奈良県の三大梅林といえば、賀名生(あのう)梅林(五條市西吉野町 2万本)、広橋梅林(吉野郡下市町 5千本)、月ヶ瀬梅林(奈良市月ヶ瀬 1万3千本)である。
2/18(水)、休暇を取って月ヶ瀬梅林に行ってきた。2/15~3/31までの期間中、「月ヶ瀬梅渓 梅まつり」が行われている。
http://narashikanko.jp/j/whatsnew/ume/
月ヶ瀬は、お茶の名産地でもある
観梅のピークには交通規制が行われるようだが、この日は、まだ車で奥まで入れた。たいてい真福寺の駐車場に車を止め、帆浦梅林周辺を歩くことにしている。
村落の中は、すっかり春の景色だ。庭の梅が香り、売店からは焼餅の良い匂いが漂ってくる。
遠くに見えるのは、高山ダムの「月ヶ瀬湖」である。五月川(名張川)を堰き止めて作られたダム湖だ。湖を遠景にして梅を撮るのが写真の定番であるが、今はまだ咲き始め~5分咲き、といったところだった。
Wikipedia(月ヶ瀬梅林)によると《奈良市月ヶ瀬尾山とその周辺(旧添上郡月ヶ瀬村)に位置する梅林である。五月川の渓谷沿いに梅の木が広がる様から月ヶ瀬梅渓とも呼ばれる》。しかも《1922年、当時の内務省は日本国が指定する初めての名勝に奈良公園、兼六園とともに「月瀬梅林」を指定した》ということだから、これはすごい。
《明治時代に入る頃まで月ヶ瀬は烏梅(若い梅の実の燻製。紅花染めに必要な材料)の一大生産地であり、月ヶ瀬梅林は烏梅の原料となる梅の実を収穫する用途で規模を拡大していった。最盛期の江戸時代には約10万本の梅の木が成育していたとされる。20世紀に入ると合成染料の発達により、烏梅はほとんど生産されなくなったため、月ヶ瀬梅林は観光資源として利用や食用の青梅の栽培に軸足を移した》。
《月ヶ瀬梅林の起源は古く、1205年(文久2年)に真福寺境内に天神社を建立する際、菅原道真の好んだ梅を植樹したとの口伝が残っている。この記録の真偽は定かではないが、「桃仙の梅」が樹齢600年と推定されることから、月ヶ瀬梅林の起源は少なくとも600年前にさかのぼるのではないかと考えられている》。
《1331年に起こった元弘の乱で大敗を喫した後醍醐天皇が笠置山から撤退する際、一緒に逃げてきた女官の一人が月瀬に滞在した。その女官が熟れた梅の実を見て月瀬の民に京で使用される紅花染め用の烏梅の製法を教えたという伝承が残る》。今も真福寺の境内には、この伝承にちなんだ「姫若の梅」という古木がある。
真福寺境内の梅。「姫若の梅」はまだつぼみ
《その約100年後の15世紀ごろには五月川流域一帯は烏梅を作るための梅林で埋め尽くされたという。深い渓谷にある月瀬の村々には耕作地として利用できる土地に乏しく、厳しく取り立てられる上納米を納める余裕がなかった。そこで換金作物である烏梅を生産し、烏梅の販売金を銀納した。耕作地として利用できない斜面で烏梅に用いる梅を栽培し、限られた耕作地では自給食料を生産することで自らの生活を守ったのである》。
《明治時代に入り合成染料が伝来すると、烏梅を用いた手間のかかる紅花染めは徐々に行われなくなり、烏梅の価格は暴落した。梅樹の手入れはおろそかになり、畑地に植えられていた梅は伐採されて他の作物に植え替えられていった。最盛期に10万本を誇った梅林は徐々に衰退してゆく。しかし、風光明媚な風景を求めて観光客はむしろ増えていった。月ヶ瀬梅林は徐々に一般の人々の観光地に変化していく》。
《一方、朽ちてゆく月ヶ瀬梅林を守るための保存活動が行われるようになった。上野町長を務めたことのある上野の事業家、田中善助は隣村の梅林を守るために「月瀬保勝会」を発足させた。しかし村民の意識の低さからか、梅林の伐採はおさまらず、月瀬保勝会の事業は頓挫した。1889年、町村制施行により月瀬村が発足すると、奈良県知事税所篤や月瀬村長奥田源吉らは梅林の衰退を憂い、租税減免など、梅林保護の政策を実施した。熱意が功を奏し、月瀬村民は自主的に「月瀬保勝会」の運営を行うようになった》。
