エッセイ  - 麗しの磐梯 -

「心豊かな日々」をテーマに、エッセイやスケッチを楽しみ、こころ穏やかに生活したい。

戊辰役殉難会津藩士二十二士之墓

2006-11-05 | 街中散歩
 この夏、強清水から戸の口原へ至る道で「二十二人の墓」を知った。
 これが、どういう歴史、いきさつがあったのかを知りたいと思っていた。つい先日その場所を通ったとき、新しい立て看板に気づいた。そこには、「戊辰の役で辺りの山河に朽ち果てようとしている会津藩士の遺体を哀れに思い、近くの人たちが手厚く葬り墓を建て供養した」との解説があった。また、戸の口原の近くにも戦死者の墓群が残っているが、それも同じだと思った。白虎2番中隊が西軍を迎え撃ったのは、慶応4年(1868年)8月23~24日だった。

 戊辰戦争のことなど、いまでは会津以外ではほとんど忘れられているのではないだろうか。会津でもその歴史的意義を、それぞれに語り継がれてはいるものの、年と共に関心も薄れているのはやむを得ないことなのだろう。

 安倍首相は山口県出身の八人目の総理大臣と言う。そうした言を聞くとき、歴史の流れ、政治における長州閥というものが未だ営々と続いていることを思わざるを得ない。

 あらためて、荒れた山中に眠っている戦死した会津藩士の墓前にお参りした。
 自分なりに会津の悲劇をいつも思って生活している。
 いつも口ずさむ「愛しき日々」の歌詞、メロディーが忘れられない。
 もう少し、時がゆるやかであり、やさしく、たおやかに流れていたならば
 こんな争いはなかったのではないか・・・と思い、涙が流れる。

   《戦死十六人墓 戦死六人墓》



  「愛しき日々」   小椋 佳作詞 堀内孝雄作曲
   【参:http://www.fk.urban.ne.jp/home/kazuaki3/utagoe-61.htm】

   風の流れの 激しさに 告げる思いも ゆれ惑う
   かたくなまでの 一筋の道 
   愚か者と笑いますか
   もう少し 時がゆるやかであったなら・・・・・
   
   雲の切れ間に 輝いて 空しき願い また浮かぶ
   ひたすら夜を 飛ぶ流れ星
   急ぐ命を 笑いますか
   もう少し 時がやさしさを投げたなら・・・・・・
   
   愛しき日々の はかなさは
   消え残る夢 青春の影
   きまじめすぎた まっすぐな愛
   不器用者と 笑いますか
   もう少し 時が たおやかに過ぎたなら・・・・・・・
   
   愛しき日々は ほろ苦く
   一人夕日に 浮かべる涙 



白虎隊と戸の口原の戦い」 についてに記述を見つけた。
   (酒蔵<会津めぐり>www1.ocn.ne.jp/~sakagura/ 戊辰戦争 会津戦争)より
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「藩境の母成口が破られた」という知らせを受けた会津藩は、戸の口原から応援を求めてきたので、まず白虎隊二番隊の半数が前進、次いで残りの半数も後を追い、合流して滝沢峠を登り舟石に達すると「敵軍大砲ノ声、耳ニ入ル」という。一行なお進んで駆け足で前進。金堀集落から沓掛峠、強清水集落を経て、戸の口原に近い小山に到着した。
ここは現在の上強清水集落東方約150メートルに位置する丘陵地帯である。先発した敢死隊が陣を構えていたが、二番隊は更に穴を掘って胸壁を築き、任務によっていくつかのグループに分かれた。二番隊は、隊長 日向内記以下、 小隊長、半隊長が各2名
と、隊士が37名の総数42名と伝えられる。
 戸の口原一帯の戦闘では、白虎隊士中二番隊の他、敢死隊、奇正隊、遊軍隊、誠志隊などが奮戦したが、防御に適した地形ではなく、会津軍側は死傷者が続出。会津軍の本営はあわただしく撤退し、赤井集落をめざした。戸の口から退却した二番隊の各々のグループは、途中で離散や合流によってメンバーが入れ替わったり、さらに小さなグループにわかれている。
 ・・・・・・・・・・
(以下は白虎隊の悲劇の顛末である。)
 飯沼グループは街道上の敵を避けて南方の山中を潜行し、城をめざして進むうちに滝沢不動滝の上に出た。そのまま不動川に沿って西へ進んだので、滝沢峠を下ってきた敵部隊と遭遇、激しい銃撃をうけ、永瀬雄治(自刃十九士)が負傷。一行は飯盛山の北東斜面にある戸の口堰の洞門にはいった。長さ150Mでカーブしているので全くの闇である。出口のすぐ手前で、急に目の前が明るく開けた。しかし、その先は山陰で眺望がきかない。一行は用水に沿って進み、必死になって斜面を這い上がった。「ハア ハア ・・・・もう敵は追って来まい」「そうだな。ここまで来れば大丈夫だろう」「おい!見ろ」ひとりが叫んだ。飯盛山から望む若松。そこにはふだん見慣れた平和な町とは違う光景が広がっていた。立ち上がる火の手と黒煙。家も、藩校も、城も。ぼう然とした。自分たちが生
まれ育った若松が燃えていた。みんな涙が止まらなかった。
 日新館(会津藩校)の先生や年長者たちはいつもこう話してくれた。「会津のやっていることは正しい」。 会津は乱れた京都に平和を取り戻すため懸命に働いた。 天皇も将軍もみんな認めてくれた。にも関わらず、今や朝敵にされ"賊軍¸である。幼帝を担ぎ出し世の中を乱し、反乱を起こした薩摩、長州の方こそ"賊軍¸ではないのか。 正しいことが間違いとされて会津は今や滅ぼされようとしている。 会津に生まれ、純粋な心をもった若者たちには、とうてい 理解できないことだった。
「愛する会津は滅んだ。われわれはこの山の上で国と運命を共にしょう」。幼いときから一緒に遊び、そして国の行く末を憂い熱く論じあった。 そんな親友同士が互いの体に刃を当てた。城を拝みそれぞれが目をつぶった・・・・・・。
「城が、町が焼け陥ちた」 会津の山河は焦土と化し、白虎隊十九名は士道に殉じた。 
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