科学論文での「お話し」の話なのですが、先日の柳田充弘先生のブログの中で、「お話し」性に乏しいが、キラリと光るデータがある論文を投稿した時の話が、ありました。「お話し」、ストーリーのある論文というのは、読み手からみると読みやすくて面白いのは間違いないです。生物科学論文での典型的なお話しというのはこんな感じです。
実験なり観察の結果、何らかの新しい現象を発見した。その現象を詳しく調べてみると、ある分子が変動していることがわかった。その分子を操作してやると、発見した現象が再現されることがわかった。こうして新しい現象とそれが起きてくる機構を明らかにした。
実験の結果、何らかの新しい現象を発見するということさえ、簡単なものではありません。実験そのものが困難であったり、実験結果の解釈が難しかったり、再現性がなかったり、します。新しい現象が見つかれば、まず論文にはなるということです。一人の人が一生懸命頑張って実験して出せる論文の数を見てみれば、この部分も簡単でないことがわかります。しかし現在では、ハイプロファイルのジャーナルは多くが、ほぼ完全な「お話し」を要求することが多い訳です。いくら大発見がそこにあっても、それを別のレベルで説明する、いわゆる「メカニズム」の部分にきれいなデータがなければ、「descriptive」と一言いわれてrejectされることになります。実際のところは、そんなきれいな「お話し」がそうそう見つかるわけはないのです。最近の生物学はテクニカルに高度なものとなってきていますから、分子(または遺伝子)で細胞や組織や個体を語ることが要求されます。遺伝子と一言で言っても、少なくとも何万種類はあるわけで、それらの遺伝子産物の天文学的な数の分子が天文学的な数の相互作用をし、その結果、細胞なり組織なりのレベルでの現象となって現れていくわけです。ですから、そこにまるで一直線の矢印のように、ごく限られた分子をつなぐシンプルでわかりやすい因果作用があるというようなことを「お話し」しなければならないとすれば、それは現実を大きくデフォルメしたものにならざるを得ません。「お話し」は読者が本来複雑な現実をわかったように感じるための方便であると私は思っています。しかし、最近の傾向を見ていると、「お話しは(嘘であるとは言いませんが、現実のごく一部を強調したものですから)方便である」という私のスタンスは、論文の出版を左右する人々の中では、どうも少数派のような気がするのです。実際に自分の手を動かして実験をやっている人なら、私の意見にかなりの率で同意してくれるとは思います。実験というものを昔のことで忘れてしまった人や、研究は論文を出すのが究極の目的だと思っている人、科学論文にSF小説並みの娯楽性を求めてしまう人、そういう人たちが「お話し」至上主義とでもいいますか、この傾向を助長しているのではないかと思うのです。中には、しっかりした観察事実に基づいた本当に素晴らしい「お話し」がある論文もあります。ところが、多くの論文では、現象を違うレベルで語る「メカニズム」の部分は、怪しいものが多いのです。でっちあげでもない限り、そんな簡単に面白いお話しが現実に発見できるわけがないというのが実験研究者の常識でしょう。私の分野でもトップジャーナルに論文を量産している人がいますが、最近は「お話し」さえ面白ければいいとでも思っているような論文ばかりで感心しません。要するに本末転倒なのですが、きっと本人はこの辺は確信犯で、都合の良いデータを組み合わせて「お話し」を作り上げるのは、論文を書く上での正当なレトリックのうちとでも思っているのでしょう。論文の現象面はおそらく本当なのだと思います。(最近は、それさえ怪しいと言われているのもあるようです。前述した通り、新しい現象を見つけるだけでも大変なことなのです)「お話し」部分は、きっと、どうせきれいなメカニズムなどわかるわけがないのだから、都合の良いデータを拾って、面白いお話しを作ってしまえ、とでも考えているのではないかと勘ぐってしまうような論文が多いのです。あるいは、自分で手を動かして実験しているわけではないでしょうから、ひょっとしたら自分の考えに沿ったデータがたまたま出た瞬間、自分の嘘を信じてしまうのかもしれません。事実を知っているわけではないので、これ以上の勘ぐりは止めておきます。