《梅林の保護は軌道に乗り始めたかに見えたが、1937年ごろからの戦時統制の時代に突入すると食糧増産のために梅の木畑は半ば強制的に伐採され、耕作地に姿を変えた。そして、戦前は2万本といわれた梅の木は戦後は半分以下まで減少した》。
《1953年に当時の建設省から木津川総合開発計画が発表された。大阪平野を洪水から守るため、木津川支流に水量調節用のダムを建設する計画であった。この計画には名張川の高山ダムが含まれており、計画の実現は月ヶ瀬梅渓の水没を意味した。月ヶ瀬村では村を挙げての反対運動が行われ、奈良県やマスコミも声を上げたが、下流域の安全確保の大義の前にしてついに水没を回避することはできなかった》。
《高山ダムが完成すると約3800本の梅がダムの底に水没することになる。水没する梅林を補償するため、移植可能な古木を現在の月ヶ瀬尾山天神の森付近や月ヶ瀬嵩三山付近に移植した。また、月瀬村内各所に新たな梅林が設けられた。また、梅林を保護する立場である月ヶ瀬保勝会は戦中戦後の混乱から休眠状態に陥っていたが、新生月ヶ瀬梅林を盛り立てるために活動を再開した》。
「湖畔の里つきがせ」のうどん
http://web1.kcn.jp/tukigase/kaiin/kohan.htm
《高山ダムは1969年に完成し、五月川の渓谷は月ヶ瀬湖に変貌した。渓谷が沈んだ後も月ヶ瀬梅林では月ヶ瀬梅渓保勝会や観光協会による梅林の管理保全、移植梅樹や幼木梅の育成が続けられている。また、月ヶ瀬梅林は1975年には奈良県立月ヶ瀬神野山自然公園の一部に指定された。名阪国道の開通や県道・広域農道の整備などにより交通事情が改善したこともあり、1988年には推定観光客10万人以上を見込める観光地となっている。今では月ヶ瀬湖の湖水と育成した梅樹が調和し、新生月ヶ瀬梅林が観光客の目を楽しませている》。
これは知らなかった。現在の月ヶ瀬梅林は、「月ヶ瀬保勝会」をはじめとする多くの人々の努力のおかげで保たれてきたのである。この素晴らしい観光資源を、私たちは子々孫々の代まで伝えていかなければならない。
2/18(水)、休暇を取って月ヶ瀬梅林に行ってきた。2/15~3/31までの期間中、「月ヶ瀬梅渓 梅まつり」が行われている。
http://narashikanko.jp/j/whatsnew/ume/
月ヶ瀬は、お茶の名産地でもある
観梅のピークには交通規制が行われるようだが、この日は、まだ車で奥まで入れた。たいてい真福寺の駐車場に車を止め、帆浦梅林周辺を歩くことにしている。
村落の中は、すっかり春の景色だ。庭の梅が香り、売店からは焼餅の良い匂いが漂ってくる。
遠くに見えるのは、高山ダムの「月ヶ瀬湖」である。五月川(名張川)を堰き止めて作られたダム湖だ。湖を遠景にして梅を撮るのが写真の定番であるが、今はまだ咲き始め~5分咲き、といったところだった。
Wikipedia(月ヶ瀬梅林)によると《奈良市月ヶ瀬尾山とその周辺(旧添上郡月ヶ瀬村)に位置する梅林である。五月川の渓谷沿いに梅の木が広がる様から月ヶ瀬梅渓とも呼ばれる》。しかも《1922年、当時の内務省は日本国が指定する初めての名勝に奈良公園、兼六園とともに「月瀬梅林」を指定した》ということだから、これはすごい。
《明治時代に入る頃まで月ヶ瀬は烏梅(若い梅の実の燻製。紅花染めに必要な材料)の一大生産地であり、月ヶ瀬梅林は烏梅の原料となる梅の実を収穫する用途で規模を拡大していった。最盛期の江戸時代には約10万本の梅の木が成育していたとされる。20世紀に入ると合成染料の発達により、烏梅はほとんど生産されなくなったため、月ヶ瀬梅林は観光資源として利用や食用の青梅の栽培に軸足を移した》。
《月ヶ瀬梅林の起源は古く、1205年(文久2年)に真福寺境内に天神社を建立する際、菅原道真の好んだ梅を植樹したとの口伝が残っている。この記録の真偽は定かではないが、「桃仙の梅」が樹齢600年と推定されることから、月ヶ瀬梅林の起源は少なくとも600年前にさかのぼるのではないかと考えられている》。
