百醜千拙草

何とかやっています

コリンズの辞任が象徴するもの

2008-06-20 | 研究
ヒトのゲノム配列解読は、当初、パブリックセクターはNIHのフランシスコリンズが指揮し、プライベートでは元NIHのクレイグハンターがセレラを率いて、火花飛び散る競争を繰り広げ、10年に渡るビッグプロジェクトを完成させました。ヒトゲノムの一通りの解読後は、Deep sequencingの方向へと発展し、HapMap Projectを中心にヒトゲノムの多様性と疾患との関連についての研究という方向へと進んできました。一方でゲノム情報に基づく「個の医療」を実現していこうという方向性も明らかになってきて、例えば23andMeという会社では、個人のゲノム解読サービスを売るビジネスを現在展開しており、シークエンス技術の向上につれこの手のビジネスは増加していくものと考えられます。現在、pyrophosphate法による大量シークエンス技術が454/Roche、Solexa/Illumina、ABSで商業化されていますが、更に次世代の単一分子シークエンス法がかなり実用に近づいてきているようです。この単一分子シークエンシングでは、2通りの方法が使われているようで、一つはポリメラーゼ反応を使用し、蛍光色素のついたポリメラーゼと蛍光ヌクレオチドを使って、DNA合成中におこるFRETをリアルタイムで読むという方法、そしてもう一方はもっと物理的な方法で、先端が10ナノメートルのプローブを使い、伸ばした単一鎖DNA上を文字通りなぞっていく間に、塩基の違いに由来する物理的な特性の差を検出することによって配列を決めるというものです。これらの単一分子シークエンス法が、454などのシークエンス法に対して優れている点は、一回のリードで何キロもの連続した配列を極めて短時間で読めるということです。確かに454では大量の塩基解読が可能かもしれませんが、PCRが必要なこと、一塩基を決めるための反応時間が長いことから、一回のリードで読める塩基数は現在、約100塩基程度、新型の機械でもせいぜい、数百塩基が限界です。これらの短いフラグメントをゲノムのサイズに組み立て直すことは、極めて高いコンピュータ機能が必要となります。つまり、現在のpyrophosphate法では、Deep sequencingはできても、それをゲノムに組み直すという点で大変な困難があるということです。ヒトゲノムプロジェクトを振り返ってみても、当時の最高機能のコンピューターはセレラが持っていて、それによって初めてショットガンシークエンシングによって得られた塩基配列のアッセンブリーが可能となったのでした。しかし、一リードで相当な距離を一気に読める単一分子シークエンス法が実用化されれば、コンピューターによるアッセンプリー作業の負担は相当軽減されると考えられ、国民みんなが自分のゲノム配列を知っているという時代が非常に近くなると考えられます。フランシスコリンズは10年以内には一人1000ドル以内で個人の全ゲノム配列を決めることができるようになるであろうと予測しています。そのコリンズが、今回、NIHのヒトゲノム研究所(NHGRI)の所長を辞めることを表明しました。もともと医者である彼は、ゲノム解読という最初の大きな目標を達した後、如何にこれらの情報をヒトの健康の増進、疾病の予防といった次のレベルの目標に繋げるかという視点を持っていました。そのためには多数の対象者を対象とするゲノムシークエンスデータと種々のパラメータを関連づけるための前向き研究が必要だという結論に達したわけですが、現在の技術でそれだけの大規模で高価な長期研究を遂行するとなると、年間300 - 500億円程度が必要となる計算で、とてもそんな予算を国が割く余裕がないという現実に直面することになりました。そんなフラストレーションもあり、また多分58歳という年令のこともあって、彼は新しいchallengeを求めてNHGRIを去ることを決めたそうです。辞めてからは、「個の医療」についての本を執筆し、それから次のポジションを探すとのことです。一個人のできることは限られています。彼の満足するような新しいchallengeがそうそう転がっているとは思えませんが、是非とももう一花咲かせてもらいたいものだと思っています。一連のゲノムプロジェクトフィーバーが終焉を迎えたことを象徴しているようなコリンズの辞任でした。
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ロレンツの蝶

2008-05-20 | 研究
MIT気象学者、エドワード ロレンツの先月の死亡を伝える記事がNatureに出ていました。1917年生まれなので91歳です。多くの他の人と同様、私がはじめてロレンツの名前を知ったのは「ロレンツのアトラクタ」からです。彼は、1963年の「決定論における非周期的フロー」と題された論文で、上方の冷たい液と下方の暖かい液が交じり合う際におこる動きをコンピュータシミュレーションする実験結果を示し、流れは非常に不規則に起こり、そのパターンは初期条件の極小さな変化に鋭敏に影響されるということを発見しました。この実験でロレンツが温度と流れの対応グラフを描いてみると、このグラフは蝶の羽の型のように二つの焦点をもつような型となり、このグラフのパターンが「ロレンツのアトラクタ」として知られるようになったのでした。この初期条件に非常に鋭敏なシステムは自然の多くの例に見られ、このことがカオス研究の先駆けとなりました。カオス研究は、初期条件が決まれば運命は決定的に決まると考える「決定論」に対する批判となりました。事実、コンピュータシミュレーションを使った実験で、複雑な系では条件をより詳しく設定すればするほど、その結果はより大きく変動することがいろいろな例で知られており、長期に渡る気象の予想や環境の予想は不可能であると考えられています。このロレンツの仕事は、非線形系、複雑系の研究を巻き込んで、カオスブームとでもいうべき研究の流れを作り出しました。その様子がJames Gleickの「Chaos」という一般向けの本に描かれています。日本でもベストセラーとなり、新潮文庫にも収められています。この本が出たのが80年代の終わりで、(一連の宇宙ブームを始めとする科学ブームと重なっています)私のカオスに対する理解も殆どこの本によっています。その中でも紹介されているロレンツの言葉から、「バタフライ効果;butterfly effect」という言葉が一般にも広まりました。これは複雑系の初期条件への鋭敏な感受性を比喩的に述べたもので、オリジナルは1972年のアメリカ科学振興協会(AAAS)での彼のトークのタイトル、「ブラジルでの蝶の羽ばたきがテキサスで竜巻を起こすか?」です。このバタフライ効果をあらわす言葉にはいくつかバージョンがあって、私が最初に知ったものは、中国での蝶の一羽ばたきがアメリカで台風となる、というようなものでしたし、その後、ブラジルのかわりにアマゾン、テキサスのかわりにグアテマラなどに置き換えられたバージョンを目にしました。数年前には、アメリカのTVシリーズで人気が出て映画に進出したAston Kutcherという若手男優主演の「Butterfly effect」という映画も作られました。ロレンツの研究が火付け役となり、James Gleickの本を通じて市民権を得たカオス研究が社会一般に広く知られた結果だと思います。私の手元には、2冊の小学館のプログレッシブ英和辞典があって、一冊は1986年の第二版、もう一冊は第四版なのです。ちょっと見てみると、Butterfly effectは第二版には見当たりませんが、第四版には収載されています。おそらく、この言葉はJames Gleickの本のヒットによって広まったのでしょう。ロレンツは36年前にトークタイトルに使った例えが、現在のハリウッド映画のタイトルにまでなるとは 、予測できなかったに違いありません。はたして、36年前に彼が「蝶」というかわりに「蚊」と言っていたら、映画はヒットしたでしょうか。
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生物の尊厳

