百醜千拙草

何とかやっています

「お話し」のお話し

2007-10-12 | 研究
科学論文での「お話し」の話なのですが、先日の柳田充弘先生のブログの中で、「お話し」性に乏しいが、キラリと光るデータがある論文を投稿した時の話が、ありました。「お話し」、ストーリーのある論文というのは、読み手からみると読みやすくて面白いのは間違いないです。生物科学論文での典型的なお話しというのはこんな感じです。

実験なり観察の結果、何らかの新しい現象を発見した。その現象を詳しく調べてみると、ある分子が変動していることがわかった。その分子を操作してやると、発見した現象が再現されることがわかった。こうして新しい現象とそれが起きてくる機構を明らかにした。

実験の結果、何らかの新しい現象を発見するということさえ、簡単なものではありません。実験そのものが困難であったり、実験結果の解釈が難しかったり、再現性がなかったり、します。新しい現象が見つかれば、まず論文にはなるということです。一人の人が一生懸命頑張って実験して出せる論文の数を見てみれば、この部分も簡単でないことがわかります。しかし現在では、ハイプロファイルのジャーナルは多くが、ほぼ完全な「お話し」を要求することが多い訳です。いくら大発見がそこにあっても、それを別のレベルで説明する、いわゆる「メカニズム」の部分にきれいなデータがなければ、「descriptive」と一言いわれてrejectされることになります。実際のところは、そんなきれいな「お話し」がそうそう見つかるわけはないのです。最近の生物学はテクニカルに高度なものとなってきていますから、分子(または遺伝子)で細胞や組織や個体を語ることが要求されます。遺伝子と一言で言っても、少なくとも何万種類はあるわけで、それらの遺伝子産物の天文学的な数の分子が天文学的な数の相互作用をし、その結果、細胞なり組織なりのレベルでの現象となって現れていくわけです。ですから、そこにまるで一直線の矢印のように、ごく限られた分子をつなぐシンプルでわかりやすい因果作用があるというようなことを「お話し」しなければならないとすれば、それは現実を大きくデフォルメしたものにならざるを得ません。「お話し」は読者が本来複雑な現実をわかったように感じるための方便であると私は思っています。しかし、最近の傾向を見ていると、「お話しは(嘘であるとは言いませんが、現実のごく一部を強調したものですから)方便である」という私のスタンスは、論文の出版を左右する人々の中では、どうも少数派のような気がするのです。実際に自分の手を動かして実験をやっている人なら、私の意見にかなりの率で同意してくれるとは思います。実験というものを昔のことで忘れてしまった人や、研究は論文を出すのが究極の目的だと思っている人、科学論文にSF小説並みの娯楽性を求めてしまう人、そういう人たちが「お話し」至上主義とでもいいますか、この傾向を助長しているのではないかと思うのです。中には、しっかりした観察事実に基づいた本当に素晴らしい「お話し」がある論文もあります。ところが、多くの論文では、現象を違うレベルで語る「メカニズム」の部分は、怪しいものが多いのです。でっちあげでもない限り、そんな簡単に面白いお話しが現実に発見できるわけがないというのが実験研究者の常識でしょう。私の分野でもトップジャーナルに論文を量産している人がいますが、最近は「お話し」さえ面白ければいいとでも思っているような論文ばかりで感心しません。要するに本末転倒なのですが、きっと本人はこの辺は確信犯で、都合の良いデータを組み合わせて「お話し」を作り上げるのは、論文を書く上での正当なレトリックのうちとでも思っているのでしょう。論文の現象面はおそらく本当なのだと思います。(最近は、それさえ怪しいと言われているのもあるようです。前述した通り、新しい現象を見つけるだけでも大変なことなのです)「お話し」部分は、きっと、どうせきれいなメカニズムなどわかるわけがないのだから、都合の良いデータを拾って、面白いお話しを作ってしまえ、とでも考えているのではないかと勘ぐってしまうような論文が多いのです。あるいは、自分で手を動かして実験しているわけではないでしょうから、ひょっとしたら自分の考えに沿ったデータがたまたま出た瞬間、自分の嘘を信じてしまうのかもしれません。事実を知っているわけではないので、これ以上の勘ぐりは止めておきます。
有名雑誌に論文が載る事が、研究費も昇進も含めて研究者のキャリアに最も大きい影響力を持っている現実がある以上、論文を通すためなら何だってやるという人がいてもおかしくはないです。面白そうな現象を見つけ、探っていくうちに、本当だったらすごく面白い「お話し」が心に湧いてきます。研究者にとってそうした瞬間が最もワクワクするものだと思います。十中八九、その期待は裏切られるのですが、人間、自分のアイデアにうっかり惚れ込むと、中々それを捨てる決心がつかないものです。こんなデータがあったら「お話し」が完結して、Natureに載るかも知れないと思うと、どうにかしてその「お話し」に沿ったデータを出してやろうと思ってしまうのは人の性でしょう。まともな人は、そこで踏みとどまって、客観的にデータを眺めて、その仮説の妥当性を検討しなおして仮説が間違っている可能性が強ければ、それを捨てて新たに仮説を立て直して実験を繰り返し、本当の「お話し」を求めて、苦労を続けることになります。しかし、もしも最初に思いついた美しい「お話し」が本当だったらNatureだったのです。そして答えがあるかどうかわからない疑問を辛い思いをして追求する必要もなかったのです。仮に真実のお話しが見つかってもNatureに届かないような話なのかも知れないのです。このように、研究者にとって「お話し」が当たるかどうかは天国と地獄ぐらいの差があることを考えると、ちょっとくらいという気持ちからデータを捏造したり、故意に誤った解釈をしたりするものがいても不思議はありません。
それにしても、この「お話し」至上主義は、健全な科学の発達のためには、一般に認識されている以上に有害なのではないかと私は思っているのです。因に過去十年間で、私が最も感銘を受けた論文は、2001年のScienceに3グループから報告されたmicroRNAのクローニングの論文でした。クローニングしたというだけの論文で、お話し部分は全くのゼロでしたが、その発見の衝撃は強烈でした。実際、現在の私の研究題材はそれらの論文の影響によっています。その後、2003年にNatureに、microRNA 23がNotchシグナルを制御して神経細胞の分化をコントロールするという、非常にきれいな「お話し」の論文が、東大を懲戒解雇された某グループから出ました。後に、上手の手から水が漏れ、捏造の尻尾を捕まえられて、論文撤回となりました。皮肉なことに、この論文は、私が最も「お話し」が美しいと思った論文の一つだったのでした。「お話し」に限りませんが、きれいなものには注意しなければならないということを改めて学んだのでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スーパーマリオのノーベル賞

