今井町町並み保存会会長の若林稔(雅号:若林梅香)さんのユニークな発言は、これまで「梅香語録(1)」、「梅香語録(2)」として当ブログで紹介させていただいた。ずいぶんブランクがあったが、このたび「梅香語録(3)」を紹介したい。これは本年(2021年)6月5日(土)に開催された「第13回 地域づくりシンポジウム」(主催:地域づくり支援機構)での若林さんの基調講演「視点を変えれば地域は宝の山~コロナは追い風~」でのお話である。とても良い講演だったがメモが追いつかなかったので、若林さんからお手元原稿をいただいた。こちらから抜粋して紹介する。長くなるが、ぜひ最後までお付き合いいただきたい。
私は今日着物を着ています。町づくりを始めたときから着るようになったのです。今の日本の日常では着物はもう特異な世界になってしまっています。でもこの特異な着物が今井町の町づくりには役に立ってきました。今時着物は茶道や日本舞踊の時とか成人式ぐらいにしか着ないでしょう。今日も着物は今井町がらみの人だけでしょ!目立つでしょ!全国を着物で歩き回って今井町のPRをしてきました。特色になりました、有名になりました。なぜですか!みんなが着ていないからなんです。視点を変えてやってきたんですね。そしたら沢山の人が着物で町を訪れてくれるようになりました
家もそうです。今井町の民家はみんなこんな古い、寒い、暑い家は時代遅れだ、道が狭い、車も通れない、と言っていました。今井町の人が言っているんですよ!この風潮を長年マイナスイメージで背負ってきたのです。どんでん返しして、これくらい古い町は残っているのは奇跡だといって クラッシックの価値観に切り替えてきました。中古でポンコツの車から、クラッシックカーへの変身のようなもんですね。その起源は昭和30年からです。半世紀も前でした。
町並みを変えることには成功しました。それはなぜ? 補助金で守れる「重要伝統的建造物群保存条例」(文化財保護法)を作って補助金をもらえるようにしたからです。これって大変なことですよね。住民主導で条例を作ったのですよ!「嫌々残している」というイメージを拭い去りたかったんです。今井町が「古い町が大切だから守っているんだ」という考え方に変わってもらいたかったのです。意識を変えてもらうのには町の知名度が必要になってきたのです。
〇たくさんの住民に参加してもらって、イベントを仕掛けてきました。
〇小学校へ授業に行き、子供たちに古民家体験もしてもらっています。
〇全国から学生たちに研修するために集まってもらいました、その数は500人を下らないでしょう。
有名になってきました。しかし、またさらなる問題を見つけてしまったのです。時がたって、それを繋いでいく次の世代の人たちは原点の苦労を忘れていいとこどりしかしなくなったのです。人は補助金で家が再興できるのに味をしめて、補助金や福祉という名の補助制度などに頼るようになってきたのです。
もう一つ、観光に目を向け始めて、他人のカネを燕の子のようにくちばしを開けてねだるようになってきたのです。これは政府が地域づくりに支援し始めて、学校でも地域づくりの学問を取り入れるようになってからは更に補助金制度の問題に走るようになり、今では全国で当たり前になってしまうまで広がってしまいました。燕でも、成長すれば自分で餌をとりますよ。死ぬまでエサをねだっている社会になりすぎていませんか。