《1331年に起こった元弘の乱で大敗を喫した後醍醐天皇が笠置山から撤退する際、一緒に逃げてきた女官の一人が月瀬に滞在した。その女官が熟れた梅の実を見て月瀬の民に京で使用される紅花染め用の烏梅の製法を教えたという伝承が残る》。今も真福寺の境内には、この伝承にちなんだ「姫若の梅」という古木がある。
真福寺境内の梅。「姫若の梅」はまだつぼみ
《その約100年後の15世紀ごろには五月川流域一帯は烏梅を作るための梅林で埋め尽くされたという。深い渓谷にある月瀬の村々には耕作地として利用できる土地に乏しく、厳しく取り立てられる上納米を納める余裕がなかった。そこで換金作物である烏梅を生産し、烏梅の販売金を銀納した。耕作地として利用できない斜面で烏梅に用いる梅を栽培し、限られた耕作地では自給食料を生産することで自らの生活を守ったのである》。
《明治時代に入り合成染料が伝来すると、烏梅を用いた手間のかかる紅花染めは徐々に行われなくなり、烏梅の価格は暴落した。梅樹の手入れはおろそかになり、畑地に植えられていた梅は伐採されて他の作物に植え替えられていった。最盛期に10万本を誇った梅林は徐々に衰退してゆく。しかし、風光明媚な風景を求めて観光客はむしろ増えていった。月ヶ瀬梅林は徐々に一般の人々の観光地に変化していく》。
《一方、朽ちてゆく月ヶ瀬梅林を守るための保存活動が行われるようになった。上野町長を務めたことのある上野の事業家、田中善助は隣村の梅林を守るために「月瀬保勝会」を発足させた。しかし村民の意識の低さからか、梅林の伐採はおさまらず、月瀬保勝会の事業は頓挫した。1889年、町村制施行により月瀬村が発足すると、奈良県知事税所篤や月瀬村長奥田源吉らは梅林の衰退を憂い、租税減免など、梅林保護の政策を実施した。熱意が功を奏し、月瀬村民は自主的に「月瀬保勝会」の運営を行うようになった》。
《梅林の保護は軌道に乗り始めたかに見えたが、1937年ごろからの戦時統制の時代に突入すると食糧増産のために梅の木畑は半ば強制的に伐採され、耕作地に姿を変えた。そして、戦前は2万本といわれた梅の木は戦後は半分以下まで減少した》。
《1953年に当時の建設省から木津川総合開発計画が発表された。大阪平野を洪水から守るため、木津川支流に水量調節用のダムを建設する計画であった。この計画には名張川の高山ダムが含まれており、計画の実現は月ヶ瀬梅渓の水没を意味した。月ヶ瀬村では村を挙げての反対運動が行われ、奈良県やマスコミも声を上げたが、下流域の安全確保の大義の前にしてついに水没を回避することはできなかった》。
《高山ダムが完成すると約3800本の梅がダムの底に水没することになる。水没する梅林を補償するため、移植可能な古木を現在の月ヶ瀬尾山天神の森付近や月ヶ瀬嵩三山付近に移植した。また、月瀬村内各所に新たな梅林が設けられた。また、梅林を保護する立場である月ヶ瀬保勝会は戦中戦後の混乱から休眠状態に陥っていたが、新生月ヶ瀬梅林を盛り立てるために活動を再開した》。
「湖畔の里つきがせ」のうどん
http://web1.kcn.jp/tukigase/kaiin/kohan.htm
《高山ダムは1969年に完成し、五月川の渓谷は月ヶ瀬湖に変貌した。渓谷が沈んだ後も月ヶ瀬梅林では月ヶ瀬梅渓保勝会や観光協会による梅林の管理保全、移植梅樹や幼木梅の育成が続けられている。また、月ヶ瀬梅林は1975年には奈良県立月ヶ瀬神野山自然公園の一部に指定された。名阪国道の開通や県道・広域農道の整備などにより交通事情が改善したこともあり、1988年には推定観光客10万人以上を見込める観光地となっている。今では月ヶ瀬湖の湖水と育成した梅樹が調和し、新生月ヶ瀬梅林が観光客の目を楽しませている》。
これは知らなかった。現在の月ヶ瀬梅林は、「月ヶ瀬保勝会」をはじめとする多くの人々の努力のおかげで保たれてきたのである。この素晴らしい観光資源を、私たちは子々孫々の代まで伝えていかなければならない。