NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は『奈良百寺巡礼』(京阪奈新書)の刊行を記念して毎週木曜日、毎日新聞奈良版に「やまと百寺参り」を連載している。先週(2021.1.28)掲載されたのは「聖徳太子生誕 愛馬像も/橘寺(明日香村)」、執筆されたのは同会理事で奈良市在住の久門たつおさんだった。
※トップ写真は、太子殿の前に立つ黒駒の像(三代目)=明日香村橘の橘寺で
今年(2021年)は聖徳太子1400年御遠忌(ごおんき)の年で、太子に注目が集まる。特別展「聖徳太子と法隆寺」は奈良国立博物館(4月27日~6月20日)と東京国立博物館(7月13日~9月5日)で開催される予定だし、法隆寺では法要が4月3(土)~5日(月)に営まれる。これらを控えて、今回はとてもタイムリーな掲載だった。では全文を紹介する。
聖徳太子は574(敏達天皇3)年に現在の橘寺(たちばなでら)の場所にあった欽明(きんめい)天皇の橘宮(たちばなのみや)で生まれたとされます。橘寺の創建年は不明ですが、発掘調査で中門、塔、金堂、講堂が一列に並ぶ四天王寺式伽藍(がらん)配置とみられています。
講堂跡に建つ江戸末期の本堂は太子殿と呼ばれます。本尊は室町期の木造聖徳太子坐像(重文)で、606(推古天皇14)年に太子が橘宮で勝鬘経(しょうまんぎょう)を講義した像とされます。
太子は大臣(おおおみ)の蘇我馬子らと推古天皇を支えるため、住居の斑鳩宮と飛鳥にある役所の小墾田宮(おはりだのみや)を結ぶ筋違道(すじかいみち)を往来しました。愛馬の黒駒(くろこま)に乗り、従者の調使麻呂(ちょうしまろ)が同行したと伝わります。
太子殿前にあるのが黒駒の像です。1913(大正2)年設置の初代は、太平洋戦争時に金属供出。53(昭和28)年の2代目は、酸性雨による腐食で撤去されました。現在の3代目の像は2001(平成13)年、全国の太子講関係者が奉納したもの。高さ1・3㍍の青銅製で、胴の左右には橘の花が浮き彫りされています。太子は622(推古30)年に斑鳩宮で亡くなり、今年は1400年遠忌に当たります。(奈良まほろばソムリエの会理事 久門たつお)
(宗 派)天台宗
(住 所)高市郡明日香村橘532
(電 話)0744・54・2026
(交 通)近鉄飛鳥駅から赤かめバス「川原」、または近鉄橿原神宮前駅から同バス「岡橋本」下車すぐ
(拝 観)9~17時。受付は16時半まで。350円
(駐車場)有(無料)
※トップ写真は、太子殿の前に立つ黒駒の像(三代目)=明日香村橘の橘寺で
今年(2021年)は聖徳太子1400年御遠忌(ごおんき)の年で、太子に注目が集まる。特別展「聖徳太子と法隆寺」は奈良国立博物館(4月27日~6月20日)と東京国立博物館(7月13日~9月5日)で開催される予定だし、法隆寺では法要が4月3(土)~5日(月)に営まれる。これらを控えて、今回はとてもタイムリーな掲載だった。では全文を紹介する。
聖徳太子は574(敏達天皇3)年に現在の橘寺(たちばなでら)の場所にあった欽明(きんめい)天皇の橘宮(たちばなのみや)で生まれたとされます。橘寺の創建年は不明ですが、発掘調査で中門、塔、金堂、講堂が一列に並ぶ四天王寺式伽藍(がらん)配置とみられています。
講堂跡に建つ江戸末期の本堂は太子殿と呼ばれます。本尊は室町期の木造聖徳太子坐像(重文)で、606(推古天皇14)年に太子が橘宮で勝鬘経(しょうまんぎょう)を講義した像とされます。
太子は大臣(おおおみ)の蘇我馬子らと推古天皇を支えるため、住居の斑鳩宮と飛鳥にある役所の小墾田宮(おはりだのみや)を結ぶ筋違道(すじかいみち)を往来しました。愛馬の黒駒(くろこま)に乗り、従者の調使麻呂(ちょうしまろ)が同行したと伝わります。
太子殿前にあるのが黒駒の像です。1913(大正2)年設置の初代は、太平洋戦争時に金属供出。53(昭和28)年の2代目は、酸性雨による腐食で撤去されました。現在の3代目の像は2001(平成13)年、全国の太子講関係者が奉納したもの。高さ1・3㍍の青銅製で、胴の左右には橘の花が浮き彫りされています。太子は622(推古30)年に斑鳩宮で亡くなり、今年は1400年遠忌に当たります。(奈良まほろばソムリエの会理事 久門たつお)
(宗 派)天台宗
(住 所)高市郡明日香村橘532
(電 話)0744・54・2026
(交 通)近鉄飛鳥駅から赤かめバス「川原」、または近鉄橿原神宮前駅から同バス「岡橋本」下車すぐ
(拝 観)9~17時。受付は16時半まで。350円
(駐車場)有(無料)
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