2007-10-09 | 研究
本年のノーベル医学生理学賞の発表があり、ジーンターゲッティングの技術の発見、開発に対して、ユタ大学のマリオカペッキを含む3人に賞が与えられたというニュースを聞きました。マウスのジーンターゲッティングの技術は、現在でマウス遺伝学手技を用いた研究を行うものにとっては必須のものとなっており、この技術が現代の医学生物学研究に与えた影響を考えると、ノーベル賞は当然です。結局これだけノーベル賞が遅れたのは、おそらく誰を受賞者の3人に絞るかという点が問題になっていたのでしょう。この技術は数多く技術革新が複合的におこってはじめて可能になったものです。まずは安定したES細胞の培養の確立、これはフィーダー細胞やLIFがESの分化抑制に有用であるという発見が不可欠でした。またES細胞とホストの胎児とのキメラマウスを作成する技術、違った種類の細胞を混ぜ合わせて一個体をつくるための技術、そのキメラの胎児を代理母の子宮へ返して育てる技術、決して簡単に開発できたものではありません。そして何より大きな技術的革新が、ES細胞のゲノムの一部を外来性のDNAで置換する技術(狭義にはこれがジーンターゲッティングですが)で、マリオカペッキの貢献はここにありました。アメリカの医学生物科学への主たる研究基金であるNIHは非常に保守的な機関で、研究計画の審査に当たっては、リスクの小さい研究、即ち研究の結果が確実に知識の増大につながるようなものが優先されます。成功すればその成果は大きいが成功する見込みが小さいか、あるいは成功する見込みが読めないような研究は、歓迎されません。ちいさなことをコツコツやるような研究計画が好まれるのです。ある意味、知識の隙間を埋めるような、最初から結果やその成果が予測できるような研究(逆説的には、やってもやらなくても大して変わらないような研究)が好まれます。カペッキのジーンターゲッティングのアイデアも当然ながらハイリスクであると考えられて、初期の研究資金の獲得に苦労したという話を聞いた覚えがあります。1980年代の後半、多くのグループがノックアウトマウスの作成にほぼ同時に成功したので、なおさらこの技術に関して誰が最も大きなクレジットを取るべきかという問題があったようです。
 マリオカペッキは現在ユタ大学在職ですが、イタリア移民で、数年前Natureのフロントページで彼が特集された時、その小説のような生涯に興味を引かれたものでした。イタリアでの幼少時は恵まれず、貧乏の中、盗みを働いたりして生き延びたというようなことが書いてあります。アメリカに渡って学問を志し、アメリカンドリーム研究者版を実現しました。彼はハーバードではDNA二重螺旋のジムワトソンのポスドクで、大変面白い現象を発見したにもかかわらず、ワトソンがそれを認めようとしなかったので、実験ノートを焼き捨ててしまったみたいなエピソードが披露されています。結果、誰かがすぐ彼の発見を再発見し、彼のせっかくの努力はワトソンの見る目の無さのために報われなかったのでした。ワトソンは学問を追及する科学者と言うよりは、例えは悪いですが、成功願望の強い山師的な人のように思います。ノーベル賞の相棒、クリックが学者の鑑みたいな人で、二重螺旋以外にも多くの非常に重要な科学的発見に寄与し、ノーベル賞受賞後も生涯一研究者であることを選び、一研究者として亡くなったことを考えると、ワトソンはクリックとの二重螺旋の後、研究的にはぱっとしませんでした。しかしハーバード、コールドスプリングハーバーと要職に就き、政治的な意味で科学界に貢献したのは事実で、ヒューマンゲノムプロジェクトなどの彼が主導した企画の成功が、現在の医学生物学研究に大きく寄与しているのは疑いもありません。
 私がカペッキの実物を見たのは一回だけです。小さな講堂だったので間近に話を聞きました。パターン形成に重要な働きをするHox遺伝子群の機能をマウスリバースジェネティクスを用いて解明するというのが彼の主な研究テーマです。訥々と誠実に研究の成果を語る様子が、ワトソンとはウマが合わないだろうなと思わせました。
私の現在リバイス中の某米国雑誌投稿中の論文と以前の同雑誌論文もアソシエイトエディターとしてカペッキを選びました。何となく、私にとってはラッキーパーソンのような気がしているので、彼の今回のノーベル賞受賞は、私もうれしく思っています。(実際、彼がジーンターゲッティングのアイデアを思いつかなかったら、私のこれらの論文はありえませんでした)
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白ける上に恥ずかしい日本の科学政策?

2007-10-05 | 研究
9/20号のNature誌のニュースのセクションで、日本のWorld Premier International Research Center (WPI) の選定が終わり、多額の資金が投入されるとのニュースがあらためて取り上げられていました。この短文では、WPIは、外国人科学者を引きつけ、外国との共同研究を促進することによって、世界をリードする研究施設をつくることを目標としていると述べてあります。これを聞いて白けてしまうのは私だけではないでしょう。選ばれた大学が、東大、京大、阪大、東北大、筑波ということで、わざわざワールドプレミアとかいう恥ずかしい名前のプロジェクトを作ってお金を落とさずとも、以前からお金には比較的苦労の少ない大学で、私は例によって実際を何もわかっていない官僚が机上の理屈でぶち上げた無責任プロジェクトを旧帝大が煽ったのだろうと、穿った見方をしてしまいました。外国人を引きつけ、云々といいますが、多額の報酬以外に外国人を引きつけるどのような魅力を創ろうとしているのでしょう?物価が高くて住環境が悪く、街では英語もろくに通じない日本での不自由な生活を余儀なくされるのが目に見えているのに、喜んでアメリカではなく、日本で働きたいという外国人がいるとはとても思えません。また外国人を雇うことが日本の研究施設にとってどれだけのメリットがあると考えているのでしょうか?平均を比較していみると、日本人並みの頭脳を持ち、日本人並みの正確さで仕事をし、日本人並みに長時間働ける研究者が、外国にそんなにいるとは思えません。ワールドプレミアと言うぐらいですから、雇いたい外国人は、プロダクティブな教授クラスの人なのでしょう。そういう人は既に十分よい研究環境にあることが多いわけで、日本がそうした人を呼んでくるには法外な報酬を払う必要があると思います。それだけの価値がある外国人がそうそういるとは思えません。更に、外国人を引きつけて外国と共同研究をする云々ということと、世界トップクラスの研究を行うこととは何の関連もありません。ワールドと言ってしまったので、外人コンプレックスの日本人官僚が、外人を入れなければワールドにならないとでも思ってしまったのでしょうか?あるいは手すりの飾りのつもりで外国人研究者を使うつもりなのでしょうか?また、外国人を引きつけといっている人は、多数の優秀な日本人研究者がアメリカやその他の国に引き抜かれたり、あるいは自ら研究環境に惹かれて外国で研究することを選択しているこの現実をどう思っているのでしょう。日本にそれだけの良い研究環境が用意できるなら頭脳流出はおこらないと思います。外国人でも来たいと思うようなそういう研究環境が整備できるのなら、まず優秀な日本人を優先的に雇うべきでしょう。日本の研究システムに外国人を入れてどうなるか具体的に考えてみると、まず、トップクラスの外人PIを多額の報酬で雇った場合、PIにとっては、優秀な日本人ポスドクにすぐ手が届くというメリットはあるかもしれません。しかし、だからといって、研究は人間の生活のうちの一部にしか過ぎないわけで、物価高と住居環境が悪く、文化や言葉で苦労する日本でそう長期に頑張ろうと思っている人はそんなにいないであろうと想像できます。それなりに数年やって、優秀な日本人ポスドクを利用するだけして結果が出れば、アメリカなどのよりよい施設に移動してしまうのがオチでしょう。そうして税金で高い報酬を払い日本人ポスドクを使わせてあげて、利用されて捨てられる、それでも「ワールドプレミアインターナショナルリサーチセンター!」と胸を張って言えるのでしょうか?ジュニアクラスの外国人、例えば他のアジア人とかであれば、日本に来たいという希望者はいるでしょう。そんな中から世界トップクラスを目指すような研究者が出るかというと、出ないであろう、と答えざるを得ません。世界トップクラスになるつもりの人なら、最初からアメリカに行くでしょう。英語を母国語としない国の人が、日本でジュニアクラスのポジションで研究をやるというのは、よほど特殊な理由があるか、つまり日本の特別な研究室でしか学べないなどの場合や、あるいは研究はそこそこでもよいから、自国に近いところで給料のよいところに留学したいと思っている場合ではないでしょうか。世界トップクラスの研究基地とつくるというのは悪くはないアイデアかも知れません。明らかな誤りは、外国人を入れると世界クラスを実現するのに役立つかもしれないと思っていること、資金を集中投入するとトップクラスの研究ができると思っていることではないでしょうか。むしろ逆だと思います。トップクラスの研究を促進するには、優秀な日本人研究者に投資し、ヘンな外人を入れないこと、資金は施設や大学にではなく人に投下することです。
この企画の本音を知っている訳ではありませんが、実際のところは、ワールドプレミアインターナショナルでも、ヒノマル研究センターでも、プロジェクトの名称や建前はなんでもよくて、お金さえ旧帝大に落ちるようにしてくれれば、体裁は何とでも整えますよ、という世界なのかも知れません。おそらく、みんなで楽しく冗談言っているのに、真に受けて青筋立てて真面目に意見されてもなあ、というのがその筋の人の思っているところなのでしょう。
とここまで書いていて、柳田充弘先生のブログでこのことに触れてある場所があったようなことを思い出して再訪してみました。その一部を以下に転載します。

年間15億円程度の研究費をだして、世界的にみて国を代表するものをつくりたいというのだそうです。名前はWorld Premier International Research Center (WPI) Initiativeというすごそうなものです。
これには、もちろん京大からも申請がでるのでしょう。ところが、なんと、京大からのは、出すと100%通ると最初から分かっているのだそうです。冗談だとおもいますが、担当副学長(理事)がいってるのだそうです。