更に悪いことに、インバウンドという名のもとに「数の観光」が全国規模で広がってしまったのです。今井町にも「1時間だけ」とか「2時間だけ」という数の観光(観光客数の多さばかりをねらう観光)が押し寄せてきました。ここでも視点を変えてみることが出来ます。どうしても観光政策を拒めない状況なら、ということで私が考えたのが、今井町ではガイド用の電子機器で案内するシステムの充実を「させないでほしい」と橿原市に要望してきました。
迷いやすい、だから標識やガイドブックを作ろう、というのも阻止してきました。中世に、わざと迷わせるように作った町並みを、なぜ迷わせないように苦心してるのですか。迷っても遭難しないのだから、「迷って町の人に尋ねて下さい」と言い続けてきました。標識や案内図を町なかに立てさせなかったのです。狭い道は安心感を与えてくれる空間を作っています。子供たちが道に座り込んで遊んでいます。当然大人たちとの会話が生まれてきます。家の段差は足腰を鍛えてくれています。ほんまもんの土壁は呼吸をしていて、健康にも良いし、耐火にも優れている。これらを力説してきました。
お陰で空き家が減ってきて、児童が少しづつ増えてきています。それでも観光化への波は今井町にも押し寄せてきて、飲食のお店が急激に増えてきました。コロナがなかったら、市の方針で観光に押されてしまっていたでしょうね。コロナのお陰で、皆が数の観光の弊害に辛うじて目覚めてくれました。今井町はことごとく逆転の発想で、「周回遅れのトップランナー」に仕上げてきましたので、コロナ被害は最小限で止まったと思っています。視点を変えて今井町を宝の山にしてきました。
一朝一夕ではこうはなりません。非難されながらもう半世紀こんな運動を続けてきたのです。コロナがこれらの勢いを一気にストップさせてくれました。自治会も、町の人も出店条件を付けるようになってきました。
多数決をとったらダメだ!これも私流の逆転の発想です。後退している地域で地域の頭脳と呼ばれるお偉い方々が真剣に話し合って、多数決で決めた。これで地域が良くなったという例は、ほとんど知りません。衰退している町で多数決をとったらダメなんです。多数決をとっていたら、今井町は廃屋の町になっていても、おかしくなかったのです。それとも、新興住宅と言われる新建材づくめの家が立ち並ぶ町に変わっていたでしょう。
多数決をとる前に、「先走りするバカ」の私は、まず外堀を固めに走ったのです。外の人から、今井町の「宝」を吹聴してもらったのです。効果テキメンでした。それからです、町の人にも賛同を求めて回ったのは…。お陰で町が古いままで残り、今は日本中で古民家ブームに沸いています。
そこでまた、という言葉が入ります。図に乗っていたら、流行が去ったら、過剰投資で悲惨な目にあいますよ。特に空き家対策を間違ったら、確実に大変なことになります。人口が減っているのに行政は新築にも、古民家にも補助金を出して住宅支援をしています。よく考えて下さい、少子高齢化がすごいスピードで来ています。しかし家の数が増えていますね!家の数を減少させないと空き家だらけになっていきますよ。適正人口という言葉を使って空き家を潰していくことや、新建材づくしの家を制限するとかも必要だと感じています。これはすごく危険な発言ですが、事実そうなんだから敢えて公言します。
これは、地球温暖化問題にもつながる話です。原子力発電が、エライことになっています。廃棄物の完全処理方法がないのに、稼働してしまったのです。代わりの電力ということで、太陽光発電が推奨されています。どこに設置すべきでしょうか。山林を壊して大規模発電でいいのでしょうか。なぜ各ビルごとに設置できないのでしょうか。そうすれば、送電電線が要らないのです、自然が壊れないのです、それなのになぜ?
