青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

三日市盛衰

2018年10月16日 17時00分00秒 | 富山地方鉄道

(黒部鉄道由来@東三日市駅)

黒部市街の路地裏にある東三日市駅。地鉄に統合される前は、黒部川の電源開発のために敷設された黒部鉄道の駅でした。二方に出入り口を持つ駅舎は、層を成す石段に囲まれていて何だか寺院風。「東三日市駅」の駅名が、金属を切り出したパーツのようなもので出来ているのが特徴なのですが、古ぼけてくすんでいて駅名が読み辛い。研磨剤つけて磨き出してあげるだけでだいぶ違うんじゃないのかなあ。


ひんやりした風の吹き抜ける待合室。東三日市駅があるのは黒部市の旧市街という感じの場所で、周囲には古い家並みと商店が続いています。駅前にある黒部市民会館では子供たちのスポーツ大会が行われているのか、時折甲高い声が聞こえて来る。黒部のヤマを降りて来たカボチャ電車が、人っ気のないホームを出て行きました。

 

東三日市駅ホームの風景。黒部鉄道は国鉄の黒部駅を起点とし、東側に宇奈月線、西側に石田港へ繋がる石田港線の二つの路線を設けていましたが、南側から勢力を拡大してきた富山電鐵に半ば強引に統合されます。海側を走る富山電鐵と黒部鉄道を繋げた上で黒部駅へ接続をするには線形の取り方が難しかったため、現在の電鉄黒部駅から黒部駅を無視する形で国鉄を跨ぎ越し、魚津方面の線路と繋げるルートを本線として採用。富山電鐵との統合に伴い経路の被る石田港線は廃止となりましたが、これには旧黒部鉄道側からの大反発もあったようです。この辺りの経緯については黒部市の公共交通HPに詳しいのでご一読いただきたい。


東三日市駅の駅名標。昭和30年まで国鉄の黒部駅は「三日市」と名乗っておりまして、黒部鉄道もそれに沿う形で宇奈月方面へ西三日市、東三日市と駅を開業させましたが、西三日市が戦後に電鉄桜井→電鉄黒部駅、国鉄の三日市も黒部駅に改称された結果、黒部市内に「三日市」を名乗る駅はここだけになりました。三日市は古くからの黒部地方の中心街で、現在も主要金融機関や黒部市役所の最寄り駅はここ東三日市駅。


…にも関わらず、北陸新幹線開業に伴って新設されたエリア特急「くろべ」の新設に伴い、特急の停車駅からは格下げの憂き目となりました。電鉄黒部駅まで600mの位置だから、わざわざ連続停車させる意味もないだろうという事だろうな。ちなみに気になったんで数字で刻む「〇日市」系の駅名を順繰りに調べてみたら、一日市場(大糸線)、二日市(鹿児島本線)、東三日市(富山地鉄)、四日市(関西本線)、武蔵五日市(五日市線)、上州七日市(上信電鉄)、八日市(近江鉄道)、十日市場(横浜線)とニアピンのものも合わせると結構あります。六日市と九日市がないんだな。どーでもいい話ですがw
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浜加積蒼天

2018年10月15日 17時00分00秒 | 富山地方鉄道

(海の匂い仄か@浜加積駅)

焦げ茶の屋根瓦に板塀、大きな石に取り付けられた柱がトタン葺きの庇を支える浜加積の駅。駅名標の取り付け位置が三角形に囲われているのは地鉄の駅に多く見られる特徴。ここも地鉄の中ではかなりの優良物件と聞いていましたが、なるほど聞きしに勝る風格。立山線の駅は雪の重みに耐えた味わいがありますが、こちらは何となく潮風に吹かれて侘びたような味わいがあります。


斜め45度の角度から。普通の住宅街の路地を入って行くと忽然と現れる駅なので、何というかタイムスリップ感が凄い。周りの家がおそらく建て直されているのに、駅だけが何も変わらずそのまま生き続けているのだろう。壁から外れた波板と、申し訳程度のヘロッヘロのホーム上屋。


