百醜千拙草

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今日の聖書

2023-05-02 | Weblog
拘束時間はあるものの時間的に比較的余裕のある職場に移って二ヶ月、暇な時間は調べ物をしたりツイッターを覗いたりして過ごしています。
前の職場では、コロナ前は昼間に抜け出してジムで三十分ほど走っていましたが、コロナ後行かなくなり、その後病気もしたので、体を動かす習慣はなくなってしまいました。また水泳でも始めようと思っています。体同様、年々、悪くなる頭に対しても多少は負荷を加えねばならないと思って、2年半ぐらい前からの一日10分のフランス語と週末のピアノ練習をしています。しかし、いずれもマンネリ化してしまい、始めた頃の楽しさはすっかりなくなってしまいました。何かを成し遂げるのは「やる気」ではなく続ける「習慣」だともいいますから、歯磨きするのと同じように、一応、坦々と続けています。フランス語の進歩は初級のまま、後退していないだけましというレベル。ピアノもご同様。それで、何かもう少し楽しい毎日のプロジェクトをと思って思いついたのが、実家にあった聖書を読んでみることでした。妹が通っていたキリスト教系の学校で買わされて、卒業後、実家に放置されていたものようで、日本聖書協会が発行した1955年度改訳版です。

実は、聖書を読もうと思ったことは若いころにも一度あって、その時は英語の練習も兼ねて英語版を買いました。思えば、それが失敗でした。日本語で読んでもしばしば理解困難なのに"Thou shalt not steal" みたいな英語で、加えて、当時はその他にもいろいろ忙しかったので、数ページ読んだあと積読になって、そのうち本そのものもどこかに行ってしまいました。

しかし、この「世界的ロングベストセラー 」を読まずに一生を終えるのはマズいのではないかという気持ちはずっとありましたし、この中東での物語が、なぜこれほどまでにヨーロッパの文化に入り込んで、音楽や文学をはじめとして数々の芸術作品のモチーフとなったのか、そして、この物語が繰り返し繰り返し語られるようになった後、2000年たってもその代わりとなるような新しい物語が生み出されないのはなぜか、それを知りたいとも感じました。

キリスト教がヨーロッパに広まったことは、近代に生きるわれわれのライフスタイルに大きな影響を及ぼしています。ヨーロッパに代わって世界の中心的役割を担うようになったアメリカ合衆国もキリスト教国家として始まりました。欧米の文化が世界中に広がるにつれて、東洋の我が国でも、キリスト教由来の文化が定着し、クリスマスは国民的行事となり、教会で結婚式をするのもスタンダードになりました。この調子だとそのうち復活祭も始まるでしょう。

キリスト教がヨーロッパの精神に組み込まれたことは、芸術や文化の面でも数々の素晴らしいものを生み出すことになりました。おかげで、我々はヨーロッパの美しく圧倒されるような大聖堂など宗教的建造物の数々や絵画や彫刻やバッハのミサ曲やクリスマス オラトリオを楽しむことができます。もし、キリスト教ではなくワビとかサビとかヨーロッパで流行っていたなら、欧米が世界の覇権を取ることはなかったでしょうし、キルケゴールもニーチェも生まれることなく、おそらく「科学」という学問も生まれていなかったであろうと想像されます。近代の世界を作り出したヨーロッパとイスラム世界の精神の原点が聖書の中にあると思えば、やはり聖書は読んでおくべきだろうと思いました。

この聖書は一ページが二段で、旧約が1300ページほど、新約が400ページほどなので、一日に一ページ読めば5年ぐらいで読み終えることになります。それぐらいのペースで読むことにしました。

現在、旧約の最初の創世記の前半を読んだところです。神が世界と人間を作ってから、とりあえず、おこったことは、虚言に謀略、裏切り、差別にエコ贔屓、嫉妬に怨嗟、兄弟殺しに子殺し未遂、強姦に近親相姦、といったところです。
コメント
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