、他の国を征服してその人々を殺したり奴隷にすることは比較的近年まで平然と行われてきました。現在ではヨーロッパ系人種が、アフリカ黒人を使役動物として扱うことも公然と差別を行うことも許されていません。同じく、20年前はアメリカの研究室で働く外国人ポスドクの権利は非常に限られたものでしたが、今は最低賃金やさまざまな権利が保障されるようになりました(これによって、研究室は外国人ポスドクを簡単に雇えなくなり、外国人からするとポスドクの機会が減って小規模研究室の運営が困難になっているわけですが。ちょうど、社員の最低賃金をあげると、穴埋めに誰かがクビなるのと同じ理屈です)それはともかく、こうした人間界の動きは、世界的な人権運動の高まりの結果でしょうけど、動物実験の規制強化も、生き物全体における(人間からみた)権利意識の拡大の一部だろうと思います。

人間も動物も他の生き物の命を犠牲にして、食料として自分の血肉に変えないと生きていけませんけど、だからと開き直って、生き物の生命を軽視するようでは(動物ではなく)人間としての精神の発達はないと思います。ダライ ラマが主張するように、人間は「思いやる心」を持つ能力があり、思いやりの心こそが幸福の源泉だと私も思います。思いやる心を自分や家族から外に拡げていけば、動物も植物も自然と含むことになります。

そんな人々の意識の高まりの結果、スイスでは、これまでにも何度か署名運動が行われて、動物実験の廃止が国レベルの議題に上り、国民投票が何度か施行されております。動物実験廃止が可決されたことはありませんが、投票の都度、3-4割弱のスイス国民が動物実験廃止に賛成してきており、来年の始めにも、また動物実験中止を問う国民投票が再度実施予定です。イギリスの生物学研究所、Sanger Instituteも(動物福祉が唯一の理由ではないようですが)来年、70人以上のスタッフが働く動物実験施設を全面的に閉鎖する予定です。こうした動物実験を減らし廃止していこうとする動きは、思うに、世界中に拡大していると思います。奴隷制が廃止され、人種隔離が廃止されたように、人間の差別意識はなくなることはなくても、制度としては理想に向けて変化していくでしょう。

昨年、私は動物実験は少なくとも自分はやめるべきだと感じました。マウス遺伝学を主な実験系にしていたので、動物を使わないということは研究活動を実質やめることになります。それでも、嫌な思いをして動物を使ってまで、研究を継続したいのかと自問すると、ノーでした。自分の研究にこれらの動物の命を奪うだけの価値はありません。というか、世の中の動物実験のほとんどはそれだけの価値はないと思うようになりました。基礎研究以外にも、人の病気の治療法の開発の実験などで無数の動物が殺されてきました。仮に人間の病気の治療法の開発に動物実験が不可欠だとしても、結局は人間の都合です。

仏教的にはその治療法を使うことも、下に述べるように殺生を犯していると解釈できますし、そう考えると、殺生をしない人間はだだの一人もいないと思います。仏教では「殺生」は最大の罪ですが、動植物を殺すことなく人は生きることはできませから、これは殺さざるを得ないときには、殺すことの意味を噛み締めるようにという教えであろうと思います。仏教でいう殺生は「自殺(自分で直接殺すこと)」「他殺(他人に殺してもらうこと)」「随喜同業(他人が殺すのを喜ぶこと)」でこれらは等しく殺生の罪です。美味しい刺身を食べて喜ぶ、というのも広い意味で三つ目の殺生の罪にあたります。ですので、子供が魚を釣って、お父さんに頼んで捌いてもらって、お母さんが食べたら、この一家全員が三つの殺生の罪を犯したということになります。

殺すことなく生きることができないのは人間の業でありますが、だからといって開き直るのではなく、その罪を自覚して自らを律することが大切なのだろうということだろうと思います。動物実験や法の規制も、結局は人間の身勝手な自己満足であるとも言えます。しかし、「殺す」ことなく生きることができない人間ではあるにせよ、人間にとってもっとも大切な「思いやりの心」を多少でも実践していくのはそれが無いよりははるかにましではなでしょうか。たとえそれが身勝手な自己満足に過ぎず、殺される側にとって何の意味もなくても、それでも「思いやる心」が無いよりはましではないかと思います。少なくとも「思いやる側」にとって益あることだと思います。思うに、殺生を減らしたくて、菜食にこだわり革製品を使わない人というのは、肉食の喜びや生活の不便さと引き換えにするだけの精神の益を得ているのだろうと思います。
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民主主義と規制