地産地消という言葉がはやっています。いい着眼です、というよりもともと市場が小さくて、地域ごとに経済が回っていた頃には当たり前であったことですが、一つ大事なことが違っています。今は地元の産物を地域で売ってカネに換えて、それから儲けた金で次の何かを買う手段に使っています。地産の対象が、狭い山奥でもこの方法でたくさんの人に来てもらおうとしています。結果、来町者のマナーが悪いとか、受け入れ施設が悪いとか、道路が混雑するとか。穏やかな里山や、谷間の集落がインスタントの都会に変わり、風景と似合わない人的景観を生み出してしまいます。大きな施設を作っても、年間フル活動しないので、維持費で圧迫されています
私は地産「他消」を進めています。今日は東吉野村から石井くんが、地ビールの「良狼(ろうろう)」などを持ってきて、後ろで展示してくれています。このビール、計画段階では、東吉野村に来てもらって、サーバーで飲んでもらいたい、観光客を沢山村に呼びたいという考え方をされていました。
NAED(一般社団法人 地域づくり支援機構)の11期生に入学してくれて、少なくとも私の洗脳を受けてくれたと勝手に思っていますが、サーバーも良いけど、村まで来てビールを飲んだら、一人は車のためにビールは飲めない、それで宿泊してもらおうとしています。限られた人数しか対応できないじゃないか。もし人気が出てきて村に活気が出てきたら路上駐車で村人が困る、自然がきれいだからと、キャンプ場被害を増長させてきたのと同じ現象が起こる。
それより、瓶詰めをつくって国中の今井町や奈良の町なかの酒屋さんに売ってもらって、オーナーを東吉野村に招待してあげてよ!と提案してきました。コロナのお陰で、瓶詰めのビールが売れています。家で飲めるから。今井町でも3軒のお店で買えるようになりました。サーバーだけだったら、コロナで今頃どうなっていたのでしょうか。民宿の設備投資までしていたら。これはコロナを予知して前もって予定したものではありません。各地のキャンプ被害を見てきたので、ビールに当てはめただけです。
今、私の「阿伽陀屋(あかだや)若林亭」で、漆(うるし)教室を開催しています。漆塗りの古い家具や食器を修理しています。新しくマグカップを創り、高額で販売し、ふるさと納税の商品に申請しました。良いモノを高く売っています。これに使う漆は、今は丹後の漆を使っています。これを曽爾村の「ぬるべの郷(さと)」の漆を使わせていただきたい、と訪問してきました。日本で一番古い歴史のあるぬるべの郷の漆を使って、今井町の阿伽陀屋若林亭で、京都のベテラン漆師によって生まれた漆工芸品を販売し始めました。
今日はここに、私の理解者たちが来てくれています。そんな人たちが応援してくれて「あしたのなら表彰」(奈良県知事表)や、「Nara観光コンシェルジュアワード」(奈良のガイド名人を決めるコンテストで、若林さんは優秀賞を受賞)に推薦してくれたのです。嫌われているけど、いいことを言っている、だから応援するという嬉しい支持者たちです。
ところでこんな人間、私に誰がした?
1,大家族とお祖父さん
親父が戦死しているので、中学生の頃まではお祖父さんと同じ布団で寝ていました。農業を体で教えてくれました。隔世遺伝は素晴らしいです。お年寄りに教えてもらいましょう。
2,高校時代の柔道の先生の一言
「若林は技は切れて工夫もしているが、根が続かない。だから黒帯が取れない、まず初段をとってみよ!」体力・持続力がないことを見透かしてくれていたのですね。努力の継続を教えてくれました。黒帯を締めたらそれらしくなりました。
3,登山の時代
ピークハンターの時代は持久力を養い、クライマーの時代は瞬間の判断力を養い、道中は重い荷物を背負う体力と脚力を養いました。そして副産物として、地図を読むことを覚えました。天気に敏感になりました。晴か雨かだけではありません。熱いか寒いかも、荷物の多さに絡んできますからね。
