写真の仏頭は、よくご存じだろう。7世紀後半、白鳳時代の銅造丈六仏の仏頭だ。山田寺講堂のご本尊だったが、興福寺衆徒により持ち去られ、今は興福寺国宝館に安置されている。ただし写真は飛鳥資料館にある精巧なレプリカだ。
5/31(土)、この仏頭のあった山田寺跡(桜井市山田)を訪ねてみた。
この寺は、641(舒明天皇13)年、蘇我入鹿の従兄弟・蘇我倉山田石川麻呂(そがくらやまだのいしかわまろ)が造営着手した寺である。金堂と回廊が造られた後、石川麻呂が反逆の罪を着せられて自害したことから造営は一時頓挫したが、後に塔や講堂が完成した。
《中世以降は衰微して、明治時代初期の廃仏毀釈の際に廃寺となった。その後、明治25年(1892年)に小寺院として再興されている。「山田寺跡」として国の特別史跡に指定されている》(Wikipedia)。
現在の山田寺(法相宗)には、観音堂と庫裏(くり)だけがある。あとはご覧の通りの原っぱだが、伽藍の跡が残っている。
《発掘調査の成果のうち特筆すべきは、昭和57年(1982年)、東回廊の建物そのものが出土したことである。土砂崩れにより倒壊、埋没した回廊の一部がそのまま土中に遺存していたもので、柱、連子窓などがそのままの形で出土した。腐朽しやすい木造建築の実物がこのような形で土中から検出されるのはきわめてまれなケースであり、日本建築史研究上、貴重な資料である。出土した回廊のうち3間分が科学的保存処置を施し、復元された形で奈良文化財研究所飛鳥資料館に展示されている》(同)。ご覧の写真が、その回廊跡である。
発掘当時の写真(現地の説明板より)
飛鳥資料館に展示された復元品
国の特別史跡に指定されたことで原っぱがそのまま残され、後の大発見につながった。よく若い人などが「平城宮跡を原っぱのままにしておくのは、格好が悪い。早く復原・整備すべきだ」というが、やたら手を入れて復原するのではなく、現状のままで残しておくことが第一なのだ。予算や体制が整った時点で、きちんと発掘調査を行えば良い。
土曜日というのに山田寺跡を訪れる人はほとんどなく、1時間ほどの間に私が出くわしたのは、犬の散歩に来たお1人(と1匹)だけだった。
参道(「磐余道」(いわれみち)の字は井上靖の揮毫)
帰途、沿道で不思議な山を見つけた。当ブログの「残したくない奈良の景観(3)」(5/7付)のコメント欄で、新浜一郎さんが指摘されていた「産業廃棄物の山」である。
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/50649724edb5262060c0ed8c5f0be924
コメントによれば《桜井市街の南にそびえる丘陵は130万立方㍍もの産廃の山なんです》《一見、宅地造成や農地開発の工事中のように見えるので、見過ごしてしまいそうですが、でも、付近の住民は悪臭を感じているし、地震や大水で崩れないのかと不安にも思っています。また、近くの別の産廃の山からは汚水が流れている場所もあります》
《先日、その産廃の山の付近に登ってみました。大和平野を一望しその絶景に驚きました。奈良でもっとも美しい景色が見える場所かもしれません》《県は「景観、景観」と最近はよく言いますが、こんな産廃の山を認めたのも県ですし、甘樫の丘などから見える美しい景色で目障りなのはたいていが公共の建物(県市町村会館や万葉文化館)です》。
山のあるのは、聖林寺(国宝・十一面観音のある寺)の裏手(南東)だ。遠くから見ると、山を切り開いて宅地造成している最中のように見える。ここが《奈良でもっとも美しい景色が見える場所》とは、皮肉なことである。
よく保存された山田寺跡がある一方、見上げると産廃処理会社が築いた山がある。その高い山からは、大和三山など奈良盆地の美しい景観が一望できる…。残したい景観と残したくない景観がこれほど見事に揃っている例はまれだろう。
県(風致景観課)が募集している《「まほろば眺望スポット百選」&「残したくない景観」大募集!》の締め切りは11/30までと、まだまだ余裕がある。ご興味のある方は、ぜひいちどチャレンジしていただきたい。
http://www.pref.nara.jp/fuchi/keikan/mahoroba/index.htm