2021-11-26 | Weblog
またも、前回の続きのような話ですけど、先日は全国的な動物実験規制協会による施設の視察がありました。施設の動物実験委員会と動物実験施設の責任者が主に対応したので直接どういうやりとりがあったのかは不明ですが、施設の動物実験管理者も現場の状況の理解に問題があると思いますけど、上位規制組織の言い分は更に非現実的だったようで、話をきいてうんざりしました。規制する側にしてみれば、現場の不利益は気にしないのでしょう。

長期的に動物実験が減っていくことは望ましいと私も思いますけど、現状では、動物実験をやっている方は、それなりのニーズに基づいて、生活もキャリアも賭けて、なんらかの有意義な情報を得るために動物を犠牲にしてやっているわけで、だれも、好きで動物を殺したり虐待したりしているものは研究室にはいないです。そんな中で、不必要としか思えない数々の規制がトップダウンでどんどん増えてきて、それは全部現場に丸投げされ、違反者が厳しく処罰されるという状況が実際に起こっています。この流れはほぼ一方的で、年々、管理者のパワーは増大する一方でありながら、現場の事情は考慮されることは少く、窮屈で不十分なサポートの中で、研究者は規制におびえながらなんとかやっているのが実情でしょう。

だいたい、もしも本当に動物の命、や動物福祉ということを目的としているのなら、野生動物の狩りや害獣駆除も同様の厳しさで規制しないと不公平です。結局は人間の勝手な理由で一方的に線引きが行われていることには変わりありません。

規制というのは個人の自由を縛るものですけど、規制が年々、さまざまな分野で強まっているということに私は危機感を抱いています。

近代民主主義の象徴のフランス革命はフランス憲法と国旗にその精神が引き継がれ、フランスは国のスローガンとして、自由、平等、博愛をあげています。また、他の民主主義国家の憲法の精神のコアにあるものは、ドイツでは統一、正義、自由、カナダでは生命、安全、自由、そしてアメリカはもちろん自由の国であることを売りにしています。これら近代民主主義を受け継いだ国家で共通して尊重されるべきものと考えられているものは「自由」であるようです。自由とは個人の尊重に他なりません。社会やその構成員は王や支配者の持ち物ではなく、個人の集まりが社会であって、その自由意志の総和が社会に反映されるべきだという考えがあると思います。

しかしながら、人間が増え社会生活を営むには、個人の自由の制限はやむを得ません。数々の法律や規律があり、守らないものには罰が与えられます。議会制民主主義では、その個人の意思が代議士によって汲み取られて議会で議論された上で決定されるはずです(日本ではそうはなっていませんが)。しかし、一部の権力や支配力を持つものにとっては、国民の意志ではなく、彼らの自由意志を優先させた政策を施行してもらいたいわけで、政府政党と癒着し、彼らの都合の良い法案を作らせ、一般国民の富を合法的に移し替えて、彼ら自身と彼らに利益誘導する政治家だけが得をするようなシステムに変えて行っています。日本では、それを隠そうともしません。一般国民から消費税を通じて否応なく金を巻き上げて、企業や富裕層の減税分の補填に使うという非人道的なことが、露骨に行われています。死語だと思われていた「政商」という言葉が、政府と癒着した派遣会社のマクラ言葉に添えられるようになりました。加えて、アベ政権からは、そもそも権力者の暴走を防ぐためにある憲法を権力者自らが軽視し、一時的に憲法を上書きできるような法案を通し、そして憲法そのものさえも彼らに都合の良いように書き換えようとしています。

腐敗した政権政党のあからさまで非合法的な手段によって、日本は、非民主主義、独裁国家へと変貌し、国民の奴隷化が促進されつつあります。昔の、百姓は生かさず殺さず、を、政府は今は一般労働者(特に非正規雇用者)を対象に行なっており、人々は日々の生活に追われて、選挙に行く気力も国会を見る気力もなくしているように見えます。

しかし、この傾向は日本は極端ですけど、諸外国でも多かれ少なかれ、起きていることだと思います。民衆の力によって成し遂げられた近代民主主義でしたが、だんだんと世界的規模で、形骸化して侵食されていきつつあるのではないかと私は感じています。この近代からの退行は、テクノロジーの進歩によって、権力側が、さまざまなレベルにおいて、一般国民を管理することが容易になったことがあると思います。つまり権力者のもつ権力がより強力になったということです。アメリカでは生まれた時からソーシャルセキュリティ番号を与えられ、社会のあらゆる活動でその番号を要求されます。その番号は納税記録から銀行やその他の資産情報、過去の職歴、犯罪歴、などなどの情報にリンクしており、その気になれば、特定の国民の資産、履歴、行動パターン、は丸裸同然で収集できます。悪いことに、権力者だけではありません。国民同士がお互いを監視し、管理するような社会になりつつあります。

