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何となく雪の京都西大路四条北東角
最近、テレビなどで『子供の貧困』という言い方がでてくる。
親の事情、家庭の事情、不運などで子供にまともな衣食住を与えられない保護者が多くなったということなら分かるが、『子供の貧困』とは何ぞや。
『子供の貧困』という言い方は、子供を個人として客観的に孤立させるような気がする。
子供は保護され庇護されるべき存在なのだから『子供の貧困』などという括り方でモノを言ってはいけないのではないか。
個々それぞれケースバイケースで、周辺や行政が不遇な子供を、それぞれのやり方で助けたら良いのに、『子供の貧困』などという言葉を特集したり議題にしたりして、マニュアルを作ろうとしたり堂々巡りの議論をしたり、考えているフリをしたりしているのではないかと思ってしまう。
しまいには、問題は何なのか分からないことが問題だ、などと言う人間がでてきそうな気がする。
『子供の貧困』という言葉に対して不愉快になり、それは何故かと考え、理由を探ろうと書き出したけれど整理がつかない。
のちのち考えがまとまったら続きを書いてみたい。