2008-05-02 | 研究
以前から生物研究界では、実験動物に対する動物活動家による妨害行為などがありました。実験動物をこっそり逃がしたり、動物実験施設を襲撃したりといったことです。他人の立場になって気持ちを考えるというのは、現代社会において欠くべからず資質であると思いますし、その気持ちが他の生物まで拡張するのも自然なことであると思います。ペットとして犬や猫を飼っている人が、実験のためだけに育てられて利用される犬のことを「可哀そうだ」と思うのは自然なことだし、実際、大切なことだと思います。エリザベス キューブラー ロスは、子供の頃、可愛がっていた家畜のウサギが晩ご飯のおかずになってしまったことが強いトラウマとなったと述べていました。ここに、生存のためには、他の生物を利用し、食べざるを得ない人間のジレンマがあります。可哀想だと思う、思わないに関わらず、人は他の動植物を殺して、食べることなしには生きていけません。仮に牛乳と果物だけで生きている人にしても、食べる以外にも、気づかない間に虫を踏みつけて殺していたり、殺菌ソープで体表面の細菌を殺したりしているわけで、殺すという行為と無関係に私たちは生きていくことはできません。ただ、可哀想だと思う気持ち、食物になった他の生物に対する感謝の気持ちを持つことは、人間自身にとって重要であろうと思います。そういう気持ちを持つ事で無用な殺生はしなくなるでしょうし、人間同士の間の思いやりも育つでしょう。実験動物に対しても同様の気持ちを持てないなら、生命科学研究者としては失格であろうと私は思います。動物は私たちに近いし、感情移入しやすいので、彼らの痛みや苦しみは想像しやすいと思います。それでは植物はどうでしょうか。ベジタリアンであっても、生物である植物を殺したり、その一部を取って食べたりすることには違いありません。動物と違って、殺される時に血を流したり叫んだりしないので、私たちが彼らの苦しみや痛みを余り感じなくて済むという点はあると思います。以前、植物の声を聞く事ができる人の話を読んだことがあります。知り合いの人の家を訪ねたときのこと、家中に満ちている悲鳴をその人は感じたのですが、それは、しばらく水やりを忘れていた数々の鉢植えの枯れかけた植物が発していた声なのでした。もし、私たちが、動物の場合と同様に、食べられるためだけに栽培され、収穫される植物の気持ちが理解できるなら、植物解放活動みたいなものが現れる可能性もあるでしょう。
 最近のスイスでは、植物の気持ちを思いやることを考えはじめているようです。実験動物をあつかう研究プロトコールには、実験動物に無用な苦痛を与えないことや、必要のない実験を行われていないことなどを示す事項が含まれています。このたび、スイスのヒト以外を対象としたバイオテクノロジーにおける政府の倫理委員会は、植物研究において「植物の尊厳」を損なう研究を支援しないためのガイドラインを策定したとのことです (Nature 2008 452, 919)。スイスでは2004年発行の遺伝子技術法に「生物の尊厳を尊重すること」という条項が既にあるのですが、今回、具体的に植物にも生物の尊厳を拡張しようとしているようで、植物研究の研究費申請には、どのように「植物の尊厳」が考慮されているかを明記しないといけなくなるらしいです。研究者側は、「植物の尊厳」を尊重するとは一体どういうことなのかと頭をひねっているようです。植物の気持ちを理解することができない人間が、自分たちの立場で考えた「尊厳」なのですから、その「尊厳」がどれぐらい植物を満足させるのか、わかるわけがありません。植物の気持ちは植物に聞けでしょう。また、あるものの尊厳とはそのもの自身によって判断されるべきであろうと私は思います。実験生物の「尊厳」云々は、私は人間の場合の安楽死のケースからの拡大ではないかと思うのです。脳などに傷害などを受け、自分自身で生命活動を維持していくことができなくなった状態で、呼吸器と栄養補給チューブに繋がれて心臓だけが動いているという不幸な人がおられます。そういう自立性を失ってしまった人から生命維持装置をはずして死を迎えさせることを、最近は「尊厳死」と言ったりすると思います。生物の尊厳と言う場合には、実験などによって、自立的な生命維持ができなくなるような状態にすることが、どうも尊厳をそこなうということになるようです。しかし、そう言い出せば、遺伝子変異を導入して致死性の形質が出るようになった生物は全て、尊厳が損なわれていることになってしまいますし、そうでなくても、意図的に生物を交配し、操作し、飼育室で管理するわけですから、そこに自立性などないも同然で、基本的に全ての生物実験は尊厳の尊重の違反であろうと私は思います。あたかも実験生物の側に立ったかのような形式的な「尊厳」を云々するよりも、私たち自身が、他の生物を利用し、殺し、食べることなしに生きていけないという事実を真摯に見つめ、その上でそうした生物に感謝するという自分たちの側からできる事をすべきであろうと思います。「尊厳」だ何だといっても、生物の側にとっては、利用されて殺されることには違いはないのですから。聖書に言うように、もし、動物たちは明日何を喰わん、何を着んなどと思い煩うことなく、日々栄光に満ちた生をただ生きているのみなのであれば、彼らは彼らの毎日に起こってくることを、判断なくそのまま受入れて生きている存在なのかも知れません。もしそうなら、そんな彼らの生命のどこに人間が言う「尊厳」などというようなものの入り込む余地があるのでしょうか。彼らの生はそんなものは超越しているのです。人間以外の生物の「尊厳」を云々することは、ある意味、生命の頂点にいるとでも思っている人間の傲慢さの表れなのかも知れません。
 人間であっても「尊厳」の定義は、人それぞれで違うと思います。昔、乳癌の脳転移で麻痺をおこした患者さんがいました。治療も一時的な効果しかなく、残された日々が限られているということが明らかになってきた時、患者さんは一人暮らしながら自宅に帰ることを希望されました。私は希望をかなえて上げるべきだと思いましたが、神経内科の主任は、このまま自宅に帰っても身の回りのことをするのもままならない、惨めな状態になるのがわかっているのだから、病院で「尊厳」を保った状態で死なせてあげるべきだと主張しました。私はこの時、神経内科主任が繰り返し使った「人間の尊厳」という言葉を非常によく覚えています。死ぬ間際になっても希望どおり自宅に帰ることさえもできないのに、「尊厳」が保たれてるとは思えない、と私は何度も抗議しましたが、神経内科主任の頭の中には、絶対的な「尊厳」の定義がすでにあって、患者さんの意志よりもその「尊厳」が保たれる方がもっと重要だという考えがあったようでした。あるいは、以前に患者さんの意志を尊重したばかりに悲惨なことになった例を経験していたのかも知れません。しかし、私は今になっても「尊厳」などというものが、本人の気持ちの外に独立してあるとは考えられません。しかし結局、人生を生きるとは、ままならない不自由を肯定的に受入れていくことに他ならないのですから、その患者さんにとってどっちが良かったのか、その本人以外に判断のしようもないと思います。例え選択肢に限りがあっても、その中で本人がベストであると思うことを自らの意思で選ぶことができないなら、肉体ではなく精神の自立性が損なわれていると言ってよいのではないかと私はと思います。それはまさしく「尊厳を損なう」ことではないでしょうか。
生命を尊ぶことは大切なことであると思います。それは自らの内側からでてくる感情に基づいていなければならないと思います。それなしに、外側から「尊厳」を尊重しろというのは、一方では、体裁だけつけておればそれでよいというような態度を間違いなく生むでしょう。生命の大切さや神秘さを感じ、尊重できない人に生命科学をする資格はないと私は思います。
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行く人来る人

2008-04-18 | 研究
MITのノーベル賞科学者、利根川進氏が日本の理研で研究室を立ち上げるという話を聞きました。二年前までMITのPicower Institute for Learning and memoryのディレクターを務めていたのですが、(おそらく)新規教官雇用にからむスキャンダルのために辞任しました。そのころ、MITでは教員の性差別、人種差別に関する複数のスキャンダルがありました。一つは黒人のJames Sherleyというステムセルの研究者がテニュアの申請を却下された事件で、彼は自分の業績とNIH資金の獲得(栄誉あるPioneer Awardを受けていました)から、テニュア申請が却下されるのは腑に落ちない、人種差別に違いないと主張し、ハンガーストライキを含む様々なキャンペーンを行いましたが、結局、MIT側は、あくまで業績の内容から判断したと突っぱね、結局、彼はボストン郊外にある小さな研究所に移らざるを得なくなりました。NIHのPioneer Awardの獲得というのは立派なもので、受賞者がその研究成果を発表するPioneer Award SymposiumがNIHで開かれるのですが、発表会の告知では、彼だけが所属機関が空欄になっているいう異常な状態でした。現代アメリカ構造言語学の重鎮、Noam Chomskyら複数のMITの教授もSherleyを支持しましたが、決定は覆ることはありませんでした。ちょうどその騒ぎがおさまりかけた頃、MITのジュニアのポジションに応募してきたAlla Karpovaという女性研究者がいて、ポジションがほぼオファーされるという段階まできていました。噂によると、利根川氏ともう一人が、十分な理由なく強硬に反対していたようで、利根川氏は、この候補者本人に、オファーを受けないようにという恐喝めいたメールを直接書いたとのことでした。利根川氏本人がどう言い訳したのか覚えていないのですが、ジュニアで希望に燃えてMITでがんぱろうとしている候補者に対して、将来の所属することになる研究所の所長が脅しめいたメールを書いたのですから、許されざる暴力だと思います。利根川氏の素行については、いろいろな噂を聞きますから、本人を知るものにとっては、またか、という程度なのかも知れません。しかし、このスキャンダルが各紙に大きく取り上げられた結果、どうもそれが所長の辞任に繋がったようです。ただしこの時もMITは何ら懲罰的処置を利根川氏に対して取る事はありませんでした。結局、Karpova はMITには就職せず、Janelia Farmと呼ばれるVirginiaにできた研究施設にポジションを得たようです。Janelia Farm Research Campus の名前は、多分まだあまり知られていないと思いますが、これは、あのHoward Hughes Medical Institute (HHMI)の新しいキャンパスです。HHMIはアメリカのprivate の医学、生物学研究財団としては、最大の機関で、HHMI 研究者に選ばれるというのは、中堅の研究者にとっては、非常な栄誉であると同時に莫大な研究費が十年にわたって約束されるという、皆がうらやむポジションです。そのHHMIが、選りすぐった精鋭研究者を集め、最先端の機器を投入して、Virginiaの田舎の山の中に造ったエリート研究所がJanelia Farmなのでした。HHMI研究員は通常、どこかの大学なり研究施設の所属している人が、各施設のノミネーションを経て、選考されるので、HHMI研究員となっても所属機関が変わるわけではありません。しかし、このJanelia FarmはHHMI直属の研究施設であって、いってみれば、タイガーマスクが修行したという「虎の穴」みたいなところです。田舎のど真ん中にある最高の研究施設で、頑張ってユニークな研究成果を出した後は、いずれは研究者の少なからずが普通の大学などの施設へ出て行くことを期待されています。そういう意味でも普通の大学とは随分違っています。そのJanelia Farm構想を指揮したのが、HHMIのプレジデントのノーベル賞科学者、Thomas Cechでした。彼は、自分の研究室のあるコロラド大学とHHMIのあるメリーランドを毎月往復しながら、8年間presidentを務めたのですが、今回、「普通の研究者に戻りたい」(と言ったかどうか知りませんが)、 もっと研究に没頭したいと、HHMI presidentの辞任を表明しました。彼のその「普通の研究者に戻りたい」願望が、どうも昨年、彼がHarvard総長就任の申し出を蹴った理由のようであります。
次期HHMIのpresidentは誰が務める事になるのでしょうか。Thomas Cechクラスの人材がそう簡単に見つかるとも思えません。私がHHMIのお世話になることはないでしょうから、誰が次期presidentになろうと、まあ人ごとではありますが、野次馬気分で経過を見守りたいと思います。
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急がば回れ