真横から。なんか真横から見るとインベーダーみたいな形をしているのね浜加積の駅。ホームの土手が緩んでいるのか、駅名標が傾いているのもご愛敬。そのせいでホーム上屋にもスキー場のジャンプ台みたいな傾斜がついており、夜にでも来たら銀河鉄道999の発車シーンが見られそうだ。


待合室に残る国鉄の残滓。「サンプラザ」自体は今でも魚津中心部のショッピングモールとして営業をしていますが、開店したのが昭和50年の話。その当時に架けられたであろう待合室の広告看板。今は買い物に行くにしてもほとんどがクルマなんだろうけど、地鉄電車でお買い物…という時代があったのだろうな。ってか「スクェア」ってどう発音すんだ。「ひすゎし」みたいなもんか。

 

宇奈月温泉行きが到着すると、いつの間にかホームに現れたおばあちゃんが一人、買い物袋を提げて電車に乗って行った。地鉄電車でお買い物、まだあるじゃん。


ちなみにここ浜加積を含めて地鉄には「加積」の付く駅名がいくつかありますが、魚津・滑川地域の平野部を以前は「加積郷」と呼んでいたことに因むそうです。中加積、西加積、西滑川、中滑川、滑川、浜加積、早月加積とこの辺りの地鉄本線は「加積」と「滑川」の連続なので非常に紛らわしい(笑)。この並び順、テストに出ますからね。


お隣を走っていた北陸本線は新幹線の開業とともに「あいの風とやま鉄道」と名前を変え、特急列車も夜行列車も姿を消しました。周りを取り囲む森羅万象が変わっても、なおそのまま悠然とあり続ける浜加積の駅。物言わぬ駅に染み込む物語が、どこからともなく聞こえて来るようです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

思い出は幾星霜

2018年10月14日 17時00分00秒 | 小田急電鉄

(コックピットに花束を@東海大学前~秦野間)

長々と続く富山の話からちょっと離れますが、昨日10月13日は7月に定期運用を離れた小田急ロマンスカーLSEのラストラン運行が行われました。9月からLSEの引退興行と言うか、ツアー形式での団臨が計4回?組まれていて撮るチャンスもあったのですが、なーんか定期運用から離れてからは気が抜けてしまって撮りそびれていたのよね。晴れてたら足が向いたのかもしれないけど、そもそも9月からの週末は関東地方ほとんどまともな天気がない。台風が来てるか昨日みたいに北東気流が流れ込んでどん曇りになるかのどっちかだったし。


ラストランは新宿12:40発で、新宿→小田原→秦野という行路。どこで撮るかなと考えたんだけど、もうバカの一つ覚えみたいに秦野の大カーブに行ってしまいました。飽きるほどここでLSE撮ったけど、もうここで撮る事も出来ないもんな。臨時幕で才ヶ分の踏切を抜けて来たLSE、ラストランらしく展望席上のコックピットには花束が添えられていました。


久し振りに来た秦野の大カーブですが、築堤にはススキと混じってセイタカアワダチソウが跋扈していてスッキリとした見通しにならなかったのは残念。小田急関係者にはこの場を借りて適宜草刈りをお願いしたい次第(笑)。大カーブ周りの田んぼに刈り入れ前の稲穂でも残っていたら絵に入れたんだけど、だいたい終わっちゃってた。そして、ここの大カーブの田んぼも以前に比べるとだいぶ休耕田が増えましたな。稲に代わってジャガイモ畑を守るカカシが一人、ラストランを見送ります。


色付く柿の実を横目に。この団臨、車内ではラストラン記念乗車証の配布や現役運転士さんの思い出語りなど様々なイベントが行われたようですが、最近はどの鉄道会社も「名車の引退」と言うのはとても優秀な営業ツールになっていて、引退ビジネスも奮っているよね。「引退」と聞けば見境なく財布のヒモを緩めるマニア心理を逆手に取って、鉄道会社の強気な値段設定も目立ちます。特に小田急のロマンスカーと言えば、鉄道会社の中では贔屓目に見ずともトップブランドに位置する車両群だし、このラストランツアー即完だったみたいだけどどれくらいの倍率で催行されたのか想像もつきませぬ。