そして、現在、個人の自由というのはそうした自己増殖する管理システムのために、どんどんと侵食されているように感じます。法に基づいたガイドラインに沿って人々はお互いを尊重しあって社会生活を営むというのが理想ですが、困ったことに、何らかの問題が起こるたびに何らかの規制が生まれ、その規制のために新たな問題が生まれ、その問題のためにさらに規制が敷かれるということが繰り返された挙句に、何か行動すれば何らかの規制に引っかかり、規制にひっかかれば、罰せられるということが起こるようになりました。

私は心配性ですけど、悪いことに心配したことの半分ぐらいは実際に起こります。世界規模のディストピア化は当面進行していくかも知れません。
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自由と規律

2021-11-23 | Weblog
ちょっと前の話と関連した話ですけど少し。
かつて社会の中で、自由が最も尊ばれる場所は大学でした。大学は自治が基本で、それは研究や学問は自由な発想を自由に追求するところに発展の鍵があり、政治的に独立でなければならない、と考えられていたからでしょう。残念ながら、アカデミアの自由はグリーンランドのアイスシートなみの速さで侵食されているように感じます。その原因は、慢性的な資金不足に加えて、管理強化でしょう。つまり、金と力です。

最近、某旧帝大で研究室を立ち上げた人と話をする機会がありました。いずこも同じ秋の夕暮れ、となりの人も実は同じ悩みを抱えております。資金を出す方は金を出す以上に口を出し、現場は無意味な書類書きを強いられ、進捗状況を細かくチェックされて、自由な研究どころか、製造ラインの作業員さながらに縛られる、一方で、大学の施設は支援は全然乏しいのに規制だけは強化する、結果、現場で実際に活動している者、つまり「価値を生み出す本体」にもっとも皺寄せがきて、疲弊し、燃え尽きて、去っていくことになっています。これでは学問が発展するわけがないです。

資本主義の世界では、とっくに「働かない」ものが最も稼ぐようになっていますけど、これは学問の分野でも同様になってきました。実際に手足と頭を動かして働いている教官や研究者や学生という大学の活動の本体は、さまざまなレベルの管理者に縛られ、その狭い囲みの中でお互いに競争させられ、圧力をかけられ、使い捨てにされるという現状があるように感じます。

そして、トップダウンの規制が次々と研究現場に導入される結果、かえって弊害が増えてきているのではないかと感じます。本来、規制は、何らかの現状の問題を防ぎ解決するために導入されるものでしょうけど、それを決める方は必ずしも現場の事情を十分理解しているわけではないことが、却って現状を悪くしていっているように感じます。

例えば、擁護するわけではないですけど、セクハラで首になったDS氏にあれほどの処分をする必要があったのか、私は正直疑問です。結果は、DS氏だけでなく、キャリアを賭けて働いていた40人ほどの人々の人生を狂わせることになりました。ビン ラディンを一人を仕留めるために4万人のイラク市民を殺したアメリカ軍といえば言い過ぎですかね。

確かに話が本当で、立場を利用して性的関係を迫ったのなら、スケコマシのクソ野郎です。しかし、「被害者」の女性の方が、なぜ、事件があった時ではなく、自分のポジションが確保できたタイミングで告発したのか、を考えると、このセクハラがどういう性質のものであったのか、いろいろと想像してしまいますね。とはいえ、現在は、こうした職権濫用は許されないという規制ができています。結果として、ポリシー違反で研究室は閉鎖され、彼の人生のみならず、そこで働いていたなんの罪もないの多くの研究員の人生にも少なからぬダメージを与えることになりました。多分に見せしめ的な意味もあっただろうと思います。

そうしたセクハラ ポリシーがあることを頭脳優秀な「被害者」の女性は知っていたはずです。たとえ圧倒的な力関係の差がある立場であったとしても、研究室を移ったばかりのころに起こったこの事件をこの「被害者」がすぐに告発しなかったことは、下品な言い方をすると、これはある種の「取引き」の性質のものであって、少なくともDS氏の方はそのつもりだった、という可能性もあると思います。もしも「被害者」が、そうした性的関係を結ぶ前の時点で告発していれば、未遂に終わっていて、もうすこし穏やかな終わり方になっていた可能性もあるのではと思わざるを得ませんでした。つまり、40人もの人々の人生をこのような劇的な形で狂わせることは防げたのではないか、と思うのです。