というわけで、私の下種の勘ぐりも当たらずとも遠からず、すっかり白けてしまいました。この官と旧帝大の癒着体質は日本の研究界に極めて害悪であって白けている様な問題ではないのですが、旧帝大とその他の大学との格差がどんどん開いて非旧帝大系大学の一勢蜂起でもおこらない限り一歩の改善もないのでしょうね。官僚の多くが東大出身というのが諸悪の根源ですか。
そもそも現在の日本の研究を見渡して、世界トップクラスの研究が出ていないという人はいないでしょう。現に、同号のNatureに掲載されている研究論文14本のうち、日本人がトップ、またはシニアオーサーの論文は4本もあります。約30%が、日本人の重要な寄与によって形になったものです。因みに日本から出た論文は旧帝大からではなく、東工大からです。ハードコアセル/モルキュラーバイオロジーの論文で、Back-to-backのもう一本のイギリスからの論文の筆頭著者も日本人です。こうしたアネクドータルな例からだけ結論するわけではないですが、日本人および日本の研究施設の自然科学への寄与の度合いというのは、既に世界トップクラスなわけです。まるで旧帝大へ資金を都合するためのワールドプレミアなどという大袈裟な名前のこんな茶番をやるぐらいなら、外国人PIを一人雇うかわりに、ジュニアの日本人を二人雇い、旧帝大にセンターをつくってお金を出すのではなく、日本全体を見回して研究室レベルで投資を行うべきです。その方が日本の研究という点では百倍もよい。(と、また正論を吐いてしまいました)

少し話がかわりますが、研究費の分配について、しばらく前から柳田充弘先生のブログでJSTの研究費政策についての議論が進行しています。JSTの責任者の人の説明は、研究者の立場の人から非常に不評です。どうも政策の責任者の人は工学系の出身のようで、生命科学の基礎研究の性質というのも理解していないのが一つの理由のように思えます。工学ではトップダウン式のプロジェクトが比較的よく機能するようです。例えば、ソニーの北野宏明さんの、ロボカップのアイデアは大変面白いと思いました。プロジェクトのゴールはロボットチームと人間チームがサッカーの試合をできるようにするということなのです。目標とする所は極めて明快です。働く人の意欲をかき立てる夢のあるゴールです。しかし、サッカーができるロボットを作るということは、極めて多くの困難な問題を解決していく必要があります。ロボットの知能、知覚、判断力、運動能力、安全性、どれ一つをとっても、非常に高度なレベルが要求されます。真の狙いは、最終ゴールを設定する事で、解決するべき問題を明らかにし、それを解決していく過程で生まれる技術革新です。ゴールの設定、期間の設定は通常こうした応用科学である工学、技術系においては、研究を進める上でのよい指針となるようです。しかし、基礎生物学では、こうしたトップダウン式の研究方針は動きません。基礎生物学では、発明や工夫ではなく、発見することが第一であり、発見されるものは発見できるものに限られています。発見しようとして発見できるようなものではないのです。様々な研究の断片的な知識の集積、全く関係のない分野も含めての知識のマスという基礎があって、そこに努力と偶然が働いてはじめて、新発見につながるわけです。基礎生物学の営みの殆どは、この知識の断片のマスを増大させることに使われるわけで、そのごくごく一部が実地問題の解決に繋がる鍵となるに過ぎません。例えば「がんは重要な問題だから今後20年間で、がんを治す方法を見つけなさい」と言われて、具体的な研究計画など立てられるわけがありません。アメリカのNIHでも、トップダウン式のプロジェクト、ロードマップが思ったように機能していないとの批判があります。しかし、そもそもロードマップに投下される金額は全体のNIHの予算からすれば、ごくわずかです。NIHはトップダウンのストラテジーが生命科学では余り有用でないことをよく知っており、資金の大多数を、研究者主導のグラントに使おうとしています。また、大型プロジェクトのグラントを一本出すよりは、小さな研究者主導のグラントを5本出す方を好む傾向があるようです。日本においてはどうも逆方向に行っているように見えます。旧帝大を優遇して、研究界の格差を拡げ、研究の基礎体力である多様性をなくしていこうとしているようにしか見えません。私は日本の研究資金の管理責任者には、各分野ごとに研究歴のある人を据え、方針の決定においては官僚の関わりをできるだけ少なくする必要があると思います。私は日本の科学政策を正面切って批判する資格は本当はないのですが、ワールドプレミアとかいう恥ずかしい名前のプロジェクトは研究者のアイデアでないことは明らかですし、その政策の責任者の人には、こんなニュースをNatureのフロントベージで読まされて、赤面したり、白けたりする日本人の気持ちも汲んでくださいと言いたい気持ちです。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

科学発見の機序

2007-08-21 | 研究
「Science」誌の現チーフエディターのDonald Kennedyがしばらく前にステップダウンを表明しましたが、8月10日号のEditorialで、Kennedyは先月亡くなったDan Koshlandについて語っています。KoshlandはUC Berkleyの生化学の教授でしたが、Kennedyの前の1985年から1995年の十年間、「Science」のチーフエディターを務めたのでした。 同号の「Perspective」のセクションに彼の遺稿(?)となった一文が掲載されており、過去の科学的発見がおこった機序についての考察がされています。「The Cha-Cha-Cha Theory of Scientific Discovery」とヒューモラスに題された小文では、過去の科学的発見のメカニズムは、Charge, Challenge, Chanceの三つに分類可能であるとの意見を述べています。「Charge」による発見というのは、皆が認識しているありふれた問題の中に凡人の考えつかない法則を見いだす場合です。その例として、リンゴが落ちるという当たり前の現象の中に惑星の運行を制御するのと同じ法則を見いだしたニュートンの万有引力の発見をあげています。「Challenge」による発見は、科学的知見の蓄積のよって明らかになってきた問題に対して、解答を発見するような場合で、例としてケクレのベンゼン環の構造の発見があげられています。第三の「Chance」による発見は、いわゆるセレンディピシャスな発見であり、パスツールのいうところの「準備された心」によって通常見過ごされるようなものが発見されるという場合です。この例としてはフレミングによるペニシリンやレントゲンのX線の発見があげられています。
この小文を読んでみて、このCha-Cha-Cha 説がどれほど現実に即しているのか、またそもそもこういう分類をすることに何らかの有用性があるのか、私自身はちょっと疑問に思ったのです。文中で述べられているように、殆どの大発見は単一の「Eureka!」的一瞬に頼っているわけではなく、それに至るまで、またそのひらめきを得たあとの地道な検討によって大発見に育っていくものだと思います。ケクレがベンゼン環の構造を思いついたのは、尻尾をくわえて輪になっている蛇を夢で見たからであるという有名な話がありますが、本当に夢から発想を得たのか、あるいは発想を得たから夢に意味が与えられたのか、または時間を経るうちに話に誇張が入ってより重要でない部分が省かれ、象徴的なエピソードだけが残ったのか、本当のところはわかりません。私が想像するに、この発見も夢にみるほど普段から頑張っていたからできたのだろうと思うのです。後になって大発見と考えられるものには必ず歴史の修飾が入りますから、科学的大発見に至るまでの事実というものは、おそらく一般に知られている程簡単に記述できるものではないのではないかと思います。私の限られた小さな発見の経験を振り返ってみても、一つの発見にこのCha-Cha-Chaの要素の全てが多かれ少なかれ関与しているように思います。どんな発見であっても十分に準備された心がなければ発見には至らないでしょう。その心の準備は普段からの地道な努力によってしかなされないものだと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

進化論の進化?