大カーブを後にして、小田原→秦野の最終行路はそれこそもう撮る事も出来ない四十八瀬界隈へ。ラストラン興行が4回も催行されたのと、昨日は鉄道関連のイベントが各地で開催されていたせいで思ったほどの人出はなく…上りの定番渋沢5号だけが盛況だったかな。7号行こうと思ったんだけど、橋が外されてたので手前の浅瀬で撮影する事に。長靴持って来ればよかった。四十八瀬の瀬音にかき消されて列車の接近が非常に分かりづらいのだが、浅瀬に三脚を立てて慎重に接近の気配を探りながらレリーズ。秋の気配の四十八瀬、灌木のすき間から姿を現したLSE。運転台の窓からファンから送られた花束がチラリ。


小田急のロマンスカーらしいオレンジバーミリオンにシルバーの色使いも、LSEの引退で見納め。個人的にはこの色がなくなるのがちょっと寂しいかなあ。デビューしてから38年間、春夏秋冬に様々なシーンを彩った四十八瀬の清流に幾星霜の思い出を浮かべて、最後のシーンを収めました。

ちなみにLSEにお別れを言いそびれてしまった勢は、20・21日の海老名公開でも展示があるのでそちらへどうぞ。中間車はバラされてしまうと思うけど、先頭車は2021年春に開館が予定されているロマンスカーミュージアムへ確実に収蔵されると思うので、改めての再会を楽しみに待ちたいと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加積郷豊穣

2018年10月12日 17時00分00秒 | 富山地方鉄道

(黄金の穂波の中を@中加積~新宮川間)

新湊のコンビニで朝食を買い込み、パンをかじりながらクルマを走らせること30分、再び地鉄沿線に戻って来ました。初日は主に立山線方面の撮影をしながら上市周辺まで撮り歩いてみましたが、二日目は上市から先の宇奈月温泉までを撮り込んでみようと思います。まずは朝の光線がよさそうな西滑川~上市の付近でどこか良さげな場所はないかしらとロケハンしてみると、北陸道と地鉄が交差する辺りに一面の田園地帯が広がっていました。朝のきれいな光に輝く稲穂の波の中を、14760系がかなりのスピードでかっ飛んで来ました。


気付けば周囲にカメラを持った同業者の方もチラホラ。ま、三連休ですしね。前日が嘘のようにピッカピカに晴れ上がっちゃったから、そらカメラを持って出かけたくもなります。次は特急アルペンなので、出来れば一枚くらいはヘッドマークを強調したカットを撮りたいな~なんて構えていたら、アルペンが珍しくも14720系でかっ飛んで来た。新調したてのヘッドマークが凛々しいね。同業者の方はこれがお目当てだったと見えてすーぐ追っ掛けてっちゃったけど、こっから先は上市・寺田と2回もスイッチバックがあるから、たぶん立山線内の岩峅寺手前辺りで追い付けるんじゃないかと思う。


アキアカネ舞う加積郷の田園地帯。カボチャ14760が宇奈月温泉へ。遠くに集落の菩提寺とお墓が見える。そう言えば今日はお彼岸であった。どうりでコンビニのレジ周りに仏花が置かれてる訳だ。彼岸になるとレジ周りに仏花とか和菓子が置かれるのって田舎のコンビニあるあるだと思う。


刈り終わった田んぼのひこばえの緑が、空の青さとマッチしていますね。立山に続く山並みを遠くに見て、京阪カボチャが乾いた音を立てながらけたたましく通り過ぎて行きます。長い直線を文字通り爆走と言った感じのフルノッチで駆け抜けて行く地鉄の電車たち。踏切の鐘の音以外は風の音しか聞こえない田園地帯、遠くに過ぎ去るジョイント音だけはやけに長く聞こえました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

射水昔日

2018年10月11日 17時00分00秒 | 万葉線

(僅か5分の船旅@富山県営渡船)

「越ノ潟フェリー」の愛称で親しまれる富山県営渡船。万葉線の越ノ潟駅に隣接する越ノ潟発着場と、対岸の堀岡発着場を結んでいます。富山新港の開削に伴って、分断された港口部の交通代替手段として就航している渡船なので、料金は無料。以前は早朝夜間も運行するなど長年に亘って地域の交通を支えていましたが、地域の過疎化と新湊大橋の開通によって最近の利用者は減少の一途。それでも県の事業として朝7時から夜の8時半まで、15~30分間隔のダイヤで港の開口部を往復しています。