研究室で共に過ごすもの同士で恋愛関係になるということは珍しいことではなく、立場に上下関係がある場合もしばしばあります。おそらく多くの場合はそこで揉め事が起きても個人レベルで解決されると思いますけど、今回の例のように、セクハラポリシーの罰則を、違反一回で、大勢の人を巻き込んで一人の人の人生を破壊するような形で適用するという前例は、こうした男女関係にある人を恐怖させたでしょう。DS氏が主張するように、悪意をもっていればこうした規制を利用して男女間の絡れに際して相手にリベンジすることも可能になるわけですから。

ただし、どうもDS氏のこうした研究室内の女性研究員との関係は常習的だったようですから、遠からず罰は与えられていたであろうとは思います。にもかかわらず、今回に至るまで、セクハラの告発に至っていないのはどういう理由だったのでしょう。被害者側がキャリアへの悪影響を恐れて泣き寝入りしたのか、あるいは取引きであったからでしょうか。

また施設側が「悪質」と断定し、弁護士の同席も許さずDS氏を尋問した結果、迅速にクビを切った理由は何だったのでしょう。陰謀論的になりますけど、今年のノーベル賞委員会は彼を推していたという話もあります。受賞後のスキャンダルを嫌った施設側が素早く彼の受賞の芽を摘んだのだという人もあります。(とすれば今年は比較的地味な研究がノーベル医学生理学賞に選ばれたのもそういう理由かもしれません。)

話がヘンな方向へズレました。法治国家である以上、法や規制を遵守するというのは原則ですけど、しばしば、その規制や法は実際の現実と乖離しています。また、法にはかならずグレーゾーンもあれば抜け穴もあり、解釈次第で悪用されることもあるわけで、結果、一つの規制はまた別の規制を生むという感じで、規制の自己増殖を促進し、また、その規制を厳密に適用することで、こ社会の構成員の自由度を制限し、恐怖を与え、彼らを萎縮させていっているのではないかと思います。結果として、大学の自由な活動を妨げ、当局の介入を許し、自治組織としての大学の健全さを失わせていこうとしているのではないかと危惧しています。

金と力の世の中で、大学だけが高潔、孤高でいられるわけがなく、いまや基礎研究も金になるかならないか、役に立つかたたないか、という基準で判断される時代ですから、大学が形骸化していくのも時間の問題なのかもしれません。
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冷めた理由

2021-11-19 | Weblog
単純に実験して何かデータが出てそれをもとにいろいろ考えて、という作業が好きという理由で、私は研究の世界に迷い込み、幸か不幸か比較的自由に放っておいてもらえたためになんとなくここまで続きました。私は二、三の譲れないことを除くと、楽しくないことでも比較的順応してしまうのですけど、ある閾値を超えかけると、なぜ自分はこんなことをしているのだろう、と思うことがしばしばあります。どんな活動もそうでしょうけど、楽しい部分が一つあれば、イヤな部分はその数倍はあります。その活動を継続するか止めてしまうかはそのバランス次第と思います。

研究活動において言えば、いろいろ実験したり考えたりする楽しい部分のあとは、結果にガッカリするというあまり面白くない部分があります。それを乗り越えて面白いデータがでたら、今度は、それを発表して批判を受けるという楽しくない部分があります。方法的懐疑を手法とする科学では、批判は必ずネガティブなものであり、その批判者のネガティブな疑念を払拭していくという作業を通らないと論文にもならず研究費ももらえません。

しかしながら、人間は感情の動物であり、いくら頭では方法的なものだと理解はしていても、批判を喜ぶ人はまずいません。それが如何に建設的なアドバイスであったとしても、その向けられた批判に直ちに心から感謝できる人間というのはほとんどいないでしょう。まして、その批判が的外れであったり、誤解からきたものだったりした場合は尚更です。それを理性の力で感謝に変えるということをするわけですけど、これは大変エネルギーのいる生理的に無理のあることで、責任感の強い真面目な人ほど、この批判に晒されることのストレスとダメージは強いと考えられます。

ところで、山本太郎の街頭演説では、批判とも言えないようなメチャクチャな言い掛かりをつけて絡んでくる聴衆がいますが、彼のそうした人々の捌き方は感動しますね。そうとうな努力で心を鍛えたのだろうと思います。自分の感情をコントロールし、敵意を向けてくる相手と冷静に話をするのは普通は困難ですから。

私といえば、そうした研究の楽しくない面に加えて、強化される一方の規制とそれに付随する罰則や義務に縛られて研究現場の自由度が減少し、あちこちから小突き回されながら、だんだんとやりたいこともできなくなってきたという状況に嫌気がさしてしましました。一言でいえば、昔に比べて研究環境はどんどんhostileになってきたように感じます。そんな中でクリエイティブであるのは困難です。