2007-08-07 | 研究
アメリカではキリスト教原理主義者を中心に、人類が進化によって現在の形となったとする「進化論」に、宗教的立場から反対し公立の学校で進化論について教えることを中止させようとする動きがあります。彼らは人間はその他の生き物とは独立して神が創造したものであるという考えを支持したいのです。同様に、厳密に聖書に書かれている様式ではないが、宇宙人やその他の人間よりも優れた存在が人間を創造したと考える立場も含めて「創造説」と呼ぶ事にします。一方、創造説に比べて「進化論」には科学的な根拠があるので、科学的根拠のあるものこそ学校で教えるべきだとする立場の人々が創造説に反対しています。これはちょうどダーウィンやラマルクが種の多様性について研究していたころのヨーロッパの社会情勢と似ています。キリスト教では、動物なり植物の種から別の種が派生するのではなく、すべての種は神が独立して創造したことになっています。キリスト教の盲目的信者にしてみれば、聖書に書いてあることと矛盾したことが世の中に広まることは悪ですから、それを正すのが正しいのだと思っているわけで、これはどうしようもありません。私自身は状況証拠から進化というものは本当にあったのだろうと考えているのですが、「進化論」が証明不能である以上、「進化論」が正しいとは結論できない、進化論はモデルに過ぎないという立場です。実際現代の科学的立場からは、「進化論」そういう位置づけであると考えるのが正しいと思います。
今回はその進化論者の問題というか、ちょっと人と話していて驚いたことがあったので書き留めておく次第です。「創造説」は基本的に聖書に書いてある事を文字通り信じたいと思うキリスト教原理主義者によって支えられていると思います。勿論、科学的に「創造説」が間違っているという証拠がないことが、彼らの行動の根拠でもあります。しかし「The absence of the evidence is not the evidence for the absence」といわれるように、科学的証拠がないということは「ない」ことの証拠ではありません。そもそも「ない」ことを厳密に証明するのは不可能です。一方、「進化論」者も同じような間違いをしていることが多いように思います。つまり「進化論」を支持する科学的な証拠があるから「進化」が正しいと結論してしまうことです。証拠にはいろいろなレベルの証拠があって、進化論には「動かぬ証拠」というレベルの証拠はなく、「科学的」な証明に必要な「因果関係」が示されていないので、進化という現象は存在が示唆されるというレベルの証拠なのです。私も「進化論」側にたっている研究者と、たまに進化論に関連した話をする機会があるわけですが、私が驚いたことは、彼らの多くは「進化」は実際に起こった事実であると考えていることでした。端的に言えば、彼らは「進化論」は進化という現象を記述したものだと認識しているのです。これは私の眼からすると誤解であって、私はその態度に「創造説」者と同様の問題を感じたのでした。そもそもダーウィンやラマルクが問うた問題とは何であったのか、それを思い出せば「進化論」の性質がわかると思います。彼らが疑問に思った事、それは「なぜこの世の中にこんなに様々な生き物の種類があるのか」ということでした。彼らは綿密な自然の観察から、「生物の多様性が生まれるメカニズムを説明する理論」として「進化」というアイデアを得たわけです。よって「進化論」はそもそも進化を研究するものではなく、進化というのは「生物の多様性」という観察可能な事象を説明しやすくするためのモデルなのです。だから進化が実際にあったのかどうかという点は、そもそも二次的な問題であるし、証明のしようもないものなのです。「進化論」の擁護者は、しばしば「進化」は概念ではなく事実であるという信仰を持っているように思います。この点でおいて「創造説」者と同質の問題があると私は思います。仮に進化が起こった事が事実であったとして、遺伝子の相同性などから樹形図を描いてみて、生き物のもっともプリミティブなプロトタイプを想像してみるとしましょう。それではそのプロトタイプはどこから生まれたのか、非生物から生物への明らかにエントロピーの減少を伴う変化というものはどうして起こったのか、生き物は非生物とどれぐらいの連続性があるのか、このように生き物の発生する瞬間とかその辺にまでさかのぼってみると、進化論は無力です。最初の生き物はあるいは誰かが意図的に創ったものかも知れません。人間という動物種から離れてもっと大きな視点で見てみると、生物が何らかの外部からの意図なく、無生物から自然に発生することが可能であったかと考えると、われわれの常識的な感覚からは不可能ではないかと思う方が自然なように思います。
ここでダーウインの進化論に欠かせない「自然選択」という言葉の問題点です。この言葉は生存に適したものが選択され、適さないものが淘汰されていくということです。「選択されたものが生き残る」というのは、「生き残っているから選択された」というのと同じことです。つまり一種のトートロジーです。生き残っていないものが本当に選択されなかったのかどうかは、生き残っていないので知りようがありません。この自然選択という概念が比較的無批判に受入れられる理由はおそらく、人為的な選択の例を知っているからだと思います。農作物の品種改良などは、人為的に選択を加えることで様々な形質をもつ作物を作ることができることが知られています。しかしこういった例から自然選択が進化の過程であったであろうと単純に結論してしまうのは間違いだと私は断言したいと思います。なぜなら、品種改良の場合と異なり、自然選択の場合、「誰が」選択するのかというのが明らかでないからです。「自然選択」という言葉から普通に考えると、「自然」が選択することになるわけですが、では「自然」とは何でしょう。品種改良のように人間が選択する場合、その意思や目的に従った選択圧をかけることになります。選択が行われるには選択するものの「意思や目的」が必要なわけです。「意思や目的」なしに選択というのはあり得ません。そうすると「自然」に「意思や目的」があるのかということを必然的に問うことに繋がります。これには答えようがありません。そもそも自然という概念は曖昧模糊としたエンティティーであり殆ど「神」と言い換えても問題ない類いのものなのですから。「自然選択」において選択するものの主体は不明なのです。そう考えると少なくとも「自然選択」という言葉は、悪く言えば、わからないことをわかったように言うためのレトリックというか、まあ言葉のあやです。しかし「自然選択」という概念が厳密に定義できないからといって、その言葉の含意する現象はもちろんなかったとはいえません。生物の多様性が「ランダムな(この言葉も厳密に意味するところはよくわかりませんが)」遺伝子の変異から起きてきているであろうとする概念はおそらく正しいのでしょう。遺伝子の変異が不平等に生物に受け継がれていくという現象を比喩的に言えば、自然選択ということになるのだろうと思います。
一般の進化論者と話してみて、進化や自然選択といった言葉が時間とともに広まるにつれ、本来意図したものとは異なったものへと変化しているように感じたのでした。社会のコンテクストなどが選択圧となって、オリジナルから変異した概念が自然に選択されたのでしょうか。そうはいっても、本当にダーウィンが意図したことは私は知りようがないのですが。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

生物科学でない部分の生物学について思う

2007-08-03 | 研究
本棚を片付けていたら、10年余り前の本が出てきて、思わず読み出してしまいました。ドリーのクローニングの論文がネイチャーに出てまもなくして出版されたこの雑誌は多様性の生物学というタイトルの特集号で、その中では柴谷篤弘と盛岡正博のクローニングに関しての対談も収録されています。この本の中の京大の川出由巳さんの「自然学としての生物記号論」というエッセイを改めて読み直して見ました。極めて近視的な現代生命科学の方法論からちょっと距離をおいてみると、現代においても生物学はもっと豊かな文化としての学問でありうる可能性があると思います。エッセイの要点は、今西錦司の提唱した自然学は、現代の生物記号論者の考えと極めて近いということを指摘していることにあります。文中に述べてある通り、生物記号論は、「生物とは意味を解釈する存在、意味を創造するものである」という立場で生物学を研究していこうとする態度です。
少し長いですが、出だしと途中を抜き出してみます。

生物学はどこへ向かうのか。
二十世紀後半の分子生物学の登場によって生物学は著しく物理科学化した。物理学を科学の模範とする一般の風潮に従って、これは生物学の進歩と解される。複雑で多岐にわたる生物の世界に、普遍的で単純な法則性が見いだされ、多様な生命現象の説明を求めるための確固たる基盤が出来た。しかしこれは同時に生物を分子機械の集合とみる機械論を助長し、生物を人間の操作の対象と見なす技術的生物観を強化する。分子生物学の最大の衝撃は、生命現象の分子機構の解明といった科学的なことよりも、むしろ生物学を技術化したことにあるのではないだろうか。組み替えDNA技術その他に見られるように、分子生物学は広大な技術的可能性を開いたので、ある程度の訓練を受けた人を集め、資金を投入しさえすればやりうる仕事がいわばいくらでもあるという状況が生まれた。生物学は歴史上はじめて大々的に人間の役に立つものとなり、医療技術や農工業生産にひろく利用されるようになった。生物学は現在非常な勢いですすめられているが、その広い範囲にわたってそれがもはや科学とよぶよりは技術基礎学と呼ぶのがふさわしい類の仕事になっている。
(中略)
近代科学としての生物学はどうか。十八―十九世紀の変わり目あたりに誕生した生物学がそれまでの博物学と決定的に違うのは、生物に共通する原理として生命というものを認識したことだった。それ以前には科学的認識の対象としては生命の概念は存在せず、存在したのはもろもろの生き物だったにすぎないといわれる。(中略)
分子生物学については二つのことをいいたい。まず、それが対象とした生命の原理とは何だったのか。初期のデルブリュックその他の研究者たちが生物に特有でもっとも基本的な性質として、増殖と遺伝に的をしぼったとき、すでに生物の物理的、機械的側面だけが抽出されていたのである。生命の神秘が物質の言葉で明らかにされるなどという言い方がされていたが、分子の言葉で生命現象のメカニズムが語れるようになってみれば、解明されたのは物理的、機械的なことがらばかりではないか。(中略)