2008-04-08 | 研究
3/28日号のScience誌のEditorialで、新しくChief Editorとなった生化学者、Bruce Albertsが「Shortcuts to Medical Progress?」というタイトルで、最近のTranslational Research偏重傾向を批判しています。「私たちは二点間の最短距離は直線であると教えられてきたが、医学研究の進歩においては、これが正しくないことは繰り返し示されていている」と書き出し、その理由については、生物についてわかっていることが余りに限られているからであると述べています。多くの科学政策に携わっている当事者が、科学研究の成果を臨床応用していく上で必要な知識が多く欠如していることを理解していない(ように見える)とあります。(応用研究ではなく)基礎研究が臨床応用につながる科学発見の牽引力であると述べ、例として最近ノーベル賞となったRNAiが線虫の研究で発見され、現在その技術を使った医薬品の開発が多くのバイオテク、製薬会社で進行中であることをあげています。このことは、昨年亡くなったノーベル賞科学者のアーサーコーンバーグも繰り返し述べており、基礎研究こそが医学の進歩に最も貢献してきているという歴史上の事実を指摘してます。企業などでは多くの分野で精力的に応用研究やtranslational researchが遂行されているが、基礎研究に金を出せるのは政府やごく限られた財団のみであることを指摘し、臨床的に有用な技術、発見を促進するには、公的研究資金は、臨床応用研究ではなく、基礎研究に投資すべきであるということを、広く一般に理解してもらう必要があると結論しています。
私にとっては、この当たり前の事実を、一般の人はともかく、どうして科学政策を決定する人々が軽視するのかわかりかねます。基礎研究の重要性という歴史的事実を単に知らないのか、あるいは知っているが一般国民の臨床応用への強い希望があるので、それにしたがって政策を決めているのか、いずれにせよ、より良い科学政策を施行するという観点からは、賢くないです。前回のムネオカさんの研究のように、長年基礎研究の観点で研究してきたテーマから臨床応用の可能性が出てきて、応用研究へと発展していくならともかく、政府が基礎研究に回す資金を削ってまでtranslational researchに金を回すのは本末転倒も甚だしいと私は思います。アメリカNIHは、国民の健康増進を最終目標に研究資金を供給する機関ですから、人の健康や病気と絡んだ議論が必要なのはわかります。資金が乏しくなってきている現在、だからといって、人の健康や病気に直接関係した研究を優先しようとするのは、最終的には、国民の健康増進という目的の達成には、全く逆効果であることを関係者はあらためて認識すべきであると思います。日本においては、もう一層の困難があると思います。科学政策に携わる政治家官僚が、科学について無知であるというだけでなく、更にアメリカのマネをしておればよいだろうという無責任主義があるからです。失敗しても、お手本のアメリカが失敗したのだからしょうがなかったと責任転嫁をするわけです。そのアメリカがこうして失敗を重ねているのを見ながらも、同じ失敗を重ねて行ってしかも反省する所がないのですから、救いようがないです。
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四肢再生

2008-04-04 | 研究
ケン ムネオカさんはルイジアナ、チューレーン大学の分子細胞生物学の教授です。私がはじめてムネオカさんの仕事を知ったのは、十年ぐらい前にFGFの四肢のパタニングへの役割を調べた論文をたまたま読んだことによるのですが、その論文では妊娠中期のマウス胎児の足の指の隙間にFGFをしみ込ませたビーズを手術で挟み込み、子宮に戻して発生を観察するという極めて繊細な職人芸が披露されていました。体長僅か数ミリの胎児のマイクロンレベルの足の指に子宮内手術を施すというワザにスゴいものを感じさせます。私はこの手の職人芸にいつも惹かれてしまいます。普通の人にはまねのできないプロの切れ味みたいなものを感じてしまうのです。しかしそれ以来、分野が違う事もあってムネオカさんの仕事をフォローすることもなく月日が流れたのですが、たまたま先日、一般向けの科学誌、Scientific Americanにムネオカさんが寄稿されているのを目にしました。現在の研究の大きなテーマの一つは哺乳類での四肢の再生の研究ということらしいです。サンショウウオなどでは手足が切断されても、二ヶ月ぐらいで再生されます。人間ではそうはいきません。しかし詳しくみていくと、人間でもあるていどの再生は認められますし(たとえば胎児の指の再生など)、失われた四肢を再生するというのは、十分現実味のある話のようです。サンショウウオの足の再生時にはBlastemaと呼ばれる未分化な細胞が切断端に増殖してきて、発生時と同様の分化プロセスを経て、再生を誘導します。サンショウウオではBlastemaを誘導するにはいくつかの条件を満たすことが必要で、一つは神経が切断されることです。この神経の切断がBlastema細胞を誘導する因子を出すらしいです。第二に必要なものは、繊維芽細胞、そして傷ついた上皮です。人間でも、指先であれば、切断後の再生例というのは多数報告されています。主に子供ですが大人でも報告があります。しかし、よく実際の医療現場でやるように、指先を切断してしまった場合に皮膚を縫合してしまうと再生はおこらなくなってしまいます。これはサンショウウオの実験でもわかっていて、皮膚を縫合して傷口を閉じてしまうことでBlastemaの誘導が阻害されるかららしいです。同様に、マウスでも指先の再生はおこるらしいのですが、サンショウウオとかと比べると再生上皮が傷口をカバーしていく速度は非常に遅いそうです。マウスにもこの過程でBlastema様の細胞が出現することがわかっています。またヒトの場合、サンショウウオと違って、真皮の繊維芽細胞は傷を受けた場合に多くの繊維を産生し傷跡を残しますが、この繊維の組織への蓄積が再生という点でも、組織機能の保持という点でも良くないことがわかっていますので、繊維の産生をうまく抑制することが鍵である可能性があります。いろいろ困難な問題はありますが、こうしてサンショウウオとヒトまたはマウスとの違いを明らかにしていって、再生過程を操作する方法を開発していけば、いつかはヒトでの四肢の再生というのは可能になるかもしれません。
ところで、この研究はアメリカ防衛省から資金援助を受けているようです。防衛省は兵士の健康増進、戦争時の傷害の予防、治療などを目的にした医学生物学研究に資金援助をしています。 私は「translational research」という言葉や概念が大嫌いなのですが、今回のムネオカさんの研究は、基礎研究としても非常に興味深いし、臨床応用の可能性という点でも夢のある話だと思いました。しっかりとした基礎研究がまずあって、その上で自然と臨床応用への道が浮かび上がってくるようなtranslational researchであれば、Win-winだと思うのですが、残念ながら、多くのtranslational researchというのは研究費が目当ての即席プロジェクトのように見えます。それでは基礎研究としても応用研究としても使いものにはなりません。
ともあれ、今後のムネオカさんの研究に期待したいと思います。
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司法が科学界に振るう暴力