最近、頼まれた論文のレビューをやっていて、研究という活動に対する私の情熱が急速に失われつつあることを実感せざるを得ませんでした。私は熱しやすく冷めやすい体質ではありますけど、研究だけは随分、長く続いたのです。

その論文は、かなりの量の実験とデータに基づいたもので、研究の着目も面白いし、比較的よく書けていました。多くの時間や研究費を割き、少なからぬ動物を犠牲にし、この研究をまとめあげたことは明らかでした。でも、その努力に対して、賛美したりなんらかの批判やコメントをして、それに応じてまた著者が実験をして原稿を書き直して「改善する」という活動が、言葉は悪いですけど、心からばかばかしいなあと感じてしまうようになってしまいました。もちろん口には出せませんけど、自分でも真面目にサイエンスをやっている人には冒涜的意見だなと思います。今後はもうこの手の活動には関わらないようにしたいと思います。

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週末のパン

2021-11-16 | Weblog
いつも週末にパンを買う店は、パン屋ではないのですがパンの種類が豊富でお手頃です。いつもは食パンとバゲットですが、バゲットの代わりにタスカン ペインという名のイタリア風のパンも美味しくてたまに買っています。

タスカン ペイン


この店で売られているパンの中でビジュアル的にもっとも惹かれるのが、ハッラー (ヘブライ語 Challah) ですが、食べたことがありませんでしたので、今回は買ってみることにしました。ハッラーは三つ編みが美しいパンで、もともとユダヤの安息日に食べられるものだそうです。見た目は美しいのですが、味は普通の美味しいパンでした。

ハッラー

ユダヤ由来のパンと言えば、多分もっとも有名なのはベーグルだと思います。茹でてから焼いてつくられるベーグルの粘りのあるしっかりした味わいは私も好きです。私のかつての地元の街にもベーグル専門店がありましたが、いつの間にか無くなってしまいました。わざわざベーグルを食べなくても、日本のパンはそもそも美味しく、ほかにも数々の選択がありますし。でも、ちょっと寒い朝に、半分にスライスしてトーストしたベーグルに、奥志賀の朝一番のゲレンデをイメージしながら、プレーンのクリームチーズをたっぷり塗って熱いコーヒーと一緒に食べるというのは幸せなものです。

セサミ ベーグルとクリームチーズ

またよく行く別の店ではポルトガル パンを置いてあるので、たまに買います。Massa Sovadaと呼ばれるミルクや卵が入っていて少し甘みのある菓子パンに近いパン。お腹が空いているときにはそのままパクパク。スライスして軽くトーストしてバターで食べても美味しいです。この店では、Bolo Levedoというポルトガルの甘いマフィンも一緒に売っています。マフィンといってもいわゆるイギリス風のモサモサしたのでも、アメリカの砂糖たっぷりなケーキ風のものでもなく、これは比較的目の細かい生地のしっとりした食感で、甘味もほどほどで、加えてあるレモンが仄かに独特の風味を醸し出しています。これを半分に切っていろいろな具を乗せてサンドイッチにしたりもするようです。私はスライスしてトーストでシンプルに食べるのが美味しいと思います。

Massa Sovada

Bolo Levedo

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外国人に評価が低い国

2021-11-12 | Weblog
生まれ育った国を出て移住する人々が世界中で増えております。今やサービス業、情報業を主業とする人々が増えてきて、インターネットさえあれば仕事ができるという人は土地に縛られずに世界中を移動できます。そういうExpatと呼ばれる脱出者のための組織、InterNationsは、世界で400弱のExpat コミュニティーの約400万人のメンバーに、Expatsのサポート、情報交換などのためのプラットフォームを提供しています。同時に、この国外移住者のネットワークを利用して、興味深い情報も収集しています。最近、発表された移住者の投票による外国人Expatsが選ぶベストとワーストの国は興味深いと思います。

ところで、私はこの社会の隅々にまで行き渡っているランキングや評価によるメトリクラシーをいうもののネガティブな側面を昔から嫌悪しております。そういう社会に否応なく生まれ育ち、その中で生きていかねばならないという現実の中でこれまでなんとか折り合いをつけてきたのですけど、数年前にそろそろ私はこの社会から降りるべきだろう思い始めした。というわけでランキングそのものもちょっと抵抗があるわけではありますが、今日はそれは本題ではないので、飛ばします。

Expatsが考えるベストな国は、一位は台湾、二位はメキシコ、三位、コスタリカ、四位 マレーシア、五位、ポルトガル、、、、と続きます。生活コストや安全性、利便さ、気候、人々の態度、社会制度、仕事、、などの数々の因子が総合的に考慮された上での投票による順位と思いますけど、例えば、すでに老後の引退者の移住に人気のメキシコや中米、ポルトガルなどが外国人に優しく、ゆえに順位が高いのは理解できます。