このようにこのエッセイでは、現代生物学が、組み替えDNA技術の開発とそれによる分子レベルでの生物の記載が可能になったために、その機械的側面の理解は進みましたが、むしろそれ故に生物の機械的側面を研究することこそが生物学であって、生物そのもの、自然そのものを研究するという生物学、自然学の本来の立場から乖離していきつつある現状についての批判から始まります。生物に共通する原理としての生命は、意味を創出し解釈する存在であるという考えは、分子生物学が推進した現代生物学が生物に与えたパラダイムとはすれ違います。現代生物学では、生命については研究しないのです。この十年前のエッセイの要点は未だに真実であるばかりか、現代生物学が生物の機械的側面のみしか扱わないとする態度はますます強くなってきていると私は思います。それは現代生物学の技術が人体その他に利用できるから優れているという単純な価値観が基礎にあると思います。利用できるものはお金になるのです。
 残念なことに、意味的存在としての生物を学問しようとすると、いわゆる「客観性」を保つことができなくなります。意味は解釈するものの主体があって始めて意味があり、それ故に主体や解釈するものの立場を離れて客観的に事物は存在しているとの前提から出発する近代科学の最初の公理を疑うことに繋がるからです。(事実、量子力学が明らかにした一つのことは観測者はシステムの外側から客観的立場で観察することはできず、観察者は既にシステムの内部に存在しているということでした)早い話が、現代生物学は生物の機械的側面のみしか扱わないと限定することによって発展してきたと言えるでしょう。こうした生物においての意味論を議論する人々は、現代生物学が生物の機械的部分の研究であるという限定を忘れて、あたかも生物は自動機械以上の何ものでもないと考えてしまう傾向を危惧しているわけです。生物の意味的側面を科学的手法で研究することは困難です。じっさいこの手の研究は結局、哲学的議論の枠内に収束してしまうのです。しかし、私はこうした生物学における意味論的な議論が常に生物学の分野の中で進行していることは極めて重要であると思います。現代生物学では、眼に見えるものしか扱えません。見えないものは存在していないのと同じという態度です。見えないから無いとは結論できません。本来「生命」とは何かを問う生物学が、「それはよくわからないから議論するのは置いといて、とりあえず生物を分子機械とみなして研究する方が沢山データがでるからその方向でいきましょう」という感じで進んできている、そういったことを、現代生物研究者は意識しておくべきではないかと私は思うのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歴史との邂逅

2007-07-13 | 研究
昔、はじめてノザンブロットを習った時、ハイブリジュースも当然ながら手作りでした。デンハルト液というブロッキングのための液やサーモンスパームのストックなども手作りした記憶があり、私のとってはこの技術は大昔からあるものという印象があります。しかし冷静に考えてみれば、利根川博士がノーベル賞受賞となった仕事をしたころにはサザンブロットでさえなかったのですから、科学の歴史から見るとこうした技術はそう大昔に生まれたものではないのです。ただ自分が実験を始めた頃にすでに教科書に載っていたということで、ずっと前からある古いものという印象を持ってしまったのでしょう。デンハルト液は手作りしたので、それは3種類程の薬品を混ぜてつくったもので、そのうちの一つはポリビニルピロリドンであったことをいまだに覚えています。こんなことを書いているのは実はこの間、デンハルト博士に会って話をする機会があったからなのでした。デンハルトという名前を聞いて、当然のように私はデンハルト液を思い出したのですが、まさかその人がデンハルト液を発明した本人であるとは思わず、デンハルトというのは意外によくある名前なのだなあと勘違いしたのでした。というのも私の頭の中では、デンハルト液は大昔に考えられたもので、それを創った人はとっくの昔に引退したか死んでしまったに違いないという無根拠な先入観があったからでした。だからその本人であると知った時は、お富みさんではないですが、生きていたとはお釈迦様でも知らぬ仏のなんとやらと思うほどびっくりしたのでした。生身のデンハルト博士はごくふつうの研究者で最近の仕事ではオステオポンチンのノックアウトを作ったことで知られているらしいです。(私は実際に会う直前まで知りませんでした)ですから、私のやっている骨格研究と多少のつながりもあったのでした。せっかくなので、本人からオステオポンチンがステムセルの維持や骨格系でどういう分子機能をもっているのか聞いてみたのですが、「よくわからない、細胞の生存を促進するようだが特異的な機能はない」みたいなことをつぶやくのみで、なんだかもう余り興味がないようでした。とにかく、私にとっては思いがけない歴史との邂逅であって、本人が現在どんな研究をやっているかということよりも、この人があのデンハルト液を作った人かあという妙な感激の方が強く心に残ったのでした。科学界のいろいろな有名人を講演やセミナーで間近にみたことは何度もあるのですが、いわばそのようなスターとは言えないデンハルト博士に会ったことの方が強い印象に残りました。大げさに言えば、それはおそらく、昔、実験室で一人でデンハルト液を作っていた若いころの自分の個人的な経験と科学の生の歴史とが繋がった瞬間だったからなのだろうと思います。一方、現在トップクラスの研究者はその仕事をまずリアルタイムで知っていることが多いので、生で見ても、芸能人を道ばたで見かける程度の感動しかないのだと思うのです。昔ひまだったころ、司馬遼太郎の時代小説を読んで主人公が渡ったという橋を探しに釜風呂で有名な京都八瀬の里を一人訪れたことがあります。小説からのイメージを頼りに人気の少ない八瀬の川沿いを散策していたら目立たない小さな橋の欄干にその名前を発見したのでした。何だかその時の感動を思い出します。現役の研究者に向かってこの喩えはちょっと失礼ですね。
あたりまえなのですが、現在からみた過去の中に時間的に連続した意味性、または因果性、を見つけることが歴史というものなわけで、改めて過去は現在と切れ目無くつながっているのだということを実感したのでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自然科学での感情の問題

2007-07-10 | 研究
ちょっと前にどこか(どこだったか思い出せません)で知ったこと。
論文がアクセプトされない二つの理由。
1、誰かが既に同じ事をやっていた。
2、誰もやったことがなかった。

全く新しいものや概念を人々が受入れることは容易ではないと思いますが、誰にも理解されないというのは私にとってはなかなか快感を呼ぶものです。そんな機会はまずありませんが。Natureに載るような論文ではノーベル賞はもらえないというのは通説ですが、私のとってはノーベル賞は勿論のことNatureも一生縁がないかも知れませんから、負け犬の遠吠えに聞こえるのもむべなるかなですが。誰もやったことのない新しいことを評価する、その発見の価値を比較するものがない状態で自信をもって評価でするというのは勇気がいると思います。一方で法律のように判例にばかり頼って判断するようになると、前例のないイノベーティブな仕事は、理解できないから自分はわからない、自分がわからないものはよくないという思考停止型の安易な評価をつい行ってしまうのも世の人の常です。また同様に昔から受入れられている常識を覆すような発見というのも人々の感情的抵抗に会います。古くはコペルニクス、ガリレオ、最近ではフォルクマンやバリー・マーシャル。人は多かれ少なかれ変化を嫌うものですから、新しい発見にわくわくするよりも、それによって自分の価値観の変更をせまられる可能性に対する恐怖の方が大きいのでしょう。しかし、新しい発見が抵抗する古いパラダイムをひっくり返す場面は、ちょっと古いですが安芸乃島が横綱を寄り切るのを見るような爽快感があります。
とにかく、そうした人間の感情的抵抗というものは自然科学研究において実は最も大きい実際的問題(特に論文やグラントというレベルで)ではないかと最近つくづく思うことが多いのです。人間誰でも自分自身や自分の仕事を批判されると不愉快に思うものです。科学論文は懐疑的にレビューするというのは建前ですが、レビューアによっては罵詈雑言といってよいような感情的な言葉使いをする人もいて、論理的な議論にもっていきようのない人もいます。欲求不満を匿名で他人を攻撃することで晴らしているとしか思えないような人もしばしば見受けられます。そんなレビューをみると、客観的観察と論理で結論を支持していくという科学研究であっても、人間は感情の動物で論理も客観も感情と主観の上に成り立っているのだと思い知らされます。逆のパターンもありました。レビューアは筋の通ったコメントをしているのに、どういうわけか著者の方は必要以上にディフェンシブになっていて自分の意見を通そうとするのです。勿論レビューアへの返答にレビューアを批判するわけにはいきませんから、レビューアの意見を尊重するとはしつこく書いておきながら、一切意見は取り入れないというような反応だったのです。レビューアへの返答だけで20ページぐらいあって、そんな大した論文でもないのに意固地になっているのを見て、なんというエネルギーの無駄遣いだろう、人間、感情的になってはいかんなとつくづく思いました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スキーとエスカレータと研究

