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難解な「後南朝(ごなんちょう)」のことがスッキリわかる本!/奈良新聞「明風清音」第52回

2021年02月19日 | 明風清音(奈良新聞)
奈良新聞の「明風清音」欄に月1~2回、寄稿している。コロナ禍で外出がままならないので、最近はブック・レビューを書くことが多い。昨日(2021.2.18)掲載されたのは《これでわかる「後南朝」》、増田隆著『沈黙する伝承~川上村における南朝後胤(こういん)追慕』(京阪奈情報教育出版刊)税別1,400円の紹介である。後南朝のことは谷崎潤一郎著『吉野葛』などに登場する。例えばそのクライマックスシーン、

賊は王の御首(みしるし)と神璽(しんじ)とを奪って逃げる途中、雪に阻まれて伯母ヶ峰(おばがみね)峠行き暮れ、御首を雪の中に埋めて山中にひと夜を明かした。しかるに翌朝吉野十八郷の荘司(しょうじ)等が追撃して来て奮戦するうち、埋められた王の御首が雪中より血を噴き上げたために、たちまちそれを見附け出して奪い返したと云う。

雪の白と血の赤の対比が強烈なイメージを喚起させるが、講談ではあるまいに、何だかできすぎたシーンのようにも思える。奈良まほろばソムリエの会会員が行う講演は、史実を踏まえて話すことが鉄則であるが、後南朝については史実なのか伝承なのかがあいまいで、それが悩みの種だった。そこで3年前に出会ったのが『沈黙する伝承』で、これは目からウロコだった。このたび新しい講演の準備をする過程でこの本のことを思いだし、再読した。

本書「あとがき」に岡本彰夫氏は《増田隆という人は秀逸な人材である。こんな人物が巷に微睡(まどろ)んでいるのが不思議でならなかった。(中略)氏は速に「奥の三ノ公」へと独り赴かれ、往復六時間に及ぶ山路を辿り、数多の写真を撮影されたのである》。

古記録をひも解き、山中に足を運び、故老の話に耳を傾け、「朝拝式」に密着取材された末に出来上がった佳品が『沈黙する伝承』である。以下、その要所をピックアップして紹介する。増田さん、こんな素晴らしい労作を上梓していただき、ありがとうございました。

後南朝(ごなんちょう)をご存じだろうか。歴史用語として定着しているとは言いがたいが、最近は辞典類にも出ている。《南北朝合一後に興った南朝系(大覚寺統)の朝廷。合一の条件「両統の迭立(てつりつ)」を北朝側(持明院統)の後小松天皇とこれを擁する足利義満とが履行しなかったため、これに不満な旧南朝の後亀山上皇は1410年(応永17)吉野に遷幸した。上皇はやがて帰洛したが、上皇の吉野遷幸を機に南朝の遺臣らは大覚寺統の後胤を奉じて南朝の再興をはかった》(『世界大百科事典』)。

史実と伝承が入り交じり、長年スッキリしなかったが良い本がある。平成30年に刊行された増田隆著『沈黙する伝承~川上村における南朝後胤追慕~』(京阪奈情報教育出版)である。要あって年末に再読したところ、やはりこれは名著だ。

巻頭には川上村の栗山忠昭村長が挨拶文を寄せている。「あとがき」に岡本彰夫氏は「願うところは、入門書であり専門書たりうる内容であった。加えて先賢の資料も納めるという、無謀極まり無い要求を見事成し遂げて下さった」。

以下、後亀山上皇の吉野遷幸(出奔)以降の動きを本書から追ってみる。《上皇出奔に呼応し、南朝支持勢力が各地で蜂起した》《合一から二十年近くも経ていながら、各地で南朝支持勢力が蜂起した現状から、なおも残されている南朝の存在感をまざまざと見せつけられた形になり、幕府も北朝方も心落ち着くことのない日々が始まった》《こうした中、南朝後胤とは直接的には関係の無いひとつの事件が発生する》。

嘉吉元年(一四四一)、播磨・備前・美作の守護赤松満祐(みつすけ)が悪将軍として知られる足利義教を暗殺し(嘉吉の変)、領国の播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれた(嘉吉の乱)。赤松家は事実上「御家断絶」した。

将軍職が空位のなか、事件が起きた。嘉吉三年九月、後花園天皇の禁闕(きんけつ=皇居内裏)への襲撃事件である(禁闕の変)。南朝復興を唱える勢力が御所に乱入し、三種の神器のうち神璽(しんじ=勾玉)を奪い、逃れた。《首謀者たちは、討ち死にするか、刑死してしまっているのだが、奪われた「神璽」はとうとう姿を見せることもなく、杳(よう)として失われてしまった》《そして後南朝最大の悲劇の幕が開く》。

それが長禄(ちょうろく)の変である。《禁闕の変によって失われてしまった「三種神器」を廻る南朝と赤松遺臣たちの争乱と南朝後胤の死、そして赤松遺臣による「三種神器」発見争奪と京都へ還されるまでの二年に亘る二つの大きな事件を言う》。

あるとき北朝、幕府、赤松の間で《約束事が取り決められた。もし、赤松のものが、南帝両宮を討ち取り、失われた神璽を取り返せたならば、時の赤松一族の「御屋形様」である赤松政則をもって家督を許し、赤松主家の再興を果たすというものである》。赤松の遺臣たちは動いた。

康正二年(一四五六)《川上郷入りした赤松遺臣たちは念入りに南帝両宮や川上郷士たちの信用を取り付けて中に入り込み、その内情を具(つぶさ)に調べ上げていった。我らもまた幕府によって家を取り潰されるという悲劇を経てきた同志である。赤松一党はそういう立ち位置であったろうか。川上郷の人たちにとって、これまでも弱き敗残のものを受け入れてきたという、吉野の心意気がそれを受けさせてしまったのかもしれない》。

翌年、赤松残党は上北山村にいた兄の尊秀(たかひで)王(自天王)と川上村にいた弟の忠義(ただよし)王を襲撃し、両宮の首をかき切った。赤松は御家再興を果たしたのである。

川上村の金剛寺では尊秀王即位の二月五日、後南朝後胤をしのんで「朝拝式」が毎年営まれている。(てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事)


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