ちょっと悲しいのが日本で、60近くの国々の中でワースト6位という順位。名古屋入管の事件や、日本人の排他性、官公庁の不透明さ、遅れているデジタル化、不景気、高齢化、言語の問題、悪化する気候、融通のきかなさなどなどを考えると、いくら食事が美味しくて物価も比較的安く都市生活は台湾なみに便利としても、外国人にとっては今の日本は住やすくはないだろうなあと思います。

ちなみにワースト5は、エジプト、ロシア、南アフリカ、イタリア、クウェートです。イタリアは気候や文化では申し分ないが、仕事をする点で困難ということがネックになったらしいです。日本よりまだマシと評価された残りのワースト10に入った国は、キプロス、トルコ、インド、マルタ、スウェーデンでした。引退者に人気があるマルタは意外でしたが、マルタはそもそも国が非常に小さく、緑に乏しく混雑している点が嫌われたようです。残りの国々の問題点は比較的明らかですね。

同じアジアの国で食事が美味しく安全な国という点で共通する台湾と比べて、どうしてこうも日本は外国人の評価が低いのでしょう。台湾の物価が日本より安いというのは一因でしょうが、それが主な原因とは思えません。思うに主原因は日本の社会システムの劣化であろうと思います。多分にそれは政府の責任です。外国人居住者に評価が低い国は、その国民にとっては住みやすいということはないでしょうから、政府は日本に住むExpatからも日本の悪い点を指摘してもらって学べばどうでしょう。(政府が、縁故政治で国民の富を掠め取ることに熱心で、一般の住人から学んで住人のために社会システムを改善しようとする意思がないのが問題でしょうが)
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英語公用語化

2021-11-09 | Weblog
あまり面白い話が書けそうにないので、今日見たTwitterを紹介。

この日本企業が英語を社内公用語にするという話は数年前に聞いていました。当時も、英語の公用語化によってえ社内のコミュニケーションは可笑しいことになるだろうなあと誰もが予想したと思いますが、結局、その通りのことがおきたので、現時点ではこれは笑い話ですけど、今後も笑い話で終わるかどうか。
私は、この企業の現在とこの英語公用語以前との比較データに興味があります。

当時、日本企業で英語を社内公用語とすることが、「経営側」にとって、何のメリットがあるのか、という議論がありました。すぐに思いつくのは二つです。一つは英語能力という定量的メトリックが人事評価にすぐに使えるということ。これは普通の日本人は英語がそれほど得意でないという前提のもとに、非常に簡単な一つに指標によって、社員をランク付けし、それによって社員管理を容易にすることができます。英語が使えないから「グローバル企業」の社員として不適格という理由で昇給、昇進を阻んだり、クビにしたりすることも可能でしょう。もう一つは、実際に英語がしゃべれる外国人を安く雇うことによって、日本人社員の給与を抑えることができることです。英語が公用語に近いアジアの国々は多数あり、フィリピン、マレーシア、インド、などの人々は英語には問題はないわけで、英語環境で働けて自国よりもよい待遇があるとなれば、会社としては、そういう人を比較的安価に雇える可能性があります。その上で、彼らよりも英語ができないという理由で日本人社員の給与を抑えるという方法もとれるでしょう。

一方、日本企業としてのアイデンティティーや日本人雇用者の幸福を考えなければ、経営者側にとってのディメリットはわずかです。日本企業で日本人社員を雇いながら、英語が公用語というのは、自然と英語をうまく使えて英語を母国語とする人、すなわち英語圏のヨーロッパ系人種、を頂点にしたヒエラルキーを作り出すことであり、自らが二流人種だというクラス分けをすることを含意します。会社はそれによって、大多数を占めるであろう日本人およびアジア人職員を二流クラスにクラス分けすることで、さらにコストダウンもできるでしょう。

一方で、いくらこの会社の社長が流暢に英語で話して欧米人と握手していても、黄色い肌をしたアジア人が背伸びしているぞ、というようにしか白人社会はそもそも見ないし、まして英語を公用語化したといういうことは、自ら、その劣等性を認めるように見えるでしょう。結局、日本人はサル真似だけは上手いといういつもの差別的視線で見られるだけだと思います。

しかし、経営者にとってみれば、屈辱的で普通なら恥ずかしくてできないようなことでも、金のためだと割り切れさえすれば、社内英語公用語化は、社員管理を容易にし賃金を抑え、いざとなれば日本を捨ててよりコストの安いところにHQを容易に移すこともできる、というメリットがあるのではないかと想像します。

こうしたひねくれた見方が正しいのかどうかは、社内英語公用語化がはじまってからのこの会社の日本人と外国人社員の構成、給与の変化、ターンオーバーなどのデータがあれば、推測できると思うのですが、どうでしょう?