コロナは追い風。物質的には何一つ追い風はありません。人々は危険を冒してでも行動を起こそうとしています。奈良公園は人出でいっぱいだそうです。奈良県の川や公園には、他府県から人が一杯です。動きなさんなと言われたから行けるところは奈良だ、ということはそこは究極の行きたいところなんです。あそこは込み合っていないだろう、と予測してきているのだと思います。奈良にはそんなところが一杯あることに気づかせてくれたのが、いまのコロナの時なんです。コロナが落ち着いたとき、コロナの時に行った奈良の各地こそ、人々が本当に来たいところで、それが奈良には一杯あるということに気付きましょう。
また今日も、わけのわからんことをたくさん喋ってしまいました。毎回わけのわからんことをしゃべっていますが、ワシが老いぼれになったとき、「若林はええこと言うとった」と言って貰えて、阿伽陀屋若林亭へお茶を飲みに集まってくれるようになった時が、私の人生の終点です。私を長生きさせたかったら、私の話に軽はずみに納得せずに、じっくりと反論を考えて、おい、酒を飲ませてくれと言って阿伽陀屋若林亭へ帰ってきて下さい。有難うございました。
私は今日着物を着ています。町づくりを始めたときから着るようになったのです。今の日本の日常では着物はもう特異な世界になってしまっています。でもこの特異な着物が今井町の町づくりには役に立ってきました。今時着物は茶道や日本舞踊の時とか成人式ぐらいにしか着ないでしょう。今日も着物は今井町がらみの人だけでしょ!目立つでしょ!全国を着物で歩き回って今井町のPRをしてきました。特色になりました、有名になりました。なぜですか!みんなが着ていないからなんです。視点を変えてやってきたんですね。そしたら沢山の人が着物で町を訪れてくれるようになりました
家もそうです。今井町の民家はみんなこんな古い、寒い、暑い家は時代遅れだ、道が狭い、車も通れない、と言っていました。今井町の人が言っているんですよ!この風潮を長年マイナスイメージで背負ってきたのです。どんでん返しして、これくらい古い町は残っているのは奇跡だといって クラッシックの価値観に切り替えてきました。中古でポンコツの車から、クラッシックカーへの変身のようなもんですね。その起源は昭和30年からです。半世紀も前でした。
町並みを変えることには成功しました。それはなぜ? 補助金で守れる「重要伝統的建造物群保存条例」(文化財保護法)を作って補助金をもらえるようにしたからです。これって大変なことですよね。住民主導で条例を作ったのですよ!「嫌々残している」というイメージを拭い去りたかったんです。今井町が「古い町が大切だから守っているんだ」という考え方に変わってもらいたかったのです。意識を変えてもらうのには町の知名度が必要になってきたのです。
〇たくさんの住民に参加してもらって、イベントを仕掛けてきました。
〇小学校へ授業に行き、子供たちに古民家体験もしてもらっています。
〇全国から学生たちに研修するために集まってもらいました、その数は500人を下らないでしょう。
有名になってきました。しかし、またさらなる問題を見つけてしまったのです。時がたって、それを繋いでいく次の世代の人たちは原点の苦労を忘れていいとこどりしかしなくなったのです。人は補助金で家が再興できるのに味をしめて、補助金や福祉という名の補助制度などに頼るようになってきたのです。
もう一つ、観光に目を向け始めて、他人のカネを燕の子のようにくちばしを開けてねだるようになってきたのです。これは政府が地域づくりに支援し始めて、学校でも地域づくりの学問を取り入れるようになってからは更に補助金制度の問題に走るようになり、今では全国で当たり前になってしまうまで広がってしまいました。燕でも、成長すれば自分で餌をとりますよ。死ぬまでエサをねだっている社会になりすぎていませんか。
更に悪いことに、インバウンドという名のもとに「数の観光」が全国規模で広がってしまったのです。今井町にも「1時間だけ」とか「2時間だけ」という数の観光(観光客数の多さばかりをねらう観光)が押し寄せてきました。ここでも視点を変えてみることが出来ます。どうしても観光政策を拒めない状況なら、ということで私が考えたのが、今井町ではガイド用の電子機器で案内するシステムの充実を「させないでほしい」と橿原市に要望してきました。