就航している船は、1階に軽車両用の甲板を持つ2階建ての立派な作り。30~40人くらいは乗れるんだろうか。自転車とか原付までなら乗せてもいいことになっていて、近所の利用客がチャリンコや原チャリで乗ってきたり、最近はサイクリストの利用なんかも多いようで。


丁寧に時計を見ていた発着所のおっちゃんの合図で船のタラップが上げられ、もやい綱が解かれると、船はゆっくりと回転しながら越ノ潟の岸壁を離れて行きます。物見雄山のたった一人のヨソモノのために、安くない重油を使って運行してくれるのだからありがたやという感じなのだけど、まあ日曜日の朝なんかいつもそんなもんか。出発前に船長さんはいかにもな私の格好を見て「向こうで降りないで戻って来るよね?」と声を掛けて来たので、そういう需要もそれなりに多いのかもしれない(笑)。

 

新湊大橋を進行方向左に見て、対岸へエンジンを唸らせる渡船。前日とは打って変わってすっきりとした青空の朝、秋らしい乾いた風がひんやりと頬を撫でて、実に爽快な気分の船旅だ。これがタダなんて返す返すもホント申し訳ないよ。空にハープを立てたような美しい姿の新湊大橋は、主塔の高さ127mの巨大な斜張橋。大型船舶の寄港も可能な富山新港の規格に合わせて作られています。


新湊大橋の西側主塔と、その下に停泊する海王丸をセットに。モーターボートが航路を横切る。主塔の横には歩行者のアクセスルートであるエレベーターが付いていて、車道の下を通る歩行者部分は「あいの風プロムナード」と命名されています。「あいの風」って、「あいの風とやま鉄道」とかにも使われてるけど何なんだろうね。と思って調べてみると、同社のHPに「『あいの風』とは、春から夏にかけて吹く北東のさわやかな風で、古く万葉集の時代から豊作、豊漁等『幸せを運ぶ風』として県民に親しまれています」とのこと。旅に出ると何かと賢くなるな。


あっという間に船旅は折り返し地点の堀岡発着場に近付き、船はスピードを落とします。昔はこの堀岡の発着場の向こうに射水線の新港東口駅があって、富山方面への電車が出ていたそうです。正直昭和55年に廃止された鉄路の事など知る由もないのだけど、「射水線 画像」でググってみるだけでもその雰囲気に引き込まれますね。当時の駅名を紐解けば、八ヶ山(やかやま)、鯰(なまず)鉱泉前、四方(よかた)、打出(うちで)、本江(ほんごう)、練合(ねりや)などなど読み辛くも風情のある駅名が並んでいて、軌道線と鉄道線の車両のあいの子のようなデ5000が、富山平野の片隅を港町に向かって走っていた光景に思いを馳せてしまうのであります。


富山地鉄射水線は、古くは新富山駅(現富山トヨペット本社前駅)から市内軌道線に乗り入れて富山駅前まで運行されていた経緯もある事から、残っていればLRT化によって富山市北部の交通事情が大きく変わっていたのかなあと思ったり。北陸の地方私鉄は昔っから「郊外電車が路面電車っぽく市内に乗り入れる」という構造を持っていたところが多いですよね。新潟交通とか、富山だとこの射水線や笹津線、現在の福井鉄道もそう。北陸地方は富山ライトレールに始まって、えちぜん鉄道と福井鉄道の相互乗り入れとかLRTを導入しての都市交通改革に非常にフットワークが軽い印象があるんだけども、昔からそういう下地が醸成されているからなのかもしれない。

万葉線の新吉久駅近くに、当時の射水線で使われていたデ5000型の最後の生き残りデ5022が保存されています。富山新港建設による東西分断時に加越能鉄道へ譲渡されたグループのうち、このデ5022だけは除雪用の車両として解体されずに頑張ってたんだよね。見に行けば良かったんだが失念してしまいました。どこらへんに保存されてんだっけ?とグーグルマップで探したら見付かった(笑)。世の中便利になったもんだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする