tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

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田中利典師の『修験道という生き方』新潮選書(5)/「つながり」を大切に

2022年10月24日 | 田中利典師曰く
金峯山寺長臈(ちょうろう)田中利典師は、ご自身のFacebookに、新潮選書『修験道という生き方』(宮城泰年氏・ 内山節氏との共著)のうち、利典師の発言部分をご自身で加筆修正されたものを〈シリーズ『修験道という生き方』〉のタイトルで連載されている。心に響くとてもいいお話なので、私はこれを追っかけて拙ブログで紹介している。
※トップ写真は、般若寺(奈良市般若寺町)のコスモス(2022.10.5 撮影)

第5回の今回のお話は「本質はつながりにある」。日本人は自然とのつながりを重んじてきた。人間同士も「以和為貴」と、和を大切にしてきた。密教も、仏さまと直接つながるということを教えてくれる。いろんな物事との「つながり」を大切にしよう。では師のFacebook(10/8付)から引用する。

シリーズ『修験道という生き方』⑤「本質はつながりにある」
日本人はよく、「和」を大切にすると言われます。「和を以て貴しとせよ」という聖徳太子の十七条憲法以来の重要な徳目ですね。この「和」を大事にするというのを、私なりに理解しているのは「つながり」を大切にするんだ、ということだと思っているのです。

日本は自然の恩恵がたくさんある。四季も移り変わりごとに食料も豊かで、海の幸、山の幸にも恵まれている。しかし一方ではその大自然は、時に人々に大きな大きな災害をもたらす。地震、豪雨、台風、大水害、大噴火などなどたくさんの自然災害が思い浮かびます。

そういう恩恵と脅威に満ちた大自然と、うまくつながってやってきたのが、この日本列島で生きてきた人たちだったと思うのです。人間同士争わずつながりあいを何よりも大切にする、とりわけ自然とのつながりを大事にしながら生きてきた。そういうつながりを大事にする風土・思考が、仏教伝来以降、仏教の持つ教義や、平安期には密教という至極の思想を受け入れていく過程で、大変役に立っていたんだと私は思うのです。

密教というのは顕教と違って、仏さまと直接つながる方法を教えてくれる信仰です。日本列島に暮らした人々が、「和」という思想を通して、つながりを大切にしてきたとするなら、「本質はつながりのなかにある」という考え方が、なぜ日本に定着したのかもわかりやすくなってくるのではないでしょうか。

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哲学者内山節先生、聖護院門跡宮城泰年猊下と、私との共著『修験道という生き方』(新潮選書)は3年前に上梓されました。ご好評いただいている?著作振り返りシリーズは、今回、本書で私がお話ししている、その一節の文章をもとに、加筆訂正して掲載しています。
私の発言に巨匠お二人がどういう反応をなさって論議が深まっていったかについては、是非、本著『修験道という生き方』をお読みいただければと思います。
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古建築は どうやって守られてきたか?(金峯山寺と近鉄文化サロン阿部野の連携講座)12月11日(日)開催!(2022 Topic)

2022年10月23日 | お知らせ
金峯山寺と近鉄文化サロン阿部野の連携講座「古建築はどうやって守られてきたか?~国宝金峯山寺二王門の修理工事を通じて~」(1日 短期講座)が12月11日(日)13:30~15:00に開催されます。

講師は林良彦氏(元奈良文化財研究所文化遺産部長・国宝金峯山寺二王門保存修理事業専門委員会委員)で、参加費は@2,200円(同サロン会員は@1,650円)。要申し込み(06-6625-1771)で定員は50名。同講座のチラシによりますと、

金峯山寺連携講座
古建築はどうやって守られてきたか?
~国宝金峯山寺二王門の修理工事を通じて~

わが国は東アジアの諸外国に比べて文化遺産の残存状況が良いと言われる。その中でも奈良には日本一多く中世以前の木造古建築が残存するが、この残り具合の良さには偶然の要素や、特に古代においてはもともとの母数が多いということもあるものの、それだけでは説明できない技術的な要素もあるように思われる。

現在修理工事を行っており、これに伴う調査によって修理の履歴が明らかになりつつある国宝金峯山寺二王門や、その他の例から古建築はどうやって守られてきたかを探ってゆきたい。

◆講 師
元奈良文化財研究所文化遺産部長・国宝金峯山寺二王門保存修理事業専門委員会委員 林 良彦
◆受講料
会員 1,650円、一般 2,200円(価格は、消費税・設備費を含んだ税込価格を表示しています)
◆会 場 近鉄文化サロン阿倍野
◆日 時 2022年12月11日(日) 13:30~15:00

講座のお問合せ・お申込みは 近鉄文化サロン阿倍野
〒545-0052 大阪市阿倍野区阿倍野筋2-1-40 and4階 電話(06)6625-1771
受付時間 10:00~19:00(日曜・休講日 10:00~17:00)
※休業日:9/30(金)、10/29(土)~10/31(月)、11/29(火)、11/30(水)は受付業務を休ませていただきます。
※注意事項
ご受講には事前のお申込みが必要です。/講座は満席になり次第締め切らせていただきます。/受講当日のキャンセルはお受けできません/入会金は不要です。
ホームページは、こちら


古建築にご関心のある皆さん、ぜひお申し込みください!

