今日の「田中利典師曰く」は、〈僧侶という生き方〉(師のブログ 2017.5.22 付)。もと原稿は、2004年(師は49歳)に『金峯山時報』に書かれたものだ。この頃師は、役行者ルネサンスや吉野大峯の世界遺産登録で、駆けずり回っておられた。
※トップ写真は、椿寿庵(ちんじゅあん=大和郡山市)の椿(2010.2.6 撮影)
だから〈もう何年も前から、引退するのがよいなぁという憧れがある。「僧侶を引退するってなんだそりゃ…」って言われたこともあるが、職業としての僧侶を引退して、生き方としての僧侶に、まっとうに取り組む、というくらいの意味である〉とお書きである。
ストレスを抱えながら、非宗教的な(世俗的な)活動に打ち込んでおられたということなのだろう。では、以下に全文を紹介する。
「僧侶という生き方」ー田中利典著述集290522
過去に掲載した機関誌『金峯山時報』のエッセイ欄「蔵王清風」から、折に触れて本稿に転記しています。なんと13年前(2004年)の5月にも同じようなことを書いていたかと思うと、我ながら進歩のなさにがく然としますねえ。早く肺炎を治して、近くの弥仙山(みせんさん=京都府綾部市北東の山)にでも修行に行かなくちゃ。誰か一緒に行きませんか?? 弥仙山もいい山ですよ。
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「僧侶という生き方」
最近、体調がよろしくない。好きなお酒も控え気味である。それでもやはり芳しくないのであるからなおのこと、面白くない。運動不足とか、過労とか、いろいろと思い当たることも多いが、一番はストレスであろう。僧侶をしていて、ストレスがあるなどと吐露するのはいかにも情けない話であるが、正直な気持ちである。
そういえばここ数年は僧侶をしているのか、営業マンでも気取って走り回っているのかわからないような生活が続いており、それはそれで有り難いといえば有り難いのだが、自分自身を見失うような忙しさの中で、だんだん心が枯れてきているのかも知れない。役行者ルネッサンスや世界遺産登録活動、などと浮かれすぎなのだろう。
私は僧侶というのは職業ではなく、生き方だと思っている。しかし実際には職業としての僧侶の仕事や役割を果たすことに多忙な日々を汲々としている。ま、根底に生き方としての僧侶があるなら、それはそれで良しとしたい。
どちらに意識を置いているのかという、自分自身へ問いかけの問題であり、もちろん生き方としての僧侶に重きを置いておくべきであろう。そういう意味では忙しく日々を過ぎ越していくうちに、だんだん生き方としての僧侶生活から、今の私は遠ざかっているのかもしれないと、反省をしている。
もう何年も前から、引退するのがよいなぁという憧れがある。「僧侶を引退するってなんだそりゃ…」って言われたこともあるが、職業としての僧侶を引退して、生き方としての僧侶に、まっとうに取り組む、というくらいの意味である。また僧侶か営業マンかわからないような生活に明け暮れていては大事な人生を無為に生きてしまいかねない…と心のどこかで怯えているのである。
家庭を持ち、お酒が好きで、美味しいモノが大好きな生臭坊主がなに寝言を言っているのか…と叱られそうである。そりゃまあ、そのとおりである。しかもストレスをためて、体調を悪くしている僧侶などというのは噴飯ものであろう。
大峯山の戸開け式も終わり、今年も山修行の時期を迎えたが、運動不足とストレス症候群に思い煩う生活をひととき抜け出して、山伏本分の抖數(とそう)修行(雑念を払って行う修行)に赴きたいものである。
山の霊気に包まれたなら、きっと寝言から醒めて、また新たなお力をいただけるのに違いない。あ~修験僧侶でよかったなぁ。そんなことを思える生活を取り戻さなくてはならない。
※『金峯山時報』平成16年5月号「蔵王清風」より
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ホントに、読み返してみるほど、ちっとも進歩していないというか、いやいや退化してるとすら、思える今日この頃です。反省反省。
※トップ写真は、椿寿庵(ちんじゅあん=大和郡山市)の椿(2010.2.6 撮影)
だから〈もう何年も前から、引退するのがよいなぁという憧れがある。「僧侶を引退するってなんだそりゃ…」って言われたこともあるが、職業としての僧侶を引退して、生き方としての僧侶に、まっとうに取り組む、というくらいの意味である〉とお書きである。
ストレスを抱えながら、非宗教的な(世俗的な)活動に打ち込んでおられたということなのだろう。では、以下に全文を紹介する。
「僧侶という生き方」ー田中利典著述集290522
過去に掲載した機関誌『金峯山時報』のエッセイ欄「蔵王清風」から、折に触れて本稿に転記しています。なんと13年前(2004年)の5月にも同じようなことを書いていたかと思うと、我ながら進歩のなさにがく然としますねえ。早く肺炎を治して、近くの弥仙山(みせんさん=京都府綾部市北東の山)にでも修行に行かなくちゃ。誰か一緒に行きませんか?? 弥仙山もいい山ですよ。
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「僧侶という生き方」
最近、体調がよろしくない。好きなお酒も控え気味である。それでもやはり芳しくないのであるからなおのこと、面白くない。運動不足とか、過労とか、いろいろと思い当たることも多いが、一番はストレスであろう。僧侶をしていて、ストレスがあるなどと吐露するのはいかにも情けない話であるが、正直な気持ちである。
そういえばここ数年は僧侶をしているのか、営業マンでも気取って走り回っているのかわからないような生活が続いており、それはそれで有り難いといえば有り難いのだが、自分自身を見失うような忙しさの中で、だんだん心が枯れてきているのかも知れない。役行者ルネッサンスや世界遺産登録活動、などと浮かれすぎなのだろう。
私は僧侶というのは職業ではなく、生き方だと思っている。しかし実際には職業としての僧侶の仕事や役割を果たすことに多忙な日々を汲々としている。ま、根底に生き方としての僧侶があるなら、それはそれで良しとしたい。
どちらに意識を置いているのかという、自分自身へ問いかけの問題であり、もちろん生き方としての僧侶に重きを置いておくべきであろう。そういう意味では忙しく日々を過ぎ越していくうちに、だんだん生き方としての僧侶生活から、今の私は遠ざかっているのかもしれないと、反省をしている。
もう何年も前から、引退するのがよいなぁという憧れがある。「僧侶を引退するってなんだそりゃ…」って言われたこともあるが、職業としての僧侶を引退して、生き方としての僧侶に、まっとうに取り組む、というくらいの意味である。また僧侶か営業マンかわからないような生活に明け暮れていては大事な人生を無為に生きてしまいかねない…と心のどこかで怯えているのである。
家庭を持ち、お酒が好きで、美味しいモノが大好きな生臭坊主がなに寝言を言っているのか…と叱られそうである。そりゃまあ、そのとおりである。しかもストレスをためて、体調を悪くしている僧侶などというのは噴飯ものであろう。
大峯山の戸開け式も終わり、今年も山修行の時期を迎えたが、運動不足とストレス症候群に思い煩う生活をひととき抜け出して、山伏本分の抖數(とそう)修行(雑念を払って行う修行)に赴きたいものである。
山の霊気に包まれたなら、きっと寝言から醒めて、また新たなお力をいただけるのに違いない。あ~修験僧侶でよかったなぁ。そんなことを思える生活を取り戻さなくてはならない。
※『金峯山時報』平成16年5月号「蔵王清風」より
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ホントに、読み返してみるほど、ちっとも進歩していないというか、いやいや退化してるとすら、思える今日この頃です。反省反省。
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