2008-03-14 | 研究
論文のピアレビューというのは、研究の世界ではなくてはならないボランティア活動です。一つの論文のレビューに最低でも2-3時間は普通かかると思いますが、殆どの場合これは無償の労働です。私はどちらにせよ、通勤中に読むものが必要なので、それほどレビューを負担に思ったことはありませんが、それでも忙しい時にやってくるレビューの依頼は、どうしてもしなければならないもの以外は断ってしまいます。私でさえこんな調子ですから、もっと偉い人々はもっと多くの数のレビューの依頼があって、多くの依頼は断られ、適当なレビューアを探してエディターは苦労することになるのでしょう。論文にせよグラントにせよ、ピアレビューというボランティアをそれでも引き受けるのは、持ちつ持たれつだと思っているからです。ですから、時間を割いてレビューした論文のできがひどいとやはりちょっとムッとします。逆によい論文だと、面白い論文を読ませてもらえてよかったと思います。私の場合は「誰が」論文を書いたかという点はレビューにはほとんど影響しませんが、一般論として、どこから出た論文かということがレビューに大きく影響する可能性は勿論あると思います。これまで実績のある有名な研究室からの論文は、読む方もある意味、安心して論文を読みますし、そのために問題点を見落としたり、甘い点になったりするでしょう。また、知り合いの研究者であれば、好意的な点をつけてあげようと思ったりもするでしょう。逆に知らない無名の人が、妙にスゴいデータを出していたりしたら、レビューはより厳しい目で見られると思います。一般的に論文の質は研究者の過去の実績とかなり相関しますから、レビューアがこうした先入観を持つのはやむを得ないと思います。
 以前からレビューでのこうした先入観を排除するために、レビューをDouble Blindにしたらどうかという意見があります。賛否両論あります。もっとも多い反対(?)の理由は、名前を伏せたところで、この狭い研究者の世界でアイデンティティーを隠すことはできず、誰が書いた論文かはどうせ簡単にわかってしまうということのようです。10年前、実際に調べた結果では、名前を伏せても40%の論文で著者を正しく推測することが可能であったそうです。しかし、これは駆け出しの無名の研究者にはあてはまらないと思います。また実際にDouble blind reviewをやってみて、掲載論文の質が向上するかどうか見てみてもよいのではないかという賛成意見もあります。著者がレビューアに分かっている場合は有名研究室は有利になると思われますが、トップクラスのジャーナルがDouble Blind reviewに消極的なのは、そうした有名研究者からの圧力があるのではないかと推測する人もいます。いずれにせよ、論文レビューという研究業界にとって欠かす事のできないボランティアワークを如何にそのintegrityを保ちながらも効率よくしていくかというは重要な問題ではあります。
 さて、製薬会社のMerckが関節炎治療薬、Vioxxの副作用のために膨大な数の訴訟をおこされ、最終的に総額$4.8 billionという金額で和解に至ったのは、つい最近のことです。Vioxxと同じCOX2阻害薬は、あと二つ市場に出ていて、いずれも世界最大の製薬会社、PfizerがCelebrexとBextraという商品名で出しました。Vioxxの問題を受けてBextraは市場から撤回されたのですが、Celebrexは未だに臨床で使用されています。当然、Vioxxでみられたような副作用がCelebrexやBextra使用患者で現れた場合があって、訴訟になってます。これらの薬剤の臨床研究の論文の多くが、権威ある臨床医学雑誌、New England Journal of Medicien (NEJM)に発表されているのですが、 Pfizerの弁護団はNEJMでこれらの論文掲載へいたった経過を調べれば、CelebrexやBextraの安全性を示す証拠となるデータなどが見つかるのではないかと考え、 NEJMに情報公開を交渉してきました。NEJM側は、論文の著者とEditorial Officeとのやり取りだけを含む合計246ページの文書を提供しました。Pfizerはさらにピアレビューの内容と他に投稿された関連論文をNEJMに提供するように求めたのですが、NEJM側は拒否、結局、Pfizerは法的機関に訴えてNEJM側に論文レビューのプロセスを開示するように求めました。つまり、Pfizerの弁護団はNEJMのような雑誌は他にもCelebrexやBextraと副作用との因果性を否定するような論文を受け取っている筈だし、また論文のレビューの中にもPfizerの主張を裏付ける様な記述があるかもしれないと考えているのです。この弁護団の要求は、Pfizerにとって都合の良い裁判材料を手に入れるためには、Confidentialであることを大前提に成り立っている科学論文出版のプロセスの原則など知った事かという傍若無人なものであると思います。更にPfizerの弁護団は、「一般人は科学雑誌の編集システムの保護などよりも、薬害についての知識を明らかにして欲しい筈だ」という暴論を吐いています。対して、NEJMのeditor-in ChiefのDrazenは、もしConfidentialであることが大原則のピアレビュー、科学雑誌編集で、情報開示が裁判で認められたりしたら、これは科学論文出版でなくてはならないピアレビュープロセスに重大な悪影響を及ぼすであろうとコメントしています。レビューアにとっては彼らの研究時間をわざわざ割いて行ったボランティアの仕事のために、へたをすると裁判のごたごたにまきこまれしまう危険性があるとなれば、ただでさえできたら断りたい論文レビューなのですから、レビューの依頼を受けないという人は増えるでしょう。いわば「善意」のボランティアで成り立っている科学雑誌編集に、基本的に裁判当事者と弁護士の「利益」を求めて動く裁判関係者が侵入してきたら、自由な科学的議論さえ妨げられてしまうであろうと私も思います。彼らにとっては挙げ足取りは答弁上の正当なテクニックなのですから。サイエンス誌のChief editorのDon Kennedyは、「ひょっとしたらPfizerに有利な情報が見つかるかもしれないからとにかく見せろ」というPfizerの態度を、悪い科学研究に例えて、(仮説の欠如した)「fishing expedition」であると酷評しています。その他にも、前NEJM editor, Angellを含む複数の科学者、科学雑誌編集者たちは、今回のPfizerの動きに対して、ピアレビューシステムに依存している科学論文出版のシステムを台無しにする暴挙であると不快感をあらわにしています。いずれにせよ、もしPfizerの主張が通れば、科学界全体が大きな痛手を被ることになりそうです。科学の世界に司法が自分たちの理屈を並べ立てて土足で踏み込むようなまねをするのは、善意で支えられているピアレビューシステムにボランティア参加してきた研究者にとってはきわめて不快に感じられます。 「虎とガラガラヘビと弁護士といっしょに閉じ込められた、弾丸は二発、誰を射つか? 答え、弁護士を2度射て」という弁護士ジョークがありますが、ルールの抜け穴を利用して世間の人が納得できないような理屈を通そうとする弁護法というのはちょっと社会の害だと思います。
 判決は本日の予定ですが、どうなるでしょうか。
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血管抑制療法は血管正常化療法?

2008-02-08 | 研究
腫瘍における血管の重要性を広く世界に知らしめ、新しい抗腫瘍療法開発へのきっかけを作ったジュダフォルクマンがつい先月亡くなったのですが、腫瘍における血管、血流の重要性について、フォルクマン以外にも昔から研究している人は他にもいます。フォルクマンと同じHarvard Medical Schoolの系列病院であるMassachusetts General Hospitalの腫瘍学者、Rakesh K. Jainが、腫瘍血管の異常性に気づいたのは40年近く前でした。腫瘍が一本ずつの動脈と静脈によって栄養されているラットの腫瘍モデルに抗がん剤を投与し、その薬剤の腫瘍細胞への分布を調べるという実験を行った時、血管の多い腫瘍組織でありながら、薬剤が十分に行き渡らないことを見つけたそうです。引き続く数十年の研究で、腫瘍血管が大変leakyで、血流方向が一定しないなど、非効率的な血管であることが明らかにされてきました。血管は多いのに機能が悪いというわけです。血流が悪いと組織は低酸素化、酸性化を起こし、例えば低酸素で誘導される転写因子のHIFなどが、血管新生因子、VEGFなどの産生を促進し、ますます非効率的な血管が増えるという現象が起こってきます。VEGF抗体は2004年に癌の治療に臨床応用されましたが、VEGF抗体だけでは抗腫瘍効果は認められていません。フォルクマン流のモデルだと、腫瘍細胞が自らを栄養するためにVEGFなどの産生を通じて血管新生を促すので、VEGFをブロックすることで、新生血管を抑制し、腫瘍細胞への栄養路を断つことで抗がん効果が上がると予想されます。ところがJainらの研究結果からは、腫瘍誘導性のこうした血管はむしろ血行動態という面で、非常に非効率であり、そもそも腫瘍を栄養するという点で役立っていないのではないか、むしろ逆効果ではないのかという仮説が成り立ちます。興味深いのは、抗VEGF抗体は、抗がん剤との併用では大腸がん患者で効果が認められたということで、VEGFをブロックすると、抗がん剤の作用が増強されるらしいということです。抗がん剤は血流に乗って組織へと到達しますから、腫瘍の血管を抑制すれば、逆に抗がん剤の作用は落ちてしかるべきではないかと常識的には考えてしまいますが、事実は逆のようです。JainらはVEGFのブロックによって、異常な腫瘍血管が「正常化」され、腫瘍内の血行状態が改善されたことによって、抗がん剤の組織分布がより効果的となるというデータを示しています。つまり、抗VEGF抗体による腫瘍血管の抑制は逆に腫瘍への血行状態を改善するという当初の目的とは逆のことが起こっているらしいということでした。また最近、脳腫瘍患者でVEGF受容体をブロックすると考えられている薬、Recentinを使った試験では、異常な腫瘍血管の抑制によって、脳浮腫の改善が示されています。漏れやすい異常な腫瘍血管を抑制することで、間質への水分の移行を防いで浮腫を改善する効果があるようです。
 腫瘍血管が腫瘍を栄養しているという概念からは、この腫瘍血管の「血管正常化」療法は、一見常識に反しているように見えます。血管を正常化することで、逆に腫瘍にダメージを与える経路をつくるという、いわば肉を切らせて骨を切るアイデアを知って、なるほど、腫瘍血管学というのは、深いなあーとと感じたのでした。
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マイクロキメリズムでゆらぐ自己