※残したくない奈良の景観(2)(当ブログ内)
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/33b61d134a0fdc5fdce79bfb06a5d979
※残したくない奈良の景観(1)(同)
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/2991b2165a9b57cae76d9821b3c25223
5/31(土)、この仏頭のあった山田寺跡(桜井市山田)を訪ねてみた。
この寺は、641(舒明天皇13)年、蘇我入鹿の従兄弟・蘇我倉山田石川麻呂(そがくらやまだのいしかわまろ)が造営着手した寺である。金堂と回廊が造られた後、石川麻呂が反逆の罪を着せられて自害したことから造営は一時頓挫したが、後に塔や講堂が完成した。
《中世以降は衰微して、明治時代初期の廃仏毀釈の際に廃寺となった。その後、明治25年(1892年)に小寺院として再興されている。「山田寺跡」として国の特別史跡に指定されている》(Wikipedia)。
現在の山田寺(法相宗)には、観音堂と庫裏(くり)だけがある。あとはご覧の通りの原っぱだが、伽藍の跡が残っている。
《発掘調査の成果のうち特筆すべきは、昭和57年(1982年)、東回廊の建物そのものが出土したことである。土砂崩れにより倒壊、埋没した回廊の一部がそのまま土中に遺存していたもので、柱、連子窓などがそのままの形で出土した。腐朽しやすい木造建築の実物がこのような形で土中から検出されるのはきわめてまれなケースであり、日本建築史研究上、貴重な資料である。出土した回廊のうち3間分が科学的保存処置を施し、復元された形で奈良文化財研究所飛鳥資料館に展示されている》(同)。ご覧の写真が、その回廊跡である。
発掘当時の写真(現地の説明板より)
飛鳥資料館に展示された復元品
国の特別史跡に指定されたことで原っぱがそのまま残され、後の大発見につながった。よく若い人などが「平城宮跡を原っぱのままにしておくのは、格好が悪い。早く復原・整備すべきだ」というが、やたら手を入れて復原するのではなく、現状のままで残しておくことが第一なのだ。予算や体制が整った時点で、きちんと発掘調査を行えば良い。
土曜日というのに山田寺跡を訪れる人はほとんどなく、1時間ほどの間に私が出くわしたのは、犬の散歩に来たお1人(と1匹)だけだった。
参道(「磐余道」(いわれみち)の字は井上靖の揮毫)
帰途、沿道で不思議な山を見つけた。当ブログの「残したくない奈良の景観(3)」(5/7付)のコメント欄で、新浜一郎さんが指摘されていた「産業廃棄物の山」である。
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/50649724edb5262060c0ed8c5f0be924
コメントによれば《桜井市街の南にそびえる丘陵は130万立方㍍もの産廃の山なんです》《一見、宅地造成や農地開発の工事中のように見えるので、見過ごしてしまいそうですが、でも、付近の住民は悪臭を感じているし、地震や大水で崩れないのかと不安にも思っています。また、近くの別の産廃の山からは汚水が流れている場所もあります》
《先日、その産廃の山の付近に登ってみました。大和平野を一望しその絶景に驚きました。奈良でもっとも美しい景色が見える場所かもしれません》《県は「景観、景観」と最近はよく言いますが、こんな産廃の山を認めたのも県ですし、甘樫の丘などから見える美しい景色で目障りなのはたいていが公共の建物(県市町村会館や万葉文化館)です》。
山のあるのは、聖林寺(国宝・十一面観音のある寺)の裏手(南東)だ。遠くから見ると、山を切り開いて宅地造成している最中のように見える。ここが《奈良でもっとも美しい景色が見える場所》とは、皮肉なことである。
よく保存された山田寺跡がある一方、見上げると産廃処理会社が築いた山がある。その高い山からは、大和三山など奈良盆地の美しい景観が一望できる…。残したい景観と残したくない景観がこれほど見事に揃っている例はまれだろう。