迷いやすい、だから標識やガイドブックを作ろう、というのも阻止してきました。中世に、わざと迷わせるように作った町並みを、なぜ迷わせないように苦心してるのですか。迷っても遭難しないのだから、「迷って町の人に尋ねて下さい」と言い続けてきました。標識や案内図を町なかに立てさせなかったのです。狭い道は安心感を与えてくれる空間を作っています。子供たちが道に座り込んで遊んでいます。当然大人たちとの会話が生まれてきます。家の段差は足腰を鍛えてくれています。ほんまもんの土壁は呼吸をしていて、健康にも良いし、耐火にも優れている。これらを力説してきました。
お陰で空き家が減ってきて、児童が少しづつ増えてきています。それでも観光化への波は今井町にも押し寄せてきて、飲食のお店が急激に増えてきました。コロナがなかったら、市の方針で観光に押されてしまっていたでしょうね。コロナのお陰で、皆が数の観光の弊害に辛うじて目覚めてくれました。今井町はことごとく逆転の発想で、「周回遅れのトップランナー」に仕上げてきましたので、コロナ被害は最小限で止まったと思っています。視点を変えて今井町を宝の山にしてきました。
一朝一夕ではこうはなりません。非難されながらもう半世紀こんな運動を続けてきたのです。コロナがこれらの勢いを一気にストップさせてくれました。自治会も、町の人も出店条件を付けるようになってきました。
多数決をとったらダメだ!これも私流の逆転の発想です。後退している地域で地域の頭脳と呼ばれるお偉い方々が真剣に話し合って、多数決で決めた。これで地域が良くなったという例は、ほとんど知りません。衰退している町で多数決をとったらダメなんです。多数決をとっていたら、今井町は廃屋の町になっていても、おかしくなかったのです。それとも、新興住宅と言われる新建材づくめの家が立ち並ぶ町に変わっていたでしょう。
多数決をとる前に、「先走りするバカ」の私は、まず外堀を固めに走ったのです。外の人から、今井町の「宝」を吹聴してもらったのです。効果テキメンでした。それからです、町の人にも賛同を求めて回ったのは…。お陰で町が古いままで残り、今は日本中で古民家ブームに沸いています。
そこでまた、という言葉が入ります。図に乗っていたら、流行が去ったら、過剰投資で悲惨な目にあいますよ。特に空き家対策を間違ったら、確実に大変なことになります。人口が減っているのに行政は新築にも、古民家にも補助金を出して住宅支援をしています。よく考えて下さい、少子高齢化がすごいスピードで来ています。しかし家の数が増えていますね!家の数を減少させないと空き家だらけになっていきますよ。適正人口という言葉を使って空き家を潰していくことや、新建材づくしの家を制限するとかも必要だと感じています。これはすごく危険な発言ですが、事実そうなんだから敢えて公言します。
これは、地球温暖化問題にもつながる話です。原子力発電が、エライことになっています。廃棄物の完全処理方法がないのに、稼働してしまったのです。代わりの電力ということで、太陽光発電が推奨されています。どこに設置すべきでしょうか。山林を壊して大規模発電でいいのでしょうか。なぜ各ビルごとに設置できないのでしょうか。そうすれば、送電電線が要らないのです、自然が壊れないのです、それなのになぜ?
地産地消という言葉がはやっています。いい着眼です、というよりもともと市場が小さくて、地域ごとに経済が回っていた頃には当たり前であったことですが、一つ大事なことが違っています。今は地元の産物を地域で売ってカネに換えて、それから儲けた金で次の何かを買う手段に使っています。地産の対象が、狭い山奥でもこの方法でたくさんの人に来てもらおうとしています。結果、来町者のマナーが悪いとか、受け入れ施設が悪いとか、道路が混雑するとか。穏やかな里山や、谷間の集落がインスタントの都会に変わり、風景と似合わない人的景観を生み出してしまいます。大きな施設を作っても、年間フル活動しないので、維持費で圧迫されています
私は地産「他消」を進めています。今日は東吉野村から石井くんが、地ビールの「良狼(ろうろう)」などを持ってきて、後ろで展示してくれています。このビール、計画段階では、東吉野村に来てもらって、サーバーで飲んでもらいたい、観光客を沢山村に呼びたいという考え方をされていました。