2008-01-22 | 研究
人間の体は必ずしも単一のクローナルな細胞からできているわけではないという「microchimerism」を研究しているFred Hutchinson Cancer Research CenterのJ. Lee Nelsonが書いた一般向けの解説を読んで、恥ずかしながら、私は初めてmicrochimerismという言葉と概念を知りました。実は随分前から知られていることで、試しにPubMedでmicrochimerismでサーチしてみると、933本の論文がヒットしました。母親の細胞が胎児に移行して、長期間胎児内で生存しづづけるということは60年近く前から知られているそうです。逆に胎児の細胞が妊娠高血圧症で死亡した母親の肺に発見されたという報告は1893年に最初になされ、1979年には、男児を妊娠したことのある女性の血液中からY染色体が検出できたという報告によって、健康な人でもこうした母子間の細胞のやり取りがあることが明らかにされたということです。興味深いのは、新生児ループス症候群で、心筋の炎症を起こした例での観察で、死亡した新生男児の心筋から母親由来と思われる細胞が発見され、これらの細胞の多くが心筋の蛋白を発現しており、どうも胎児の心臓の一部として機能していたらしいということでした。つまり、母子間で行き来している細胞は、新しいホストの体内で機能的役割を持って生存しており、単に受動的に存在しているといったものではないということなのです。循環血中では10の5-6乗個の細胞に一個の割合で、母親由来または胎児由来の細胞が混入しているそうですが、この割合は皮膚などの血液以外の組織ではより高いらしいです。
 Microchimerismの臨床的意義が確立したとは未だ言えないと思いますが、これはちょうど臓器移植患者と同様の問題をおこす可能性があると考えられます。この著者らのグループは、多発性筋炎、進行性強皮症を例に挙げて、これらの従来、自己免疫性疾患と考えられている病態というものは、臓器移植時における免疫反応として説明可能であるとする証拠を示しています。多発性筋炎の場合は、移植に伴ってホストに導入されてくる免疫細胞がホストの組織を攻撃することでおこるGVHDとみなすことができます。つまり母親由来の免疫系細胞が妊娠中に胎盤を通過して胎児内に入り、ある時点で子供の筋組織を攻撃するというモデルです。逆に進行性強皮症の場合は、子供の皮膚の一部として機能している母親由来の細胞に対しての拒絶反応によって起こってくるという病理モデルが考えられるそうです。このようなmicrochimerismは、循環血液中の細胞の胎盤を通じたやりとりで起こってくるのが基本的なメカニズムと考えられているのですが、最近、さまざまな報告で、血液中を循環しているのは血球系細胞だけではない証拠が示されています。例えば、近年、New England Journal of Medicineに掲載されたレポートでは、血中にかなりの割合で骨を作る骨芽細胞が循環しているという報告がされましたし、同時期にScience誌で、心臓に骨芽細胞のマーカーを出している細胞が存在しており、心血管の石灰化というのは異所性の骨形成ではないかという仮説が提出されました。また骨芽細胞を血液中に注入すると、ホストの骨にホーミングを起こすという報告も(さすがにちょっと眉唾)されています。もちろん種々の幹細胞も血液中を循環していると考えられています。しばらく前、J. Tillyのグループは、メスマウスの血液循環中には、卵子をつくる生殖細胞の幹細胞が循環しており、それを分離して移植すると、卵巣にホーミングするとScience誌に報告しました。これに対し別のグループは二匹のマウスを縫い合わせて循環系を共有させる実験によって、生殖幹細胞は血液循環を通じては別のマウスの卵巣にホーミングするという証拠は得られなかったという反証論文をCellに発表しています。実は、microchimerismの話を読んで、私が最初にふと思ったのは隔世遺伝のことなのでした。マウスではキメラを作ってやると、移植した胎性幹細胞(ES)は生殖系にも寄与することが出来ます。通常マウスのES細胞はオスの細胞なので、キメラマウスの中ではオスの生殖細胞にしか分化できませんが、まれにY染色体を落としたXOのESならメスのキメラの卵子に分化することができることが示されています。もし、人間でも、循環血中に存在するかもしれない母親の生殖幹細胞(XX)が胎盤を通じて娘の胎児(XX)の体内に入り、卵巣にホーミングするようなことがあれば、理論的には、母親由来の卵子(X)が娘の卵巣内で作られる可能性も考えられます。実際にはmicrochimerismというぐらいですから、母親由来の細胞の割合は娘由来の細胞に比べて極端に少ないので、娘が母親由来の卵子を通じて、母親の子供を生むことはないでしょうが、SF的には面白い話です。もしなんらかの理由で、娘の細胞に生殖不能となる遺伝的異常が入った場合、母親由来の卵子細胞が生殖系で優位となって、生殖に寄与することはひょっとしたらあるかもしれません。母親の遺伝情報が直接、孫に受け継がれて、隔世遺伝がおこるようなことがおこるようなことが実際にあれば、興味深い話です。
 隔世遺伝のことは別にしても、このmicrochimerismが多くの膠原病や自己免疫性疾患と考えられている病態のメカニズムであるとしたら、「自己免疫」という概念そのものがひっくり返る可能性があります。
私たちが当たり前と思っている個のクローン性、「自己」という概念も深いところではゆらいでいて、常識というものは以外に危うい基盤に立っているのだなあと思ったのでした。
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科学の価値は後ろ向きにしか評価されない

2007-12-28 | 研究
Science誌の今年の10大ブレークスルーのトップはヒトゲノムの多様性についてでしたが、第二位は、細胞のリプログラミングでした。勿論、iPS細胞の事がその中心にあるわけです。体細胞核移植で作られたヒツジやマウスやイヌやサルでの実験で、分化した状態にある細胞の核がリプログラムできるということがわかっていたわけですが、それが4つの遺伝子の強制発現で可能になるということを明らかにしたiPSの論文は、10年に一度の大ブレークスルーといってもよいと思います。同号のScienceに、例のウィスコンシン大学からのヒトiPSの報告が出ているのですが、実はもう一本、MITのRuddy Jaenischのグループがその論文の次のページに、マウスiPSをHox4Bで血球系に分化させて、鎌形赤血球症のマウスを治療できたという報告を出しています。今回は原理の確認という体の論文で、私の最も関心のある癌化の危険性については一切触れていませんでしたが、それは次回の報告のお楽しみということでしょう。Jaenischは細胞分化に伴って生じるepigeneticな変化について研究してきたMouse geneticistなのですが、彼のグループの身のこなしの早さには驚きます。ハワイ大学でYanagimachiグループがマウスのクローニングに成功した時も、いち早くその筆頭著者の若山さんを呼んで、マウスでの体細胞核移植の技術を導入して、今回と同じアイデアで、遺伝子病のマウスを治療するという論文を出していましたし、iPSの発表後、早速追試の論文を発表したのも彼のグループでした。それだけの人的、資金的、設備的な余裕としなやかさがあるわけで、うらやましい限りです。それにしてもマウスクローニングといい、iPSといい、Jaenischはこれらを発見した日本人にはさぞ感謝していることでしょう。
 iPSは生物学的に素晴らしい発見であると思うのですが、現在の、熱しやすく冷めやすい日本人がiPSを持ち上げる様子を見ていると、それに不安を感じる人は私だけではないと思います。iPSは素晴らしい発見だと思います。それは「ほ乳類での分化した細胞の可塑性」について「生物学的に」かつ遺伝子レベルで重要な知見が与えられたからだと私は思っています。しかし、世間では、ESのかわりに再生医療に応用できる可能性という「工学的価値」を一般人はより高く評価しているわけです。この点に関しては、実際に再生医療に応用できてはじめて価値が確定するわけで、例えばこの発見がノーベル賞になるかどうかはそこにかかっています。臨床応用なりなんらかの方法で非常に「役に立って」はじめて賞の対象として考慮されるということだと思います。生憎、現時点では、ノーベル賞になるのに必要なその条件を今後iPSが満たせるかという点においては、私はどちらかというと悲観的なのですが、技術、工学系科学の進歩というのは早いですから、まだまだわかりません。日本の政策サイドがiPSの将来性に投資することは必要なことだと思いますが、その煽り方というか、やり方がどうも先走り過ぎているような気がします。あたかも「研究費を集中投下して皆で頑張れば、臨床応用までは時間の問題だ、ここで外国に遅れをとってはイカン、国民一丸となってガンバレ!」というノリのように見えるのです。臨床応用まで時間の問題というよりは、まだまだ様々な新しい技術の開発が必要であり、現時点では、臨床に使えるかどうかは全く闇の中という状態であると私は思います。結局、資金には限りがありますから、過剰な期待と共に投資した場合、それが回収できないとなったら、政策サイドは手のひらを返したように新しいプロジェクトを探して、またお祭り騒ぎをやるのでしょう。プロジェクトを打ち上げた官僚はCVに書く項目が増えますが、その後始末や責任問題が問われるころには、当の言い出しっぺはとっくの昔に現場から立ち去っているのです。日本の科学政策を一言でいうならば、「無責任」という言葉がぴったりです。
 iPSの話を持ち出したのは、実は、科学発見の価値というのは後になってはじめて理解されるということを改めて言いたかったからでした。科学の世界では、アイデアそのものに殆ど何の価値もありません。アイデアをもとに、仮説を立てて検証して得られた「結果」、そしてその結果がどういうインパクトがあるかが殆ど全てと言ってもよいと思います。例えばiPSの場合、プロジェクトを始める前に研究費をこのアイデアで申請したとします。「ヒトESは倫理的、技術的な問題が多いので、体細胞をES様細胞へ変化させる方法を研究したいので研究費下さい」と言うとします。その方法として、「ESに出ている転写因子をいろいろウイルスを使って組み込んで、体細胞がES様になるかどうか調べてみる」と書くとします。このプロポーザルで研究費が下りるでしょうか?まず下りないであろうと予測できます。なぜなら、ESに出ている転写因子を発現させて、ES様になる可能性があるという、理論的または実証的証拠が欠けているからです。つまり、遺伝子のリプログラムができることはわかっているが、その機構については何もわかっていないわけで、何もわかっていないのに成功するはずはないだろうという理屈です。レビューアは、もしいろいろ遺伝子入れてみてES様にならなかったら、その研究からどれぐらい価値のある結論が得られるのかと聞いてくるでしょう。つまり、このiPSの最初のプロジェクトは、ポジティブなデータがでればスゴいが、でるという保証は全くなく、でない可能性の方が高いと考えられる上に、出なかった場合、科学的に価値のある結論が得られないという、ハイリスクの実験なのです。私が思うに、この研究はダメで元々でこっそりやっていたら、驚いた事に当たってしまった、という感じだったのではないかと思います。アイデアとして体細胞を直接ESにするという考えは素晴らしい。しかし、それを実現するのにどうしたらよいのかという点については強い仮説あったはずはなく、ESの転写因子を過剰発現させるというアイデアは、他に手がないからやってみよういう感じだったのではないかと想像します。幸い、結果オーライで、研究は結果が全てですから、当たってしまえばこっちのものです。私はこの発見の価値は、再生医療への応用云々は別にしても、十分素晴らしいと思います。このハイリスク研究で当たらなかったらゼロだったのですから、当たった以上はこれだけの注目を浴びて悪い筈がありません。しかし、この発見がノーベル賞までいくかどうかは、まさに臨床応用できるかできないかという最終結果に依存しているわけで、臨床応用が困難であると結論された場合は、これだけの注目を浴びたからこそ、iPSは却って、「平成の徒花」的あつかいになってしまい、本来の発見の意義さえ過小評価されてしまう可能性があるのではと危惧します。今の日本のiPSの扱いを見ていると、iPSは、本来の研究成果の意義からはるかに離れた所で、Laymanの間で一人歩きしてしまっているように見えます。研究者は研究費が欲しいし、一般人は日本からの大発見はもっと持ち上げたいでしょうから、このiPS熱にわざわざ水を注すのは馬鹿のすることかも知れませんが、私は科学の大発見というものは、やはり「額面」で評価してもらいたいと思います。バブルの時に「成長株」に飛びついて大火傷を負ったのは、踊る阿呆ではなかったでしょうか?
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繰り返す過ち、危険な人間の浅知恵