県(風致景観課)が募集している《「まほろば眺望スポット百選」&「残したくない景観」大募集!》の締め切りは11/30までと、まだまだ余裕がある。ご興味のある方は、ぜひいちどチャレンジしていただきたい。
http://www.pref.nara.jp/fuchi/keikan/mahoroba/index.htm
※残したくない奈良の景観(2)(当ブログ内)
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/33b61d134a0fdc5fdce79bfb06a5d979
※残したくない奈良の景観(1)(同)
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/2991b2165a9b57cae76d9821b3c25223
私の手許に「山田寺跡第四次発掘調査概要」という1枚の資料があります。寺院の回廊が倒壊したままの姿で現れたという報道で、予備知識もないまま現地説明会に行きました。そのときの資料です。
現場を覗いてビックリしました。ニ間分の回廊建物が連子窓もしっかり付いたまま、ばったりと西側に倒れ、その時落ちたと思われる瓦が散乱していました。東の斜面の土砂がてっぽう水で一気に流れ込んで倒壊したらしいです。
いま思えば、貴重な発掘現場を目撃したものだと26年前の興奮を思い起こします。現在飛鳥資料館に実物を保存処理して立体的に復原展示してあります。
桜井線で南へ向かって行く時、桜井の安倍の文殊さんの裏山あたりに見える宅造現場かと思われる山肌が気になっていましたが、産廃の山とは驚きました。美しい景観を創ろうと言っている行政は県民の気持を逆なでしているとしか思えません。
> 貴重な発掘現場を目撃したものだと26年前の興奮を思い起こします。
それは素晴らしい体験をされましたね。復原された回廊建物は、私も飛鳥資料館で拝見しました。立派なものだったのですね。写真を追加しておきましたので、ご覧下さい。
> 桜井線で南へ向かって行く時、桜井の安倍の文殊さんの裏山あたりに見える
> 宅造現場かと思われる山肌が気になっていましたが、産廃の山とは驚きました。
桜井線からだと、南東へ3km程度でしょうか。それでもよく見えると思います。新浜さんからは、貴重な情報をいただきました。
本尊は丈六の座像、脇侍はそれぞれ身の丈3メートル。総重量がどれだけになるか知りませんが、山田寺から興福寺まで運んだ衆徒の力はいかばかりか。
東金堂は記録によれば創建来6度焼失し、その都度再建されたそうです。1180年の南都焼き討ちで4度目の焼失、再建を急いだが本尊の造立が間に合わなかったため、山田寺への乱入となったらしい。
東金堂はその後も2度火災に見まわられる。脇侍は損傷を受けながらも救出されるが、ご本尊は焼け落ち頭部のみが残ったらしい。昭和12年東金堂の解体修理の際ご本尊の台座の下に正面を向けて仏頭が保存されていたのが発見されたとのこと。
1415年に再建されて現在に到り、「仏頭」は国宝として注目されているが、脇侍の日光、月光も「仏頭」よりも鋳造年代が下るにしても「白鳳仏」であればもっと脚光を浴びてもよいのではないでしょうか。
なお、その後山田寺の主な堂宇は焼亡したらしく、興福寺の衆徒乱入の際焼かれたとの説もあるらしい。
> 脇侍の日光菩薩と月光菩薩は現在も東金堂でご本尊の左右に
> 現役として立っておられる、と見ても良いのではないでしょうか。
> 日光、月光も「仏頭」よりも鋳造年代が下るにしても「白鳳仏」
> であればもっと脚光を浴びてもよいのではないでしょうか
なるほど、そういう説があるのですか。薬師寺の仏さまを思わせる優美な日光・月光菩薩ですが、それならもっと注目されるべきですね。今度行くときは、もっとじっくり拝見することにします。貴重な情報、深謝です。
ところで、今思い出したのですが、三河人さんはどこかで武田邦彦氏の著書(環境本)をお読みと書いておられましたっけ。残念ながら、彼の著作はあまり信用できるものではありませんので、念のため。
環境本の著者のこと、私は存じませんのでまだ読んだこともありません。ご忠言ありがとうございました。
最近は、何でも売れればよいとの風潮があり、デタラメな本が出回っていますので、いつも注意喚起することにしています。失礼しました。