2007-06-24 | 研究
若い独身時代にスキーをしていた頃は、とにかくこぶありの急斜面を目指したものでした。リフトから山頂に降り立って雄大な景色を見るというのももちろんスキーの楽しみでしたが、いざ斜面に向かったらそこからはいかに思うとおりに滑り降りるかという挑戦に立ち向かうのです。私がスキーを始めたのは社会人になってからでしたから、スキーがうまいはずはありません。特に好きだったのは「奥志賀第三リフト沿い」と呼んでいたコースでした。当時は奥志賀のこのコースはそこそこの距離と幅がある上に、多くの人はゴンドラで山頂まで行ってしまうので比較的人が少なかったのです。当時初心者に毛が生えたような私ですからこぶの急斜面をこけずに一気降りできたことは一度もありません。それでも滑り出すときはフォールラインに真っ直ぐに向いてこぶの腹をヒールキックしながら(と頭でイメージしながら)滑りおりようとしたものでした。モーグルでは雪面とのコンタクトを出来るだけ保つことが重要視されるので、こぶで跳びながらヒールキックを連発するのは、コントロールの悪いヘタクソなわけで、そもそも跳んでいては、急斜面ではすぐ破滅してしまいます。私は「初心者に毛」だったのでこぶではどうしても跳んでしまい、そのうち跳びながらこけずに急斜面を降りるのがよいのだと勘違いしていたふしさえあります。そんな滑り方をしてこけない人はどこにもいません。というわけで、こぶの急斜面でこけなかったことはなかったのでしたが、それでもフォールラインからそれることだけはどうも無意識に拒絶していたのです。あるとき友人と一緒に滑っていたとき「どうしてこけるのに、そんなに真っ直ぐ滑ろうとするのか」と聞かれて、「えっ?」と思ったことがあります。フォールラインに真っ直ぐ向かずに滑ることは私にとってはやってはならない基本的なルール違反だと考えていたのです。そう聞かれてはじめて自分がありもしないルールに自ら縛られていたことに気がつきました。ルールというよりはこだわりだったのでした。せっかく急斜面にきているのにわざわざ斜めに滑ったのでは急斜面に来た意味がない、そのこぶの急斜面をこけずに真っ直ぐ滑り降りるのが私の挑戦だと考えていたのでした。それに実際、私はこけることが嫌いではなかったのでした。コントロールしきれなくておおきなこぶに飛ばされて雪面に叩きつけられる時、私はしばしば笑っていました。友人にはそれが変に見えたのでしょう。雪の上だから少々こけてもそうダメージはありません。あれだけこけまくっていたのに、これまでのスキーでの怪我は、ビンディングがうまく外れず右ひざを捻ったことと顔面からアイスバーンに着地してあごの下をバックリ切ったことぐらいです。その自由に失敗できるのがまたうれしかったのかも知れません。スキーをしなくなって十数年、仮に今度してもこぶの急斜面にはいかないだろうし、そこでこけたいとも思わないでしょう。
 昔、スキーの楽しみは自己実現の楽しみだと語ってくれた知り合いの先生がいました。少しずつ上達して、できないことができるようになっていく、その満足感がスキーの楽しみの大きな部分だと言うのでした。それ以外にも自然の中でゆったりと自由を味わうというのもあるだろうし、さまざまなレベルの楽しみがあると思います。 最近いろいろなレベルの研究者の人と話をする機会があって、研究もスキーも似たところがあるなあと思ったのが、これを書き出したきっかけでした。研究はもちろん挑戦な訳ですが、私のようにほとんどこけるのがわかっていながらこぶの急斜面を真っ直ぐ滑ろうとする初心者は余り多くありません。いかにゴールにうまく到達できるかという点が研究計画を「売る」ための重要なポイントですから、私のようにこける可能性が高いと「売れない」のです。しかし、失敗しない研究はないし、批判されない論文や研究計画はないわけで、研究者はそれらの大小さまざまな失敗にめげずに挑戦しつづけることでしかゴールに到達できないというのは事実です。この研究者の生活を「下りのエスカレーターを昇る」と形容した人の言葉を最近知りました。まさにその通りで、逆境にめげず昇り続けないと終点に着けないどころか、振り出しに戻ってしまうのです。私のように一気に終点を目指して駆け上がろうとしてこける人もいれば、下りのスピードとほとんど変わらないスピードでしか昇らないのでいつまで経っても終着点につかない人、終着点を目前にして立ち止まってしまい振り出しに押し戻される人、力強く着実に上っていく人、さまざまです。最近は研究者の供給過多や研究資金の制限などから、下りのエスカレータはより早い速度で動いています。皆が昔以上のスピードで昇ることを要求されるようになりました。終着点も一過性のゴールにしか過ぎません。そこを通過するとたいていより早い別のエスカレーターを昇ることになるのです。こうなってくると、終点につくことよりもエスカレーターを昇ることそのものに喜びを見出せないとやってられません。昨日よりも今日、今日より明日と少しでも早く着実にエスカレーターを昇ることができるように精進する、それを挑戦だと考えて、自己実現の一部と捉えれるようにならないと、最近の研究者生活は辛いですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

数え満貫的論文

2007-05-29 | 研究
そろそろ今やっていることを論文にまとめなければいけなくなってきました。期待したようには話はふくらまず、そこそこの仕事です。面白い話にならないかと思っていろいろ検討してみましたが、満塁場外ホームランの可能性は低そうです。心の中で、今あるデータから結論できることとその結論の価値を計算して、どこのジャーナルをトライするかを考えていました。以前出した論文を読んでくれた人とたまたま話をする機会があって、「あの論文はあれで打ち上げですね」みたいなことを言われたことがあります。つまりその論文の内容の研究を継続的に発展させようという様子が読み取れなかったと言われたのですが、言外には「なんとか形にした」という青息吐息の様が見て取れたというような意味が含まれているのです。私は図星をつかれてちょっとひるんでしまったのですが、読む方もそういう「何とか形にした」みたいな論文は読みたくないのだろうなと申し訳ないような気になりました。確かにこの論文はあるところまで来て、行き詰まってしまっていたのです。他の事に力を入れていたのでしばらくほったらかしになっていました。たまたま手にいれた変異マウスとの複合変異の解析データが出たので、論文を書く条件がなんとか整ったというような感じでした。大学時代にはたまに麻雀をすることがありましたが、麻雀で言えばメンタンピンドラドラぐらいの手でした。小さな手が重なってなんとか点数になったような論文だったのです。九蓮宝燈とは言いません。四暗刻ぐらいの役萬で上がるのが理想です。数え満貫ではちょっとインパクトが弱いです。今回の論文のネタは、扱っている主題にすでにドラがついていますので論文出版という点では有利ですが、このドラもおそらく今年限りですから急がないといけません。データが自然に整合性のあるモデルに収まってくれて、きれいなストーリーが出来上がるようなことはなかなかないものですね。きれいな話にはならないようですが、今回、最後にやってきたデータは、将来的に面白くなる可能性のあるネタを含んでいるので、次回のお楽しみになりそうです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