2007-12-11 | 研究
海洋の表面は窒素、燐といった栄養素が豊富なのにも関わらず、植物性プランクトンがいないというのは長い間の海洋生物学の謎でした。1990年代前半に 実は「鉄」がlimiting factorであったことが示され、海に鉄を散布すると 藻類 が急激に海洋表面に増殖することがわかりました。以来、この実験は複数のグループが繰り返しているのですが、2004年にドイツのグループの実験では、こうして繁殖した藻類がその後どうなるのかを検討したところ、繁殖してそして死んでいった緑藻は、相当なスピードで海底へ沈んでいくことが分かりました。このことが重要な意味をもっているのは、地球温暖化対策に使える可能性があるからです。以前にも触れたように、海底は炭素のシンクとなっています。地球温暖化のもっとも大きな因子は空中の二酸化炭素ですから、その二酸化炭素を固化して海底奥深く沈めてしまえれば、大気中の二酸化炭素を減らすことができます。植物性プランクトンは光合成を行い、二酸化炭素を糖類に同化することで体内に取り込み、酸素を放出しますので、プランクトン体内に取り込まれた炭素がそのまま死骸と共に海深く沈んでくれれば、大気中の炭素を海底へと移動させることができるはずです。
この一連の「鉄による藻類の肥沃化実験」は、地球温暖化対策への希望を示す一方、当然ながら多くの人は、大量の鉄を海洋に散布して微生物をコントロールしようとするやり方が、海のエコシステムを乱し、予測不可能な災害を引き起こすのではないかと危惧しています。2004年の実験だけでも3トンの鉄を10000平方キロメートルの海洋領域に渡って散布したのですから、地球の大気中の二酸化炭素濃度を減少させるだけの規模で、海洋鉄散布を行うことになれば、その鉄の量というのは半端なものではないでしょう。また生物学的には、藻類の増殖は食物連鎖などを通じてその他多数の海洋生物に影響を与えるでしょうから、生物活動を通じて排出が増加するであろうメタンガスや一酸化窒素などの温暖化の原因となるガスが、総合的にどの程度変動するかについては分かりません。また、どこの海に鉄を撒くかも問題のようです。栄養素があっても他の条件が悪くて植物性プランクトンが増殖しないような場所では余り意味がありません。そういう理由で南方の暖かい海が最初の目標となっているようではありますが、一方、冷たく日照時間が少ない場所では、対流の関係でいったん散布された栄養素が、海表面にリサイクルされてくるので、長期的にはよいのではという意見もあるようです。また、炭素を海底に沈める上で、500m以上深いところへ沈めることが大切らしいです。これは100年線(100-year horizon)と呼ばれているらしく、ここまで深いと海水は100年間は海表面の海水とは接触しないそうです。ですから、この藻類の増殖を使った方法がうまく機能するためには、藻の死骸をすばやく海底奥深く沈めてしまう必要があります。植物性プランクトンをせっかく増やしても、それが海表面近くで、食物連鎖に入ってしまうと、せっかく、同化した炭素が動物性生物に捕食されることで、異化されて二酸化炭素に戻ってしまうということなのです。
いずれにせよ、この方法はアイデアとしては面白いと思いますが、実用化されるまでには、数々の問題を明かにしていく必要があることは間違いなさそうです。地球規模で環境操作する「海洋工学」ですから、予期しない災害が起きてしまえば取り返しがつかない事態になり得ます。
私は、学問として海洋生物が鉄を必要とすることやその他の栄養物がどのようにエコシステムに影響するかということが明らかになっていくということは素晴らしいことだと思います。そうした知識は私たちが世界を見る見方を増やし、我々の世界観を拡げ、我々の精神活動を豊かにしてくれます。学問の文化的価値という点において私は一片の疑いもありません。しかしながら、その知識を利用して、地球規模で他の生物を操作して環境を自らの有利な状態に変えてやろうとするような思い上がった欲は自らを滅ぼすものに他ならないと思います。純粋に学問のレベルで楽しんでいるうちはよいと思うのですが、何かに役立てようと考え出すと、人間の浅知恵でやることですから、いつものように悪い事と良い事が半々でおこるに違いありません。近代医学の発展を見ていてもそう思います。新しい治療が開発されたら、必ず新しい副作用があって、収支をみてみるといつもトントンかむしろ悪いことの方が多いのです。人間が足る事を知っていた産業革命前を理想視する人々がいるのも頷けます。思えば、温暖化も公害も数々の医源性疾患も、人間が自然を利用してやろうと浅知恵を出したためにおこった身から出た錆びです。人間というものは近視的で反省しない生き物だなあと思います。もう少し謙虚にならねばいけません。
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コーンバーグの死去に因んで

2007-11-30 | 研究
ノーベル賞科学者、アーサーコーンバーグは、遺伝子工学の基礎となった種々の重要な発見をした近代DNA生化学の巨人でしたが、先月末に亡くなりました。その追悼文が、最近のCellにUC BerkeleyのRandy Schekmanにから寄せられています。彼は自分にとって最も重要なmentorとして、コーンバーグとそして少し先立って亡くなったDan Koshland(UC Berkeleyの生化学教授で、前Science誌のChief-Editor)を挙げています。コーンバーグの試験管の中でのDNAの合成、DNA polymeraseの発見 (この歴史的な発見を記述した論文はDNAをテンプレートとしてDNA PolymeraseがDNAを合成することを最初に示したのですが、当初、試験管で合成されたDNAが本当のDNAでないと最後まで疑ったJBCのエディターがアクセプトを拒否したそうです)を始めとする、遺伝子工学の先駆けとなった輝く業績は、ハードワークと基礎を大切にするコーンバーグスタイルの賜物であったと述べられています。最近のトランスレーショナルリサーチに重点を置く風潮を公然と非難し、基礎研究の重要性を喧伝したとあります。(応用研究ではなく)基礎研究が医学の実際的な発展に最も寄与してきているのは事実であって、基礎研究の進歩なしには医学は後退し魔術と同じレベルになってしまうと言ったそうです。私もトランスレーショナルが悪いとは言いませんが、限りある研究資金はまず必要な基礎研究の充足に使われるべきであると強く思います。基礎をおろそかにした応用とは砂上に楼閣を築くようなものです。
また、この追悼文では、ジムワトソンについて触れられています。(何かにつけ話題になる人ですね)ワトソンの「Double Helix」はゴシップ本であるとクリックも含む複数の人が批判しましたが、それとは別に、コーンバーグは、ワトソンが後進の若い研究者に「科学で成功するためには、素晴らしいアイデアが一つあればよいのだ」というような誤った印象を与えてしまったのではないかと危惧していたと書いてあります。基礎を重視し、ハードワークを信条としていたコーンバーグならではでしょう。確かにワトソン、クリックの二重螺旋構造は素晴らしいアイデアですが、ゼロから思いついたわけではなく、ロザリンドフランクリンやモーリスウィルキンスのDNA結晶解析のデータを知っていたからではないでしょうか。事実、クリックはロザリンドフランクリンを共著者にしようとしたそうですが、彼女の方が辞退し、彼女の論文は独立にBack-to-backで同号のNatureに掲載されることになったのでした。言ってみれば、ワトソンはおいしい所だけを盗んで、レビューもなしでNatureに論文が載り(エディターが、この論文のモデルが正しいのは自明であると言ってレビューなしでアクセプトしました。「自明」ならば科学の発見ではないのではないかと思うのですが)、そしてノーベル賞を貰い、ある意味、その一本だけで一生うまくやってきた訳ですから、確かに「よいアイデア一本で大成功できた」極めて稀な例で、arrogantになるのもわからないでもありません。フランクリンが癌で早世することがなければ、4人のノーベル賞は認められませんから、ワトソン、クリック、ウィルキンスが賞を貰う時期は誰かが死ぬまで遅れたはずで、ワトソンのトントン拍子も出だしでずっこけていたかも知れません。因に、コーンバーグの学者の血は受け継がれたようで、息子であるRoger Kornbergは2006年のノーベル化学賞を受けています。
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私見、iPSの意義とその可能性