いずれにしても日本語が母国語同士の社員なのに、わざわざ使いづらい英語を使って話すというのは、二人羽織でそばを啜るようなもので、茶番といわれても仕方がないし、多くの外国人からみれば理解困難であろうとは感じます。
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DS氏のその後

2021-11-05 | Weblog
数ヶ月前、セクハラを理由にアメリカトップの研究所を解雇され、40名近いスタッフを抱える研究室の閉鎖に至った著名な細胞生物学者であるDS氏ですが、ふと、その後どういうように過ごしているのだろうと思っていたら、続報がありました。われながら人の不幸のゴシップをネタにするのはどうかなあと思いますけど、これは単純な話ではなく、あるいは「藪の中」的な話なのかも知れないと感じました。

最近のボストン・グローブの記事では、「セクハラの被害者はかつての恋人であるDS氏に復讐をするために虚偽の主張をして、DS氏を失脚させた」と主張してDS氏と代理人が裁判に訴えたことが報道されています。記事の中では詳細は書かれていませんが、訴状を読んだ人がコメントに捕捉を書き込んでいます。セクハラ「被害者」は、もとはMD/PhDの学生で2012年にDS研究室に来たようです。DS氏は「被害者」の学位審査員であり、「被害者」は、無事にPhDを終えて、2017年にこの一流研究所の研究員のポジションに抜擢されたようです。この研究所のフェローのポジションを得るというのはなかなか大変なことで、DS氏ももとはこの研究所のフェローから昇進したのでした。この時点で少なくともDS氏は「被害者」のキャリアに多大な貢献をしてきたことになります。その後、訴状によると、2018年に二人は男女関係となったが、2019年にDS氏は別れを切り出し、それに納得しない「被害者」がつきまとい、そして事件をでっち上げたとしています。これが本当だとすると実はDS氏のほうがセクハラの被害者ということになります。しかし、仮にこの話が本当だったとしても、「被害者」の今後のキャリアにも多大な影響力をもっていて恋愛関係にもあった人間が、梯子を外すように突然去っていくというのは相手にとっては大きなダメージであったことは想像に難くありません。もうひとつの(多分、女性の人による)コメントでは、「被害者」の女性の心情について、仕事の上でも今後のキャリアの上でも重要な人間との間に男女関係ができたとき、女性の方は永続的な関係、結婚し家庭を持つということを期待したはずだが、同じ職場のボスである男の方が別れを切り出して離れていったことに傷つき、打ちのめされ、屈辱を感じたと考えられる、しかし研究室という特殊な職場の中で逃げ出す場所がないという状況にあった、と推測しています。

MD/PhDは8年の大学院プログラムですから、仮にストレートで行ったとしても、この被害者の人は2017年時点で30歳を超えており、別れを告げられたのは32-35歳ぐらいと想像されますから、女性が家庭や子供を持つことを考えたら時間的な余裕がない状況です。そんな中で関係が一方的に終わり、女性としての幸せやプロフェッショナルとしての成功の約束が突然に失われた結果、愛情が恨みに変わり、これまでの関係をセクハラであったと解釈するようになるのはありえることだと思います。このコメントをした人は、(訴状が真実と仮定して)「昔であれば、このような行為はハラスメントとは見なされず、解雇や公的な訴訟も起こらなかったでしょう。最近では、性別が逆転しているのを目にします」と続けています。

しかし、DS氏、確かに年の割には若々しく、若いときはなかなか二枚目でしたけど、この「被害者」の女性とは20歳ほどの歳の差があります。たとえ魅力的な人間で職場で親密になったからといって、DS氏を長期的な将来を考える相手として見るでしょうか?DS氏が地位を利用して関係を迫ったのか、あるいは二人が同意の上で男女関係になったのかどうかが争点になるのでしょうが、その辺は解釈は難しいと思います。最初は強引なアプローチで関係に入ったがそのうち情がわいてミューチュアルな関係になるというよくある浮気にパターンだとすると、セクハラで始まったが、あとは合意の上での関係継続であった可能性もあります。男の方はセクハラと思っていなくても女性の方がそう解釈することもあるし、どこまでがセクハラでどこまでがちょっと強引なアプローチなのかは、確たる証拠がなければ、双方の解釈次第の水掛け論になるでしょう。ただし、施設側の解雇の判断が迅速であったことは、なんらかの証拠があったということだと思います。それが、確固たる拒否があったのを力でねじ伏せたのか、あるいは「イヤよイヤよも好きのうち」的拒否でむしろ誘惑されたぐらいだったのか、それさえも解釈次第というところがあります。