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延喜式「名神大社」だった片岡神社(王寺町)/毎日新聞「やまとの神さま」第21回

2022年10月22日 | やまとの神さま(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は毎週木曜日、毎日新聞奈良版に「やまとの神さま」を連載している。先週(2022.10.13)掲載されたのは〈五社大明神の格、延喜式にも/片岡神社(王寺町)〉、執筆されたのは生駒市在住の水間充さんだった。片岡神社は延喜式に「名神大社」として載る由緒ある名社だ。では、全文を紹介する。
※トップ写真は、片岡神社の拝殿(奥)=王寺町本町2で

片岡神社(王寺町)
片岡神社は県北西部、王寺町に鎮座しています。平安時代905(延喜5)年に編纂(へんさん)が始まった「延喜式」に「片岡坐(かたおかにいます)神社」として登載される延喜式内社で、名神大社の格をもっていました。さらに古く、806(大同元)年「新抄格勅符抄(しんしょうきゃくちょくふしょう)」、859(貞観元)年「三代実録」にも記事が見えます。

朱鳥居を過ぎると参道は2条あり、間には神が通る道「神道」と書かれた札が立てられ、社殿が東向きに並び荘厳さが漂ってきます。また、拝殿には江戸時代に「雨願成就」の大絵馬が残され、畳1枚のサイズで6枚あり、馬や人が生き生きと描かれています。

祭神は豊受皇大神(とようけすめおおかみ)、清滝大神(きよたきおおかみ)、住吉大神(すみよしおおかみ)、八幡大神(はちまんおおかみ)、天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)で室町時代や江戸時代には「五社大明神」と呼ばれていました。

毎年秋には例祭が執り行われ、今年は10月22日が宵宮祭、同23日が例祭となっています。ペリー来航時退散祈願の奉幣(ほうへい)行事、子ども神輿(みこし)などが行われます。拝殿には当時の黒船退散の棟札も上がっています。

1909(明治42)年、王寺村(当時)にあった金計(かなけ)神社、大原神社、住吉神社は片岡神社に合祀(ごうし)され、現在は王寺全体の総鎮守として祭られています。(奈良まほろばソムリエの会会員 水間充)

(住 所)王寺町本町2の6の1
(祭 神)豊受皇大神、清滝大神、住吉大神、八幡大神、天照皇大神
(交 通)JR・近鉄王寺駅から徒歩約15分
(拝 観)境内自由
(駐車場)無


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奈良フードフェスティバル「シェフェスタ」、10月29日(土)~11月6日(日)開催!(2022 Topic)

2022年10月21日 | お知らせ
奈良フードフェスティバル「シェフェスタ」は今年で14年目で、コロナ禍を経て3年ぶりの開催となります。今回も、奈良公園・登大路園地一帯で楽しい食のイベントが展開されます。今回の出店店舗数は過去最多、協賛企業数も過去最多だそうです。

ご関係者からのメールには〈ミシュラン獲得各シェフや、ナポリピッツァ世界一を獲得した大西誠氏の凱旋、ラーメン、かき氷、パン、カレー、日本酒のプレミアム日など、奈良のグルメが詰まった9日間になります~♪〉。豊かな食と農の振興課(県食と農の振興部)の公式HPによりますと、

奈良フードフェスティバル2022シェフェスタが開催されます!
奈良県内最大級の食のイベント「奈良フードフェスティバル シェフェスタ」が、3年ぶりに帰ってきます。今年で14年目を迎える本イベントは、「生産する人」、「料理をする人」、「食べる人」が食材を通じて繋がり、食に関わるすべての人が一緒に楽しめるイベントになっています。

今年は、奈良公園登大路園地で「シェフェスタ」の開催を予定しております。いまだ知らない奈良の土地を、その土地の食材を食べることで知ることができる。そんな「食で旅する奈良」をお楽しみください。

当日は、新型コロナウイルス感染症対策を徹底し、安心安全な運営を心掛け、地元活性化のため出演シェフや出店者など「オール奈良」で開催いたします。ご来訪の皆様方におかれましても、引き続き基本的な感染症対策をお願いいたします。

日程:2022年10月29日(土曜日)~11月6日(日曜日) 9日間(毎日10時~16時)
   ※開催初日の10月29日(土曜日)10時より、オープニングセレモニーを行います。
会場:奈良公園登大路園地
内容:シェフズキッチン、プレミアムイベント、シェフズ屋台、青空ピッツァ、シェフェスタマルシェ、フードトラック
※詳しくは、ホームページ(外部サイトへのリンク)でご確認ください。


楽しい催しが満載で、とてもここで紹介しきれませんので、こちらのホームページご参照のこと。皆さん、ぜひ足をお運びください!