有名雑誌に論文が載る事が、研究費も昇進も含めて研究者のキャリアに最も大きい影響力を持っている現実がある以上、論文を通すためなら何だってやるという人がいてもおかしくはないです。面白そうな現象を見つけ、探っていくうちに、本当だったらすごく面白い「お話し」が心に湧いてきます。研究者にとってそうした瞬間が最もワクワクするものだと思います。十中八九、その期待は裏切られるのですが、人間、自分のアイデアにうっかり惚れ込むと、中々それを捨てる決心がつかないものです。こんなデータがあったら「お話し」が完結して、Natureに載るかも知れないと思うと、どうにかしてその「お話し」に沿ったデータを出してやろうと思ってしまうのは人の性でしょう。まともな人は、そこで踏みとどまって、客観的にデータを眺めて、その仮説の妥当性を検討しなおして仮説が間違っている可能性が強ければ、それを捨てて新たに仮説を立て直して実験を繰り返し、本当の「お話し」を求めて、苦労を続けることになります。しかし、もしも最初に思いついた美しい「お話し」が本当だったらNatureだったのです。そして答えがあるかどうかわからない疑問を辛い思いをして追求する必要もなかったのです。仮に真実のお話しが見つかってもNatureに届かないような話なのかも知れないのです。このように、研究者にとって「お話し」が当たるかどうかは天国と地獄ぐらいの差があることを考えると、ちょっとくらいという気持ちからデータを捏造したり、故意に誤った解釈をしたりするものがいても不思議はありません。
それにしても、この「お話し」至上主義は、健全な科学の発達のためには、一般に認識されている以上に有害なのではないかと私は思っているのです。因に過去十年間で、私が最も感銘を受けた論文は、2001年のScienceに3グループから報告されたmicroRNAのクローニングの論文でした。クローニングしたというだけの論文で、お話し部分は全くのゼロでしたが、その発見の衝撃は強烈でした。実際、現在の私の研究題材はそれらの論文の影響によっています。その後、2003年にNatureに、microRNA 23がNotchシグナルを制御して神経細胞の分化をコントロールするという、非常にきれいな「お話し」の論文が、東大を懲戒解雇された某グループから出ました。後に、上手の手から水が漏れ、捏造の尻尾を捕まえられて、論文撤回となりました。皮肉なことに、この論文は、私が最も「お話し」が美しいと思った論文の一つだったのでした。「お話し」に限りませんが、きれいなものには注意しなければならないということを改めて学んだのでした。
実験なり観察の結果、何らかの新しい現象を発見した。その現象を詳しく調べてみると、ある分子が変動していることがわかった。その分子を操作してやると、発見した現象が再現されることがわかった。こうして新しい現象とそれが起きてくる機構を明らかにした。
実験の結果、何らかの新しい現象を発見するということさえ、簡単なものではありません。実験そのものが困難であったり、実験結果の解釈が難しかったり、再現性がなかったり、します。新しい現象が見つかれば、まず論文にはなるということです。一人の人が一生懸命頑張って実験して出せる論文の数を見てみれば、この部分も簡単でないことがわかります。しかし現在では、ハイプロファイルのジャーナルは多くが、ほぼ完全な「お話し」を要求することが多い訳です。いくら大発見がそこにあっても、それを別のレベルで説明する、いわゆる「メカニズム」の部分にきれいなデータがなければ、「descriptive」と一言いわれてrejectされることになります。実際のところは、そんなきれいな「お話し」がそうそう見つかるわけはないのです。最近の生物学はテクニカルに高度なものとなってきていますから、分子(または遺伝子)で細胞や組織や個体を語ることが要求されます。遺伝子と一言で言っても、少なくとも何万種類はあるわけで、それらの遺伝子産物の天文学的な数の分子が天文学的な数の相互作用をし、その結果、細胞なり組織なりのレベルでの現象となって現れていくわけです。ですから、そこにまるで一直線の矢印のように、ごく限られた分子をつなぐシンプルでわかりやすい因果作用があるというようなことを「お話し」しなければならないとすれば、それは現実を大きくデフォルメしたものにならざるを得ません。「お話し」は読者が本来複雑な現実をわかったように感じるための方便であると私は思っています。しかし、最近の傾向を見ていると、「お話しは(嘘であるとは言いませんが、現実のごく一部を強調したものですから)方便である」という私のスタンスは、論文の出版を左右する人々の中では、どうも少数派のような気がするのです。実際に自分の手を動かして実験をやっている人なら、私の意見にかなりの率で同意してくれるとは思います。実験というものを昔のことで忘れてしまった人や、研究は論文を出すのが究極の目的だと思っている人、科学論文にSF小説並みの娯楽性を求めてしまう人、そういう人たちが「お話し」至上主義とでもいいますか、この傾向を助長しているのではないかと思うのです。中には、しっかりした観察事実に基づいた本当に素晴らしい「お話し」がある論文もあります。ところが、多くの論文では、現象を違うレベルで語る「メカニズム」の部分は、怪しいものが多いのです。でっちあげでもない限り、そんな簡単に面白いお話しが現実に発見できるわけがないというのが実験研究者の常識でしょう。私の分野でもトップジャーナルに論文を量産している人がいますが、最近は「お話し」さえ面白ければいいとでも思っているような論文ばかりで感心しません。要するに本末転倒なのですが、きっと本人はこの辺は確信犯で、都合の良いデータを組み合わせて「お話し」を作り上げるのは、論文を書く上での正当なレトリックのうちとでも思っているのでしょう。論文の現象面はおそらく本当なのだと思います。(最近は、それさえ怪しいと言われているのもあるようです。前述した通り、新しい現象を見つけるだけでも大変なことなのです)「お話し」部分は、きっと、どうせきれいなメカニズムなどわかるわけがないのだから、都合の良いデータを拾って、面白いお話しを作ってしまえ、とでも考えているのではないかと勘ぐってしまうような論文が多いのです。あるいは、自分で手を動かして実験しているわけではないでしょうから、ひょっとしたら自分の考えに沿ったデータがたまたま出た瞬間、自分の嘘を信じてしまうのかもしれません。事実を知っているわけではないので、これ以上の勘ぐりは止めておきます。
有名雑誌に論文が載る事が、研究費も昇進も含めて研究者のキャリアに最も大きい影響力を持っている現実がある以上、論文を通すためなら何だってやるという人がいてもおかしくはないです。面白そうな現象を見つけ、探っていくうちに、本当だったらすごく面白い「お話し」が心に湧いてきます。研究者にとってそうした瞬間が最もワクワクするものだと思います。十中八九、その期待は裏切られるのですが、人間、自分のアイデアにうっかり惚れ込むと、中々それを捨てる決心がつかないものです。こんなデータがあったら「お話し」が完結して、Natureに載るかも知れないと思うと、どうにかしてその「お話し」に沿ったデータを出してやろうと思ってしまうのは人の性でしょう。まともな人は、そこで踏みとどまって、客観的にデータを眺めて、その仮説の妥当性を検討しなおして仮説が間違っている可能性が強ければ、それを捨てて新たに仮説を立て直して実験を繰り返し、本当の「お話し」を求めて、苦労を続けることになります。しかし、もしも最初に思いついた美しい「お話し」が本当だったらNatureだったのです。そして答えがあるかどうかわからない疑問を辛い思いをして追求する必要もなかったのです。仮に真実のお話しが見つかってもNatureに届かないような話なのかも知れないのです。このように、研究者にとって「お話し」が当たるかどうかは天国と地獄ぐらいの差があることを考えると、ちょっとくらいという気持ちからデータを捏造したり、故意に誤った解釈をしたりするものがいても不思議はありません。
それにしても、この「お話し」至上主義は、健全な科学の発達のためには、一般に認識されている以上に有害なのではないかと私は思っているのです。因に過去十年間で、私が最も感銘を受けた論文は、2001年のScienceに3グループから報告されたmicroRNAのクローニングの論文でした。クローニングしたというだけの論文で、お話し部分は全くのゼロでしたが、その発見の衝撃は強烈でした。実際、現在の私の研究題材はそれらの論文の影響によっています。その後、2003年にNatureに、microRNA 23がNotchシグナルを制御して神経細胞の分化をコントロールするという、非常にきれいな「お話し」の論文が、東大を懲戒解雇された某グループから出ました。後に、上手の手から水が漏れ、捏造の尻尾を捕まえられて、論文撤回となりました。皮肉なことに、この論文は、私が最も「お話し」が美しいと思った論文の一つだったのでした。「お話し」に限りませんが、きれいなものには注意しなければならないということを改めて学んだのでした。