2007-11-23 | 研究
ヒトの線維芽細胞に4つの遺伝子を導入して、ES細胞様に変化させることに成功したというニュースがアメリカの全国ネットのトップストーリーで紹介されました。もちろん、これは昨年、京大の山中グループがマウスで初めて体細胞からES様細胞(iPS)を直接作製することに成功したという報告の続編です。この衝撃のマウスiPS細胞の報告は、複数のステムセル研究でのトップラボが追試を行って確認されました。人々の期待はこれがヒトでも可能となり、将来のステムセルを使った再生医療への大きなブレークスルーになるのではないか、という点にありました。ヒトのステムセルを用いた研究が困難な日本と別にアメリカにも研究室を構えた山中グループもヒトiPSの作成を目指していましたし、当然のことながらヒトES細胞の研究で世界トップを走るウィスコンシン大学が、このiPS細胞を指を加えて見ているわけがありません。今回のヒトiPS細胞作成は、この山中グループとウィスコンシン大学のニグループが成功させたのですが、アメリカのニュースでは当然ながら「ウィスコンシン大学が成功した」ことに重点がおかれていて、山中グループは、日本のグループも成功したと触れたにとどまりました。山中グループがiPSの本家なのだから、もうちょっとクレジットあげてもいいのになあ、と心の中で思いました。ナショナルニュースのヘッドラインになったのは、もちろん主に一般人が期待している、ステムセルによる再生医療への実現が現実性を帯びてきたからです。iPSが実用化されると、ヒトの胎児を犠牲にして確立しなければならないESに比べて、倫理的問題や移植に関しておこるであろう拒絶の問題などの困難な問題が一気に解決する可能性があります。しかし、冷静に臨床応用がどれほど現実的か考えてみると、私は現時点では難しいのではないかと思わざるを得ません。技術的にそうしたiPS細胞を再分化させて、目的の細胞に変化させることも、これまでのESでの研究を見ていても現時点では容易ではないでしょう。レンチウイルスでゲノムに組み込まれてしまったこれら4つの遺伝子を何らかの方法で不活性化しないと、うまく分化しないかもしれません。そして、仮にそれがクリアできた場合でも、臨床応用にあたっての最大の懸念は「癌化」の可能性ではないかと思います。このことはヒトES研究者が(自分の研究を守るために?) iPSを攻撃するときに必ず口にすることです。実際、山中グループでは、癌遺伝子のmycを使っていますし、そうしてできたマウスiPSでキメラを作ると癌ができてきます。ウィスコンシン大学はmycを使っていませんから、ひょっとしたら癌化の問題は使う遺伝子群をうまくかえてやることで、クリアできるかもしれません。しかし、ESやiPSが持つ増殖能がステムセルであるための必須な機能なのであれば、増殖の問題、即ち癌化の問題は解決できないかもしれません。考えてみれば、生殖可能になるまで20年近くの年月が必要なヒトでは、癌は免疫についで最大の問題と言ってよいと思います。子孫を残し育て終えるまではそう簡単に癌で死ぬわけにはいきません。細胞レベルでの癌抑制のメカニズムを見てみると、ヒトやマウスの細胞は、相当な犠牲を払って、癌化抑制を行っています。私は個人的には、癌と老化とステムセルというのは、殆ど同じものを違った角度から見ているのだと考えています。細胞レベルでの老化というのは、癌化抑制のメカニズムに他なりません。そして個体レベルでの老化や癌というものは、ステムセルの老化そして癌化であると単純化することがおそらく可能であろうと思っています。癌化には、二つの重要な癌抑制系、Rb経路とp53経路の双方が抑制されることが必要であると考えられています。P53の抑制は多くの場合はp53遺伝子そのもののgeneticまたはepigeneticな変異によることになりますが、Rb経路に関しては、その上流の制御因子の異常でもRbの機能は影響を受けますから、ランダムに体細胞ゲノムに変異がおこるとすれば、Rb経路が障害される可能性はそれなりに高いと思われます。Rb経路は細胞が増殖し始める前の安全確認のための機構であり、p53は異常な増殖を止めるためのいわば非常ブレーキですから、単純にいえばいずれも細胞増殖を抑える機構です。そしてこうした癌抑制遺伝子の機能欠失をステムセルに導入してやると、ステムセルは明らかに正常のステムセルよりも、ハイパフォーマンスを示します。また個体レベルでも、例えばp53欠損の骨は骨の密度も骨形成も正常コントロールよりも良いです。これは、結局、細胞レベルでの「老化」、すなわち代謝活性を保持はしているが細胞増殖が永久に停止した状態、というものは、細胞障害性刺激(主にミトコンドリアでのエネルギー代謝の副産物としてできる活性酸素)がDNAや蛋白を傷害した時に、癌抑制系である主にP53系そしてRb系が活性化されて、癌化を防ごうとすることによっておこってくる、いわば「副作用」であるという考えを支持します。老化の細胞マーカーとして使われるINK4a/p16は加齢により発現が増えますが、これはRb系の癌抑制遺伝子です。p16ノックアウトマウスは複数の臓器で再生能力というか、老化による機能低下が抑えられるのですが、生後1年ぐらいから癌でバタバタと死んでいきます。つまり普通のマウスが老化で死んでいくころには、p16マウスは皆、癌で死に絶えているということなのです。このことからも、ステムセルの老化を抑制し再生能を高めるということは、癌化抑制という観点からはマイナスであると考えられます。自然は、「癌で死ぬよりは体の種々の臓器の機能が加齢で衰えていくほうがまし」という選択をしているというように思われます。さて、話をもとにもどして、iPSですが、こういう理由で、癌化の問題は、臨床応用に向けてのおそらく最大の障害であって、私の直感ではそれを乗り越えるのは易しくないと思われるのです。ある種の妥協は可能かもしれません。例えば、癌化した場合にいつでもiPS由来の細胞を殺せるように、薬剤誘導性の自殺遺伝子、例えばthymidine kinaseなど、を入れておくとかの安全対策を講じることで、限られた目的には使えるかもしれません。
基礎研究の立場からは、ヒトiPSよりは最初のマウスiPSのほうがはるかにインパクトが高いと思います。もちろんヒトESはマウスESとは培養条件や性質が随分違いますし、ヒトiPSとマウスiPSでもいろいろ異なるでしょうから、マウスをそのままヒトに移したら自動的にできたというものではないでしょう。私はマウスiPSの論文には非常に感心しました。なぜなら、これは従来の細胞分化という現象に関して皆が持っていたパラダイムを大幅に変換したからです。ターミナルに分化した細胞にたかだか4つの遺伝子を導入するだけで、低効率ながらも未分化な状態へ戻すことができるという発見は、分化に関しておこってくると思われる主にエピジェネティックな変化というものが、転写因子の導入だけで「消去」または「上書き」可能であるという驚くべき細胞の可塑性を示唆しています。(ただし、低効率ですから、あるいは極少数、体細胞に交じっている本来脱分化可能な、または未分化状態を維持しているような特殊な細胞だけに効いているという可能性も否定できないのではとは思います)とはいえ、この発見が今後の細胞分化研究に及ぼしていく影響は非常に大きいと思うのです。この観点からもステムセル研究におけるマウスiPSの報告はドリーのクローニングと並ぶ10年に一つの大発見であろうと思います。更に、今後、もしこのヒトiPSが安全に臨床応用された場合には(上に述べたように、ちょっとこれは難しいのではと現時点では私は思っているのですが)、ノーベル賞は間違いないでしょう。
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感動を生む根性もの研究