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田中利典師の『修験道という生き方』新潮選書(4)/上求菩提・下化衆生

2022年10月20日 | 田中利典師曰く
金峯山寺長臈(ちょうろう)田中利典師は、ご自身のFacebookに、新潮選書『修験道という生き方』(宮城泰年氏・ 内山節氏との共著)のうち、利典師の発言部分をご自身で加筆修正されたものを〈シリーズ『修験道という生き方』〉のタイトルで連載されている。心に響くとてもいいお話なので、私はこれを追っかけて拙ブログで紹介している。
※トップ写真は、般若寺(奈良市般若寺町)のコスモス(2022.10.5 撮影)

第4回のタイトルは「菩薩行って、他人と自分をわけないってこと」。以前、当ブログでも紹介したが、「上求菩提(じょうぐぼだい)下化衆生(げけしゅじょう)」のお話である。〈「上求菩提」は自分が悟りを開くことであり、「下化衆生」は人々を救うこと〉、これは同時並行でなければならない、ということ。

これを利典師は別のところで、〈私も未だ救われていないけれども、私が高まることが衆生を救うことになるし、衆生のために働くことがすなわち自分自身の上求菩提の修行になる〉と説明されている。では、師のFacebook(10/7付)から全文を紹介する。

シリーズ『修験道という生き方』④「菩薩行って、他人と自分をわけないってこと」
修験とは「験を修める」ということ。修行によって普通の人にはない大きな力をもつ、神仏の力とか、霊能力とかを得ていくということです。だから、そこを求めて修験にくる人もいる。確かに修験にはそういう部分もあるのですが、それが核心かと言ったらそうではない。それは方便門(真理に導く道)での所作なのです。核心は真実門(真理そのもの)の方にある。

とすると真実門とは何かですか、ということになりますが、それはやはり、自分自身の悟りと結ばれている世界ですね。明治の神仏分離以降はいびつな時代背景とともに、神社修験も多くなったけれど、修験は本来、仏教修験として長い歴史の中で展開してきたのですから。神道は悟りを目指さないですよね。

といって、暗に悟りを求めてくる人に対しては、修験はそういうものではないとも答えるのですが、修行を重ね、僧侶の資格をえて修験の行者として生きていくことを決意した人たちに対しては、悟りを目指すことの大事さをきちんと伝えなければならない。発心があってこそ修行は完成する。悟りを目指すという発心も大事なのだ、と。

ただし悟りを開くための行は、菩薩行(利他行、自分のためにではなく、あらゆる他者のためにする行、菩薩のまなざしをもっておこなう行)でなければならない。大乗仏教の大きな修行徳目です。

悟りにいたる方法論は、菩薩行しかないと私は教えられました。菩薩行とは「上求菩提(じょうぐぼだい)下化衆生(げけしゅじょう)」をいいますが、「上求菩提」は自分が悟りを開くことであり、「下化衆生」は人々を救うことです。

現代的感覚で解釈すると、まず自分が悟りを開き、次に、悟りを開いた自分が人々を救うというように読めるかもしれませんが、そうではありません。「上求菩提」と「下化衆生」は一体でなければいけない。「即」の関係でなければいけないのです。「上求菩提」が「下化衆生」になり、「下化衆生」が「上求菩提」になる。悟りは共にある世界のなかにあるのであって、自分が悟ってから救うのなら、一生かかってもそんなことはできない。

その菩薩行の一環として、山の修行もあるのです。自分の思いだの、考え方だのといったすべてを、あきらめきったとき感じられる世界のなかに、菩薩行が生じている。修験の山での修行は、そういうものをもっている。

自分と他人を分けて、「自分が」と言っているかぎり菩薩行はないのです。菩薩行の本質は、自分と他人を分けない、すべてがつながっている世界に帰っていくということなのです。

自分が捨て去られている、消えているということは、自分と他人の区別がなくなるということですし、自然と人間の区別も消えるということ。すべてがつながりの中にあって、ひとつの世界をつくっているのだから、自分を意識すると、それがわからなくなってしまうのです。

修験の修行は、自分はつながり合う世界のなかに存在しているだけなのだということを、自然のなかで感じとっていく世界なのです。通常の生活の中ではなかなか難しいだけに、そこがありがたいのかもしれません。

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哲学者内山節先生、聖護院門跡宮城泰年猊下と、私との共著『修験道という生き方』(新潮選書)は3年前に上梓されました。ご好評いただいている?著作振り返りシリーズは、今回、本書で私がお話ししている、その一節の文章をもとに、加筆修正して掲載しています。
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