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田中利典師の『体を使って心をおさめる 修験道入門』集英社新書(11)/「脱・社会の欺瞞」PARTⅠ.

2022年05月06日 | 田中利典師曰く
田中利典師の名著『体を使って心をおさめる 修験道入門』(集英社新書)を、師ご自身の抜粋により紹介するシリーズ。今回は「脱・社会の欺瞞」PARTⅠ.をお届けする。次回で、本書からの抜粋は終了する。
※トップ写真は吉野山・中千本付近の桜。快晴の 2022.4.11(月)に撮影した

グローバリゼーションとかグローバルスタンダード(これは和製英語)が言われる時代にあって、ローカルの良さを見直そう。そして「自分は無宗教」と言う前に、お宮参りをしたりクリスマスを祝い、お盆やお彼岸には墓参りに行くという日本的な宗教観・道徳観を見直そうと説かれている。師のFacebook(3/4付)から抜粋させていただく。

シリーズ修験道「脱・社会の欺瞞」
拙著『体を使って心をおさめる 修験道入門』(集英社新書)は7年前に上梓されました。一昨年、なんとか重版にもなりました。「祈りのシリーズ」の第2弾は、本著の中から、「修験道」をテーマに不定期にですが、いくつかの内容を紹介いたします。よろしければご覧下さい。 

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「普遍という嘘に気づこう!」
明治以降、私たちはなにか騙されてきたのではないでしょうか。近代というものがヨーロッパ社会で生まれて以降、世界はユニバーサル、あるいはグローバルという美名のもとに、一つの価値観で画一化することを目指してきました。ユニバーサルもグローバルも普遍性を持っているという理解なのです。

そして現にいまもグローバリゼーションという嵐によって、その土地の文化、その土地の風土が世界中で破壊され続けています。しかしその風土、その土地で生まれたものを大事にすることのほうが、人類や地球にとっては普遍的なことなのではないでしょうか。

数学者の藤原正彦さんが『国家の品格』(2005年、新潮新書)という名著の中で書いているように、いくらチューリップが美しいからといって、世界中の花をチューリップだけにしてしまってはたまったものではありません。サクラが似合う国、ブーゲンビリアが似合う国、ユリが似合う国、サボテンの花が似合う国──それぞれの国柄に合わせたいろいろな花があっていいのです。

カルチャーとは「耕す」ということが原義であり、まさにそれぞれの風土が生んだ言語、宗教、経済行為など、それぞれの多様性の中にこそ人類の普遍的価値があると考えるべきだと思っています。

明治以降、近代化の名のもとに欧米的な価値観を植え付けられてしまった私たちですが、いままさに、あらためて自分たちの風土を見つめ直して、その文化を耕していくことが求められていると言っていいでしょう。

「無宗教という洗脳」
実際に日本人が欧米的価値観に洗脳されていることを示す調査があります。日本人に「あなたの宗教は何ですか」という設問を投げかけると、読売新聞などの調査にも示されるように、70~75%の人が「無宗教、無信心」と答えています。

これは創価学会や幸福の科学など、ある特定の宗教に入信していない人が示すふつうの反応ではないかと思われますが、その一方で多くの人は子どもが生まれれば宮参りに行くし、クリスマスを祝うし、その一週間後にはお正月もお祝いします。こぞって初詣でに神社やお寺に向かい、毎年六千万人~八千万人の方が初参りに行くと言われているほどです。これは驚異的な数です。

あるいはお彼岸やお盆にはお墓参りに行くでしょうし、結婚式などは八割方が教会か神社で執り行います。そして死ねばほとんどの方が坊さんを呼んでお葬式をします。

考えてみると、日本人は生まれてから死ぬまで、正月からクリスマスまで年がら年中、一生にわたっていろいろな宗教と関わっているのが実際で、このような人たちが無宗教や無信心であるわけがないのです。

本当に無宗教で本当に無信心なら、寺に行ったり、神社に行ったり、お坊さんを呼んでのお葬式など、絶対にしません。しかし日本人の大方がそういう生活を送っているのです。そして、一人ひとりに聞くと、多くの方が「私は無宗教です、私は無信心です」と、平気で答えます。これはいったいなにを意味するのでしょうか。

キリスト教などを信仰する欧米の人たちから見たら、同じ人間が神様を拝む、仏様を拝む、お地蔵様を拝む、キリスト教の祭をするなどということは考えられません。そんなものは宗教でもなんでもない、そんなものは信心ではないのです。彼らはヤハウェの神ならヤハウェの神、アッラーの神ならアッラーの神以外は拝まないのです。

しかしそれはキリスト教をはじめとする欧米の宗教を信奉する人たちの勝手であって、私たちは明治以前の太古の昔から、身近にある神、仏を分け隔てなくそばに置いて拝んできた、祈ってきたのです。神や仏のみならず、有機物・無機物を問わず万物に霊性を見出す「アニミズム」をもち続ける民族です。そう、あらゆるものに聖なる生命が宿ることを感じてきたのです。

それはたとえばキリスト教の人たちから見たら節操がないと見えるでしょうし、そのようなごった煮のようなものは宗教とは呼ばないのかもしれません。けれども、私たちにとってはそれこそが信仰なのです。信心なのです。それを日本人は自ら無宗教と言っているに過ぎない。欧米的な価値観の洗脳とは、かくも根強いものとなっているのです。

あの東日本大震災直後の光景に世界中が驚きました。大混乱の被災地でも人々が整然と避難所で過ごしたり、救援物資を得るために並んだりしていました。テレビの映像で見ましたが、なにかの順番待ちで階段に人が並んでいても、真ん中が開いていて、人が通れるようにしてありました。

日本人にとってそれはなんの違和感もない光景でも、世界の目で見ると驚嘆に値することだったりします。それは長いあいだ、人口崩壊も起こさず、長寿の企業が世界の半分以上を占めるというような安定した社会だからこそ持ち得た光景だったのではないでしょうか。

人々が助け合い、培ってきた風土、それこそが日本人が大事にしてきたものです。決して欧米の人たちのように一つの神様だけに帰依するのではなく、その都度の祈りの中で自分たちの心性を培ってきたのであり、そうであるからこそ、あのような整然たる風景が生まれたのだと思います。

明治以降かなり洗脳されてしまったとはいえ、私たちがこの国土の中で受け継いできたものは、いまだわれわれの中に脈々と生き続けているのではないでしょうか。
#ロシアにウクライナへの即時停戦を訴えます。

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7年前の文章ですが、いま、ウクライナをはじめ、世界で起こっているさまざまな紛争の根っこにはグローバルとローカルの戦いという一面をあらためて感じています。多様性を認め合うことは、そこに巣くった悪徳ユダヤなどの利権や、民族間の問題も含めて人類にとって簡単なことではないようです。
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