防御は攻撃の基礎

2007-05-26 | 研究
しばらく前にプロの棋士(碁)の誰かが言ったことで、「囲碁での攻撃は動きではなく状態であり、攻撃するとは相手に比べて優位な状態にあることであって、故に自陣を固めていくことがしばしば優位に立つこと即ち攻撃につながる」というような言葉があることを知りました。即ち防御こそ攻撃の基礎ということです。攻撃は最大の防御という言葉はおそらく短期決戦にはあたるかも知れません。しかし勝負が連続している実社会においては、防御を第一に考える方が戦略的に正しいように思います。孫子も「敵を知り、己を知らば、百戦危うからず」と言っています。どこからやってくるかわからない敵を知ることはしばしば困難ですが、己を知りそれを固める事は(現実は難しいものでしょうが)理論上は常に可能なような気がします。己を固める事は、研究者としての生き残るための最大の攻撃だと思います。研究者にとっての世間一般的な意味での「勝ち負け」は、競争資金の獲得と論文の発表にあります。しかしこれらも基本的には研究の内容の善し悪しが最終的には決定するので、レトリックやお化粧で一度二度は勝てても、長期的に勝ち続けることは難しいです。研究における攻撃はレビューアーやピアに発見の意味をアピールし説得することですが、常に懐疑的に研究成果を評価される研究社会では、レビューアや論文読者がこちらのいう事をそのまま納得してくれることはまずありません。逆に彼らは弱点と思われる場所を攻撃してくるので、結局はその懐疑に耐えるだけの防御力が勝敗を決定していきます。自分の弱点と思われるところを発見できる能力とそれへの対処能力を身につけるには、勝負経験、しかも負ける経験が必要です。自転車に乗ることを覚えるのと同じで失敗を繰り返す事なしには身に付かないものだと思います。それが研究者としての基礎体力であると思います。つまり如何に攻撃を予測しそれに対応できるような研究をしているか、あるいは打たれ強い研究をしているかいう点が研究の完成度、質を最終的に決定するのだと思います。アイデアはよいのだけれども、研究としてなっていない論文原稿をしばいば目にします。自然科学においては、アイデア(思いつき)は確かな実験結果として示されなければ、何の価値もありません。攻撃に出たが自陣が疎かになってしまった、そんな感じです。ごまかして株価を上げてみたが実体はなかったというある会社みたいです。そうした論文原稿を見て思う事は、著者自身がその論文の基礎の部分の危うさに気がついていないことが多いことです。砂上に楼閣を築くかのように、その危うい部分を少し叩くと、ぼろぼろと崩れ去ってしまうような論文原稿が結構多いのです。反対にリアルタイムで浮かんでくる疑問に対して答えが常に用意されているような論文は読んでいて気持ちのよいものです。たとえ発見の内容がそれほどでなくても、しっかりした研究であることが感じ取れれば、その論文や著者に対して好感を持ちます。
どんな懐疑に対してもどっしりとして揺るがないような研究を自信を持って示せるようになることが理想です。(言うは易しですが)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地盤沈下するミドルクラス

2007-05-21 | 研究
研究室には同じ博士研究員であっても、明らかに2種類の人がいます。つまり、研究者として独立してそれで食っていこうと考えている独立起業型の人と、誰か別の研究者の下請けをしてやって報酬を受け取るのを目的とするサラリーマン型またはアルバイト型の人です。ポスドクを始めて間もないころ、私にはそれらの人々の違いが余りはっきり見えていませんでした。医学部の臨床教室で大学院をした私は、臨床系の大学院には明らかに2通りの人間がいることを知っていました。研究には興味がないが研究している教室員が沢山いました。彼らの目的は博士をとることであり、彼らはいわば教室の指導教官のために働いて見返りに学位をもらうというアルバイトであったわけです。実際、学位のための研究労働は「ティーテル アルバイト」と呼ばれていました。その大学院を終えて博士をとってからもなお研究室にいる人がアルバイトやサラリーマンのはずがないと私は思っていたので、ポスドクは皆最終的には独立を目指して頑張っているのだろうと考えていました。それに実際、表向きはポスドク期間はトレーニング期間とされていますから、そのトレーニングを終えて独り立ちしていくのが建前です。しかし、現実には研究室を主管する独立ポジションを得るのはなかなか困難なことですし、最近ではますます難しくなってきているのは間違いないです。そんな中でポスドクをトレーニングと考えるのを止めて、賃金を得るためのアルバイトとしてやる人が増えてきているように思えます。特に夫婦共稼ぎで子供がいる女性研究者の人では、結局家庭と研究者としての仕事の両立が困難だということで、時間的に自由のきく研究職で責任の余り無いポスドクをやっているという人が多いような気がします。またポスドクを雇う方も明らかにポスドクをアルバイトとしてしか見ない研究室主幹者がいるのは悲しいことです。自分の手足となって動いてくれるだけの低賃金労働者ぐらいにしか考えていないのです。不思議な事に因果は巡り、そういう研究室にはそういうレベルのアルバイトポスドクが集まるようです。アルバイトポスドクも真剣に上を目指しているポスドクも表面上は同じに見えますから、平均的なアメリカの研究室を見ていると、「皆のんびりやっているのに研究を続けていけるのだなあ、いい国だなアメリカは」みたいな感想を持つのです。実際はアメリカだと研究費から人件費を払えるので、日本には殆どいないアルバイトポスドクが沢山蓄積しているというだけのことだったのです。独立を目指す研究者にとってアメリカの研究室の実体は日本と同様に過酷なものです。しかも会社と同じで独立はゴールではなくただの始まりに過ぎないのですから、上を目指すポスドクは、独立のために必要な仕事に加え、独立後に順調に会社を運営していくための準備もしなければならないわけで、自然そうした人と賃金が目当てのアルバイトポスドクとの間には大きな溝が生まれてきます。まさに社会の縮図ですね。資本主義的社会と共産社会主義的社会があるように、研究室にもそこにいる研究者の質によって文化とか主義とかが異なります。競争、市場原理の強い研究の世界では、競争を避けていては勝ちはなく、競争に加わるにはそれだけの力を蓄えねばなりません。アルバイトポスドクの増加は、そうした競争の熾烈化が生み出した共産社会主義的研究社会へのあこがれの表れのような気がします。しかし結局研究社会は結果主義なので、そうした共産社会主義的研究室は単にアルバイトポスドクが蓄積し長期的には淘汰されていってしまうのですが。皆が充実して研究を楽しく行って食っていける世の中というのは理想なのですが、研究に限らず現在の世の中(昔からずっと)は、浮かぶ者あれば必ず沈むもののある世の中で、現在の社会形態がそう簡単に変化するとは思えません。アルバイトポスドクの数が増えてくると、結局独立を目指すまたは独立したての研究者は少数派となってきて、いわゆるミドルクラス層が減少して研究者の二極化が進んでくるような気がします。これは研究社会にとっては基礎体力の低下、多様性の減少を招く悪い傾向だと思います。しかし、生存がかかっている各々の研究者にとってはとりあえず自分が生き延びることが第一なので、結局は競争に勝つかアルバイトなりサラリーマンとなって誰かに賃金を払ってもらうかの選択をすることになり、この二極化はますます加速することになるのではないかと思われます。 これも研究のグローバリゼーションによる弊害でしょう。結局、どこの雑誌に論文が載るかで研究資金からポジションの獲得まで決まってくるのです。本当にユニークな研究は分かってもらいにくく、有名雑誌に載りにくいわけです。皆が同じような手法を使って流行のものをやるのは、この論文至上主義が世界的に浸透しているからに他なりません。残念ながら、この傾向も逆にもどすことはできません。地盤沈下した資本主義社会の自称ミドルクラスが底辺へと落ちてきた事を実感し出した時に改革が起きるかもしれませんが、それはきっと大きな痛みを伴う事でしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