2007-11-16 | 研究
最近のNatureに濱田博司先生のグループの論文が出ていて、フロントページでカバーされているのを見ました。心血管の発生において、最初は左右対称に血管が発達するのですが、発生が進むにつれて右側の血管は退縮し、最後は左側由来の大動脈一本となります。論文はこの大血管の非対称性が生じてくる過程でどれぐらいが遺伝的プログラムによってに決まり、どれぐらいが非遺伝的なもの(今回は血行動態)に影響されるかという疑問に答えようとしたものです。最初どこの研究室から出たものか知らずにフロントページでの記事を読んでいたら、血行動態を人為的に変化させるために胎生11日のマウスの左側の血管を結索するという実験をしたと書いてあったので、びっくりして論文を見てみると濱田先生のグループだったのでした。胎生11日のマウスの胎児はおそらく全長は6-7 mmといったところでしょうから、心臓の大きさはおそらく0.5mm未満、結索した血管は、それを見つけるだけでも非常に大変なほど小さいと思います。論文の写真をみると、確かに極細の糸を使って結索されていますので、これは余程、手先の器用な人が練習を繰り返して行った実験ではないかと想像します。普通ならマウスの11日の胎児に手術をするなどという発想さえ出て来ないと思います。こういう実験を見ると私は単純に「感動」してしまいます。
 これまで、濱田先生の話を直接聞いたのは、2-3回だろうと思います。最初に聞いたのはleftyをクローニングした頃ですから、15年ほどは前だろうと思います。左右非対称がおこってくるメカニズムをマウスで研究するというのが濱田先生の主なテーマで、leftyは発生初期に左側のみに発現している遺伝子としてsubtraction hybridizationでクローニングされました。当時、私もsubtraction hybridization やdifferential hybridizationでのクローニングをやっていたので、この手の仕事で当たりを引くのがどれほど困難かはわかっていたつもりでした。この手法は1987年に筋肉への分化を促進する遺伝子のMyoDのクローニングで一躍有名になり、私もそれに乗せられてやっていたのでした。クローニングに限らず、当たりを引かない限り論文になりませんから、論文にはどれぐらいはずれを引いたのかは書いてありません。私は百個余りを拾って苦労してスクリーニングして全部はずれたときに「やってられない」という気分になったことがあります。当時はマイクロアレイもreal time PCRもない時代ですから、スクリーニングはサザンとノザンでやり、シークエンスは一つ一つ放射性同位元素とシクエネースを使ってゲルを流し一週間かかって500塩基読めるかどうかという時代でした。(現在、MPSSで一晩で一億塩基を読むとかという話からすると旧石器時代のようです)とにかく、subtraction hybridizationなどによるクローニングというのは、「当てもん」みたいなものだったのです。濱田先生のleftyのクローニングの話を聞いたのは先生が阪大に移られた頃で、セミナーではsubtraction hybridizationで数千個のクローンをスクリーニングしたとさらりと述べられ、「左により多く出ている遺伝子で、まず拾えていないクローンはないです」と断言されたのを聞いて、私はぶっ飛びました。私に限らず、この手のクローニングの仕事はfishingと言われて、「当てもん」仕事であると皆思っていたと思います。つまり、いくつあるかわからない 沢山の遺伝子の中からたまたまエサに喰いついた魚をつり上げるような実験なのです。ですからこの手の実験では水面下にどのような魚がどれだけいるとか、目的としている魚が何割いるとか、そうした情報は余り得られないのが通常です。そもそも目的でない魚はどうでもよいという実験なのです。にも関わらず「拾えてないクローンはない」と言えるということは、水面下の魚の情報についてどうでもよい魚も含めて、かなり正確に把握できているということを示しているのだと思います。それだけの情報をクローニング実験から得るには、相当数の数の実験をやったということなのです。こうしたエピソードに限らず、濱田先生の研究には、「感動」を呼ぶものがあります。数年前のNatureの論文にも私は感動しました。胎児期に左右非対称が最初にヘンゼン節でおこってくるときのメカニズムは、一方向性に旋回運動する繊毛がミクロの水流をつくり出し、未同定のモルフォジェンを左側に押し流すからだと考えられていました。これは例えばKartagener症候群のような内蔵左右逆転を起こす疾患で繊毛機能の異常があるなどの主に遺伝的証拠によって支えられていた仮説でした。この「ミクロ水流説」を直接証明しようとしたのがそのNatureの論文で、胎生初期のマウスの胎児を小さな水流発生装置に固定して、人工的にミクロの水流をかく乱することで、正常の左右非対称の発達が阻害されることを示したのでした。アイデアは誰でも多かれ少なかれおもいつくものだと思います。でも実際にヘンゼン節のミクロの水流をどうやって操作すればよいかという問題に当たった時に、「常識的に」そんな実験ができるわけがないとあきらめてしまうのだろうと思うのです。普通の人なら、数ミリしかない小さなマウスの胎児を生きたまま固定し、人工的に水流を与えることなど、不可能だと思ってしまうでしょう。しかし、そこはクローニング実験で「拾い残しはない」と断言できるような濱田先生ですから、文字通りに、小さなマウス胎児を人工水流装置に固定してヘンゼン節のミクロ水流を操作するという実験を成功させてしまったのでした。今回のマウスの血管結索実験にしても、大人のマウスやラットなら皆やっていることで、実験そのものは思いつく人は多数あったのではないかと思います。しかし、相手は体長数ミリの胎児のマウスであって、普通の人はそんなマウスの胎児の血管を外科的に操作することなどにできるわけがないと考えていると思います。そんな皆が考えている「常識」など知ったことかと、真っすぐに疑問に挑戦して研究成果を出してしまうところが、「巨人の星」とかの根性ものを見て育った私たちの世代に感動を与えるのかも知れません。次の作品ではどのような感動を与えてくれるか、楽しみです。
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研究者の生活

2007-11-13 | 研究
この間、どうして自分の人生は苦しいことが多いのかと周囲の人の生活を見ながら思っていました。私の周囲には、週に5日働いて、週末は家族と楽しんで、年に1-2回は長期の休みをとってゆったりし、それなりの家に住んで、仕事以外の趣味も持っている、そんな人が沢山います。私と言えば、仕事以外の趣味に費やす時間も、週末に家族で楽しむ時間も余りないし、経済的にも苦しいし、将来というか、二年後でさえ、この仕事をずっと続けていける保証は全く無いという状況で、自分は良いとしても家族に対しては気の毒に感じます。それでも、研究者の標準からすると、中流なのだと思います。しかし、社会に出て給料を貰うようになってからの自分のやってきたことを考えると、私はこれまで、殆ど「誰かのために」働いた事がないということに気づきました。社会の経済活動の基本は、誰か、つまり雇い主とか、お客さんとかにサービスを提供し、そのかわりに金銭を受け取る交換だと思います。英語ではそうして得る金銭をcompensationと言いますから、多くの場合、給料は自分の時間なり労働を「誰かのために」犠牲にすることに対する埋め合わせであると考えられていると思います。しかるに、研究者は、企業なり誰かに使われている場合は除いて、基本的には、特定の「誰かのために」働いているわけではなく、強いて言えば、「科学の発展とひょっとしたらそれで将来得する誰か」という不特定のいるかどうかわからない相手のため、そして自分自身のために働いていると言ってよいのではと思います。そういう観点からすると、自分が受け取っている金銭がcompensationと言われると違和感を感じるのも不思議ではありません。大学教官であれば、学生を教育することに対するcompensationが支払われるのは当然だと思いますし、医者兼研究者であれば、患者さんを診療するという行為に対してcompensationがあって然るべきです。しかし私は大学教官とは言え、教育義務はほとんどゼロですし、診療行為もしていませんから、現在私が受け取っている金銭を、compensationという概念からはとても正当化できないのです。振り返ってみれば、研修医時代は、診療行為に対する報酬を受け取ってはいましたが、やはり自分が医師としての技術を身につけていくトレーニング期間であったので、「患者さんのために」というよりはやはり自分のために働いていました。大学院時代の病院のアルバイトは、病院の業務を補助するという面も確かにありましたが、それは授業料と生活費を供給してくれたもので、ここでも誰かのために働いたという気持ちはありません。研究者となってからはますます「誰かのために」働くという意識が無くなりました。指導者のプロジェクトで給料をもらって働く場合は、もちろんその人のために働いているわけですが、論文になった場合のクレジットは山分けするわけですし、自分のプロジェクトで働いている場合は、自分以外の誰のためにも働いているという気持ちは持てません。それでも、何らかの面白い発見をして、コミュニティーの人の役に立てばよいとは考えてはいますが、別段その人たちから頼まれて、研究しているわけではありませんし、自分が面白いと思っていることをやっているだけです。もちろん、税金が給料のソースですから、研究者が研究を通じて社会に貢献してくれることを納税者やその研究資金を配分する政府基金は期待しているわけですが、役に立つ研究をしろと言われてそんなものができるぐらいなら苦労はないわけで、結局は、いろいろ考えていろんなことをいろいろやってみるなかからごく稀に実際に役立つものが産まれてくることもあるというのが実際です。ですから、研究者の中でおそらく社会や納税者にサービスしているという意識を持ってやっている人は極めて少ないと思います。(殆どの研究者が役に立つ研究をしたいとは考えていると思います。そんな中で、実際に、自分の日々の仕事が社会の役に立っていて、納税者にサービスしているのだと思える研究者は極めて少数であろうと思います。本気でそう思っているのなら勘違いしているのだろうと私は思います。)以前にも言ったかもしれませんが、とある有名科学者の言の如く、「研究も性行為も通常は欲求により追求され、結果を常に期待するものではないが、ときたま良いものが産まれることがある」、研究とはそのような性質のものだと思います。そう考えると、研究者は、画家とか音楽家とか小説家と似ています。彼らも好きなことを一生懸命することで、良い作品を生み、人々に楽しみを与えて、社会に貢献しているのです。彼らの多くが不安定な生活と引き換えにその活動を維持しているのを考えると、研究者も同じ様であっても不思議はないです。新発見をするためにいろいろ工夫して努力するのは、ピアニストが毎日何時間も練習するのと同じではないかと思います。論文は芸術作品みたいなものだと私は常々考えています。(いずれにおいても良いものは人に感動を与えますし、また盗作したり、でっちあげたりするのが、いずれにおいても最も悪い事です)
と、芸術家を気取ってみても、喰っていくのが先決ですから、この調子でどこまでいけるのか不安にかられない日はありません。周りの普通に会社で働いている人々を見ていると、自分がまともでない人のように思えてくることもあります。でもきっと私の性格では会社勤めすると、鬱になってしまいそうですから、これで良かったのかも知れません。与えられた機会の中で最善を尽くすのみと割り切って毎日なんとかやってます。
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