NAED(一般社団法人 地域づくり支援機構)の11期生に入学してくれて、少なくとも私の洗脳を受けてくれたと勝手に思っていますが、サーバーも良いけど、村まで来てビールを飲んだら、一人は車のためにビールは飲めない、それで宿泊してもらおうとしています。限られた人数しか対応できないじゃないか。もし人気が出てきて村に活気が出てきたら路上駐車で村人が困る、自然がきれいだからと、キャンプ場被害を増長させてきたのと同じ現象が起こる。
それより、瓶詰めをつくって国中の今井町や奈良の町なかの酒屋さんに売ってもらって、オーナーを東吉野村に招待してあげてよ!と提案してきました。コロナのお陰で、瓶詰めのビールが売れています。家で飲めるから。今井町でも3軒のお店で買えるようになりました。サーバーだけだったら、コロナで今頃どうなっていたのでしょうか。民宿の設備投資までしていたら。これはコロナを予知して前もって予定したものではありません。各地のキャンプ被害を見てきたので、ビールに当てはめただけです。
今、私の「阿伽陀屋(あかだや)若林亭」で、漆(うるし)教室を開催しています。漆塗りの古い家具や食器を修理しています。新しくマグカップを創り、高額で販売し、ふるさと納税の商品に申請しました。良いモノを高く売っています。これに使う漆は、今は丹後の漆を使っています。これを曽爾村の「ぬるべの郷(さと)」の漆を使わせていただきたい、と訪問してきました。日本で一番古い歴史のあるぬるべの郷の漆を使って、今井町の阿伽陀屋若林亭で、京都のベテラン漆師によって生まれた漆工芸品を販売し始めました。
今日はここに、私の理解者たちが来てくれています。そんな人たちが応援してくれて「あしたのなら表彰」(奈良県知事表)や、「Nara観光コンシェルジュアワード」(奈良のガイド名人を決めるコンテストで、若林さんは優秀賞を受賞)に推薦してくれたのです。嫌われているけど、いいことを言っている、だから応援するという嬉しい支持者たちです。
ところでこんな人間、私に誰がした?
1,大家族とお祖父さん
親父が戦死しているので、中学生の頃まではお祖父さんと同じ布団で寝ていました。農業を体で教えてくれました。隔世遺伝は素晴らしいです。お年寄りに教えてもらいましょう。
2,高校時代の柔道の先生の一言
「若林は技は切れて工夫もしているが、根が続かない。だから黒帯が取れない、まず初段をとってみよ!」体力・持続力がないことを見透かしてくれていたのですね。努力の継続を教えてくれました。黒帯を締めたらそれらしくなりました。
3,登山の時代
ピークハンターの時代は持久力を養い、クライマーの時代は瞬間の判断力を養い、道中は重い荷物を背負う体力と脚力を養いました。そして副産物として、地図を読むことを覚えました。天気に敏感になりました。晴か雨かだけではありません。熱いか寒いかも、荷物の多さに絡んできますからね。
コロナは追い風。物質的には何一つ追い風はありません。人々は危険を冒してでも行動を起こそうとしています。奈良公園は人出でいっぱいだそうです。奈良県の川や公園には、他府県から人が一杯です。動きなさんなと言われたから行けるところは奈良だ、ということはそこは究極の行きたいところなんです。あそこは込み合っていないだろう、と予測してきているのだと思います。奈良にはそんなところが一杯あることに気づかせてくれたのが、いまのコロナの時なんです。コロナが落ち着いたとき、コロナの時に行った奈良の各地こそ、人々が本当に来たいところで、それが奈良には一杯あるということに気付きましょう。
また今日も、わけのわからんことをたくさん喋ってしまいました。毎回わけのわからんことをしゃべっていますが、ワシが老いぼれになったとき、「若林はええこと言うとった」と言って貰えて、阿伽陀屋若林亭へお茶を飲みに集まってくれるようになった時が、私の人生の終点です。私を長生きさせたかったら、私の話に軽はずみに納得せずに、じっくりと反論を考えて、おい、酒を飲ませてくれと言って阿伽陀屋若林亭へ帰ってきて下さい。有難うございました。