しかしながら、一歩下がって考えれば、そもそも、かなりの力関係の差がある状態で、職場の学生に遊びで手をつけたこと自体が大間違いであったのは間違いありません。この訴状からは、DS氏のセクハラ事件はビル クリントンの事件を思い出させます。もしも、トランプ タイプのセクハラだったのなら、他にもいろいろ前科があってすでに悪評が立っていたはずだと思いますし。

この事件から学ぶべき点があるとすれば、君子危きに近寄らず、李下に冠を正さず、平たく言えば、職場の部下と深い関係になってはならない、ですかね。

追記。さらに詳細な事情の考察(推測)をしているサイトがありました。
どこまでが推測でどこまでが事実なのかよくわかりませんし、DS氏の研究不正の話が混じっているので、多分にバイアスの入った意見のようですが、解雇当時、研究所の調査で「深刻な問題」と表現されたように、セクハラやパワハラは常習化していたのかも知れません。

また下の記事では、DS氏の裁判は、その被告になっている研究所が継続中の調査を妨害するとして、裁判の開始を遅らせて裁判を非公開にするようにと要望を出したということです。

世界トップの研究所でのドロドロのドラマ。研究どころではないですね。
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衆院選のこと

2021-11-02 | Weblog
衆院選の結果は、ガッカリでした。自民は議席を減らしたと言っても、政権交代には程遠いレベルでした。野党が議席を増やしたとはいっても、増えたのは、自民の補完勢力、野党もどき、ゆ党の維新でした。これをイギリスの新聞、Gurdian紙は「右翼ポピュリスト」が大阪で大勝、という見出しで報道。思想、政策的に近年の自民党と重なる部分が大きく、本来、保守支持していた人々が自民に変わる政党(自民党はすでに保守ではなく、過激な右翼だと思いますが)と考えて投票したと思われます。Gurdianの見出しから想像すると、彼らには維新がトランプと重って見えただろうことが想像されます。人々の不満に手を突っ込んで扇動するポピュリスト、少なくとも彼らの目にはそう見えたのでしょう。

予想はされたことでしたが、野党第一党であった立民も議席を随分減らしました。比例復活したもの小沢一郎が選挙区で落選、立民副代表だった辻元氏は選挙区比例区ともに落選し議席を失うという波乱がありました。辻元氏を破ったのはほぼノーマークの維新候補。小沢一郎もさすがに若い頃のカリスマはもうなくなってしまったようです。

れいわが比例で3議席を得たのが数少ないうれしいニュースで、共産党とともに与党の腐敗を追及してくれることとは思いますけど、今はそれができる最大のことになりそうです。共産党からは比例復活した宮本たけしさんの活躍が楽しみです。共産党は本当に良い人材が揃っていると思います。人々も共産党という党名ではなく、それぞれの議員の仕事ぶりをみて支持、不支持を決めて欲しいものだと思います。

残念ながら、自民と公明が与党に残り、岸田氏が総理を続けるということは、アベ スガ政権の腐敗政治の総括はなされることもなく、国民生活は今後も切り捨てられ、ネポティズムは蔓延り、田舎は見捨てられて「囲い込み」で都市へと集中する労働力はこれまで以上に低賃金で使い捨てにされ、急速に高齢化する老齢者は見捨てられ、国力はますます衰微し、独裁化はますます進んで、国民が総玉砕する中で富裕層は安全地帯で刹那的な快楽に耽るということになるのでしょう。経済的な指標で言えば、すでに国民の大多数が世界的基準から言えば「負け組」となりつつある日本で、この十年、民主党政権時代からほとんどの指標を下げ続けて貧困化を加速させてきた張本人がアベ スガの腐敗政治なのに、まだまだ有権者の多くが自公を支持しているというのには絶望を感じざるを得ません。思うに、多くの人は自分の生活に忙しくて、外からみたら、日本人の多くが負け組であって、日本の与党政府は異常極まりない腐敗ぶりだということにあまり注意を向けていないのでしょう。

こんなツイートがありました。

それでも識者は「れいわ」の議席に一縷の希望を見ているようです。れいわは参院選以降、コロナで集会の制限もあって、一時の勢いを失っていましたが、これから山本太郎の個人的な政党ではなく、しっかりした組織として、切込隊長的な役割以上の大勢力へと育っていって欲しいと思っています。

コメント (1)
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