余裕のない社会

2007-05-19 | 研究
研究の分野ではよく「publish or perish」と言われます。論文を書かなければ生き残れないということなのですが、この言葉が示すように、残念ながら研究者は論文出版競争、研究費獲得競争に勝っていかなければ研究を続けられません。効率の点でこの競争はある程度必要なのは間違いないのですが、以前述べたみたいに今日のように競争が激しくなってくると、研究の中身はともかく勝ちさえすれば良いと考える人が増えてきます。競争に勝つと自分は他の人よりも偉いような気がしてくるようで、そうするとますます増大するEgoのため、より大きな競争に勝ちたいと思うようです。人間の欲望は限りがないです。その欲があるからこそ辛い努力もし、科学も進歩してきたのですから、人間の欲望は積極的に認めていくべきなのだとは頭ではわかるのですが、昔からその欲望充足を追求していった先にあるのは自滅だと確信しているので、素直にそれを追求している人を見ると目を背けたい気持ちになるのです。研究活動は基本的には、観察事実からいかに面白い話を作れるかというゲームなのですが、ゲームそのものには勝ち負けはありません。あるとしたら自分が納得がいく話ができたかどうかという自己満足でしょう。昔の競争が比較的緩やかだったころは、研究者はそうしたゲームを楽しみながら食っていけるという特権階級だったのですが、競争の激化に伴って研究者は限りある研究資金を奪い合う敵どうしみたいな空気が強くなってきてました。長年研鑽して下積みを重ねても、殆どの場合金銭的には全く報われないし、研究を楽しむことも困難になってきていては、何のために研究者をやっているのかと思う人が増えてくるのも無理はないと思います。ある著名な研究者が、研究と性行為の類似点として、「どちらも時折、素晴らしいものが生まれるが、普通はそれを目的として行うものではない」と言ったそうです。研究はやはり研究することそのものに意味があって、根本的に何かに役立てるためにするというものではないのです。社会がこうした「無駄」というか文化というかそういったものを尊重する余裕がだんだん無くなってきているのですね。残念なことです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

等価像

2007-05-02 | 研究
遺伝子変異マウスの細胞の異常を見つけようと顕微鏡をずっと覘いていました。個体レベルで異常がでるのは間違いないのですが、細胞レベルでも形態的な異常が認められるのではと思ってひたすら見ていました。同じ組織と言っても細胞は一個一個違った形をしているので、何かおかしいように見えても異常なのか、正常の変動の範囲内なのか、あるいは組織標本をつくる時のアーティファクトなのか、簡単に判断がつきません。科学は一応は方法的懐疑によって誤った解釈を消去していって正しい結論に到着していくので、沢山ある可能性をひとつひとつ検討していくのは結構時間がかかるし、答えは常に白黒はっきりするわけではないので、判断保留の解釈が複数残ってしまうことも多いです。そうしていても毎日進んでいかねばならないのでそうした解釈はとりあえず「括弧に入れて」次にいくようにしていますが、最後まで解決つかないことも多々あります。顕微鏡を覘いていて「懐疑的に検討するということ」を考えていて思い出した事があります。組織学の最初の授業でした。組織学だから顕微鏡で見た世界について研究するわけです。顕微鏡を使う心構えというか、そういったものについて最初に話があったのです。当時医学部の教官にはまだドイツ語で教育を受けた人も多く、黒板にかかれたのはドイツ語で「Aquivalent Bild (Aはウムラウト)」だったと思います。日本語だと「等価像」とでもいうのでしょうか。顕微鏡による観察法が科学に導入されたころ、「顕微鏡を覘いて見た世界が本当に実在するものと同じかどうか」という顕微鏡技術そのものへの懐疑に対する答えを先人はまず求めたのです。結果として「顕微鏡で覘いた世界が実在していると断言することはできない」という結論に達した訳です。しかしそうは言っても、私たちは顕微鏡で見ているものがまぎれもなく顕微鏡のステージの上に乗せたものであるという常識的な確信をもっており、見えている像はそれを拡大したものであると信じています。先人ももちろんその信念はあったのでしょう。しかし論理的に証明はできないという結論だったわけです。このへんの哲学的議論は大変興味深いのですが、一方、科学はempiricalなものですから、証明できないから顕微鏡での観察には意味がないと結論するわけにはいきません。その妥協案が Aquivalent Bildなわけです。つまり、顕微鏡で見えた世界が実在するものの拡大であると証明はできないが、あきらかに対応関係があるので、顕微鏡で見えた世界は実物と等価と見なそうという実際的な解決案です。今や顕微鏡の観察法に対してわざわざ「見えているものは虚像かも知れませんよ」というような実際の研究に役に立たないことを教える教官はいないかもしれません。しかし常識というものを疑ってみることは時に科学の分野では有効ですから、そうした先人の心構えを知っておくことは悪いことではないと思います。疑ってみた上で最終的に常識的な結論に到達するのが望ましいのだろうと思います。
顕微鏡で見る細胞の像が信じられなくなってきたので顕微鏡のせいということにしてみました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

研究と私小説

2007-04-15 | 研究
小説の分野に私小説というものがありますが、私のやっている研究というものはまさに私小説を書くという行為と近いのではないだろうかとふと思いました。といっても私は私小説なるものは書いたことがないのではっきりと分かりません。その手の小説というのは、小説を娯楽として読むものにとっては、多くの場合、暗く難解で面白くないものでしょう。しかし書く方にしてみれば、ほとんど無から有を生み出すような行為であり、自分をいうものをひたすら掘り起こすことで、何か価値あるものを発見しようという活動であろうと思います。それは自分以外の題材を選び取材しそれをもとに話をまとめていく多くの小説と比べれば、効率が悪くまた辛いものでしょう。しかも余り一般の人に評価されない。世の中にはドラマのネタになる興味深いことがたくさん世界中で起こっているわけで、娯楽として小説を読むものにとっては、そうした劇的なドラマの世界の方が、個人のありふれた日常をねちねち掘り起こすような話よりもはるかに興味深いのは当たり前です。然るに、科学論文ではどかと言うと、専門外の人や一般の人が興奮するような面白い科学の発見など一流紙を見回してみても滅多にありません。私は主に娯楽目的で科学雑誌を購読していますが、専門外の論文でこれは面白いと膝を打つような論文を見ることは年に一度あるかないか位です。というより面白いという以前に専門外の論文の場合、その価値さえよくわからないことが多いです。論文の価値が分かるためにはその分野のある程度の知識をバックグラウンドとしてもっている必要があるわけですが、最近のように高度に細分化され、どんどんとパラダイムが更新されていく科学界では、自分の専門以外の分野にリアルタイムでついていくのはなかなか困難です。そもそも紙に書いてあることを読んで得た知識など半分は勘違いといってもいいでしょう。ですから苦労して得た科学の成果を苦労して論文に書いても読んでくれる人は限られています。読んでくれた人でその論文の価値を理解してくれるのはまたその数割というところでしょう。そういう点からも研究は私小説に似ていると思います。
小説と同じく、研究でも外に取材する部分と私小説的な部分があって、多くの論文は両方のパートをふくんでいるのが普通です。取材部分はdescriptionと呼ばれ、私小説的部分はmechanismと呼ばれていると思います。なんらかの現象を見つけたという部分が前者で、その現象を解釈して裏付けたというのが後者です。前者は比較的ストレートですが、後者は多くの場合困難です。しかも後者は多くの場合「あやしい」ものが多いです。もちろん困難であるからあやしくなるわけです。ここのmechanismの部分は、「あーでもない、こーでもない」と頭をかきむしりながら苦闘することになります。そんなところが売れない純文学作家が自分をいじめて私小説を書いている図と重なってしまうのかも知れません。科学研究者は、再現できる実験的結果がもちろん最も大切であると思っていますから、最初から私小説的部分で苦闘するのはバカらしいと思っていて、確信的にその部分に「でっちあげ」に近いデータ含めるのを躊躇しないような人もいます。もちろん直接本人に「でっちあげでしょう?」と訊いたことはないので、下種の勘ぐりと言われても仕方ないですが、そうした論文はいくら現象部分は面白くても読んでいてもやはり感心しません。論文は出して「ナンボ」のものだし、どうせ読んでくれる人は限られているのだから、出版に必要な部分以外の体裁付けのような部分に苦労するのはバカらしいといえばその通りといえばその通りなのです。それでも多くの真面目な研究者は完成度の高い作品を目指して頑張るわけですから、やはり理想の高い売れない純文学作家みたいなものですね。メジャーになりたければ私小説をうじうじ書いていたのではだめなのですが、良い論文、よい研究成果を得るには、この部分で苦労して成果をあげねばならないのだろうと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする