ふと気がつけば、髪には白いものが混じり、顔には皺が増えています。視力が落ち、タイプミスが増えました。もの忘れが多くなり、体を動かすたびにどこかが痛むようになりました。こうした変化が1日1日とゆっくりと進むので、今日の自分が昨日の自分と変わったようには感じないのですけど、ある日、ふと昔を思い出したりした時、鏡の自分を見て、「ああ、年をとったものだ」と実感します。
しかし、年をとって、できないことが増え、背が丸くなり、歩くのが遅くなっていっても、そういうものだと深く考えることもなく、日々の現実を受け入れて皆が生きております。そうして、いつか誰もが死ぬということを知っていながら、それは常に先のこととして、日々の些末時に一喜一憂しながら時を過ごしております。
タクシーの50代ぐらいの男性運転手の人の帽子から出た髪にも白いものが混じっています。この人も遠からず、筋力も反射神経も判断力も弱り、車から降りることになるのでしょう。タクシーは繁華街の一部を抜けていきます。信号待ちの間に、さまざまな年齢の婦人がレストランの前に行列を作っているのが見えます。このレストランの人気メニューを食べる喜びを味わうために、この寒い中で待っているのでしょう。待っている間にも、楽しい食事の時間の間にも、彼女らには「老い」が刻まれていき、そこにいる人々も世界中の人々も一人残らず、それぞれの生の終わりに向けて平等にゆっくりと移動しているのでした。
百年後、それまでには、おそらく私も含めてこの世界に、現在、存在する人々はほぼ全員が地上から去ってしまっていると考えられます。誰もが泣きながら生まれ、多かれ少なかれ苦しい生を生き、老い、病にかかって死んでいく、そうして一生を勤め上げて舞台を降りる運命です。「熱海殺人事件」のように、人間はその現実そのもののような人生という芝居を、人生劇場というリアルな舞台で演じ、そして、一幕の作品を作り上げて去っていく、そう思えば、人間というものは尊い存在なのだという感に打たれます。
われわれが病院に向う理由を察して抜け道を急ぐタクシーの運転手の白髪混じりの髪を見ながら、急ぐことに何の意味があるのだろうか、とぼんやり考えていました。遠からず皆が同じところに行くことになるのに。しかし、すぐに、この運転手も、われわれと彼自身の舞台に立つ役者なら、急ぐのは当然であった、と思い直しました。そして、私は、急いで頂いてありがとう、と礼を言ってタクシーを降りました。
我々はゆっくりと老い、毎日変わらぬ日常生活を送りながら、なだらかに坂を下ります。そして、ある日、いつもの道を曲がった先が崖になっていることを発見して狼狽するのです。坂はいずれ歩けなくなると台本に書いてあることは最初からわかっていたのに。