■ 接近して並んだ木星と金星を目に、三日月を口に見立てた笑顔。
この数日間でこの夜空の「笑顔」が恐らく全国紙にも地方紙にも取り上げられたと思います。ひと足早い天からのクリスマスプレゼントだと地元紙が報じています。
さて、このようにあるものを他のものになぞらえる「見立て」は名古屋のホテルで読んだ『かたちの日本美 和のデザイン学』三井秀樹/NHKブックスにも取り上げられていました。『見立ての手法 日本的空間の読解』磯崎新/鹿島出版会はこの見立てに関する論考です。
磯崎さんはこの本で**「見立て」が、仮に見なす、なぞらえる、などの連想性や関連性を強くした用法になったのは、これが乱用された江戸時代からのことであろう。だが、この思考形式は、自然界の事象を形態的類似性を手がかりに、分節し、命名していった日本人にとって、かなり決定的な作用をしつづけているようにみえる。**と指摘しています。
「見立て」が日本人の世界観にかかわっていることは先の『かたちの日本美』で三井さんも指摘しています。
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人の脳には未知のものを、既知のものに帰着させようとする癖がある。既に書いたことですが、月の表面の影をうさぎや蟹、本を読む女性などに見立てるのも、その一例だということなのでしょう。
既知のものに上手く帰着できない、あるものに見立てることができないと、時に「謎」とまでいわれることがありますね。例えば、竜安寺の石庭、何に見立てればいいのか分からない・・・。白砂は海に、石は島に見立てることができる、という説明がよくなされますが、その先、十五個の石(島)の配置を何に見立てたらいいのか、どう解釈すればいいのかが分からない、「謎」という訳です。
「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」 竜安寺の石庭が美しいのは石の配置が解釈できないからなのでしょうか・・・。
今日、鹿島槍ヶ岳を見ながら北に向かっていて、ふと、代々木体育館に似ているなと思いました。ピークが二つあるこの特徴的な山容を代々木体育館に見立てたのです。以前は松本市内から見える常念岳を国立駅に見立てたことを書きました。
081204撮影
このようにいろいろなものを建築に見立てるという訓練は、建築デザインの発想に有効なような気がします。
夜空の「笑顔」から、思わぬところに話が流れてきてしまいました。例によって本稿もまとまりませんが、この辺で。